記憶をさらう闇のベール
早朝澄んだ空気の中、ホーテン家にある道場で汗を流す。
「ハッ!!」
武術の型をひとつひとつ終えていくたびに、体の奥底に沸々と力が湧いてくる。自信それは自信というものなのかもしれない。自分はこんなに美しくそして力強く鮮やかに型をこなせる。そんな自分に対して惚れ惚れしていたのかもしれない。
だが、そんな自信を瞑想を挟むことで、落ち着かせる。
それが自分の悪い癖だということも知っていた。
冬場の瞑想は己を律するのにちょうどいい。冷たい床に膝をつき心を無にすることで、自分がここに存在していることを世界が見つけてくれる。空っぽにすればするほどその隙間を埋めようと世界が自分に押し寄せてくる。
しかし、どれだけ心を無にし、世界に自分を認識させようと最後には赤い瞳の黒髪乙女が現れては自分の心を乱していった。
「ルナ…さま……」
目を開けるが冷え切った道場には自分しかいなかった。
「やはり、瞑想程度では、この滾る思いを消し去ることはできないな…」
シャルド・オージャックは、ひとり静まり返った道場で呟いていた。
「今日はここまでにするか…」
清廉潔白、純真無垢でいるのはこの朝の武の稽古と昼の弓の稽古のときぐらいだった。
それ以外の時間は愛だけがシャルドを満たしていた。
滾る身体を引きずって追い求めるのは愛でありたい。積もりに積もった想いをいづれ君の隣で語らいたい。満月の夜、酒を酌み交わしながら、終わりには同じベットの上で君の寝顔を見守りたい。
沸き立つ妄想の相手はすべて、自らの主でもあるルナ・ホーテン・イグニカのことだった。
一目見た時からシャルドは彼女にくびったけだった。
というよりも、自分に彼女が相応しいとそう思うようになっていた。
美貌。シャルドにはそれはもう裏社会に置いておくにはもったいないほどの美しさがあった。
透き通った流れる銀髪は人目を引き付け、澄んだ青い瞳はどこまでも人々を虜にする。少し人間離れしていると思わせるほど、絶世の美男子であるシャルドに顔で勝てる者など誰もいない。
だからこそどんな女性でも本気を出せば落とせるとシャルドは本気でそう思っていた。
おまけにシャルドには武の心得もあり、肉体的にもメスを引き付ける抜群の肉体美と見せかけだけではない抜群の身体能力を持っていた。
さらには弓を持たせれば右に出る者がいないほどその弓の才能は素晴らしく、それと並ぶほどの魔法と剣術にも精通していることから、彼はとてもバランスのとれた優秀な騎士でもあった。
レイド王国の裏社会の中心であるホーテン家でも優秀な切れ者が入るとされているロイヤルガードに入隊したことも、シャルドからしたら目を見張ることでもなかった。
しかし、そんな完璧ともいえるシャルドにも、ひとつ彼女のことで不可解な噂を耳にしていた。
それは、ルナに婚約者がいるという有り得ない噂だった。
その噂は数日前、集団催眠に掛った後に突如として流れ出した噂だった。
そのルナの婚約者だと名乗る男は、レイドの裏社会の中心であるホーテン家の者たちを集め『俺はルナの婚約者だ』と妄言を吐いたという。
シャルドもいろいろな経験をして、さまざまな光景をこの目で見てきたが、そんな頭のおかしい人物がいるとは思えなかった。
ちなみにシャルドもその集団催眠というやつの被害者ではあった。
それはホーテン家の地下にある裏の王座に集められた時のことだった。裏社会の四部隊あるロイヤルガード、ブレイド、ルーン、インフェルの精鋭たちが集まり何かを待っていた。そこまでは覚えていた。しかしそこからの記憶が一切無く途中で何かに記憶を斬り落とされたかのようにプッツリと記憶の光景が途絶えていた。
シャルドが目覚めた時、もう、その使われていなかった王座の間には大量の人々が意識をうしなって倒れ込み大混雑していた。
幸いなことにこの集団催眠の最中、ホーテン家の人間もいたにも関わらず、誰ひとりも死者はおらず、この催眠事件は何が目的だったのかは不明なままだった。
精鋭たちがいるにも関わらずこぞってやられたことは大問題だったが、この事件は何か上の力が働いたのか、それ以上力を入れて調査されることはなかった。
シャルドも裏社会にいて記憶が無いという体験は初めてだったが、魔法にしても記憶を消す魔法はそうそうお目にかかれないものだったので、少し興味が湧いていたが、裏社会での深入りはそれこそ死に直結することが多く誰ももうこの前の事件を口にするものはいなかった。追ったところで真相はすでに闇に葬り去られていることなのだろう。
「帰って熱いシャワーでも浴びるか…」
道場を出るとより一層空気の冷たさが襲い掛かって来た。空を見上げると分厚い雲と青空が半々ずつ流れていき、朝の光に反射した粉雪が白く輝いていた。
朝の散歩や訓練をしている者も多く、ホーテン家の敷地内には早朝であるにも関わらずいくつもの人影があった。
熱いシャワーを待望していたシャルドが速足で自室に向かっている最中のことだった。
眩しい朝の光を背に全身真っ黒な影のような姿をした人間に出くわした。
頭の上からは真っ黒いベールを被り、全身をさらに念入りに黒衣で纏い、絶対に正体を見せないという強い意志があった。
侵入者の類かと思い一声かける。
「あんた何者だ?こんな朝早くにそんな恰好でうろつくなんて怪しすぎるぞ」
「………」
言葉を発さないその人型の黒いベールはまるで亡霊だった。
「やっぱり、覚えてないんだ…」
「は?」
「力加減を間違えたみたいだ…」
分けの分からないことを言っているその黒いベールの人の手元には、何冊かの本が抱きかかえられていた。そして、彼が来た方向には資料館があった。
「あんた盗人か?」
「いや、借りてるだけだ。ちゃんと許可もとってる。それより、君さ、どこか具合とか悪くない?体調とか問題ない?」
姿は酷く不気味だったが、声は若く男性的で、シャルドと年も近いように思えた。
「まあ、でも、別にあれくらいのこと忘れてても何の問題もないか…」
その男はそう言うと続けて言った。
「君たちはもっと大きな存在を忘れてしまっているのだからね…」
彼のその言葉にはどこか引っかかるものがあったが、しいて言うなら寂しそうな口調ではあった。
「それじゃあ、私は先を急ぐのでこれで失礼させてもらうよ」
「おい、待て、話はまだ…」
気が付くとその男はどこにもいなかった。
「はぁ?」
目の前にいたはずの男。見失うはずのない存在を見失ったことで、得体の知れない恐怖が体を伝って来るのを感じた。
まるで最初からそこに人なんて居なかったかのように、朝、シャルドはひとり敷地内の石畳の道に立ち尽くしていた。
身体には悪寒が走っている。
「幽霊……」