古き血脈 意味ある人生を振り斬って広がる灯火
暗闇の底で確かに感じるのは、絶望の匂いだった。どこからともなく不安が立ち込めては、世界の全てが自分に向かって敵意を向けている。
そんな気がした。
エルヴァイスは、見あげる空を満たす昼間の光が、小さな線にしか見えないほど、深い裂け目の底に立っていた。
その裂け目はどこまでも横に広く広がっており、広い空間が広がっていた。
「静かだ…」
この裂け目がいつからあったのか、その答えはたった数分前にひとりの青年の一回の正拳突きで開いたものであった。ありえないという言葉と同時に、彼の秘めていた底なしの力を見てエルヴァイスは、恐怖よりもその圧倒的な力が導く未来への希望の方が勝っていた。
エルヴァイスが周囲を警戒しながらも、この裂け目のそこで静けさと戯れていると、嫌な感覚が直接体を包み込むのを感じた。
振り返り、咄嗟に暗闇を灯したエルヴァイスは炎球を闇に向けて放った。その炎球はエルヴァイスから遠くに離れて行くたびに闇に侵食されていき、その光は遠く小さくやがて、見えなくなった。
しかし、エルヴァイスは続けて火球をその嫌な感覚がした方に放った。
狂化状態のエルヴァイスは、あらゆる周辺状況の変化に対して過敏になっていた。本来の狂化状態であれば、暴れるところをエルヴァイスは、上手くその狂化状態の利点だけを引き出していた。
狂化状態の間は肉体の強化や感覚の鋭敏化や直感力の向上など、あらゆる人間の持っている潜在能力を一時的に引き出すことができた。
しかし、狂化状態に入っても冷静に自我を保っていられる。これがどれほど異常であるかなど、エルヴァイスの中ではどうでもよかった。
狂気は人には理解されない心の在り方であり、それは自分自身でさえ理解してくれることはなかった。
けれどそんな狂気で身を満たしても正常であるかのように振舞えるということは…それは考えるまでもなかった。
エルヴァイスが自身のこの心の不均衡を他人者に理解してもらう必要はなかった。
今度は遠くから静寂を破る不気味な音が聞こえた。
そして、闇を直進する炎が真っ二つに割れたのを見た。
それが意味することは切断だと、エルヴァイスは即座に理解したときには、迫る斬撃に備えて特殊魔法の〈守護〉を正面に張っていた。
直後、〈守護〉の光の壁に斬撃が到達する。だが、その斬撃は意図も容易く光の壁も真っ二つに切り裂くとそのままエルヴァイスの身体を斜めに刻んだ。
斬撃が体に深く食い込む。
「グッ……」
光の壁がエルヴァイスと斬撃の間に入って緩衝しなければ、そのまま切り落とされていたことを知るとエルヴァイスはゾッとした。
たとえ胴体を真っ二つにされても白魔法があり、即死することはないが、それでも刻み込まれる恐怖を癒すことはできないことに変わりはなかった。
呼吸が乱れ、冷たい汗をかく。
そして、エルヴァイスが天に手を翳しそこから大きな大火を灯すと、闇に潜んでいた怪物が浮き彫りになった。
くすんだ青い髪の青年がこちらにゆっくりと歩いていた。左手は失っているが血は止血されており、右手には刀を持ち、闇に孤独に燃え上がるエルヴァイスの大火の光を反射しては白刃が輝いていた。
「理由を聞こうか、エルヴァイスさん。あんたが死にたがっている理由を」
エルヴァイスは無造作に広がっていた大火の炎を球状に収束させ安定させた。その炎の球体は闇の中で強い輝きを放った。それでも、深い闇の底ではそんな輝きですら心もとなく感じさせていた。
エルヴァイスはそこで昔のことを思い出していた。
それは彼女の言葉だった。
『ヴァイス、あなたは死んじゃだめだからね?』
『え?』
『長生きするのよ、私が死んだ後もずっとあなたの人生は続いていくんだから』
『………』
エルフにとって当たり前のことは、残酷にエルヴァイスと彼女に近づく別れの時を告げていた。
『俺の終わりは君の終わりと一緒でいい』
その時のマロンは穏やかに笑っていたと思う。彼女の寿命も近づいているそんな時期だった。
窓際にいたマロンが窓の外で輝く陽だまりに揺れる花壇の花を見ていた。
『私たちがこの星に生まれてこうして出会えたこと、こんな素晴らしいことはないわね…』
『マロン、俺はお前のいない世界を考えられない…』
エルヴァイスがテーブル越しにいる彼女に前のめりになりながら言った。
『私がいなくなったら、もう私のことは考えなくていいのよ?』
『…なんでそんな悲しいことを言うんだ』
エルヴァイスが席を立って膝をつき彼女のしわくちゃの手を握った。
『ごめんなさいね。きっと私は貴方に幸せになって欲しいのよ』
『マロンのいない世界に幸せはない』
エルヴァイスが彼女を見上げると、笑っていた。その笑顔にはとても大人びた余裕があった。彼女はエルヴァイスなんて気にも留めずに続けた。
『あなたは友人が少ないからもう少し増やした方がいいわね。もっと世界を知って私以外の人と関わって知見を広げるの、あなた私にべったりで、外のことなんてちっとも知らないでしょ?』
『それほど君を愛してるんだ』
エルヴァイスの頭にマロンの小さな手が触れて優しく撫でまわされた。
『そう思ってくれることは嬉しいわ、だけど、ヴァイス、だけどね。私とあなたはドワーフとエルフ、生きている時間が重なる時間は限られてる。だから、ずっとは一緒に居てあげられないのよ…ごめんなさいね……』
エルヴァイスは自分の頭を撫でていた彼女の手を取った。
『俺たちが生きているこの時間が永遠のように感じるくらい、もっと君との思い出を作りたい…』
その言葉に、マロンはにっこりと笑うと立ち上がった。
『じゃあ、一緒に外で日を浴びましょう。今日はとってもいい天気よ』
エルヴァイスは知っていた何気ないこの日常こそが、永遠になるのに相応しい思い出であり、日々というものであるということを、よくわかっていた。
『わかったすぐに準備する』
深い森の中にポツンとあった家から、出た二人は玄関の傍に置いてあった椅子に座り、朝の心地よい日差しを浴びた。
『気持ちいいわね』
『ああ、いい朝だ』
しばらく二人で日を浴びた。鳥がさえずり、穏やかな風が頬に触れる。マロンは静寂に耳を澄ましており、エルヴァイスはそんな彼女を横目で見ていた。
その視線に気づいた彼女は言った。
『ヴァイス』
『どうした?』
『私の顔に何かついてた?』
『いや、何もただ、見惚れていたんだ』
『こんなしわくちゃな顔に?』
『ああ、そうだ』
マロンはその言葉ににやりと微笑んだが、すぐに寂しそうな顔をしていた。どんなに褒めても最近の彼女はいつもこんな調子だった。
『ヴァイス、ひとつ私と約束してくれない?』
『なんだ?』
『あなたは死なないでね』
『………』
『お願いだから、私が死んでもあなたは生きて』
エルヴァイスはずっと彼女を見たまま聞きたくないといった表情で固まっていた。
『あなたの人生は長い。私との別れがあなたの人生の最終地点じゃない。あなたにはまだ続きがある。生きている間には意味が必要なの、その意味は自分で持たせることができるし、意味が無いと感じたら、自分で意味を持たせることだってできる。意味の無い人生だって思う時期にもちゃんと意味はあって、人は生きている間はずっと意味を持っているの。そして、死んだ後も、その意味は人々に受け継がれていく。ヴァイス、生きるってことは本当にとっても、素晴らしいものだって知ってた?』
マロンは遠くの空を見上げては、青空の深さを見つめていた。
『だから死ぬなんて言わないで、あなたが生きている間は生き続けて欲しいの』
『君のいない世界に意味なんてないって、俺は何回も……』
『あなたが私を生きる意味だというのなら、私の生きる意味は、あなたがこの先もずっと私なしでも生きていけるようにすることに決めるわ。それがいまここから私が生きる人生の意味ね』
マロンがゆったりとした一人用の腰かけ椅子に座ったまま、同じく隣に座っていたエルフ用の大きな椅子に座っていたエルヴァイスに、手を差し伸べた。エルヴァイスは彼女の小さなしわしわの陽だまりで暖まった手を握った。
『私、思ったことがあったの。きっとあなたにはもっとお似合いの人がいた』
『そんなわけないだろ…』
マロンは彼の言葉を遮って続けた。
『だけど、運よく私はあなたのハートを射止めることができた。これってなんていうか、理不尽だけど、私は大切なことだと思ってる』
エルヴァイスは彼女の言葉に黙って耳をすましていた。
『運命なんて言葉嫌いだったけど、あなたに出会えたこの人生は紛れもなく幸せなものだった』
その時、エルヴァイスには彼女の若い頃の姿が重なっていた。
『ヴァイス、生きてね。生きて、その先のあなたの人生に新しい意味を付け加えていって、そうして自分で意味づけをして生きた人生は必ず幸せなものになるから』
『だったら俺は…』
エルヴァイスの記憶がぼやけていく。そんな中最後に自分が言ったことをエルヴァイスは思い出す。
『君を忘れないために、生きるよ』
『ありがとう、ヴァイス』
それは遠い記憶の陽だまりの出来事。
君がまだ生きていたころの出来事。
忘れたくない大切な記憶。
もっとたくさん彼女と大切を共有した時間はあった。
それでも、今はもう…。
『マロン…』
愛する人を忘れないために生きる。だけど、それももう限界だった。年を重ねれば重ねるほど、彼女との記憶は、擦り切れ、穴だらけの記憶になり、エルヴァイスが思い出せる彼女との記憶のほとんどを忘れてしまっていた。およそ七十年ほど一緒に生きた記憶など、百年、二百年、三百年という長い時の流れの中に埋もれてしまっていった。
それでも最低限の彼女との時間を思い出せているのは、その時間が他の時間よりも大切だったことの証明だったと思いたかった。
しかし、それも限界だった。
君の声も顔も姿も仕草も匂いも存在も霞んでしまって、もしかしたら、自分の覚えている記憶の中にいる彼女と、実際に生きていた彼女はもうすっかり別の人になっているんじゃないか?そう思った時に、エルヴァイスは怖くなった。
忘却するということの恐ろしさ、君を思い出せなくなる自分の存在する意味の無さをエルヴァイスは知った。
生きろと言ってくれた君のことすら思い出せなくなった先には何もないから。
そんな自分が生きていることより、死んでいる方がずっと正しいはずなのだ。
「ハルさん」
エルヴァイスの言葉にハルが立ち止まった。
「愛する人に生きろと言われて、生きてみたんだ。だけど、その先にあったのはやっぱり虚しさだけだった」
その時のハルの顔には相手を思いやる憂いの表情があった。
「愛する人のことを時間と共に少しずつ忘れていく。穏やかな日常の中で彼女が少しずつ俺の中で消えていく。それを繰り返して、最後には多分…彼女のことなんか最初からいなかったかのように記憶が無くなって、そして、老いて朽ちていく」
それを人は幸せと呼ぶのかもしれない。穏やかな終わりというあり方は人にショックを与えることもなければ、傷つけることはない。形を残したまますり減っていく、死と生の針の振れ幅が急に振り切ることなくゆっくりと傾いていく。そんな人生は幸せそのもののはずなのだ。
だけど、エルヴァイスは。
「俺は、そんな終わり方なんかしたくないんだ…彼女を忘れながら長生きして幸せに終わるより、いまここでこれ以上彼女のことを忘れずに終わりたいんだ。例えそれが不幸だったとしても…」
「彼女との約束があんたの望みを邪魔してるってことか…」
ハルが静かな声で告げると間合いを詰めるために再び歩き出した。異様に長い刀が不気味に揺れる。
「ああ、そうだ。だから俺は、やっぱり…ハルさんあんたの敵でよかったと思ってる」
エルヴァイスが巨大な炎を収束して安定させた高温の炎球を構えた。
「だってあんたが俺を終わらせてくれるんだろ?」
「ああ、お前は必ず俺が終わらせてやる。俺もあんたの敵で彼女との約束もろともお前の望みを叶えてやる、安心しろ」
「期待してるよ、ハルさん」
「ああ、だが最後にいいか?」
ハルが最後にもう一度立ち止まると彼に言った。
「それであんたは本当に後悔しないな?」
エルヴァイスは小さく笑った。
「後悔はもう一生分使い切っちまったよ」
「そうか…」
ハルがトップスピードで斬りかかると、エルヴァイスは翳していた炎を握りつぶした。
暗闇に莫大な光が溢れ、裂け目は輝きに包まれた。