暗号士
ホーテン家本館二階。ワイトの仕事部屋でハルは、ワイトと一緒に今朝新しく入って来た情報に目を通していた。
その情報の山もとい紙の束は、このレゾフロン大陸の各所に支部を持つ、インフェルたちがかき集めて来てくれた貴重な生きた情報だった。
事前に収集する情報の方向性は、ホーテン家の情報局の局長であるシャラヤが一任されていた。
情報局は他のホーテン家の長男であるグレンゼン、現場で活動する四部隊の隊長たち、ホーテン家の全部隊の指揮権を持つザイード卿の要望によって、収集する情報を決定し、受け取った情報の内容が本当に間違いがないかホーテン家が蓄えた過去の情報と照合、確認、記録など、処理をしてから、各部隊や要人たちへと情報が送られていた。
そして、その処理の中でも情報局の主な業務というものが暗号の解読だった。
ホーテン家内で決められた暗号で情報をやり取りし、外部に入手した情報を漏らさないような工夫をしていた。
高度に暗号化された手紙はとてもじゃないが、ホーテン家以外の他者が見ても意味が不明の文字の羅列か、はたまた暗号解読の術を知らなければ全く別の意味として伝わってしまうように細工された文章などで、厳重に情報の内容は守られていた。
ハルはそんな処理される前の生の情報源をワイトに解読してもらっていた。
彼が集められた情報の表題を読み上げていく。
「『中央部で降っている大雪について』『バラドスティカ王国の革命後の現状』『シフィアム王国の新女王の動向』『スフィア王国の復興』『定期連絡』『国内で増加傾向にある犯罪』『四大神獣討伐再開』『旧龍の山脈の調査』『霧の森について』」
ワイトが一通り束になっていた資料の表題を読み上げ終わると、難しい顔をしてさらに別の資料に手を伸ばし、神の束を崩していく。
「主要なものだとこんな感じですね、あとは自然災害系でいくと中央と東部で積雪が凄いようですね、西部にもくるんですかね?」
ワイトがうんざりした顔で言う。
「どうだろうね、毎年西部まで来ないイメージだけど、雪が酷いのは東部だけって感じだよね」
「ええ、まあ、そうですね、ただ、それに付随して、スターダスト山脈でも氷山熊の活動が始まったみたいですね、あと、スターダスト山脈で巨大生物の影?新種の魔獣の可能性…氷山熊の亜種でしょうかね?」
「どうだろう」
彼は続けて次の資料に目をやる。
「ニアで冬の祭典、イゼキアの農村で落石による事故、シフィアムで有名貴族同士の殴り合いの喧嘩…」
彼はそこで椅子を引いて背伸びをした。
「うーん、なんかここらへんはどうでもいい気がしますね」
ワイトがいらない情報の紙をテーブルの下に捨てた。足元には不必要ないらない情報の紙で白く染まっていた。
「どうですか?何か興味のある話題はありましたか?」
「うーん、どれも興味をそそられるものばかりだ」
「それなら、私が先程述べたものすべて内容を翻訳して、今日中にハルさんの手もとにお届けしますよ」
「いいのかい?」
「ええ、私の現在の職務はあなたに情報を提供することが役目ですから、それくらい余裕です、夜までには持って行きます」
「そうか、それならお願いするよ」
素顔を晒した状態のハルがゆっくりと頭を下げる。すでにもう黒いベールの役目はあの日を境に終わっていた。みんなハルのことをハル・シアードと認識しており、ワイトからもハルと呼ばれるようになっていた。ただ、その中でハル・シアード・レイと新たに認識してくれる者は現れなかった。
だからハルはここではハル・シアードだった。
「あ、そうだ、ワイト、俺にも簡単なものでいいから暗号解読の方法を教えてくれないかな?そうすれば君の負担も減るだろ」
「五年です」
「え?」
「ホーテン家で一人前の【暗号士】になるのにかかる一般的な年数です」
「そんなにかかるのか…」
軽い気持ちで尋ねてみたが予想外の答えが飛んで来て唖然とした。
「そこからさらにホーテン家だけではなく、レイドの表社会で使われている暗号解読まで習得しようとするとさらに五年、そこから他国で使われている暗号解読にまで手を出すときりがないですね」
ワイトは平然とさも当たり前といった様子で続ける。
「それに暗号士になるためには資格が必要になります。ハルさんは簡単に許可が出ると思いますが、暗号文を扱う者は国が徹底的に審査、管理しているんです。特に裏社会であるこのホーテン家での管理は表社会よりも厳しいです。扱う情報も極秘のものばかりで、その情報が漏れただけで国が傾くものとかも普通にありますからね。ちなみに、私たち暗号士が情報を持ち逃げして国外逃亡した場合、必ず刺客が送り込まれます。逃れられたものはいませんね、みんな死体になってホーテン家に戻ってきました」
暗号解読が軽い気持ちで手を出してはいけない領域の技術であると理解したハルは断念することにした。
「じゃあ、やめておきます…」
「ええ、それがいいでしょうね」
ワイトが屈託のない笑みを浮かべる。
「それにハルさんには他にやることがあるんじゃないですか?」
確かに彼の言う通りハルには暗号解読よりもやらなければならないことは沢山あった。
「そうだね、情報収集に…裏社会のルールや仕組みを理解して、本当の意味で国を操っている人たちと交渉する。すべては…」
「楽園創造のためですよね」
ワイトがハルのセリフを奪うように言った。
「そう楽園のため、なんだ、ワイト、よくわかってきたじゃないか!」
「毎日、何度も何度も楽園、楽園言われれば嫌でもあなたの思考が読めてきます。そこらの暗号文より単純で分かりやすいですからね」
やれやれと呆れた顔のワイトのことなど気にせずハルの楽園創造に対する熱意は燃え上がる。
「なあ、ワイトは想像したことはないか?愛する人たちと自分だけしかいない世界をさ!」
ハルが椅子から立ち上がりテーブルに手を突き前のめりになって、ワイトに顔を近づけた。
その時のハルは夢を語る子供のようで、反対にワイトは大人のように冷静沈着だった。
「素晴らしいと思わないか、誰も邪魔されずにみんなで死ぬまで幸せに暮らせるんだ。まさに楽園だとは思わないか?」
熱量のあるハルの発言に、ワイトは水を差すように答えた。
「私にはそれは随分と寂しい世界に思えます」
「ほう、というと?」
「人は誰かと関係性を築いて生きる生き物だからです」
ハルはゆっくりと目を閉じた後、椅子に座り直して言った。
「聞かせて」
「赤子が両親に家族の一員として育てられるように、小さい子供が友達や先輩や先生たちなどから学び育つように、大人の私たちも社会で出会う様々な人から影響を受けて成長を続けるように、人は人と出会い関係性を築き、その輪を広げていくことで人生を豊かにするものだと私は思っています。実際に私もハルさんと出会ってから少し心に変化がありました」
ワイトは少し恥ずかしそうに続けた。
「パートナーが欲しくなりました。ハルさんとルナ様が仲良く話しているところなんか見て、私も二人のような恋をしてみたくなりました。あんまり柄じゃないんですが」
「………」
ハルはただ静かに微笑みながら彼の言葉に耳を傾けていた。
「ほら、どうですか?人との出会いには大きな力があるんです。ハルさんの言っている楽園では、その素晴らしい出会いの力が全く無くなるという話をしたいんですよ。あなたのように、会っただけで何かしら変化を与えてくれる魅力ある人間が閉じこもっては、もったいない。ていうか、正直、あれですね。ルナ様を連れて閉じこもるなんて贅沢です。私はあなたの楽園創造には反対ですから」
ワイトはそう言うとそっぽを向いて不機嫌になってしまった。最後のほうはなんだか投げやりだったが、自分の心情を吐露したことで恥ずかしくなったのだろう。
「ワイトは俺に楽園を創って欲しくないんだね」
ハルは彼に楽園創造計画のことをすべて話していた。
レイド王国の治安と引き換えに、人里離れた土地と、その土地に対して特別危険区域の指定をレイド王国つまり大国にしてもらうことで説得力をもたせ、完全に人の立ち入りを禁止することが狙いだった。
そこにはハルと彼の愛する人たちだけしかいない、まさにハルが理想とする楽園がそれだった。
外界との関りを絶つことで、人間が振りまく不幸を避けようというのが、楽園化する目的だとハルは言っていた。
しかし、それはハルの妻でもあるルナ・ホーテン・イグニカ、このホーテン家のトップもその楽園に連れ込まれてしまうことを意味していた。
ワイトやホーテン家の人間からしてもそれは嫌なはずであった。
「当たり前です。あなたの楽園はあなたの可能性を奪い、その愛する人たちの可能性まで奪うものです。そんな楽園にルナ様を巻き込まないで欲しいですね」
「でも、ルナ言ってたよ、『その楽園に絶対ついて行きますから』って、一生出てこれないけどいいの?って言ったら聞く耳持たないで『絶対置いてかないでくださいよ』って言ってたけどなぁ」
「あの急に惚気話をぶつけないでください」
「事実を言ったまでかな?」
ハルが悪い笑みを浮かべる。
「たく、本当にこんな性根の悪い男のどこにルナ様は惚れたんですかね!」
「さあね、ルナに聞いてみたら」
「ハァ…なんだか、気分が悪くなってきました」
「ハハッ…ごめん、ごめん、ちょっとからかっただけだよ、悪かったよ、分かってるんだ、君たちホーテン家の人間がどれだけルナのことを大切に思っているかってことは、ここの人間を見てればそれは分かる」
「そうですか、だったら、今すぐルナ様のところにいってあげてください。彼女はあなたに夢中みたいですから、私は、さっさとここにある資料まとめなくちゃいけないので、今日のところは帰ってください」
ワイトは明らかに機嫌を損ねていた。
「ええ、もうちょっと居させてよ」
「ダメです、気が散るので帰ってください」
ワイトが立ち上がり、部屋の扉を開けるとハルに早く来るように促した。
「お帰り下さい、シアード卿」
「ケチ!」
ハルが生意気な子供のように席を立ち言った。
「贅沢者」
ワイトが落ち着いた声で返した。
そして、ハルはワイトの部屋からつまみ出されるのだった。
「またすぐ来るからな!」
そう声を掛けるとハルはホーテン家の本館の出口に向かった。
久々に気の合う友人ができたことにハルは満足していた。だけど、それはどこか悲しいことでもあるような気がしてならなかった。
楽園とは彼の言った通り、可能性を潰すということに他ならなかった。
しかし、それでもハルには楽園は絶対に必要だという根拠のない自信があった。
それは自分が何よりも成し遂げなければならないことだと、自分の中の何かがそう囁いていた。
愛する人以外、他に何もいらない。
それはハルが出すべき答えのような気がしてならなかった。