黒花
「君のことを少しばかり調べさせてもらった」
黒いベールの奥からハルがそう言うとフレイの顔色が見るからに嫌悪の色、一色に染まった。
「ホーテン家は入隊している隊員の個人情報を徹底的に管理してるみたいだね、そのおかげで君がどんな子なのかはだいたい予想がついた」
ホーテン家内で活動する人間の素性はすべて『ブラックボックス』の建物内にある資料室に【隊員名簿】として保管されていた。
個人情報が必要な理由としては、自分が何者でどんな人間なのかという存在の証明、つまり他国のスパイではないという身の潔白ともう一つ、ホーテン家全域に張られている結界に自身を登録するという二つに意味があった。
裏組織だからこそ誰が誰なのかという身元の保障は重要だった。
年齢、身長、体重、スリーサイズに髪色、瞳の色、指紋などの身体の情報。さらには生まれた土地などの出身から生い立ち、など自分がどこの誰なのかを証明するための個人情報。
ハルもここに来た時、結界に自分のことを登録するために、職員に自らの生い立ちを話す機会があった。
しかし、その時、隣にいたルナが饒舌にハル・シアード・レイのことを語りだした時は苦笑いするしかなかった。彼女の口は止まらなかった。話を聞いていた職員も相手がルナであったためぞんざいに扱うことはできず、全く興味もない男の話を熱心に聞かなければならないのは可哀想だった。
何度か止めに入ろうとしたがルナは聞く耳を持たず諦めて隣で一時間程、自分のことを楽しそうに語るルナの姿を見ることになるとは思ってもいなかったのはいい思い出だった。そして、いくつか誇張して話していたため、最後は完全に彼女の妄想話になっていたのはあれで良かったのかと思ったが、ハルもその時晴れてホーテン家内で活動する一員となれたのだった。
ということもあり、許可さえあればこのホーテン家内の人間の素性はあまりにも簡単に手に入れられることができた。ハルがごくわずかな時間でフレイのことを調べ上げることができたのもその隊員名簿を手に入れられたおかげだった。
ただし、その『隊員名簿』を謁見できる権限を持った人間はホーテン家内でもごく一部の者たちだけだった。
「小さい頃、親にその身を売られた、行先は孤児院で…はぁ、なんでこう孤児院はろくな場所じゃないのかな…」
ため息をつき、持っていた彼女に関する資料を読み上げる。
「その孤児院で二年間生活後、その孤児院と裏で繋がっていた人体実験の研究施設へと連れて行かれる。そこで七年間人体実験の被検体として薬漬けの毎日、その後ルナ率いる強襲部隊ブレイドによって救出される。その後君はホーテン家の隊員になりたいと志願。魔導士として高い素質と強い薬や毒物に対しの耐性があることが評価され一年間訓練期間を終えて希望だったロイヤルガードへ配属。そしてこの三年ほどで数多くの国外任務を遂行し優秀な成績を収め現在に至ると…」
ハルがそこまで説明しきる。
「ここまでが君の生い立ちだ、何か間違っている点はあるかな?」
彼女は返事をせず、だからなんだと言いたげな顔をしていた。
「じゃあ、君の生い立ちはこれで合っているということでいいね?」
ここからが本題だった。
単刀直入にハルは話を切り出した。
「君が私を狙った本当の理由、それはルナってことでいいかな?」
「はぁ?」
「君はルナに対して自分の主以上の何か特別な感情を抱えている、違うかな?」
室内に深い沈黙が舞い降りた。
フレイが目を閉じ、何もかも外界からの刺激を一切受け取らない姿勢を見せた。
ハルは続ける。
「君のことをある子から少し聞いたんだ」
ハルの言うある子とはギゼラだった。ハルがルナ以外の知り合いで次に頼れるのが彼女だった。
彼女をこの月桂の屋敷に呼び出し、少し話を聞くと彼女は知っていることを話してくれた。
『フレイですか?知ってますよ』
『どんな子なのかな?』
『えっと、そうですね、まあ、ロイヤルガードに入るだけあって優秀な隊員ですね。ただ、ひとつ彼女のことで問題があってわたしは苦手ですね…』
ギゼラが視線を斜め下に逸らす。
『というと?』
『私、彼女から嫌われてるんですよ』
『そうなの?』
『ええ』
『どうしてかな?』
『そりゃあ、私がいつもルナさんと一緒にいるからじゃないですか?なんていうか、私、こう見えても、結構このホーテン家で浮いた存在なんですよ。たいていは上に可愛がられない隊員たちの嫉妬みたいなものなんですが、まあ、ルナさんに可愛がってもらえることはここでは相当凄いというか、ヤバイことなので』
『じゃあ、ギゼラさんは結構そのことで苦労してるんだ…』
『いや、それが私、結構なんていうか自分で言うのもなんですが、図々しい性格してるじゃないですか?なのでルナさんの威光をバンバン使ってデカい顔はしててですね…へへッ』
ギゼラが恥ずかしそうに言う。
『さすがにルナさん以外のホーテン家や三大貴族のザイード卿には頭が上がらないんですが、隊長クラスならため口でいけますね、実際自分の隊長にはため口とかで通ってまして…』
ハルはこいつは自業自得だなと思い、心配するのが馬鹿らしくなった。
『ただ、ちょっと私のこと本気で嫌いな奴がその…』
『フレイってわけね?』
『ええ、なんていうか、彼女はマジなような気がするんです。他のみんなは私に対してまあルナさんが可愛がっているなら仕方ないかみたいな感じなんですけど、彼女だけは明らかに本気で嫌いみたいで、殺気のようなものまで時々感じるんですよね。たぶん、夜道を独りで歩いていたら消されそうな勢いですね…ハハッ』
彼女のぎこちない笑みからそれが冗談ではないことがすぐに分かった。
『ふーん』
ギゼラとのその会話は、ハルの考えていた憶測が形になった瞬間でもあった。
「君はルナを私の取られたと思って襲撃を企てた。どうやって私とルナの関係を知ったのかは分からないが、君はルナの傍にいる私が許せなかった」
ルナがハルのことを長年追っていたこともあり、きっと、彼女もルナのことを常に折っておりその過程で自分とルナの存在がばれてしまったのだろう。どちらかというと、彼女が見ていたルナという世界に、突然ハルが入り込んで来たようなものなのだ。
それはきっとハルが引き起こさざるを得なかったハルへの記憶の消滅の件も相まって複雑に絡み合っているのだろう。
だからハルがここで分かることは、彼女がルナに好意を寄せているというなんとも漠然とただ、核心を突きそうな情報だけだった。そこにどれほど執着心があるのかは未知数だったが、場合によっては殺しに発展することも十分にあり得た。
ハルだってその気持ちは理解できた。
愛のためなら他の存在すべてを犠牲にできる。
他者からみればそれは馬鹿馬鹿しいことかもしれない。だが、当の本人にとっては人生の全てであり物事の中心で、それが愛が持つ力の一部でもあった。
愛のために平気で人を殺せるのは、そういった人それぞれ異なる愛を持っているからこその衝突。
殺しは愛を略奪するには最高の機能を有している。
恋敵を消せば、それ以上、その人間の可能性は潰える。
なんともシンプルで手っ取り早い手段。
愛は単に喜劇だけではなく、悲劇だって呼び寄せる表裏一体の存在であった。
だが、ひとつだけ間違えてはいけないことがあった。
それは、たったひとつだけだった。
愛の前で足踏みをしてはいけないということ。
「どうかな、この推理が当たっていれば素直に私に教えてくれないかな…もしかしたら君の……」
資料に目を落としながら話していたハル。
ふと顔を上げたその瞬間。
ベットから跳ね起きたフレイがハルの喉元めがけて、両手に纏った炎の手で掴みかかろうとこちらに向かって飛び跳ねていた。
「!?」
***
フレイは最後の手段として奥歯に仕込んでいた追加の戦闘剤を飲みこみ、身体に鞭打って、一時的に体を動かせるようにしていた。
ちなみにこの戦闘剤、毒物に対して凄まじい耐性があるフレイ以外が服用すると普通に猛毒だった。力を得られるどころか一般人が服用すれば数秒激痛で悶え苦しんだ後に、死が確定するほどの劇薬。フレイはその戦闘剤をガラスの小瓶やカートリッジに入れて持ち歩いており、すぐに服用できるように奥歯にも隠していた。
フレイの場合、一回分だけなら緩和剤無しで副作用は無く、数時間超人的な身体能力を手に入れることができた。さらにこの戦闘剤は重ね掛けすることができ、人間の域を超えた動きを実現できた。しかし、重ねて投与するごとに効果時間は短くなり、二回目から緩和剤が必要で、三回目となればさらに効果時間は短く、爆発的な力を得られるが、副作用も緩和剤を大量に使用しても四、五日は完全に動けなくなるデメリットがあった。
そして、今、緩和剤無しで三回目をまだ副作用が抜けきらない状態で実行したため、身体には相当の高負荷が掛かっていた。
最悪の場合は…。
『ここが多分最後のチャンス、殺すならここしかない!』
フレイの手がハルの首にもう少しで届きそうだった。
『ここで掴めればこいつを焼き殺せる』
彼がルナの夫であろうとそうじゃなかろうと構わなかった。フレイは彼のことを決して認めるわけにはいかなかった。
『ルナ様は私の希望だ。私の真っ暗だった人生を照らす希望の光なんだ!その光を誰にも奪わせない、誰にも穢れさせない。私が守って、私がルナ様の永遠になる!私にしかそれはできないんだよ!』
「死ね!!」
フレイの全てを焼き尽くす炎の手がハルの首を掴んだ。
「取った!!!」
ただ、そこで違和感を感じた。
フレイは彼の首を力強く掴み火力を上げた。
「このまま燃え尽きろ!!!」
そこで彼の顔を見た。
黒いベールが燃え尽きると、彼の顔が姿を現した。
そこでフレイは初めて、彼の素顔をその目で見た。
「ハッ!?」
そこには普通のどこにでもいそうな黒髪の青年の姿があった。化け物でもなんでもないフレイとおよそ同じくらいの歳のなんてことない青年が慈悲に満ちた顔でフレイのすることをただ見守っていた。
「それが君の答えでいいのかな?」
フレイの炎の手で首を絞められ、彼の首から上が燃え上がっていく。
けれど彼は一切抵抗することなく、ただ、じっとフレイのことを見つめていた。
「ルナのことが好きで、愛してる、そうなんだね?」
彼の首の皮膚が熱で焼かれどんどんと爛れていく。フレイはそこからどうしていいか分からなくなった。次第に自分はやってはいけないことをしてしまったのではないかという後悔に苛まれていた。だが後戻りはできないしするつもりもなかった。
「分かる、分かるよ、その気持ちが…俺には分かる…好きな人奪われたくないよな……」
彼は悲しい顔でそう言った。自身を蝕む炎など少しも気にしていない様子だった。
「なんで…」
どうして焼け爛れていくことに、死を目前にして彼は怯まないのか?
「なんで抵抗しない?俺はお前を今から殺すんだぞ?」
フレイの灼熱の手が押さえる首からじわじわと彼の顔の皮膚が焼けていく。
「死ぬことより愛する人に愛されない事の方が辛いって俺は知ってるんだ……だから、君にはその覚悟があったから、俺も君のその覚悟に応えたい」
「じゃあ、お前は死んでくれよ、私がルナ様を幸せにするからここで死んでくれ!!」
「それはできない、俺にはルナより大切にしなきゃいけない人がいる、約束したんだ。だからここでは死ねない」
ルナとあんな甘い関係を築いて置いてその言葉は衝撃的だった。
「何言ってんだよ…、意味がわかんねえ、お前最低だよぉおお!!!」
フレイは手の火力を上げた。
炎は次に彼の頬の皮膚を焼け爛れ始めては、暴れ狂うその業火は彼の眼球の水分を飛ばし始めた。
しかし、それでも彼がフレイを見つめる真っすぐな闇のような黒い眼に変わりはなかった。
「フレイ、今まで寂しかっただろ?ひとりでずっと大好きなルナの背中を追って辛かっただろ?」
「うるさい!黙れ、お前はここで焼けて死ね!!死ね、死ね、死ね!!」
「ルナもそうだった…」
そこでフレイの手が少し緩んだ。
そして、彼の顔を見た。
すでに片方の眼球が燃えて溶け始めていた。それでも彼は目を閉じずにフレイを見つめていた。
「ルナもずっと大好きな人を遠くから見ることしかできずに、ぶつかることを諦めてずっと、好きを、愛してるを、伝えられずにいたんだ…」
髪の毛にまで炎が広がり美しい相貌をしていた彼の顔はいまでは見るに堪えないほど焼け爛れていた。それでも彼はフレイに伝えることを止めなかった。
「だけど彼女は諦めなかった。諦めきれなかった。愛する人にすでに愛する人がいてもずっとその想いを大切に自分に機会が来るのを待って、断られるって、分かっていてもそれでも最後にはちゃんと言ったんだ。あなたのことが好きですって」
フレイは彼に肩を掴まれた。
「お前はルナにちゃんと自分の気持ちを伝えたのか?」
彼の顔の半分はもう焼け爛れて原型がなくなっていた。
「あなたのことが好きですって、自分の口から自分の言葉で伝えたことはあるのか?」
「わ、私は…」
「ないなら、伝えろ!!性別や身分なんて関係ねえ!!本当にその人のことが好きなら直接言えよ!お前がどれだけ相手のことが好きなのか伝えてやるんだよ、それだけでお前の世界は変るんだよ!!!そこからお前の世界は始まるんだよ!!!」
フレイはすでに彼の首から手を離していた。
そして、自分が酷く間違ったことをしていたことに気付き始めていた。
「人を好きになったらな、恋敵なんか殺してる場合じゃあねえんだぞ!!!」
その言葉がフレイの心を揺さ振った。
大好きな人がいた。自分を真っ暗な暗闇から光が当たる場所に救い出してくれた。それは陽の光ではなく、夜に浮かぶ月の光であったが、間違いなくフレイはその光に照らされていた。
「私、好きです…」
震える声だった。
「ルナ様のことが好きなんです……」
「うん」
燃えさかっていた炎が止んだ。
「だけど、私、本人に言えるわけが無くて…ずっと……」
「辛かったでしょ」
「はい…」
「悔しかったでしょ」
「はい……」
その時フレイの目には大量の涙が溢れていた。
「寂しかったね」
「う、うあああああああああああああ」
溜め込んでいた感情の全てが決壊したのか、フレイがそこで泣きわめいていた。
顔の皮膚のほぼすべてが焼けて爛れたハルが彼女をただ見つめていた。
なぜかその時ハルは彼女のことを許すことができていた。
自分にまとわりつく理由の無い人嫌い。このどうしようもない心情が続く最中、いまここで愛を叫びたいと願う一人の少女のことを許すことができた。
『なんでかな…彼女のことはもう殺せないな……』
泣きわめていた声が突然聞こえなくなった。
「フレイ?」
彼女は全身から大量の汗を流し倒れていた。
ハルは急いで彼女を抱きかかえるとルナのところへ向かった。
自分のことは二の次で彼女の容態の悪化を見て彼女のことを優先した。
***
「ルナ!!!」
ハルがルナと一緒に暮らしていた部屋の扉を蹴り破って部屋に入る。
「ハル!?えっと、おかえりな、ぎゃあああああああああああああああああああああああああ!!!」
室内に絶叫がこだました。
「ルナ、急いで彼女に白魔法を掛けてくれ」
そんなことを気にせずハルがルナの前にフレイを寝かせた。
「ああああああああああああああああああああああ」
声にならない金切り声をあげたルナが急いでハルに白魔法を掛け始めた。
「ルナ、俺は後でいい!こっちが先だ」
「ハルが死んじゃう…死んじゃうよ……どうしてこんなことに……ああ、どうしよ、どうしよう、どうしよう!」
彼女は聞く耳を持たず、必死にハルに白魔法を掛けていた。
そこでハルがルナの顔を掴み自分の顔と向き合わせた。
「ルナ、聞け、俺は後でいい、それよりフレイの容態がおかしい酷い熱に汗が尋常じゃない、彼女を助けてくれ、頼む」
「嫌だ!ハルを治してから、ハルが死んじゃう」
「なあ、頼むルナ!!!」
「ハルが死んじゃうのだけはダメ、他の人はいいけど、あなたはダメ」
「クソッ、なんで!!」
そこでガラスに映る今の自分の姿を見た。
そこにはもはや人間じゃなくなった自分の姿があった。
「…ルナ、ひとついいか……」
「ハルが死んじゃう…」
彼女は必死にハルの顔に白魔法を掛け続けていた。
「俺は本当に人間か…」
「ふえええええん」
ルナがハルの質問に答えることはなかった。泣きながらルナは白魔法をハルに掛けることを止めなかった。
「…うっ、ぐっ……」
「……ッ…!?」
そこでフレイの苦しそうなうめき声でハルが我に返った。
すでにハルの重症で壊れてしまったルナ、容態は刻一刻と悪化し死の淵を彷徨っているフレイ。
今は彼女のことを死なせたくなかった。愛する人に気持ちを伝えられないまま死ぬそんなことがあっていいのか?
そんなのダメに決まっていた。
ルナに助けを呼んで来てもらう。しかし、彼女はもうハルのことを治癒することしか頭になかった。
『俺が助けを呼ぶしかない…』
しかし、ハルが助けを呼ぼうにもどこの誰に?それに信頼してもらえる可能性がそもそも無かった。顔に酷い火傷を負った状態ではまともに取り合ってくれるかも怪しかった。ルナの白魔法で顔の大火傷を治そうにも相当な重症で治癒がちっとも進んでいなかった。
「あがッ…がが………」
フレイを見れば今にも死にそうに身もだえ始めていた。
『時間がない…』
「ルナ、ごめん、少し離れてて」
「嫌だ!!!」
ハルは抵抗するルナを片手で軽く押しすぐ傍にあったソファーに倒した。
そして、片手を天井に向かってあげた。
「悪い、ルナ」
それだけ言うと、ハルは次の言葉を焼けた口から唱えた。
「天性魔法【黒花】」
大きく目立つように花をイメージした。
美しく光を飲み込む闇の花だ。
その真珠のような黒は人々の目を奪うことだろう。
ハルの手のひらから闇が溢れ出す。
その闇は凄まじい速度で膨れ上がり、一瞬でハルたちの頭上にあった天井を吹き飛ばした。それだけでは留まること知らない闇の一線は、ハルたちがいた一階の部屋から次々と上のフロアの天井をすべてを吹き飛ばし、その後その細い闇の線が花開くように展開されると大きな闇の花を咲かせ、屋敷もろとも一瞬んで吹き飛ばしてしまった。
闇の花びらが花開いた衝撃でホーテン家の敷地内に衝撃が走った。ホーテン家の各建物に張ってあった防御結界たちが鳴動した。
ハルたちの真上には巨大な黒い花弁があった。しかし、すぐにその闇の花は青空の下、一枚一枚はがれ落ちていき地面に触れる前に消滅していた。
「近くで見ると綺麗じゃないな…」
ハルは頭上にあった黒い花弁を見上げる。その花弁一枚一枚を構成している闇たちが蠢いているのが見えた。
ルナが住んでいた屋敷である【月桂】の破壊。この騒ぎに他の隊員たちが駆け付けないわけが無かった。
これで救助隊も動かないわけがなかった。
「ハル…」
「ごめん、ルナ、ようやく正気に戻ってくれた?」
気が付けばルナが呆然とした様子で立っていた。それもそのはず、彼女が長年住んでいた屋敷を破壊したのだ、魂の抜けた顔をしていてもおかしくはなかった。
「傷、治させてください…」
ルナはそう言うとハルの顔に手を伸ばしたが、ハルは彼女の手を握ると彼女の身体を引き寄せた。
そして、顔を近づけると言った。
「今の俺のこの顔どう思う?」
「痛そうです…だから、早く…私の魔法で治療させてください」
「ルナ、俺の治療は後で、彼女を先に治してあげていい?もう二度は言わないよ」
「はい…」
ルナはそう言うと、フレイに白魔法を掛け始めた。しかし、ルナは顔だけハルのことを見つめていた。
ハルはそこでさっき聞きそびれた質問をすることにした。
「ルナ」
「なんですか…」
「ひとつ、質問なんだけど、一生俺がこの顔のままだったらさ、ルナはそれでも俺のこと好きだって言える?」
意地悪な質問だった。今のハルの顔は火傷というより皮膚のほとんどが熔解し、筋肉の筋まで見えて、だらだらと血が流れ、人間の本来の顔の形とはかけ離れていた。つまり今のハルはなかなかの良い顔の青年からまるっきり面影もないほど怪物という名に相応しい顔に近づいてしまっていた。それは窓に映った鏡を見て確認済みだった。
そして、ハルがそんな答えずらい質問をすると、ルナは一度フレイの方に向き直って、ハルにそっぽを向いてしまった。
「ごめん、気分悪くさせたね、治療続けてあげて…」
ハルはルナに謝った。
どこかで彼女に期待している自分がいた。自分の顔が変ってもルナは自分を好きでいてくれているものだと思った。だが、それは見当違いのようで、醜くなれば人というものは離れていってしまうものなのだ。それは人として当然の反応だった。誰もかれもが聖人なわけではないのだ。
ルナの手元から白魔法特有の真っ白な光が力強く光った。
そして、すぐに彼女はハルに向き直った。
「どうしたの?彼女の治療を続けてあげて」
「一命はとりとめました」
「そっか、それなら良かった」
ルナがハルの元に近づいて来る。
「痛みはないですか?」
「正直、もう、痛すぎて感覚はないかな、なんていうか痛みを通り越してハイな気分になってるかも…」
ルナがハルの目の前まで来た。彼女はどことなくうっすらと怒気を纏っておりなぜかハルが気後れしてしまうほどの迫力があった。
「ハル」
「なに?」
「さっきの質問に答えるわ」
ルナがそう言うと、ハルの胸元を掴んだ。
その時、遠くから人々の声が聞こえて来た。
「おい、あんまり花に近づくなよ、どんな魔法か、わかんねぇんだからな!」
炎のガントレットをはめた大男が部下を連れてドスのきいた声で指示を飛ばしていた。
「ホーテン家の敷地内でド派手にやってくれたな、こいつはなぶり殺しがいがあるな、そんで獲物はどこだ?」
大剣を引きずった金髪の大男が舌なめずりをしながら周囲を見渡しながら近づいて来る。
「これ魔法じゃないわね、魔術が一切組まれてないわ…となると天性魔法…こんな高出力剣聖クラスなんだけど……」
三つの光のリングから白い光を放ち、空から舞い降りた女性は顔の半分に仮面を付けて後ろにお供の魔導士たちを連れていた。
「ルナ様!!ご無事ですか!!!」
そして、最後に駆け付けた三人の中で比較的若い男が、黒花の下にいた主を見つけると柄にもなく叫んでいた。
ドロドロに溶けたハルの顔にためらうことなくルナが口づけをしていた。
目を見開いたハルの視界にはルナしか映っていない。
キスの間、周りには駆け付けた隊長たちや隊員たちがその二人を目撃すると言葉を失っていた。
長いキスが終わる。ルナの唇がハルの血で赤く染まっている。彼女は拭うことなくすぐにハルに白魔法を掛け始めた。
ハルが彼女を呆然と見つめていると、彼女が上品な笑顔を見せて言った。
「私はあなたがどんなに醜くい化け物に変わっても、ハル、あなたがハルである限り、私はあなたのことを愛し続けるわ…」
ルナはそこで顔が少し戻ったハルにもう一度軽いキスをした。
「私は、いつだってどんな時だってあなたの味方よ、まるで物語のセリフみたいだけどあなたが世界を敵に回しても私はあなたの傍にいるわ、いいでしょ?」
ハルはそこで目を閉じて彼女の温かい言葉をしっかりと受け取って言った。
「ありがとう、ルナ」
ハルの空っぽだった心がほんの少し彼女で満たされた気がした。
「フフッ、どういたしまして、まあ、これくらい妻として当たり前なんだけどね…」
ルナが自信満々の笑顔を披露した。
「本当にありがとう…」
ハルは自分の胸を力強くぎゅっと握りしめていた。
***
それから、ハルたちの元にぞろぞろと集まって来た彼らにルナが告げた。
「みんな驚かせてごめんなさい。駆け付けてきてくれたところ悪いのだけれど、誰か私と一緒に彼の治療と、そこに倒れている彼女の手当をしてくれないかしら」
ルナがそう言うと、駆け付けた隊長と隊員たちがルナの指示に従い一斉に動き出した。
「私がお手伝いいたします」
「アリスか、お前なら心強いよ」
「ルナ様…そんな私の名前を憶えていてくださるなんて、とても光栄です」
「パルフェ家にはホーテン家も随分と世話になってるだから、お前もここで無理はするなよ」
「ルナ様…」
ハルはそんな二人の会話を目の前で耳にしていた。
そのルナの隣にいた女の子にはどこか見覚えがあったが、白魔法が効き始めるとハルはだんだんと睡魔に襲われ、思考もおぼろげにぼやけ始めていた。
「アリス!」
ぼやける視界の遠くからこちらに走って来る少年がいた。
「アストル!」
側にいた女の子が彼の呼びかけに嬉しそうに返事をしていた。
「ケガは無い?」
「ええ、私は、でも、いまはちょっと手が離せないのこのひと凄い重症で…」
「何か俺にも手伝えることはない?」
「今は大丈夫、だけどこの人の治癒が終わったら肩を貸してくれると助かるかな」
「じゃあ、ここにいるよ、まだ、何があるか分からないからさ」
「ありがとう、アストル」
ハルはそこで小さな声で呟いた。
「アス…ト………」
もう意識が落ちる寸前だった。
「え?」
ハルはその少年の顔を最後に見て目を閉じるのだった。
*** *** ***
かくして、ハルがホーテン家へ来たことによる一連の騒動はここで幕引きとなった。
その後、ホーテン家内ではハルの話題で持ちきりになり、支配者として参入するはずが、ルナの愛人という認識で落ち着いてしまった。だがそんなハルではあったが、彼がここで成すべきことが終わったわけではないことは確かだった。
足元に広がった闇がより広く、より深く、より濃く、より邪悪に激しさを増していくのはこれからだった。
黒い花が咲いたのはその始まりに過ぎなかった。
*** *** ***