古き血脈 霧立ち込める街に溢れる君の夢
隠密に長けたサムは、街の路地と死角と影を縫い合わせるように進み一足早く目的地にたどり着いていた。
第二部隊と敵との乱戦に巻き込まれる前に抜けれたことは幸運だった。サムの得意とする行為は暗殺であり、日の上っているうちに本領を発揮することは難しかった。
『最初に聞いていたけど、ピンクの霧とは本当だったんだな』
サムの眼前には薄いピンクの霧が立ち込めており、王都エアロの一区画をすっぽりと飲み込んでいた。ちょうど王城クライノートからは南に位置する場所であり、その霧の奥に結界のコアがあるという情報が事前に共有されていたのだが、どう見ても敵側の罠であり、ピンクの霧に入っても、こちら側のメリットは何一つありそうにもなかった。
「行くしかない」
サムはそれでも前に進むしかなかった。例え危険が待っていると分かっていても足を止めるわけにはいかなかった。
「リオや、みんなが待ってるんだからね…」
サムはひとりピンク色の霧が立ち込めるなんとも不気味さだけが残る街の中へと姿を消していった。
***
サムが霧の中を歩いて行くとその濃さは増していった。外の陽ざしを浴びているよりかは幾分か薄暗い霧の中は、居心地が良かった。しかし、それもすぐに終わりを告げる。
『この霧が毒だったとしてもなんらおかしくはないんだよな…』
そんなことを思いながら霧の中を進む。もしそうだとすれば自分がここのコアを狙いに来たのは正解なのだろうと思った。
「さて、鬼が出るか蛇が出るか…」
しかしそれはどちらでもなかった。サムが身構えながら進んでいると、街の街路樹の傍のベンチに一人の女性が座っていた。
「…………」
サムは警戒し、服の中の暗器に手を掛けたが、そのベンチに座っている女性の顔を見るやいなや、仕込み武器から手を離した。そのベンチの傍まで行くとサムは声を少し震わせその彼女に声を掛けた。
「どうしてあなたがここに?」
そのベンチに座っていたのは、アスラ帝国第一剣聖のシエル・ザムルハザード・ナキアだった。
「サム、やっときたわね、待ってたんだから」
彼女お雪のように真っ白い髪がなびき、サムに微笑みかける。そこにいたのは紛れもなくシエルそのものだった。
「どうして、シエル様がこんなところに…?」
「決まってるじゃない、今日はサム、あなたと二人っきりでデートに出かけるって約束だったでしょ?」
サムの頭の中でふとそんな気がしていた。今日はシエルと二人きりで休日のデートに行く約束があったということを思い出す。それが正しいと勝手に自分の頭が判断する。そのため、サムも彼女の調子に合わせてしまう。
「ああ、ごめん、待ち合わせに遅れてしまったかな?」
「ううん、全然大丈夫、私ね、あなたがこうして来てくれただけでも、とっても嬉しいの、本当に幸せ!」
込み上げてくる感情を上手く制御できずにサムは固まっていた。
憧れていた。救われた。恋していた。愛していた。
だけどすべては届かぬ光だった。
羨ましいと思ってしまった。闇に身を落としながら光に手が届いたあのレイドの狂犬であるルナのことが。
もしも自分も、あの日に戻ってやり直せるなら、きっと、ずっとシエルの傍に居られたのだろう。
「サム、ほら、街を見に行こう?」
差し出された彼女の手をサムは数秒見つめてからその手を取った。
「ああ、そうだね…」
彼女の暖かな笑みにサムもお返しのように優しい笑みを返す。薄暗い霧の中なんてことも忘れて二人は街へと繰り出す。
当たり前のように手を繋いで歩き出したサムは昔のことを思い出していた。そうそれはまだサムの手が綺麗で澄んだ瞳をして何色にも染まっていなかった頃の時であった。
世界には自分と彼女しか存在しない完成された過去があったことをサムはまだ覚えていた。
あの頃の記憶があったからこそ、サムはどんなことでも乗り越えることができた。
サムは、あのルナに同類だと言われたが、その通りだと自分でも思っていた。けれど、自分が選んだ道はルナとは別の道であったことを忘れてはいなかった。
どれだけ、美しい過去があったとしてもそれはサムにはもうただの過去でしかないこと。
過ぎ去ってしまった恋に思いを馳せることをやめてしまった自分は大人になれたのか?
『分からない…だけどひとつだけ分かることはあるさ…』
過去がくれる懐かしさは時として人を立ち止まらせる。過去は変化に寛容ではない。
もう、過ぎ去ったことや可能性の話が今の自分を苦しめる。
だが、それを乗り越えた者はきっと一歩、たった一歩だけでも前に進むことができるのだろう。それは今を生きる者の特権なのかもしれない。
『俺は変ってしまった。それが良かったのか悪かったのかなんて最後の瞬間まで分からない。だけど、そう、俺は変ったんだ』
サムは隣にいるシエルと共に街中を歩いて行く。
『君のことは諦めたこと、忘れてない…』
隣でシエルが楽しそうに笑っている。サムは哀愁を帯びた笑みだけを取り繕っていた。
『これがくだらない夢だってこと、俺は知ってる』
シエルと並んで歩いている時だった。彼女は親し気にサムに話しかけてくる。それは昔と変わらないことだった。
「ねえ、サム、これからどこに行く?今日はうんと楽しもう?久々のデートなんだしさ」
「………」
「どうしたの?」
「シエルは俺のこと覚えてるんだ」
「え?覚えてるよ、もちろん、だって、サムは私の恋人でしょ?忘れるわけないでしょ…どれだけで時間が経ってもあなたのこと覚えているよ」
その浮かべた笑顔は紛れもない本物だった。だからこそ、その笑顔はもう自分に向けられるべきではないことも分かっていた。
「そうか…それは嬉しいね……」
痛かった。君が笑うたびに、どんな拷問よりもこの時間が苦痛だった。
『この魔法はあまりにも美しく残酷だな…』
「シエル、もう俺と君が会うことはない」
「え?なに……」
サムは隣にいたシエルの首を刎ね飛ばした。
短い夢が終わる。
それと同時にサムは新しい今のパートナーに感謝した。
『良かった。ギゼラに会えて…そうじゃなければ俺は、きっとこの夢から永遠に抜け出せなかった』
新たな思いを胸にサムは前を向く。
するとそこで、目の前の霧の奥から人影が現れた。
「君、よく、私の魔法から抜け出せたね、大抵の人なら死ぬまで夢の中に閉じこもってるのに」
サムはその姿を捉えた。高身長で尖った耳を持ち、薄紫色の髪を肩よりも少し上でなびかせるショートの女性のエルフがそこにはいた。
ピンク色の煙をあたりに漂わせ、彼女がこの霧を発生させている術者であることを見抜くのは容易だった。
つまり敵だ。
「対象の記憶から得た情報で見せる幻覚か?」
「私の魔法を随分とつまらなく表現するんだね」
「良かったよ、俺の相手がこんな中途半端な魔法しか使ってこない奴で」
「そうかな、それはこれから戦ってみないと分からないでしょ?」
にやりと含みのある笑みを浮かべるエルフ。
「地獄はこれからだよ?」
「地獄になら何度も顔を出してる、俺は常連だ。問題ない」
「強がりはよしな、カッコ悪いよ?」
周りのピンク色の霧が彼女に集まっていくと、彼女はあっさりと姿を消した。
「地獄って千差万別なんだよ、知ってた?」
クスクスとサムの周りから笑い声が聞こえては、街の路地の奥へと吸い込まれるように消えていった。
そこでサムがあたりを見渡すとある異変に気付いてしまった。霧が晴れると同時に懐かしさに溢れる赤を基調とした街が広がっていた。
「逃げたというよりかは…ああ、そうか、不味いな…」
サムはひとり煢然とアスラ帝国の帝都の街中に立っていた。
「ここはまだ夢の中ということか……」
スフィア王国王都エアロ、その南に位置した煙に包まれた街の中に、懐かしさ溢れる夢と一緒に閉じ込められてしまった。
思い出が襲い掛かる。