古き血脈 破滅の声
殺してやりたくなった。
そうすれば救われると思った。
そうすれば愛する人に会わせてあげられるんじゃないか?
そうすればもう誰も悲しまなくて済むんじゃないか?
死んだら人は叶えたかった夢が叶う。
そう思うようになったのはいつからだったのだろう。
空を飛びたかった者は空を飛べるようになり、魔法を使えなかった者は魔法を使えるようになり、愛する人とずっと一緒に居られる世界が欲しかった者はその世界が与えられる。奴隷が街の地べたから王城を見上げ、生まれの違いを呪ったならば、彼等はきっと死後王になるのだろう。
どんな願いでも叶う【死後の世界】。
そんな世界があるかなんて分からない。
だけど…だけど、そう考えないと、もう生きてはいけない。
生きることが辛く苦しいだけの厳しい世界。そこで見つけた幸せな出会いも、自分の知らない小さなきっかけで音を立てて壊れていくと分かってしまったら、もう何も信じられない。
そうやって起こった悲劇を受け入れられはしない、たとえそれが不鮮明にぼやけて隠されていたとしても、その出来事を刻まれた者は決して忘れない。記憶どこうじゃなく、それは本人という存在自体に深く刻まれていたるものだから…。
なんだ、じゃあ、結局、死後の世界なんてないんじゃないか…。
じゃあ、どうして俺はここに存在してるんだ?
青年は答えが欲しかった。
***
灼熱の炎が裂け目の底を照らした。
燃え広がった炎の残滓が辺りに燻っている。
やがて裂け目の底は再び深い闇に呑まれ輝きを失い静寂が訪れた。
闇のそこで何度も閃光が走る。その一瞬の光は抗う業火であった。ひとりのエルフが闇に紛れる青年を寄せ付けないための炎であった。
エルヴァイスが自身の魔力を総動員して、ハルの姿を視界に入れると容赦なく爆炎を走らせた。ただ、ハルは闇に紛れその炎をやり過ごす。
エルヴァイスの両手が熱を帯び白く輝く。そして周りで渦巻く炎を彼は自由自在に操っていた。
ハルはそんな闇の中にぽつりと燃え盛る炎に向かって、容赦なく斬撃を放っていた。裂け目の底に二人だけ、周りの被害を気にする必要はない。ありったけの力で刀を振るい斬撃を放つ。だが、炎の渦の中に閉じこもっているエルヴァイスの手がその放たれた斬撃を素手で掴むと勢いが殺されてしまった。
彼のハルの左手を奪った強力な魔法が有効である証拠でもあった。そのため、不要に彼に近づくことはやはり危険であった。
『あの両手、本当に厄介だな…おまけにあの炎魔法……』
それは闇の中輝くルビーのように深紅の輝きを放っていた。
炎魔法に関しては熟練の魔導士であればあるほど、その扱い方は卓越していた。エルヴァイスも相当な魔導士なのだろう。彼の炎はまるで生き物のように渦巻いていた。それはまさに炎に関する天性魔法の使い手のように、身体の一部のように魔法を扱っていた。
彼の炎は苛烈ではあったが、暖かさがあった。
それは人を傷つける炎ではなく、誰かの冷たくなった心を温める炎であった。
裂け目の底を温める彼の炎にハルはしばらく闇に潜み見惚れていた。
『どうして、俺はあんなふうに魔法が使えないんだろう…』
ハルは天性魔法以外の魔法が一切使えないため、彼が操る炎魔法というものがどのような感覚で操られているのかはまったく分からなかった。
エルヴァイスの周りの炎が舞うたびに、炎の加護を受ける彼から目が離せなかった。
『俺だけが、みんなとは違う…』
闇の中周囲を照らすことができる炎。ハルにはないものだった。
『もしかして、本当に俺は…』
人間じゃないんじゃないか?
ハルの頭の中にひとつの疑問が浮かんだ時のことだった。
『お前には力があるだろ?』
聞くに堪えないおぞましい声がハルの頭の中に響き渡った。
ハルが遠くの炎を見つめる中、唖然として、その声がしたことに恐怖を覚える。
「その声……お前は…」
その声はハルが何度も時折聞こえていた幻聴だった。
『力を解き放て、そうすればお前は救われる』
「お前は何者なんだ…俺となんの関りがある!?」
『力を解き放て、そうしなければ、お前は再び失うことになるぞ?』
「失う?」
『ああ、お前が愛する人をだ…』
消えるようにその頭に響いた声が消えると、事態は急変していた。
ハルが遠くで見つめていた小さな炎が、その瞬間爆発し大きく広がった。
ハルが目を丸くするのもつかの間、とっさに刀を全力で振るうと、燃え広がりながら迫る爆風を相殺した。
しかし、その熱風は爆発が起こった中央から止むことの無い炎の風を放出し続け、裂け目には常に人体を簡単に焦がすほどの熱風が吹き荒れることになった。
ハルはその熱風を発している根源を叩くために、その熱の発信源へ向かって、刀を全力で振るった。そのままにしておけば、常に熱風の中にさらされることになり、さらにこの熱風は相手が生み出した魔法によるものであるため、この状況が相手に有利に作用していることは確実であった。
「させねえよ」
刀から放った斬撃がその炎の核を破壊することなかった。ハルの攻撃はエルヴァイスの両手によって消滅させられ勢いを失っていた。
「エルヴァイス、あんた…」
「人生最後の決闘、楽しませてもらうぜ?」
エルヴァイスが裂け目の中央で爆発する炎を背にハルの前に立ちはだかる。
熱風が彼の背後からハルを襲う。
『水魔法か…』
ハルが熱に苦しむ中、エルヴァイスの前進には薄い水の膜が張られており、熱から身を守っていた。
『だけど俺にも唯一天性魔法がある…』
ハルは自身の天性魔法の光で、身体全身を覆っていく。全身を光で包まれたハルが熱を感じることは無くなった。これで条件は一緒になった。
「あんたにも身を守る手段があるってわけか、だけど、いつまでもつかな?」
エルヴァイスが背後の炎の核に向かって手を向ける。すると彼は追加で、炎の球を召喚しそれを炎の核へと何発も打ち込んだ。すると炎の核は激しさを増し、さらに強力な熱風を裂け目全体に放出し始めた。
ハルはたまらずエルヴァイスに斬りかかった。
全身を守る光に集中すればするほど、周辺の視界確保に割いていた分の光が威力を弱め、視界確保の優位性を失っていた。
炎の核が発する光は強力で直視すれば一瞬で目が焼かれそうになるほど強力な光だった。
真っ暗な闇の中はもちろん、激しい光が周囲を包む環境下でもハルの天性魔法は視界の確保に役立っていた。それを失うとなると戦闘の継続は困難だった。
『まずはあの炎の核を破壊しないことには不利な状況には変わらない…』
ハルが刀を振るうと、エルヴァイスはその刀に対して素手で応戦してきた。
「やはり、早いな…だが、こんなものじゃなかっただろ?」
エルヴァイスがハルの刀を両手で受け流しながら、反撃に出る。相手に反撃の隙を与えてしまうのは、両手を使えないところにもあった。さらには一刀流でいつもの半分も手数が少ない状況であり、おまけにこの地下もまだ結界内なのか、力が戻って来ることはなかった。
ハルはとっさに防御に回していた光を消費して、エルヴァイスの身体の中心に光を弾のように放出すると、彼の身体を後方に吹き飛ばした。彼の追撃を返り討ちにすることができた。
「……がっ…」
しかし、ハルが歯を食いしばる。薄くなった光の膜が熱を遮断しきれずにハルの身体の一部を焼いていた。腕、脚、胸に火傷が広がる。
光の膜の外はものすごい高温状態であることは確実であり、身体を保護する天性魔法が切れてしまえば、この身が燃え尽きることは決まっていた。
『力を解放しろ、お前はここでは死ねないはずだ』
頭の中に再び不気味な声がした。
「お前は黙ってろ…」
『奴は強い、今のままのお前じゃ勝てない』
「俺は彼を救う…死で……」
『そうだ、死には力が必要だろ』
「死に力は必要ない…死はその時なれば必ずやって来る…」
『ああ、だから言っておく、その時は近いぞ?』
ハルの頭の中から声が消える。
そして、声の主はいつの間にかエルヴァイスに変わっていた。
「いつから、俺の前で気を逸らせるほど、お前さんが優勢だった?」
気が付いた時にはハルの目の前には、エルヴァイスが立っていた。それはまるで記憶が飛んだかのような衝撃だった。
ハルがとっさにその場から身を引こうとした時だった。
エルヴァイスが口元に手を当てて、静かにと示した。
ハルの足が止まる。
「もう、遅い。残念だがこれはくらってもらう」
エルヴァイスがハルの目の前で手のひらを開く、そこには眩い炎の核が握られていた。
「炎…」
その時ハルの中で何か、不吉な光景が浮かんだ。
それは横たわるハルの眼前で燃え盛る炎だった。あたりでは人々の喧騒が響き渡り、ハルの視界はひどくぼやけていた。薪が燃やされ煙が上がっている。
『なんだ、この記憶……』
けれどそれは何となく、良くない出来事だったような気がした。
『ハル…』
そこで誰かの声が聞こえていた。聞いたことはあるが思い出せない声。自分の名前を呼んでいた。
「…誰なんだ?」
ハルがその声の記憶を辿っている時、エルヴァイスが叫んだ。
「またよそ見をする!」
エルヴァイスの手元にあった炎の核が弾ける。
「…ッ!?」
現実に引き戻されたハルは後悔した。目の前にはもうどうすることもできない威力の爆炎が広がっていた。
裂け目中に響き渡るほどの轟音が響いた。その熱風は遥か上空の裂け目の出口まで吹きあがった。
*** *** ***
「すごい…すごいよ、エルヴァイス…もしかしたら、本当にあなたひとりでハルを倒せるかもしれない……」
ミルケーは王城クライノートの敷地内に開けられた裂け目の傍に立って下の様子を覗き込んでいた。
「そうすれば、何もかも上手くいく、これからの時代は私とあなたの世界がやって来る」
『経過は良好のようね…』
そこでミルケーの内側から心の声が溢れた。
その声がしたとき、ミルケーの表情は凍り付いたように固まり、満足気だった表情も落ち着きを取り戻していた。
「お前か…」
『あなた自分が何をやっているかわかっているの?』
ミルケーは彼女の言葉を無視して冷静に、裂け目の底を見つめて、二人の死闘を観察していた。
『もしもエルヴァイスが勝ってしまえば、あなたを止める人をいなくなる。そうなれば、この世界のエルフ以外の人間を殺して回るんでしょ?』
「ああ、それが本来の私の役目だからな」
『そんなことに、本当に彼も協力してくれると思ってるの?』
「してくれるんじゃないか、彼にとって、この世界はもうすでに終わっているようなものなんだから、どうなろうが構わないはずだ」
『彼はそんな人じゃない…彼はもっと崇高な願いを持っているはずよ、誰もが争わなくて済む世界を…』
ミルケーは底から吹き上がってきた熱気を感じ取り、裂け目のふちから一歩下がった。熱風が裂け目から吹き上がり、空へと舞い上がり散っていく。
ミルケーは心の中の言葉を無視して、また裂け目の底に目をやっていた。
『彼は心優しい人だった。それなのにも関わらず、あなたが彼を誘惑したせいで、こんな収集のつかない事態にまで陥っている。ねえ、あなたこんなことになった責任が取れるの?』
「少し黙っててくれないか?」
『黙る必要なんてないわ、私はあなたに体を奪われて人生を失った。だから返してもらうまで抵抗し続けるから』
「………」
『いい、もし私があなたから身体を奪われていなければ…』
そこでミルケーは心の奥底にいる彼女に告げた。
「もう、いいんだ。ありがとう、お前のおかげで私は迷わずにここに立っていられた」
『なによ…』
「お前は私を寄生虫といったが、本当は分かっているんだろ?お前も、私の一部であり、決して相容れない存在ではないことを」
知っていた。自分の中にいるもう一人の自分が変わりゆく世界を受け入れられない自分を支えるためにいた敵対者だということを、それでもその彼女は決して本当の自分の敵ではなくそう演じるように自分が生み出した、精神性であった。
変っていく自分の中にちゃんと昔の自分もいることを忘れないように、覚えておくために生み出したもう一人の自分だった。
「だけど、もういいんだ、お前が私の傍にいてくれる必要はなくなった。だって、そうだろ」
『変わった私をヴァイスは受け入れてくれた…か……』
「ああ、だから、もう、お前の役目は終わったんだ…」
『そう、じゃあ、もういいのね、私のことは忘れるのね?』
「違う、これからもずっと一緒さ…だって、私がどれだけ変わろうと、ヴァイスはどうしようもなく、お前のことを見つけてしまうんだからね……」
姿かたち、性格が変わっても、変らない何かがあるのだとしたら、ミルケーはそれを最後まで大切に持っていたいと思った。その自分らしさを最後まで持っていれば、どれだけ環境がかわろうと、どれだけ一緒にいる人が変わろうと、また会えば彼に見つけてもらえる。ミルケーにしかない、自分らしい姿でいる自分を彼は迷うことなく見つけてくれる。
『それじゃあ、もう、私なんかがいなくてもいいような人生を送ってね、ミルケー』
「ああ、お前は虚無なんかじゃない…」
それを聞いた心の中の自分が笑った。
『それは私のセリフだったんだけどな…』
それだけ言うと、心の中の彼女はどこかに消えてしまった。
「私はどこにいても私だ…大丈夫、きっとこれからも上手くいく、ううん、上手くやって見せる…」
ミルケーの頬に冬の午後に吹く爽快な風が吹き抜けていった。
しかし、それも束の間の出来事であった。
晴れ渡る気分のミルケーの眼前を真っ黒な闇の柱が視界を覆った。それは裂け目を覆うほどの闇であり、その闇はまっすぐと空へと伸びていくと、結界の内側の壁にぶつかり、結界の境界を黒く塗りつぶし始めた。
「!?」
突如吹き上がった闇に驚いたミルケーがそのまま後ろにしりもちをついて唖然としていると、その闇の中から一人のエルフが飛び出してきた。
純白に身を包んだドレス姿の彼は、ミルケーの愛するその人であった。
「ミルケー!今すぐここから逃げろ!!」
それはミルケーが待ち望んでいたエルヴァイスであった。
「ヴァイス、どうしたの!?キャッ!!」
しかし、感動の再開もまもなく、エルヴァイスは有無を言わさず、ミルケーを抱えるとその裂け目から全速力で走って逃げだしていた。
「ハルは、殺した?」
その答えにエルヴァイスは答えずに黙々と走った後、彼は言った。
「ミルケー、ひとつ頼みがある」
「なに?」
「みんなを集めてくれ、お前の部下もみんな一旦戦闘を止めさせて集合させてくれ」
「みんなを?」
「ああ、みんなでハルを止めるんだ」
「殺せなかったのね…」
「ああ…」
ミルケーはがっかりしていたが、それでも自分さえいればまだ何とかなると思っていた。
「待って大丈夫よ、まだ私がいるから、彼をこの結界内に留めておいてくれれば負けることはないわ、だって、この結界内で最強なのは…」
「すまない、ミルケー、いいか?」
そこでエルヴァイスが彼女に横から口を挟んだ。
「ど、どうしたの?」
「もう、ひとりでとかそんなことを言ってる場合じゃないんだ…」
エルヴァイスは酷く焦っていた。腕の中にいるミルケーはその彼の焦り方が尋常でないことを知る。よく見れば彼の身体からは全身嫌な汗が流れており、身をこわばらせていた。
「下で何があったの?」
「闇だ」
「闇?」
「闇を見た…」
エルヴァイスはそう言うと、王城クライノートに着くまで、ミルケーを抱えたまま歩みを止めることはなかった。
*** *** ***
結界を闇が覆っていく中、真っ黒な髪をなびかせる青年が、結界の頂点に立っていた。
「ライキル、もう、大丈夫だよ…」
青年は一人そう呟くと、闇に染まり続ける王都を覆っていた結界の上から、一瞬で姿を消した。
だが、王都から離れた場所に浮かんでいた禍々しい球体が跡形もなく崩壊したかと思うと、数十秒後にその青年は、結界の上に戻ってきていた。
「やっぱり、いつみても可愛いいんだよな…」
青年は口元に手を当てて、恥ずかしそうに嬉しそうに微笑んでいた。
「よし、はやくみんな殺して、戻ってあげなきゃ、寂しそうにしてたし」
それだけ言うと、彼は薄い笑みを貼り付けたまま、結界内に沈むように侵入していった。
誰も幸せになれない最後の地獄が幕を開けた。