九星
冒険者ギルドのクエストボードの前で醜態を晒していると、遅れてフレイが入って来た。
彼女は麻袋いっぱいに入った菓子パンを抱えていた。
「ちょっと列に並ばせたまま置いてかないでくださいよ、って、うわ、どうしたんですか!?」
フレイが床で無様に倒れているハルとそれを優しく介抱しているルナを見ると慌てて駆け寄った。
「何があったんですか!?」
「なんでもないわ、ただ、ちょっと落ち込んだだけ、心配しなくていいわ、それと買ってきてくれてありがとう、お金払うはいくらした?」
ルナが財布を出そうとすると、フレイが慌てて止めに入った。
「とんでもないです。これくらい私が…」
「フレイ、よく聞いて、今日のデート代のお金はすべて私が払うって決めたの、だからいくらしたか教えて」
「わ、分かりました…」
金を払うのに命を懸けているかのごとくルナの瞳には圧があった。フレイが買って来たパンの代金を言うと、ルナは少し多めにフレイにお金を渡した。多いですと言うとルナは買って来てくれた分の代金もと言った。
フレイがお金を受け取るとルナがパンの入った袋を受け取り取引は成立した。
「ほら、ハルいつまでもうずくまってないで、パンでも食べて元気になろう?ほら、美味しいパン一緒に食べよう?」
ハルが顔を上げ、ルナに差し出されたパンを受け取り齧った。もぐもぐと咀嚼し飲み込んだ後彼女に謝った。
「ルナ、ごめん」
「え、なんですか?」
突然の謝罪に驚くルナ。
「甲斐性無しでごめん。それとせっかくのデートなのに雰囲気をぶち壊してごめん、楽しい思い出にしたかったよね…」
ハルが素直に謝ると、ルナの顔がみるみる恍惚とした表情に変わっていき、興奮を隠せずにいた。
彼女の頭の中でデートという言葉が何度も巡り、ありとあらゆる妄想がルナの身を包んで最終的には過度な愛情の摂取で彼女の鼻からは少し血が垂れていた。
「いいんですよ、私はハルとこうして街に出れただけでも楽しいんですから…」
「ありがとう、そろそろ立ち直るよ…」
「もっとたくさんいろんな楽しいお店紹介して欲しいです。ハルはこの街に詳しいので」
「わかった、今日は連れまわすよ、だけど、その…」
ハルが困った顔を見せるとルナは自身の胸を叩いて言った。
「お金は任せてください!」
「うん、ありがとう」
ようやく元気を取り戻したハルにルナはさっそく冗談を言う。
「ただ、ひとつ私がさっき言ったことも考えておいてください」
「なんだっけ?」
「愛です、対価として私、貴方から具体的な愛が欲しいんです。そうですね、このパンひとつごとに一回キスとかなんてどうです?」
「わかった、そんなんでいいなら後でいくらでも…」
「え?」
そんな返しがくると思わず、赤面したルナの顔の鼻からは大量の鼻血が噴き出す。
「だったらこのパン全部食べてください、十個ぐらい入ってるので…」
「いや、フレイにも食べさせてあげて、あとルナも食べてよ」
「ハハッ、そんな私たちは大丈夫ですよ、ね、フレイ?」
「はい、もちろんです。私はボディーガードなのでいないものだとお考えください」
ルナがフレイを見ながらそう尋ねると彼女は完全にルナに同意する意向で笑顔で頷いていた。
しかし、それでもハルはルナがもっていた袋からパンを取り出して、ルナとフレイに差し出した。
「ここのパンは美味しいからみんなにも食べて欲しいんだ。俺の行きつけだったパン屋だからさ」
店主とは顔見知りだったが、当然相手方はハルのことを忘れていた。この街はハルにとっては実家のような温かさがあったが、それも今では関係は冷え切り、他人となった見知ったみんながいるだけだった。
それは悲しいことなのかもしれない。けれど、結局のところ、自分が居なくても周りの人は幸せに生きていけるのだということを再確認することもできた気がした。
ルナとフレイがパンを口にすると、二人とも美味しいと自然に出た感想を零していた。
「良かった」
ハルは静かに微笑んだ。
それから三人はパンを齧りながら大きなクエストボードに目をやった。そこには様々な種類の依頼書が張り出されていた。
そのクエストボードは大きく三つの枠組みに分かれていた。
星無しから星三の枠の依頼書がまとめて貼り出されたボードがクエストボードの半分を占めており、冒険者の中でも依頼を受けるのに資格が必要な星四から星五の依頼書が貼り出されている場所が四割を占めていた。
そして最後の星六の依頼書がボードの一番右端に一割ほど枠が設けられていたが一枚も星六の依頼書は張り出されていなかった。
ハルが左から順番に依頼内容を見ていく。
『こっちは比較的優しい依頼内容が多いというか種類が多いな…』
星無しから星三のボードには、屋敷の雑草抜きから、浮気調査、人探しに、草食動物の狩猟、肉食獣の討伐、星四クエストの補助、など雑多なクエスト内容が張り出され人数や金額が記載されていた。
『こっちはほとんど魔獣関連の依頼だな…』
星四から星五の依頼書の内容のほぼ八割ほどは肉食獣や魔獣に関する調査や討伐依頼だった。
「ハルさんって冒険者ギルドとかに加入してたんですか?」
フレイがハルが見ていた魔獣の依頼書を覗き込みながら言う。
「いや、してないよ」
「じゃあ、星四のクエストとかも四星冒険者の同行が必要ですね」
「そうだけど、フレイは加入してるの?」
「はい、私はこう見えても星四冒険者です。まあ、お小遣い稼ぎならこれくらいで十分ですからね」
お小遣い稼ぎ、ハルも王都に居た頃、エウスたちを連れて冒険者ギルドに通っては金を稼いでいた時期があった。
剣聖になってからは通う機会が減ったが、それでも、金欠になるとこっそり依頼を回してもらうこともあった。
「お小遣い稼ぎね…」
『ビルツさんはもう覚えてないよな…俺のこと……』
ハルが冒険者ギルドの二階を見上げる。応接間があってよくそこで依頼の話をしていた。過ぎ去ったことを懐かしんでいると、ルナがハルとフレイの間に割り込んで来た。そして、ルナが誇らしげに彼女に告げた。
「フレイ、言っておくけど、ハルは前人未到の【九星】騎士だったんだからね!」
「………?」
フレイは唖然としては首を傾げていた。たぶん、ルナが何を言っているのか分からないといった様子だった。
だが、それもそのはずなのだ。
彼女だって、目の前にいるハルが過去、レイド王国の剣聖ハル・シアード・レイだったことなど存在ごと消滅してしまっているのだから、仕方がない。
「星ってたしか七まであるのは知っているのですが…」
星というランク分け正確には十まで位として存在していた。しかし、星の価値などたいてい六星までが現実的で、そこから上はあまりにも現実離れしているため評価基準として一緒くたにまとめられ、すべて【七星】という枠組みにあった。剣聖などが七星を授与することがあるくらいで、普通の人々はそんな七星より上の位があることを知らないのが普通であり、六星の方が有名まであった。
そのため、ルナがそのさらに二つ上のランクである【九星】という称号をハルが持っていると自信満々に言ったことで、フレイが首を傾げるしかなかったのだ。
実際にハルも剣聖時代にこの大陸の六大国すべてと対等な契約を結んだことで、この九星という称号をもらってはいたが、実際ただの評価でこれがあるから、どうということは何もなかった。記念にもらった星が九つ付いたバッチもタンスにしまいっぱなしで、挙句の果てには、私生活の中でどっかにいってしまったくらい、ハルたちのような軍人にとって星の称号はどうでも良かった。
それに今となっては自分を覚えてくれている人も数少ないため、ルナがここで声をあげてもどうしようもなかった。
「本当に九星は凄いんだから!!九星が付与される人は、その大陸すべての国家で対応しなければならない問題を個人で解決できる人へ与えられるものなんだよ、それを六つの大国すべてが認めたことがあったんだから、この凄さが分からない?」
「え、えっと…」
そりゃあフレイも困惑するだろうとハルは思った。そんな偉業なのかどうかも分からないものを達成した人間の存在はもうこの世から綺麗に消滅してしまったのだ。
「ハルは、九星だったけど、普通に十星だってあり得たの、だって、四大神獣だってひとりで…」
だんだんと恥ずかしくなって来たのでハルがルナの口を封じた。
「はい、そこまで、あんまり嘘を言っちゃだめだよ」
「何が嘘よ!今までの白虎も黒龍も火鳥も四大神獣を狩ったのはすべてあなたでしょ!!」
「ルナ」
ハルが彼女のことを憐れむような目で見つめた。
「だって、ハルはほんとは凄いんだもん…」
反抗的な目にハルは少し嬉しくも思った。自分のことを覚えていてくれている。なんだかそれは特別なことのように思えて仕方がなかった。
「ありがとう、でも、いいんだ、全部自分が招いたことだから」
「それも違うでしょ…」
この場で、ここに居る二人にしか分からないことがあった。それくらいハルが世界に与えた影響は大きかったのかもしれない。
「おいおい、なんだかずいぶんと盛り上がっているみたいだなぁ」
ハルたちが振り向くとそこには、女を両脇に侍らせた若い二十代くらいの男が立っていた。足元もおぼつかない彼は両脇の女を支えに立っていた。酷く酔っぱらっているのか、顔も赤く、呂律もだいぶ怪しい酒臭い男だった。
「なんだって、九星?お前さん、そりゃあ、本当なのかぁ?」
男が楽し気に尋ねる。
「あ、いやあ、失礼しました。うるさかったですか…ごめんなさい……」
「ハハッ、お前さん、ずいぶんと腰が低いなぁ?なんだか九星とは思えないなぁ?俺は五星冒険者だけどよぉ、ほら、お前さんなんかよりずっと堂々としてるだろ?こいつらだって俺のそんな堂々としているところに惚れてんだぁ、なぁ、お前ら?」
女たちも酔っぱらっているのか、彼に抱きつきながら、「そうだよ、当たり前じゃん」「わたしのダーリン!」と酔いを楽しんでいた。
「なあ、そこの可愛い姉ちゃんたち、二人もこっち来て一緒に飲もうぜぇ?そこの席に女が一人だろぉ?あと男がぁ、ほら、あと四人いるんだ。女の数が足りねぇんだ。俺ばっかりこいつらを独占しちゃって男たちを退屈させちまってたんだ。そっちの黒髪の姉ちゃんは俺と飲もうぜ、楽しませてやるからさ」
男はずいぶんと上機嫌な様子だった。
「チッ」
ハルの隣で、大きな舌打ちが聞こえた。隣にいたルナの顔はまるで嵐の前の静けさを体現したようなほど穏やかで不気味だった。
「なあ、そいつさ金がないんだろ?お前たちにおごらせようとしてんだろ?俺はさ本当に五星冒険者だからよ、金持ちだしお前たちにたくさんいい酒おごってやるからさ、なあ、いいだろ?一緒に飲もうぜ?」
「あの、すみません、俺たちもうここから出て行くので…」
「てっめえには聞いてねぇんだよぉ!!!この噓つきクソ冒険者がぁ!!!」
若い男がハルに怒鳴り声をあげた。
と、その時、ハルはとっさに傍にあったルナの手を繋いだ。
するとルナの背中に隠していた短剣を掴もうとした手が止まった。
彼女は当たり前のようにその短剣を抜き襲い掛かる寸前だった。
ハルはそんな彼女に声に出さないで口の形だけで『ダメ』と言った。
彼女は微笑むだけで何も言わなかった。
多分この手を離せば普通に彼を殺してしまう。そんな微笑だった。
「あの、すみません、お誘いはお断りします、なので私からひとつお詫びとして……」
フレイがハルとルナの前に出て来た。ボディーガードとしての役割を果たそうとしてくれたのはよく分かったのだが、彼女は背後に隠すように注射針をもっており、ハルは慌てて彼女のその腕も掴んだ。
「え、ハルさん、一体何を?」
「ちょっと待って、その注射針は何?」
小声でハルが聞くと、彼女もつられて小声で返した。
「お二人に無礼な口を利いたので、あの男を殺すための劇薬です。常人なら十秒あればあの世に…」
「いや、だめだめ、すぐにしまって…!?」
小声で慌てて彼女に指示を飛ばした。
戸惑うフレイだったが、ハルも困惑していた。
あまりにも命にまで手を掛ける判断が早い。
これが裏社会と表社会との決定的な差。
人殺しをなんとも思ってない。
彼等にとって他者の命はとても軽いものだった。
しかし、人間嫌い、人間不信を抱いているハルにだって長年培われてきた常識くらいはあった。
その結果が二人のおててを繋ぐというファインプレイに繋がった。
「なんだ?お前、九星のくせに女の子たちの手なんか握っちゃって怖くなっちゃたのか?おい、お前たちも来いよ、こいつ面白いぜぇ?小鹿みたいに震えてやがる」
ハルの身体が震えていたのは二人が本気で短剣を、注射針を、目の前の男に突き刺そうとするのを防いでいたからであって、決して怯えているわけではなかった。
星五の男が後ろの席にいた。ガラの悪い残りの男たちを呼び寄せると、彼等が席を立ってこっちに歩いてきた。
「ほら、みろよ、こいつ怖くて女の手掴んで震えてるんだぜ?」
そう言うと他の男たちもゲラゲラとハルのことを嘲笑っていた。
「おい、嬢ちゃんこっち来て俺たちと飲もうぜ?」
「ほら、君も僕たちとこっち来てたのしもうよ、こんな男君たちにはもったいないさ」
そういって近寄ってきた男たちが無理やりルナとフレイを連れて行こうとした時だった。
ハル以外の時間が止まった。
ハルだけが止まった世界の中で自由に動き、ルナの短剣とフレイの注射針を没収し、男たちに触れられないように二人を自分の元に引き寄せた。
そして時間が再び動き出すと、男たちの手は空を切っていた。
「あれ?」
「なんだ?」
ハルがそこでニコニコしながら言った。
「あの随分と酔っぱらっているみたいなので、もう、帰った方がいいですよ?」
「あぁ?」
「迷惑かけてすみませんでした。ほら、二人とも行こう」
その場にいた誰もが奇妙な体験をしたような、していないような変な感覚に陥っていた。少しだけ何か現実離れしたような、しかし、何が起こったのかも理解できず、そもそも何か起こったのか?と疑ってしまうほどの認識のズレにきょとんとしていた。
しかし、それもごくわずかな間だった。ハルが二人を連れてその場を離れようとした時には、何もかもが元に戻っていた。
「おい、お前、勝手に二人を連れて行くな、おい、お前たちも追いかけろ」
星五の男が指示を飛ばすと、さすがは高ランクの冒険者パーティー手際よく動き始めるとハルたちをギルド内から出さないように出口へと先回りしようとしていた。
『なんかめんどくさいことになって来たなぁ、二人担いで消えるか?』
ハルがそんなことを冷静に考えている時だった。
「お前さんたち、少しばかり、はしゃぎすぎじゃあねぇかぁ?」
冒険者ギルド内にドスの利いた声が響き渡った。
ハルが振り向くと、酒場から大柄の熊のような男がこちらに向かってゆっくりと歩いて来ていた。
めちゃくちゃ厳つい浅黒い顔は怖くて子供ならまず間違いなく泣き叫ぶレベルであった。
あたりを威圧しながら迫る彼にガラの悪い冒険者の男たちはたじろいでいた。
「な、何なんだよ、お前…」
星五の冒険者の腰も引け声も震えていた。
「少しうるせぇと思ってなぁ…」
厳つい顔の男がゆっくりと歩み寄って来る。
「お、お前には関係ないだろ?引っ込んでろよ!!」
「あ?お前、今、俺に指図したのか?」
「………」
厳つい男の鋭すぎる眼光は、星五の冒険者をまるで石像のように動きを静止させた。しかし、星五の冒険者も幾度となく修羅場をくぐって来たことは確かなようで、目の色を変えていた。
「おい、お前らそいつは後でいい、こっちに来い、この男が俺たちに話があるみたいだ」
そういうと、男たちはハルたちを無視して、そのいかつい男の方に駆け寄り彼を囲み始めた。
「痛い目に遭いたくなかったら、おとなしく席に戻れよ!デカブツが!!」
「威勢がいいな、まるでお前らは子犬だ、よく吠える」
それは、まるで冒険者による大熊の討伐クエストが始まったかのようだった。
「エシ、手出さなくていいぞ、こんなやつらに負けたら俺は現役引退だからな」
そういうと厳つい男が腕まくりをはじめ、両手の拳を握りファイティングポーズを取り始めた。
「来い」
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!」
厳つい男の静かな低い声と、同時に星五の冒険者たちが雄たけびを上げた。
大男の討伐クエストが始まった。