幕間 宵の明星
血みどろの死肉の山から、抱きかかえ上げたのは、長い時を一緒に過ごした親友の亡骸。彼はまるで昼寝をしているかのように、気持ちよさそうに目を閉じているが、彼は死んでいた。
胸には心臓を突き破った穴が開いており、いまだに赤い血が流れ続けていた。
そんな死体を持ち上げるベッケにはもうこの場に持ち合わせる感情を失ってしまっていた。死んでしまった彼を見た時、すぐにその現実がベッケのあらゆる感情を殺しつくしていた。狂うことさえ許されないほどの喪失感は、ベッケをもぬけの殻にさせた。
「………」
死んだ者たちは生き返らないそれはベッケがこの世界を長い時を生きて証明し続けている事でもあった。だから、彼はもう絶対に帰ってこない。それは分かっていた。
ただ、ベッケはこうも思いたかった。
ここにエルヴァイスはいない。彼は肉体を捨て人々が信じる天国へと旅立った。そう誰もが考える普遍的な死への向き合いかたで、彼は親友を失った傷を癒そうとした。
「どうして死んだ…俺たちは死なないって言ってたじゃないか…」
「ベッケ…」
ベッケの背後にレイチェルがよろよろと立ち上がって来た。
「レイチェル、俺はこれからどうすればいい……」
失ったものが大きすぎて、これから何をどうすればいいのかベッケには何も分からなかった。ベッケにはエルヴァイスというエルフがいることが当たり前で、彼が居なくなった世界に対してまるで現実じゃないと訴えるかのように、酷く困惑していた。
「なあ、俺はいまどうなってる?何をしてる?どうすればいい…」
ベッケの瞳から大量の涙が溢れる。
「俺たちは間違っていた…だけど、だったらどうすればよかった?なんで、俺は最後まで親友の傍にいなかった?あの時一緒に最後の最後まで戦っていれば、彼はここで死なずに済んだんじゃないか?そういった可能性もわずかに選択肢の中にあったんじゃないのか!!俺は彼を見殺しにしたのか…」
「違うよ、ベッケ…それは違う…」
レイチェルがぽつりとそう言った。ベッケはそんな彼女の言葉を否定するわけでもなく、ただ自問自答を繰り返していた。
「なんで俺はあの時、一緒に戦えなかった?それは力が無いからだ…じゃあ、なんで俺には力がない?強くなることに無頓着だったからだろ…長い時間があったのに俺はその時間を無駄なことに費やして来たのか…俺が無力だから失った…もっと俺にも力があれば、神の力があれば……」
死体を抱きかかえ壊れたようにベッケの口は言葉を吐いた。ただ、その言葉は空虚な空に吸い込まれては潰えていった。
そんな彼を見ていられなくなったレイチェルが言った。
「ううん、ベッケ、あなたは最善を尽くした…ただ、それでもね、それでも、やっぱり私たちには手に負えないこともあるんだよ…こんなこと言いたくないけど、エルヴァイスがあの時少しでも私たちを戦場から遠ざけてくれたから、今があると思ってる。彼は最後まで私たちの英雄だった」
ベッケの思考が暴走し始める頃、レイチェルが冷静に彼をなだめた。だがそこでベッケの溜まっていた感情が一気に吐き出されたかのように、怒鳴り声を上げた。ベッケが彼女に強い口調を使うのはこれが初めてだった・
「英雄じゃなくて良かったんだ!!!彼は俺の親友で、それで……それで良かったんだ……」
ただ、ベッケはすぐにレイチェルの顔を見ると我に返ったのか、その場に抱いていた亡骸と一緒に泣き崩れてしまった。
「俺は彼が大切だったんだ…一緒にガキの頃から……ずっと一緒で……ああああああッああああああああああああああああ」
エルヴァイスの亡骸をうずくまるように抱えて泣いた。何もかも夢であって欲しかった。これが最後だなんてそんなの絶対に許せなかった。
その許せないという感情がベッケの不安定な心に不吉な炎を灯した。
不安定な心を薪に、燃え上がった復讐の炎がベッケの身を焦がす。
『殺してやる…』
ベッケが顔を上げる。
そこにはちょうど、復讐の手始めにはちょうどよい相手がいた。
「殺してやる……」
ベッケの視線の先にはライキルがいた。親友を殺した男の大切にしていた人族の女がそこにはいた。恨みの感情がベッケの意識を加速させた。
「ベッケ………」
「俺と同じ目に遭わせるんだ…そうすればあいつがエルヴァイスを殺したことを悔やむだろう」
「ベッケ…ねえ、聞いてベッケ……」
「なんっ…だッ………レイチェル…………」
ベッケが怒りに任せて怒鳴ろうとしたがその気も一瞬で失せてしまった。ベッケの復讐の炎を鎮火させたのは、愛する人の涙だった。
レイチェルはその綺麗な顔をくしゃくしゃにして泣いていた。
「泣かないでください…レイチェル……」
「私…たぶん、ベッケが居ればそれでいいって思ってたけど…違った……あいつも生きててそれで笑っているベッケのことが好きだったの…」
「………」
ベッケは言葉を失ってしまった。そして、途端に自分が酷く間違った選択をしようとしていることに気付かされる。
「ベッケにとってあいつの存在はとっても、とっても大きかった。それは、あいつがあなたをそんなふうに簡単に変えてしまうほどに…」
ベッケの両腕は親友の亡骸を抱えることで塞がっていた。今目の前で泣いている彼女を慰めて抱きしめてあげることはできなかった。
「ごめんなさい、私、たぶん、酷いこと言ってる…それでも、ベッケがそんな風に変わってしまうのは私とっても嫌なの…耐えられないの!!!」
ベッケはどうしていいか分からず、ただ、泣きじゃくる彼女を見つめている時だった。
声がした。
『おい、ベッケ、何してるんだ』
「!?」
それは幾度となく聞いた声だった。
『その声は…エルヴァイスなのか……』
『あぁ、そうだ』
信じられないことだったが、ベッケは彼のその声を信じることにした。
ベッケは確かにすぐそこにエルヴァイスがいる気がして、振り返って背後を確認しようとした時だった。
『待て、ベッケ、振り返るな、振り返ったら多分今ここに居る俺は消える』
『エルヴァイス…俺は……』
『何も言わなくていい、お前は悪くない』
『俺は…最後までお前に助けられて、何もできなかった……』
『いいんだよ、そんなこと、お前たちは何も気にしなくていいんだよ』
ベッケの頭の中に彼の声が響きわたる。
『ダメなんだ…俺はお前を失ったことに耐えられない……』
『バカだな…』
それは優しい声だった。
『失ってなんか無いだろ、あの時、しっかりまた会おうって約束しただろ?』
『だけど、お前は実際に死んで…』
『死んだからなんだぁ?俺とお前は親友だ。お互いにお互いを親友だって思っていれば、またどこかで会えるさ』
『親友…』
『ああ、だから、何も心配するな』
後ろにいる彼が笑っているような気がした。
『なあ、ベッケ、そんなことよりさ、目の前にいるレイチェルのこと抱きしめてやりな、泣いてるだろ』
ベッケの前でレイチェルが、ずっと溢れる涙をぬぐいながら、それでも止まらないほどに号泣していた。
『俺の死体なんか置いて、ほら、早く、世界中でレイチェルのことを愛してやれるのはもうお前しかいないんだ』
それが今は亡きエルヴァイスであることをベッケは確信した。自分なんかよりも誰かの幸せを願う一方的に願うような男だ。
ベッケは振り返ることはできなかった。
しかし、彼の言葉だけでもベッケが失った思った心を取り戻すには十分だった。
『ヴァイス…死んでしまった君に言うことではないが、最後に何かして欲しいことはないか…』
その時、背後でかすかな笑い声が聞こえたと思ったら照れくさそうな声が返って来た。
『ありがとな、ベッケ、だったらその悪いが俺の死体をマロンと一緒の墓に埋めてくれないか?面倒だとは思うが…いいか?』
そこでベッケは当たり前のように食い気味に言った。
『必ず、必ずお前の死体はマロンと同じ墓に入れる、約束する』
『頼むぜ、約束だ』
『ああ、任せてくれ』
それだけ言うと、ベッケはエルヴァイスの死体を下ろして、立ち上がった。
『なあ、エルヴァイス』
『なんだ?』
『また、会えるよな』
『当然だ』
『じゃあ、また後で会おう』
『ああ、ほら、俺のことはいいから、早く行ってやれ』
その時、ベッケの背中が後ろから押されたような気がした。
ベッケはその押された勢いで親友の亡骸を超えて、レイチェルの元に行き、優しく彼女を抱きしめた。
「帰ろう、レイチェル。帰って、エルヴァイスを、お墓に埋めてあげよう。それが生き残った私たちが彼にできる唯一のことだ…」
泣きはらしたレイチェルがベッケを見上げる。
「うん…ベッケ、ありがとね……」
二人は抱きしめ合った。お互いが崩れないように支え合いながら、失ったものを補うように、もう一度ここから立ち上がって生きていくために。
「…ねえ、ベッケ、後ろ……」
ベッケが呆然としているレイチェルの腕から離れ、後ろを振り向くとそこには…。
何かが消えた後のように小さな光の粒だけが残っていた。そして、やがてその光の粒も空に舞い上がって消えてしまった。
「ベッケ…いま…いまね…私見たの……」
「うん、聞かせてくれ、そこには誰がいた?」
ベッケはもう知っている答えを彼女に尋ねた。
そう、信じられないことが起こったのだ。
だからベッケは最後に彼女に誰がいたかを聞いた時、笑うことができた。
『なんだよ、最後くらい姿を見せてくれてもいいだろ、まったく…恥ずかしがり屋だな…』
ベッケは笑いながら空を見上げた。
青く、青くただ青く、冬の空のその先には深い闇が広がっていた。
それは恐ろしくもあった。けれど、だからこそ、そこに抱くものには恐ろしさだけではなく、無限の可能性があると感じることだって、できるのではないだろうか?
もしも、まだこの先に本当に望む奇跡があるのだとしたら。
生きてその奇跡を見たいと思うのだ。
ベッケが見上げた昼間の冬空にひとつだけ星があった。
「さようなら、エルヴァイス、また会おう」
その星は雲一つない澄んだ冬空でただただ眩しく輝いていた。
それはまるで希望のようだった。