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罪過の代償 闇の胎動

 目の前の脅威にソヴィアはどうすることもできずに、ただ、か弱く光る青い石を握り締めていた。


 背には壁、前方には触手の怪物。

 絶対絶命にただの少女が二人の家族を庇うように前に出る。


 人はどうして怖いと震えるのだろうか。

 勇気が無いから震えるのだろうか。

 まだ五歳のソヴィアには分からないことがたくさんあった。


 パパはよく口にしていた。


『怖い時こそ、勇気を振り絞らなきゃならない』とそして、長い人生の中でソヴィアにも必ずそういう時が来ると、それは誰かを好きになった時かもしれない、なりたい自分になるための大事な試験のときかもしれない、譲れないものを奪われないときかもしれない。


『だけどね、ソヴィア、勇気を出した次に待っているものは希望だよ』


 ソヴィアは震える足をそれでも前へ、ただ前へ、恐怖のその先へ、勇気を出して踏み込んだ。


「あ、あの、助けてください、パパとママが倒れてしまって…」


 ここに来るまでずっと腕の中に抱きかかえられていたソヴィアには今どうしてここに居るのかも、なんで、バージお姉ちゃんと別れたのかも、何もかも理解が追いついていなかった。

 だから、こうして、怖い怪物に向かって頼み込んでしまうのも幼さゆえの無知から来る狂気だったのかもしれない。

 それでもソヴィアは怖い怪物にだってお願いをする勇気を見せた。

 大切な家族のパパとママだったから、倒れているのは心配だった。


「さっきまで元気だったんです、あなたのその大きな手で病院に連れていって欲しいです」


 とてとてと歩くソヴィアが近づいていくと、その触手の巨人は近づいて来る彼女に対して一歩後ずさった。


 彼女が助けを求めて近づこうとすればするほど、その巨人は後ろへと下がっていく。


「待って、待ってよぉ!!」


 ソヴィアも必死で今にも泣きだしそうだった。助けてくれる人はもう傍にだれもいない。冷たい真っ暗な地面に倒れた二人を持ち上げることもできないソヴィアには、怪物の逞しい腕を見てその力を貸して欲しかった。


「私、いいこになるから、もっともっといい子になって、パパとママにわがままも言わないから、だから、助けて…お願い……ねぇ、助けてえええええ!!」


 止まらない涙を流しながら絶叫した。こんな冷たいところで寝たら死んじゃうかもしれない。死んじゃったらパパとママにはもう会えなくなってしまう。それがソヴィアには勇気を出しても乗り切れないほど辛いことだった。


 するとそこで巨人の後ずさる足が止まった。


 声が届いたのかソヴィアも驚いて立ち止まった。


 その時から、何かソヴィアは得も言われぬ感覚が体を抜けて行くのを感じた。その感覚はまるで何かこじ開けてはいけない自分も知らない扉のような気がしてやまなかった。


 その巨人はゆっくりと周囲に気を配りながら彼女の前で膝まづいた。そして、跪いたその直後、怪物の腹が裂けると大量の臓物がソヴィアの目の前に一斉に吐き出された。


「…………」


 ソヴィアはその光景を見て声もでなかった。


 そして、それは現れる。

 奥に詰まっていた真っ黒などろどろとした臓器と共に、何かが一緒に産み落とされるように吐き出される。

 闇を纏った人間の形をした闇の何かがソヴィアの前に姿を現した。周囲に暗い瘴気ともないその顔は見えないが背中には巨人のはらわたから繋がる無数の触手の管が繋がっており、彼が歩くたびにそれらはずるずると引きずられていた。やがて、その触手は彼が進み続けることで千切れると、背後に跪いていた巨人に生えていた威勢の良かった触手たちがピタリと動きを止め死んだように垂れ下がる。彼が抜け落ちた巨人はその彼の背中にあった供給管のような触手から切り離された途端に、夜に沈むようにボロボロと崩れていった。


 少女には何が起こっているのか分からなかった。分からなかったが分かってしまう時が来た。


 その人間と思われた者の周りに渦巻いていた瘴気が晴れていくと、ソヴィアはその人の姿に釘付けになった。


 巨人のはらわたから出て来たのは醜いものではなく、息も止まるほど美麗な青年だった。いや、きっとショックでそう見えているだけだったのかもしれない。けれどまだ幼く穢れを知らない彼女の世界観の中に、おぞましいものの中から美しいものが生まれてくることが理解できなかった。

 しかし、その光景を一度目の当たりにすると、もう後戻りはできない道が用意されていた。


 そこには人間離れした美があった。


 齢五歳にして闇が放つ狂気的な魅力を浴びてしまったソヴィアは、その時にはすでにその自分の世界にはなかった異質さの虜になっていた。


 ソヴィアは闇を綺麗だと感じてしまった。


 凝縮された闇をぶちまけたような漆黒の髪、黒い瞳がどこまでも妖しく見た者の感情を誘い続ける。そんな瞳に見向きもされないソヴィアは、思わず嫌だと思ってしまう。人間じゃない彼に魅せられたソヴィアの意識の中にはもう深い爪痕が残っていた。

 絵本で見た白馬の王子さまよりもよっぽど魅力的な、怪物のはらわたから生まれた暗い美に惹かれてしまった。

 勇気を出して踏み出した先にあったのは狂気への憧れだった。恐怖を許容していた器が壊れてしまったのか?どちらでもいい、なんでもいい、ソヴィアはとにかく彼を見て、彼の言葉をなんでもいいから聞きたかった。

 そこにはもう五歳の少女などおらず信仰があった。

 もはや、ソヴィアはその時からソヴィアとしての人格を失っていた。自分の神はここにいたと、目をギラギラと輝かせて夜の深淵を見る。


 ひたひたと自分の両親のもとに歩いて行く、彼にソヴィアはただ静かに彼の後を追った。

 そして、自分の大切だった両親たちの前に彼がたどり着くと、ソヴィアは彼が何をするのかジッと見守っていた。


 彼が背中にあった触手をソヴィアの父と母の首にそれぞれ、細い触手を当てていた。


 ヨタヨタと畏れ多くも彼の隣に立つと、勝手ながら彼を見上げさせてもらった。


「気を失ってるだけだ。お前の両親は助かるよ……」


 その時の彼の顔はとても寂しそうで孤独を纏っていた。

 本当に自分の頭はどうにかしてしまったのか、その時、ソヴィアは、彼にそんな顔をして欲しくはなかった。


「あの、お礼をさせてください」


「…………」


 何か変なことを言ってしまったのか、彼の目がぎょっとして大きく開かれた眼で見つめてくれた。

 彼が少しでも私という存在を気に掛けたことがこの時何よりも嬉しかった。その時すでに傍に横たわっていた両親のことなどどうでもよくなっていた。

 そこにはもう何も知らないソヴィアはいなかった。

 たぶん気も触れていたそれでも、今この瞬間彼から目が離せなかった。


「君、名前は?」


 その質問にソヴィアは一気に口角をあげた。その笑みはもはや五歳が浮かべるものではなかった。


「ソヴィアです」


「そうか」


「あの、お名前を聞いても?」


 どうしても知りたかったソヴィアが彼を見つめながら熱望する。

 彼は目を閉じてゆっくりと息を吐くと、ソヴィアの前で跪いた。視線を合わせられると心臓の鼓動が一気に加速した。

 そして、見れば見るほど彼の相貌は美しく、ソヴィアの心はかき乱された。


「俺の名前は…」


 彼の次の言葉を強く求めた。


「ハル」


「ハル…」


 確かめるように心の奥にとどめておくように繰り返した。


 だがそこで彼が虚ろな瞳で告げた。


「そう、将来、君が恨むべき人間の名だ」


「あぁ…」


 彼が何を言っているのかソヴィアにはまったく分からなかったが、崇拝すべき恐怖の名を知ることができた。


 彼は立ち上がると、傍で蠢ていた真っ暗な闇の壁に触れた。


 すると、遠くから夜空に星々が駆けるように広がり始めた。それはまさに言葉にならない美しい光景だった。そんな絶景を創造した彼に、ソヴィアはどこまでも落ちていった。恐ろしいだけではなく、奇跡も呼び起こせる彼に陶酔してしまった。取り返しがつかなくなるほど、魅せられてしまった。

 きっと彼を直視してはいけなかったのだ。そうすれば、こんなにも純粋に狂うことなどできなかった。脳が言うことを利かなくなることもなかった。


「アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ」


 目を見開き星々に祝福されながら、踏み越えてはいけない人間の狂気の先へ覚醒する。


「ハハハハ……」


 笑い疲れると眠気と共に、彼の姿がないことに気が付く。


「…………」


 もう会えないそんな気がしてやまなかったが、ソヴィアの心にはもう彼への狭愛で満たされ離れることはなかった。

 無垢で純粋な魂に救いようのない底なしの闇で腐蝕されてしまった。


 星々の展開と共に、気が付けばソヴィアが握りしめていた青い光を放つ結晶はいつのまにか明滅すらせずに死に絶えたように黒く淀んでいた。

 しかし、そんなこともつゆ知らずソヴィアはすでに自分の人生が始まったことを、心から喜んでいた。


「さようなら、パパ、ママ……」


 ソヴィアは気を失った二人を置いてひとり、闇の奥へと歩き出した。


 まるで彼女の未来を暗示しているかのように、その先に光は一切なかった。


 しかし、ソヴィアにとって闇は心地よいものに変わっていた。


「フン、フフン」


 夜の闇の中に鼻歌が響くがやがて、その音もすべてを飲み込む闇の中に消えていってしまった。

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