あなただけいればそれでいい
生活感の無い部屋で目覚めるそれはいつものことだった。毎日召使いが隅々まで掃除してはこの部屋は生まれ変わる。個人的な持ち物は寝室に何一つ置いていない。個人的な趣味の部屋は他の秘密の部屋にあり、ルナが使っていた部屋はその部屋とこの寝室しかなかった。
ルナがいるのは、ルナが許可を出した限られた人間だけが出入できる特別な屋敷であった。ホーテン家の敷地内にある建物からは少し離れた孤立したところにあり、孤高という表現が似合っていた。屋敷内はとても広く、部屋の数も多かった。それなのにも関わらず、ルナはその二つの部屋しか使わなかった。
それでも他の空き部屋は召使いたちが掃除を欠かさずしどの部屋も清潔を保っていた。
ルナの一日は、起床、任務、就寝のこのサイクルが基本だった。
そのため、就寝部屋さえあればルナにはほかに必要なものはなかった。剣と寝床があればルナは生きていけた。それ以外にすることが何もなかった。ルナにとって任務で血を流すことが生きている間の目的になってしまった。なんとも退屈で希望も夢もないくだらない目的。そんな日々を何年も耐え抜いて来たルナはいつの間にか、レイドの裏社会で他の追随を許さない絶対的な支配者になっていた。
すれ違う者たちは首を垂れ、誰もがホーテン家の中で彼女にひれ伏した。
彼女はレイド王国にとって絶対的な守護である恩恵でもあり、制御の効かない燃え広がる大火でもあった。
彼女には何もなかった。生きる意味も目的もただただ自らを消費していく日々に消耗していった。
それはかつての親友をこの手で殺した傷が罪が彼女を掴んで放さなかった。
やがてその猛毒は彼女の心を完全に蝕み、果てには彼女を死に追いやった。
それは諦めという形で芽生えた。
死地を求めるも死に値しない任務。
どれだけ自らを死地に身を投じても、必ず生還してしまう圧倒的な力にルナはその身が尽きるまで何度でも戦地に赴いた。
限界が来るその時まで…。
しかし、やがて、彼女にその時が訪れてしまう。
レイド襲撃事件。
それは国を揺るがす大きな出来事だった。そして、その渦中にルナはいた。
レイドの強固な壁は破られ戦火が広がり、黄金の毛並みの神の獣が牙を剥いた。
ルナがここが自分の空っぽな人生の最後だと思った。
その襲撃時、街にはかつて存在していた神獣【レイド】が現代に蘇り街を襲撃した前代未聞の事件。レイド王国の紋章でもある黄金の獅子。それはレイド王国建国時の誕生秘話、初代剣聖レイ・ホーテンと初代国王ミドル・ハドーが討伐したとされる伝説の神獣。
そんな神獣レイドの復活と襲撃がいまからおよそ五年前にあった。
ルナは急襲を受けた混乱する街で、必死に住民たちを守ろうとしていた隊員たちを逃がしていた。その時には、もはや人が人を救うこと自体が不可能なほど、理不尽な暴力が迫っていた。大量の神獣レイドによるレイド王国の王都の国崩しが始まっていた。そんな中で誰かを救える人間などよほどの強者しかいない。それも絶対的な強者だ。ルナも対人ばかりで、神獣のような巨大な生物を相手にできるほどの力はまだなかった。
そして、やがて来てしまったどうしようもない状況にルナは、自分の体内に回り切っていた罪という名の毒が、全てを諦めさせてしまった。生きることに対しての執着すら最後には失せていた。
ルナが人々を助けた後に飛行魔法で飛び去った直後のことだった。街を燃やしていた炎から立ち上る黒煙の中で待ち伏せしていた神獣レイドたちの巨大な牙が待っていた。大きな口がいくつもルナの逃げ場を塞ぐように四方に存在し、彼女めがけて嚙み殺そうと襲い掛かっていた。
ルナはその時にようやくこの時が来たと思った。
逃げ場は無かった。どこに逃げても牙に貫かれる未来が待っていた。
ずいぶんと他人の血で染まってきた手を最後に見たルナはそこですべてを諦めた。
そして、これで良かったのだと最後に安堵すらできた。
だが、そんな絶望的な状況で、救世主は現れてしまった。
それはルナの人生を一変させる希望だった。
ルナの視界が鮮血に染まったかと思うと、誰かの後光のような光が差した気がした。
その光に、闇になれた目を痛めながらも、見据えるとそこにはルナにとっての神様が笑っていた。
その神は言った。「もう大丈夫、安心してね…」
どんなに絶望的な状況でも他者を安心させるその辛そうな笑顔にルナは救われた。
眩しすぎるその光がルナの目に心に存在に焼き付いて忘れることは決してなかった。
ルナ・ホーテン・イグニカは、ハル・シアード・レイに恋をした。
それからというもの、ルナの人生は彼のためだけに存在していた。そこで初めてルナは異性を意識し、身体の奥に秘めた熱い思いに身を焦がしながら、彼のことを付きまとい続けた。けれど、長い間、ルナは自らの穢れた闇と、彼の輝かしい功績を照らし合わせては絶対に釣り合わないと、住む世界が違うのだと自覚させられた。
光と闇はまじりあわない。表裏一体の関係。国を守り称賛を浴びる英雄と、人の血を浴びる殺戮者。私が彼に関わってはいけない、そう自分に言い聞かせることしかできなかった。
いつも彼と一緒に居るところを想像しては、イメージトレーニングだってしていた。最初は、すれ違うだけでも顔が真っ赤になり、固まってしまうルナだった。それもいつしか慣れてくると、彼とする、破廉恥なことだって何度も想像するようになり、ルナはハルという人間の光に吸い寄せられる蛾になっていた。けれどそれ以上に、ルナは他愛もない二人だけの時間をいつだって夢見ていた。
何でもない日常でただ二人は恋人で、退屈な幸せな日々を過ごしている。くだらない会話でお互い笑っている。そんな届かない夢を見ては、ずっとルナは彼のことを追っていた。
手に入ることのない光にルナは手を伸ばし続けていた。
届かないと分かっていても手を伸ばし続けていた。
もしかしたら、という可能性に縋って、ルナは彼を影から愛し続けた。
その結果が今の現状に至っていた。
***
ルナがベットの上で目覚める。
上体を起こし、ベットのすぐ傍にある窓がある場所を見た。その窓の前に椅子を置いて座っている、黒髪に真っ暗な瞳をした青年がいた。真っ暗な部屋に明かりを持ち寄って、彼は熱心に本を読んでいた。
そして、ルナが起きたことに彼が気づくと、本を閉じて微笑んだ。
「ルナ、起きたんだね、おはようよく眠れた?」
そこにはハルがいた。
かつてレイドの剣聖として名をあげ、四大神獣すら討伐してしまう大英雄である。
ハル・シアード・レイがそこにはいた。
忘却の彼方に葬り去られてしまった彼ではあったが、ルナからしたらそんなことどうでもいいほど、愛して、愛して、愛してやまない。
ルナの最愛の人がいた。
「ハル!!!」
たとえこれが夢だとしても現実だとしても、結局今のルナならできることがあった。
彼に命一杯の愛を、自分が生きている内に与えられる最大の愛を、今ここに、彼に。
ルナは何も遠慮することなく彼の胸に飛び込んだ。