雑多な日々 後編
「こんなところで何をしているのですか?」
スイゼンのまっすぐな目にハルは少し気まずくなりながらも正直に答えた。
「フレイのお見舞いに行ったルナが帰って来るのを待っているんです」
ハルがロイヤルガードの女性寮の前にいる理由を説明すると、彼は納得した顔をした。
「少しお話しできる時間はありませんか?」
ハルは女子寮に行ったルナには申し訳なかったが、彼の誘いに乗ることにした。
ハルとスイゼンは場所を変えて、小さな池のほとりのベンチに腰を下ろした。池は凍っており、朝の光を反射して鏡のように輝いていた。ハルがそこに近くにあった石を拾って投げると、氷は割れることなく石は滑っていった。
「それで話ってなんですか?」
ハルから話を切り出すと、彼は手を組んで前のめりになり、重苦しい表情で言った。
「私なりにハル・シアード・レイという人物がいた記録を調べてみたんです」
「あぁ…」
「しかし、どの資料にもハル・シアード・レイに関する剣聖の記録は載っていませんでした。ハルさんほどの実力者がレイドの剣聖であったのならば、まず我々が知らないはずが無い、それなのに誰もあなたのことを知らない、その素顔をさらけ出してもあなたを情夫呼ばわりし誰も尊敬しようとしない…」
スイゼンが横目でハルを見る。
「すみません、我が部隊の者たちには貴方を情夫などと呼ばないように指導しているのですが…」
彼の表情からそんな指導が上手くいっていないことは明らかだった。人は噂したいことを噂し、尾ひれをつけ、背びれまでつけ、最後には足まで生やして話を広げる生き物なのだ。それは仕方なかった。それにあながちその噂は間違ってもいない。ハルがこのホーテン家を上手く利用するにはルナの御機嫌は取っておく必要があり、彼女のお願いは何でも聞くようにしていた。
「え、ああ、いいですよ、なんか実際に今そんな感じですし…スイゼンさんのように分かってくれる人だけ知ってくれていればいいです。俺と彼女がいずれ結婚するような深い仲だってことは…」
「ありがとうございます」
無表情でぶっきらぼうな印象が強かったスイゼンが笑うとそれなりの破壊力があった。大人の魅力のある彼にまだ池に石を投げるようなお子様のハルは憧れてしまう。
「ただ、話は戻るのですが、私はあなたが何者なのか、あなたの口から聞きたかったいと思っているのです」
「うーん、知っていてもあんまり得をしないというか、意味不明に思いますよ」
「お願いします。どうしても私はあなたと出会ってから頭の中で絡まっている糸がほどけないんです。辻褄が合わないことがたくさんあって、だけどまるでそれが正しいかのように世界の方が振舞っているみたいに感じて、気持ちが悪いんです」
自分の存在が世界から消えた。世界が自分を忘れている。だけど、もしも世界にまだハル・シアード・レイという記憶のかけらが残っているのだとしたら?もしかしたら、またみんなが自分のことを思い出してくれる世界があるのだとしたら?
考えるだけで辛くなった。
何となくそんな未来が来ないことをハルは分かっていた。
頭ではなく心で。
だがそんな記憶のかけらを持っている人たちになら過去にいたハル・シアード・レイのことを開示してもいいような気がしていた。
「分かりました、話しましょう私の話を」
ハルは要点をかいつまんで簡潔に、ハル・シアード・レイが存在していた世界の話をした。
二度あったレイド襲撃事件を解決したこと、一年足らずで何十年も空席だったレイドの剣聖に任命され、剣闘祭で他の大国の剣聖たちを蹴散らしたこと、そして、四年ほど剣聖を務めたのち自ら剣聖をカイ・オルフェリアに譲り、四大神獣討伐を始め、白虎、黒龍を討伐し、朱鳥と和解し安定化させたことを話した。
そこまで聞くと彼はまるで物語を読み聞かされる少年のように目をキラキラと輝かせ驚きを隠せずにいた。
そして、ハルは一番信じてもらうことが難しい、黒龍討伐後に起きた。存在の消滅の話をした。
黒龍を討伐する際に被害を出さずに乗り切るため、自分の中のすべての潜在能力を出し切って戦ったら、いわゆるそれはまだ氷山の一角のようなものであり、自分の奥底にさらに眠っていた莫大な力が、自ら開けてしまった穴から溢れ出て制御が利かなくなったことがきっかけだった。そして、どうにかするためにとった苦肉の策が、その莫大な力を自らの余白に、その力を押しとどめ循環させることだった。
ここからはどうしてもハル自身にしか分からない自分の中の感覚の話だったので話を省いた。
いわゆる、自分の中身を空っぽにしてその溢れる力を押しとどめたが、その自分を空っぽにするという行為が、世界からハル・シアード・レイという存在が消滅したきっかけで間違いはなかった。
「そんなこんなで俺は世界中の人から忘れられた存在になったんです」
「あなたの話が本当なら私が疑問に思っていたことすべてに辻褄が合います」
スイゼンは目を丸くして興奮気味にしかし口を手で抑えながら必死にその高ぶる気持ちを抑えていた。
「だけど世界が俺を忘れても、覚えてくれている人たちがいました。その人たちのおかげで今の俺がいます。そして、その中にはルナもいたんです」
ハルはそこでルナ以外の人たちの顔もちゃんとみんな浮かんでいた。そして、少しだけ寂しくなった。
「そう言うことだったんですね、すべて納得がいきました。なぜあなたがルナ様と親しいのかも、四大神獣が討伐された経緯も、そして何よりあなたが本当の白虎討伐者…」
スイゼンはハルの手を取った。
「ハルさん、私はあなたのような方に出会えて感激しています。そして、我が祖国レイドをお守りしていただき感謝してもしきれません」
「そんな、大げさです、俺はあなた達に守られてばかりでした。レイドの平和を本当の意味で築いてきたのはあなた達の方ですよ」
「そんなことないんです。あなたがあの森の霧を晴らした、ええ、紛れもなくあなたは私の英雄です」
スイゼンが頭を下げるがハルは彼に頭を下げられるのがなんだか居心地が悪かった。
「そんなかしこまらなくていいですよ、そうだ、スイゼンさん、本当に俺の言ったこと信じてもらえるなら、俺を普通にハルって呼び捨てで呼んでください」
「それは…」
「ダメでしょうか?」
ハルが片目をつぶり手を合わせてお願いする。よくこれをレイドの王様に許しを請う時にもしていた仕草で、年上には効果があるのかないのか微妙だったが、幼馴染には効果抜群の仕草だった。
スイゼンは目を閉じ、正面に向き直り考えを練ってから言った。
「それなら、ハル、ルナ様のいないところでならあなたをハルとお呼びしましょう」
「よし、ありがとうございます。スイゼンさん」
「私のこともスイゼンで構いません、いつどこでも」
「いや、だったら、俺もみんなのいるところではスイゼンさんで」
「いいでしょう」
男同士絆が深まったところで、ハルとスイゼンは短い雑談を交わした後、別れることになった。
「お時間を取らせて申し訳なかったです」
「いえ、今度酒でも飲みながらゆっくり話でもしましょう」
「ええ、ぜひハルの英雄譚を聞きたいものです」
「そんなカッコイイものじゃないけど、それでスイゼンが良ければ」
それからスイゼンが立ち上がり、池の前のベンチから立ち去る時だった。彼は改めてハルに振り返った。
「ハル」
「なに?」
「白虎を討伐してくれて本当にありがとうございました」
そこでスイゼンが頭を深々と下げると彼は行ってしまった。
「………」
彼の過去に何があったのかハルは知らなかった。だが、それでも白虎討伐が少なくとも彼のためになったのならば、それはやったかいがあったのかもしれない。ハルは自分の中にあった四大神獣討伐を踏み切ったことへの迷いがようやく晴れたような気がした。
ハルはしばらくそんなことを想いながら、凍った池を眺めていると、背後から声が掛かった。
「こんなところにいた!!ちょっと、もう、なんで私を置いてくのよ!!」
ルナが駆け寄って来るとハルの隣に腰を下ろした。
「ごめん、別に置いていったわけじゃないんだ。ちょっとスイゼンさんとお話ししてたんだ」
「私が大変な苦労して、あの子のお見舞いに行ってる間に?」
「なんかあったの?」
「何かあったのじゃないわよ、私が女子寮に顔出したら、みんなが虫のようにたかって来て、挙句の果てにフレイのお見舞いに行ったら、彼女感極まって泣き出して、泣いたまま部屋の外出るのもどうかと思ったから、彼女が泣き止むまで傍にいてあげたのよ…」
人間の心をだんだんと取り戻し始めた彼女にハルは嬉しくなって彼女の頭をからかうように撫でる。
「よしよし、偉い、偉いね、ルナはやっぱり優しい心を持っていたんだね」
「ちょっとからかってるの…」と彼女が少し怒った口調でハルの手を振りほどこうとしたが、その手が止まり、ハルが「冗談冗談ごめんね」と手を引っ込めると。
「待って、普通にやめないで、もっと褒めて…これで良かったのならハルは私をもっと褒めて」
「別にいいけど」
「こうやってあなたに頭撫でられるの好きなの、その今まで誰にも撫でられてこなかったから、ハルぐらいなの私の頭を撫でて褒めてくれる人…だから、もうちょっとやって……」
「………わかった」
ハルはルナの頭を撫でて彼女のことを褒めた。
「ルナは偉い、偉いね」
ハルが彼女の頭を撫でると、彼女は目を閉じて嬉しそうにハルの言葉と手の感触を全身で受け止めるように感じていた。
「ルナは優しいね、そんなルナが俺は好きだよ」
「いいですね、最高です。もっと好きって、大好き、ルナ愛してるくらい普通に言っちゃってください」
「はいはい」
ハルが彼女を撫でて褒め倒している時、ふと思ったことがあった。自分もそう言えば本当の両親にこうして頭を撫でて褒めてもらったことが無かったなと思った。本来ならばこういうのは父や母の役目なのだろう。しかし、ハルはこの世界に目覚めた時からずっとそんな存在がいた記憶がなかった。
それ以前にこの世界に自分が最初に目覚めたのが十歳の頃…。この十歳も本当かどうか怪しく、ちょうど森の中で出会ったエウスが十歳だったので自分もそういうことにしたのが始まりだった。
今にして思えばハルは、ハル・シアード・レイになる前からずっと、どこから来たのか、自分が何者なのか、答えを示せるものがなかった。
そんなこと真剣に考えたことは今までなかった。それは毎日が楽しすぎて気にも留めないことだった。
ただ、こうしてルナの頭を撫でていると、ハルはだんだんと自分の存在の不透明さに疑問を持つようになっていた。
「ねえ、ルナ」
「なぁにぃ?」
ルナはすっかりハルの膝の上に寝転がり子猫の様に甘えていた。
「俺は誰なんだろう…」
眼前に広がる凍った池を見る。そこには先ほど投げた石がいくつか転がっていた。
「誰って?ハルは、ハルでしょ」
きっとそれが答えで他に答えようはないのだろう。だけどそんな当たり前がハルにはありがたかった。自分を自分と言ってくれる人がいる。それだけでハルの不安や戸惑いは消えていった。
「…そうだね」
彼女の目にかかった前髪を軽くよけてあげる。夜が明けたような笑顔がそこにはあった。
こんな穏やかで平穏な微睡の中のような甘い時間がずっと続けと願う。
そんな時間が長くは続かないことを知りながら。
ハルは短い幸せを噛みしめる。
「ルナ」
「なんですか?」
「ありがとう」
*** *** ***
夜にすべてを失うのなら、朝にすべてを与えよう。
闇がその身を蝕むなら、せめて心は太陽のように明るくあろう。
狂気に呑まれても、君の前では正気を演じよう。
契約を果たそう。
報いの杭をばら撒き、罪人に裁きを下そう。
果たせなかった怒りを代弁しよう。
夜の魔物は恐怖をばら撒き、新たな神話を築くだろう。
そして、罪を抱えて生きよう。
最後まで。
すべては愛のため。
君のために。
*** *** ***