古き血脈 紅に染まる街を最後の君と共に
宵闇が迫る。
街が夜に染まっていく。
どこからともなく、祭りばやしが聞こえてくる。
どうやら、いまから祭りがあるようだ。
視界の先には真っ赤なアーチの先に、屋台が立ち並び、いくつもの提灯がぼんやりと柔らかな明かりを灯していた。
街全体が紅潮したように赤みを帯びる。
街は着物を着た人々で溢れている。
夏のじっとりとした蒸し暑さは夜の闇と共にすっかり冷却され、過ごしやすい気温だった。
「フフフッ」
「アハハハ」
「ほら、早く行こう、行こう」
すぐ横を通りすぎた子供たちが、祭りの奥へと吸い込まれていく。
見渡せば誰もが幸せそうな顔をしていた。大人も子供も屋台の人もこの祭りにいる自分以外の全ての人間が楽しそうに笑っていた。
サムだけが、戸惑いと思い出深さに挟まれ、上手くこの状況に馴染めずにいた。
「おまたせ」
聞き覚えのある声でサムが後ろを振り向く。
するとそこには赤い着物に身を包んだシエル・ザムルハザードの姿があった。
雪を溶かし込んだような真っ白い髪と透明感のある肌は、どちらも触れたら熱で壊れてしまいそうなほどであり、サムは視線を逸らせずにいた。
彼女が微笑むとそれは、もう、たまらなく愛らしく、太陽のようなその笑顔は彼女の人としての温かさの表れでもあるといつも思っていたし、実際にそうだった。
「どう?似合ってるかな?」
彼女の着物姿はいつ見ても素晴らしく、それは一種の美の完成を見たような気がした。それはどう考えてもサムの贔屓的な感想ではあったが、誰に納得してもらおうと思うものでもないので、その時の彼女は世界で誰よりも美しい存在といえた。
「とてもよく似合ってる」
そっけない印象を与えるような言葉だったが、彼女の姿をまじまじと見ていたサムの思いは彼女にも筒抜けだった。
シエルが口元を上品に隠し笑う。
「えへへ、ありがとう」
ここに居るシエルが十三歳で、自分が十六歳の時の記憶であることは確定していた。
サムとシエルは、並んで歩きだし、街の中へと繰り出した。
「こうしてサムとお祭りにこれてよかった。こういう機会ってめったにないでしょ?だからさ、私、すっごい嬉しいんだ——」
隣で天使のように微笑む彼女。
「なら、今度俺がもっと外出できるように頼んでおくよ」
「本当!?やった、これで私も普通の女の子ように、おしゃれしたり、街で買い物ができるんだね」
「ああ、そうだね」
子供のようにはしゃぐ彼女に、サムが向ける顔は一貫して愛おしさで緩んだものだった。
「ねえ、サム、今日はたっくさん楽しもう?いつもは施設の中に閉じこもっているだけでつまらないから、今日は最高の思い出にしよう!」
彼女がこっちを向いて見せる笑顔に胸が苦しくなる。けれど少しもそんな素振りを見せずに冷静さを保つ。
「わかった。約束する。君を楽しませてみせるよ」
ぎこちないけれど笑顔を返して見せる。
「よし!じゃあ、出店を回ろう?ほら、あそこの屋台に美味しそうな食べ物が売っている!」
シエルがサムの手を取ると、駆け出した。慌ててサムも彼女の歩調に合わせる。
彼女に連れられ、混雑した人込みをかき分けていく。
祭りは始まったばかりだ。
***
「サム、あれ見て、的当屋じゃない?」
シエルが指を指した方向を見ると、そこには弓矢で景品を狙う的当て屋があった。
「行こう、私あれやりたい!」
返事も聞かずにシエルがサムの腕を引っ張って的当て屋まで一直線に向かった。
シエルが的当て屋で弓を構える。サムは彼女の姿を横で見ていた。なかなか弓を構える彼女は様になっていた。的当て屋の店主も「ほう」と小さく関心するように呟く。
矢の先は鏃ではなく狙う景品を傷つけないように、袋に綿を詰めたもので代用していた。
「サム、見てて、私、あの熊のぬいぐるみを狙うから」
もっと女の子が喜びそうな猫のぬいぐるみや、狙うのは難しいが綺麗な髪飾りや、装飾品があった。中には価値が高そうな短剣や宝石や指輪など高価なものまであり、大人から子供までがこの的当て屋にこぞって参加していた。だが、高価なものほどとても狙いずらい場所にあり、まず子供では無理な場所にあるなど、的当て屋も儲けることを念頭に置いているようだった。それは当然のことではある。ボランティアではないのだ。
シエルが弓矢を限界まで引き絞り放った。
しかし、矢はクマのぬいぐるみのやや上へと外れるとシエルは悔しそうな顔をした後すぐに残り二本の内の一本を手に取った。
的当て屋のルールは三本の矢で、離れた場所にある景品を狙うというものだった。三本使い切るまで動いた景品の位置はそのままであったが、三本目を外した時点で景品は元の場所に戻されてしまうというものだった。
『どう見てもあのおもちゃの弓矢じゃ、クマのぬいぐるみは取れないな』
シエルが一生懸命狙いっていたクマのぬいぐるみはどう考えてもおもちゃの弓と三本の矢で落とせる景品ではなかった。
そして、シエルの三本目の矢と違い、サムの予想は的中することになった。
シエルが三本目の矢を放ち、むくれている。彼女をなだめながらも視線は次の客が引く弓矢を一瞥する。シエルの次の客もクマのぬいぐるみを狙っており、一発目を見事に胴体に強くヒットしていたが、少し向きを変えるだけで景品がテーブルから落ちる気配は全くなかった。それは三回その会心の矢を放っても到底落ちそうにはなかった。
「絶対に欲しいよう、あのクマのぬいぐるみぃ」
悔しそうに彼女はクマのぬいぐるみをもの欲しそうに見つめていた。すっかり蚊帳の外になってしまったサムが前に出た。
「おじさん、俺にも一回頼む」
サムがお金を払うと、弓と三本の矢が渡された。本当にこんなものであのクマのぬいぐるみが取れるとはサムは微塵も思っていなかった。
サムは呼吸を整えると、弓と矢だけに意識を集中させて構えた。
「サム、頑張って…」
その彼女の健気な声援をしっかりと耳に残しておきたかったが、いまはもう間もなく見れるので、あろう彼女がクマのぬいぐるみを手にしたときに見せるはずの笑顔の方が優先だった。
サムが弓を放つ。さすがにおもちゃといえ、サムは武器の扱いについては悲しいほどここらにいる客たちよりも卓越していた。
サムが放った矢は迷うことなく一直線に景品と景品のごくわずかな隙間の先にあった一番距離の遠い宝石へと当たった。
「もう、サムどこ狙ってるの?」
シエルには見えていないようでがっかりしていたが、サムはもう一度息を整えると二本目の弓を取り構え、放った。
もう一度、同じように宝石に当たった。それはまさに針に糸を通すような洗練された絶技であった。
店主もサムの弓捌きに目を丸くしていた。
そして、三本目も軽々と最難関の的である宝石にヒットさせると、光る雫のような輝きを放ちながらテーブルの下に落ちていった。
「ああ、もう…」
シエルががっかりする横で、店主が立ち上がる。
そこで店主が手のひらサイズの鐘を大きく何度も鳴らした。カランカランと出店周りにいた客たちの目を引くほどであった。
「兄ちゃん、素晴らしい腕前だ!感服した。宝石は持って行ってくれ」
「え、どういうこと?」
シエルはまだ何が起こったか分からない様子で首を傾げていた。
「そのことなんだが…」
サムは店主といくつか言葉を交わすと、彼はなんとも驚いた顔をした後シエルを見て幸せそうなため息をついて、サムに言った。
「兄ちゃんそれで本当にいいんだな?」
「いいんだ、俺の望みは彼女の喜ぶ姿で、それにはあれが必要なんだ」
「俺はあんたみたいないい男を見たことがないね、彼女さんはさぞ鼻が高いだろうね」
称賛の言葉と共にサムはクマのぬいぐるみを受け取り彼女の元へと戻った。
ひとこと残して。
「彼女じゃないんだ」
***
「ありがとう、サム!!」
シエルが大事そうにクマのぬいぐるみを抱えながらお礼を言った。
「喜んでもらえて何よりだ。次はどこへ行こうか?」
「そうだね、次は、食べ歩きがしたいかな」
「じゃあ、屋台を回ろう」
賑やかな喧噪が飛び交う。二人は街に立ち並ぶ出店を一つ一つ見て回った。その中で彼女は甘いお菓子を中心に買いあさっては、食べきらないうちに次の屋台に飛びついていった。歯を悪くするといっても、お祭りなんだから好きなものを食べさせてと言った。
「いつも健康に気を使った、体にいい食事しか出されないんだから…」
それはシエルが次期剣聖としての候補者であり、その中でも彼女に関しては国家ぐるみで丁重に保護されているほど期待を寄せられていた。
アスラ帝国は、国の守護者である剣聖を絶やさないために国家ぐるみで育成施設や研究施設を構えていた。
効率的に剣聖あるいはそれに準ずる実力者を確保することが剣聖育成プロジェクトの目的だった。
この時のシエルはその中でもトップクラスの候補生としての地位をすでに手に入れていた。
それは彼女の天性魔法が極めて稀で強力な魔法だったからなのは間違いなかった。
〈氷の魔女〉〈氷結の戦乙女〉〈絶対零度〉彼女の呼び名はいくつもあった。どれも彼女の天性魔法の氷を象徴とした名ばかりであった。
だが、サムはそんな彼女のどの二つ名も気に食わなかった。太陽のように笑う彼女には到底似合わなかったからだ。
シエルがまだ施設のことについてブツブツと不満を垂れ流していた。
今回、この祭りに参加できたのも、一日外出を許可されたからであり、普段から彼女のような重要な候補生が、城の施設の外に出ることは特別な許可か任務が無い限り許されることはなかった。
「サム、わかる?美味しいものは体に悪いってこと」
「え、ああ、そうかもしれないね」
そんなシエルの隣に、サムがいられる理由は、単純に貴族として生まれ彼女の家とは旧知の間柄でありあるからであり、さしてそれ以外に特別な理由はなかった。
サムとシエルは三歳ほど年は離れてはいたが、お互いにそんなことを気にしたことは一度もなかった。それは彼女の活発で積極的な性格とまだ幼さを残していたことが、そうさせていたのかもしれない。
つまりサムとシエルは幼馴染であった。
サムとシエルが束の間の夜の祭りを楽しむが、残念なことに楽しい時間程すぎるのはあっというまであり、屋台を回って食事をしては、祭りの中央でやっていた演劇の舞台や、道端で演奏する音楽に耳を傾け、即興で似顔絵を描いてもらったり、帝国が有する文化の華を堪能したところで、サムとシエルは帝国の城【イラスヘルム】へと帰還することになった。
帰り道、彼女はとても満足そうであったが、楽しい時間が終わってしまったことを悲しんでいた。
サムがたくさんの祭りの品をシエルの分まで持ってあげていた。
「無理しなくても私が持つよ、自分の荷物なんだし」
「これくらい任せな、それにシエルは今日を楽しむことだけを考えてな」
的当て屋でサムが取ったクマぬいぐるみに、施設に戻って食べる分のお菓子に、祭りの途中で描いてもらったシエルの似顔絵、そのほか出店で見つけた装飾品の数々を袋に詰めてもらい、それらすべてをサムが持っていた。
「うん、だけど、今日はもう終わっちゃって楽しむことなんてできないかな…」
「………」
彼女の表情が曇るとサムは最後にまだ楽しみが残っていたことを思い出した。
「シエル、少し急ぐよ!」
「え、ええ!?ちょっとサムどこに行くの?」
サムが大荷物を抱えているとは思えないほど素早く王城へと続く階段を駆け上がっていくと、シエルも後に続いた。
サムとシエルが城に帰って来ると、荷物を衛兵に預けて、サムはシエルを連れて、城の敷地内の端には使われなくなった旧時計塔があり、そこに二人は入っていった。
長い螺旋階段を上り最上階への扉を開くと、すぐに小さな階段が現れその数段を登りきるとそこには、巨大な歯車がいくつもかみ合っては静止していた。錆びによって歯車たちがその時を止めていた。
その旧時計塔の最上階の駆動室は使われなくなっただけあり、長い間、人の出入りもなく、辺りには誇りが溜まっていた。
サムはその中の壁に面したひとつの扉を開けた。そこから長い間古い空気が溜まっていた部屋に新鮮な夜風が吹き込んだ。
「おいで」
サムが先に外に出て、シエルを誘うように手を伸ばす。彼女はなんの躊躇も無く手を取る。二人がその扉をくぐり、外に出るとそこは時計塔との針が回る盤がある場所だった。サムとシエルの二人は、その盤を背に目の前に赤々と輝く帝都の街並みを見渡していた。
「いい眺めね…」
「でしょ?」
サムが懐かしさに胸を焦がしながら、この赤々とした彼女といた時間を思い出していた。
「こんな高いところに上って何をするの?」
サムはただ静かに微笑んだ後、彼女に言った。
「もうすぐで始まるよ」
二人の間に心地よい静寂が訪れた時だった。
遠くで一筋の赤い光が上がった。
そして、夜空に真っ赤な閃光がきらめいた。その閃光は大輪の花を咲かせては夜の闇に吸い込まれていった。
一瞬の出来事だった。
「花火…」
その直後だった。
帝都を囲む四つの外壁の内の四番目と三番目の外周から等間隔で一気に先ほど同じ色とりどりの光が上がった。
そして、弾ける。
夜空に様々な色彩の花火が上がり、大輪を咲かせていた。
次から次へと打ち上るその花火に、シエルは目を奪われていた。
「すごい、綺麗……」
夜空を彩る光の花に見とれている彼女の横顔を見たサムは満足そうに微笑んだ。
こんな夜が永遠に続けばよかった。
毎日がこの祭りのような幸せな日々が続いて、誰も傷つかない、誰も争わない、誰も死なないそんな平和な日々が続いてくればよかった。そんな誰もが当たり前に過ごしているような争いの無い日常の中で、君が笑ってくれていればいったいどれだけ、自分は幸せでいられただろうかと考えると、戻らないこの日々がどれだけ価値のあった時間だったかを痛感させられた。
この夢に留まっていたい。何度だってこの日々を繰り返したい。例えこの後に悲劇が待っていようと、こうして切り取られた幸せな記憶を見ていられるなら、どんな犠牲だって払ってしまえそうだった。
だけど、知っていた。
『知っているんだ。ここは…』
できればこの事実を認めたくなかった。けれど、もし、こんな幸せな夢の中に一生とどまっていたら?永遠の幸せな夢を見ながら、辛い現実を忘れてしまったら?それは生きているといえるのか?
『ここは…』
だけど言葉に詰まる。
怖かった。
朝、目を覚ました時だけに残る喪失感。
何もかもが自分の思い通りにいかない辛いだけの現実。
戻れない日々を追憶しては後悔するいま。
『…………』
言葉を失ってしまう。
「ねえ、サム」
「なんだい?」
「私、今日がずっと続けばいいなって思った」
花火を見つめる彼女の瞳には力強さが秘められていた。そこには誰にも譲らないという強い意志があった。
「こうやってみんながお祭りを楽しみながら、笑って過ごせる国にしたいなって思った。私、そのためならどんなことだってしたいって思った…」
サムは何度見てもこの記憶のこの彼女の横顔を忘れることができなかった。
「それはシエルが剣聖になるってことだよね…」
「うん、剣聖になればこんな素敵な日々を守れるんだって思ったら、どんな辛いことでも乗り越えられそうな気がしてきたんだ」
彼女にとってここが思い出の場所になってくれたことがサムは自分の人生の中で何よりも嬉しいことだった。サムという人間が彼女の片隅にいてくれたことが何よりも嬉しいことだった。
そう、だから、サムにとってはもうそれだけでよかった。
「なあ、シエル」
「なに?」
「俺はやっぱりこの夢から覚めることにするよ」
記憶とは違う予定調和から外れる一言をサムは自分の意思で口に出していた。
『ここから先は君との別れだけだ…それに、俺にはもう、帰ってただいまって伝えなきゃいけない人たちがたくさん待っているんだ…』
サムはリオのことや部下たちのことを思い浮かべ、最後にいたずらっぽく笑う大切になった人がいた。
「未来の君は、俺がいなくても幸せな日々を送っているよ」
隣にいたシエルにそう言うと彼女は唖然としたまま、固まっていた。そんな彼女にサムは最後の別れを告げた。
「さよなら、シエル」
『愛しい過去の人よ…』
サムは夢から目覚めた。
生涯で一番辛い夢から…