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それが私の人生

 八歳のとき私は売られた。


『お母さん、私、行くからね?』


 お母さんは私が連れて行かれる時、無表情で何の感情も持ち合わせていないようだった。いつもは激しく感情を表に出すような人だったのに、その時だけはどこか目は虚ろで、玄関先に立つ彼女の姿はまるで空っぽの人形のようだった。


『それじゃあ、これがお金です。どうかこのことは内密に』


 私を迎えに来たシスターはそう言うと玄関先にお金の入った袋を置いた。

 そのお金が私を売ったことで母が手に入れるお金だったことは子供の私でも知っていた。

 それでも私は決して母のことは恨んではいなかった。むしろ母のために役に立つことがで来たことが嬉しかった。

 もう家に戻れないこと、母に会えないことを思うと、悲しかったが、それでも私は最後母を守ることができた。

 もうあの時の母は自分が誰なのかもわかっていなかったが、それでも自分の家族を守れたことを私は今でも誇りに思っていた。


 シスターに連れて行かれた場所は、小さな孤児院だった。森の中にひっそりとそびえ立ち静寂と自然が常に周りに溢れていたことを覚えていた。

 自分が住んでいた薄汚れた街と比べたらその孤児院は恐ろしく清潔で穢れひとつなかった。


 そして、私はその孤児院で、私は多感な時期を過ごした。

 その孤児院はまさに素晴らしい楽園のような場所だった。冷たいご飯は一度も出て来ることはなく。誰かが来て私を殴るような乱暴者もいない。下品で淫靡な声が夜な夜な聞こえて来ることもなかった。

 孤児院での友達やシスターとの楽しい日々がこのままずっと続けばいいのにと思っていた。

 けれどその生活もそう長くは続かなかった。


 孤児院で二年過ごした春の出来事だった。

 悲しいことに私は、母親に売られた時の役目を果たさなければならない時が来てしまった。


『みんなまたね』


 孤児院の友達と泣きながら別れを告げた。もう、名前もよく思い出せないけど、一番仲の良かった私にできた初めての二人の友達。男の子の方は私のために泣いてくれていた。女の子の方も泣かないと我慢していたけど、頬から涙が溢れていた。たった二年間だったけどそれはとても楽しい充実した二年間だったから、その大切な時間を共有した二人と別れるのは辛かった。


 だけど、私は初めからここに売られてきた。そのことだけはちゃんとわかっていた。それはシスターにも言われていたから忘れることはなかった。


 それから私は孤児院から研究所へと連れて行かれた。そこからの記憶はとても曖昧で霧がかかったようにぼやけていた。


 覚えていることは薬と夢だけ。


 研究所では薬漬けの毎日だった。

 その副作用による痛みは常軌を逸していた。常人である私が耐えられるはずも無く、目を覚ましては薬を投入され気絶これを三年間繰り返した。


 薬にも慣れてきたころだった。

 私には一年間空白の期間があった。


 真っ白く何もかもが柔らかい部屋で、ただ食事と排せつと睡眠をするだけの生活が一年間続いた。

 私の精神はそこで一度空っぽになってしまった。この時私は人間ではなくなってしまった。人間ではなくなってしまったのだから、その時私の性別も溶けて消えてしまった。女でも男でも中性でもない。私は空っぽの人形になってしまった。

 すべては無だった。

 そんなまっさらになった私に待っていたのは、さらなる地獄だった。


 白い部屋から出た後に待っていたのは、薄暗い室内に整然と立ち並ぶ培養槽だった。私はその培養槽の中に三年間全身を薬漬けにされて過ごすことになった。

 それは長いような短いような不思議な時間だった。培養槽に入れられてから一度も目覚めることのなかった私は、その三年間はずっと夢を見ていた。 


 空っぽの私が見る夢はそれはもう可能性に満ちたものばかりだった。夢の中でならなんにでもなれた。戦場を駆ける勇敢な騎士でも、恋するお姫様でも世界を支配する王様でも、どんな自分にだってなることができた。


 現実と夢の境界が曖昧になりやがて私はその夢の中で本来の私を見失いつつあった。


 それもそのはず、夢の中の方がずっと楽しく心地が良かった。


 だけどその三年間で最後に見た夢がどうしようもなく私を現実に引き戻した。


 それは薄汚れた貧民街で生まれた少女になった時だった。


 見覚えのある街の建物に、ガラの悪い住人、薄汚い路地、危険が潜むとも知らずに走り回る子供たち、上等な身なりをした怖い大人、薄着の女たちと足元のおぼつかない男、見あげた先の汚れた狭い空。


 そして。


 遠くに見える星のような輝かしいお城と街。


 決して手の届かない場所。


 そうそこにいたのは私だった。


 私が最後に見た夢は私が私になる夢だった。


『フレイ・オリスカ』


 それが私の名前だった。


 戻りたいと思った。


 何者かじゃなく自分は自分でいたいとそう思った時、その願いは叶った。


 耳をつんざく音と共に私の視界に光が広がった。


 培養槽が割れ、薬液だらけの私の身体がまるで何かに引き寄せられるように宙に浮くと、彼女が現れた。


 夜を纏ったような黒い髪、その夜に輝く月のような白い肌。夜の残虐さを表したかのような紅い瞳。夜がもしも人の形をして現れたならきっとそれは彼女のことなのだろう。


 私は彼女に抱きかかえられ、施設の外へと出た。


 陽光に照らされ、視界いっぱいに広がる空と彼女を見た。


 夢から覚めた時。


 最初に目に映ったあなたに…。


 私は恋をした。


 ただそれだけ。


 たったそれだけが私の人生の全てだった。

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