古き血脈 対等な立場
エルヴァイスが廊下を駆ける。その後から、全速力で後を追ってくる白い鎧を着こんだエルフの姿があった。室内もあり頭の防具は身に着けておらず、彼はまさに純潔のエルフらしい金髪と碧眼で見るからにミルケーと同じ思想を持っていそうな過激派のような顔つきをしていた。彼女の部下なのだろう。それにしては、どことなく間抜けで行動に知性が欠けている気がした。
「貴様、待て!ミルケー様に、怒られるのはこの【スレーライ】様なんだぞ!」
「知るかよ、それより出口を教えろ!」
「誰が教えるか!!」
走るエルヴァイスの手には、白い光の輪と鎖でできた手錠で繋がっていた。以前は足にもその拘束がされていたが、いまはどちらの足も自由を手に入れていた。
「貴様、また逃げ出しおって、最近ミルケー様と親しくなっているからと安心していたが私がバカだった!」
「誰があんな化け物と親しくなるかよ!そして、お前は最初からバカだから安心しろ!」
「我が主人への無礼許さんぞ!!そして、彼女の忠実なしもべとなった私のことを侮辱するとも許さん!」
しつこく追いかけてくるスレーライを巻きながら場内のあちこちを走り回っていた。逃げている途中、エルヴァイスは長い廊下を走りながら、窓で外の様子を確認した。窓の外の空には歪に歪む空が広がっていた。
『ダメだな、外はどこもかしこも結界だらけ、逃げてもミルケーにすぐに見つかっちまうな…どこかに抜け穴はないか?』
そう言いながらエルヴァイスが走っていると、大きな広間であるエントランスに出た。真っ白な絵の具で塗り染めたような空間だった。五階まで続く螺旋階段。城の外に出る大きな黒い扉。エントランスのあちこちには入って来た者をもてなすように緑の観葉植物が置かれ、疲れを癒すように背もたれの無い四角座り心地の良い椅子がいくつも密集して並び、くつろげる場所が用意されていた。エントランスの奥には壁一面に広がる窓があり、そこからはよく手入れされた中庭が見えた。
この広間には追いかけっこをしている際、何度も来ていたが、中庭の向こうにある奥の古き良き時代の本館に比べたらやけに、異様に映っていた。見る人によればこの広間は斬新あるいは芸術的や最新鋭のなど評されるのだろう。残念ながらエルヴァイスには落ち着く場所にはならなかった。
エルヴァイスは、大きな中庭を見渡せる窓の前で、突然立ち止まった。
窓の外の中庭には、ミルケーの姿があった。彼女は庭の花壇に咲いた花を見つめていた。
「何やってんだ、あいつ…」
「ハァハァ、おい、やっと捕まえたぞ…」
疲れ切ったスレーライが手を伸ばしてきた。エルヴァイスはそんな彼を思いっきり蹴とばした。彼は観葉植物に頭から突っ込み、そのまま床に伸びてしまった。
エルヴァイスは、ただ、その窓の外にいる彼女の姿に目を奪われていた。頭にノイズのような不快な痛みが走る。そこでエルヴァイスは白昼夢のように、一瞬だけ前にもこんな出来事があったことを思い出す。
「どこかで…」
「やあ、ヴァイス、どうしたんだい?」
横を見ると、そこにはミルケーが紅茶とお菓子を乗せた盆を持って立っていた。
「お前、さっきまであそこに…」
エルヴァイスが窓の外を見るが、そこにはもうミルケーの姿はなかった。あっけに取られている間、彼女が傍にあった白い背もたれの無い椅子のひとつに腰を下ろした。
「一緒に紅茶でも飲もう。あなたのために淹れたんだ」
ミルケーが膝の上の盆に載った紅茶カップに紅茶を注いでいた。
「座ってよ、疲れたでしょ?」
「………」
エルヴァイスは言わるままに、彼女の隣にひとつ席を空けて座った。
抵抗してもすぐにまた拘束されることは分かっていた。すでに何回か逃げ回っているが、そのたびに最後はミルケーと出会って、エルヴァイスは逃走するのを止めて、おとなしくなるというのが最近の日課になっていた。
それに、せっかく自由になった足を縛られて困るのはエルヴァイスの方だった。
二人はしばらく無言で中庭に咲く花を見ながら、お茶と菓子を食べていた。エルヴァイスにとって彼女との沈黙が気まずいものにならなかった。それは相手を信頼しているからではない。相手のことなど心底どうでもよく、むしろ殺してやりたいと思っているからこそ、無関心でいられた。
「私は、ヴァイス、思うんだ。君と仲良くなるにはまず、いつまでもしたてに出てはいけないんじゃないかってね?夫婦の関係だってそうだろ?どっちの力も強くてもいけない。互いが互いを支え合い尊敬し合い、良いバランスをとっていかなきゃいけない。違うかい?」
エルヴァイスは彼女の発言を無視して、お菓子をかじりながら、さっきまでミルケーがいたと思われた中庭の花壇の近くを見つめていた。それ以外のことは無心の状態だった。
「私は君とは対等な立場になったと思ってる。こうして、力も手に入れた。そして、何より権力にまさる【神性】まで手に入れたんだ。今の私に足りないことは何一つない。それにこう見えても外見にも体にも自信はある。そして、ヴァイス、私は君を愛してる。これは素晴らしいことだ。君は神と一緒になれるという、この世に二度は無い幸運が訪れているんだ。さあ、それについてはどう思ってるのかな?」
お菓子を食べて喉が渇いたエルヴァイスは、紅茶のカップを取って中の液体を躊躇なく流し込んだ。
「聞いているのかい?」
「聞いてねえし、少し考え事をしてるから、黙ってろ」
「わかった、しばらく黙っていよう。私たちは対等ではなくてはならないからね。だから、あとで私のお喋りにも付き合ってもらうぞ?」
それ以降、彼女はエルヴァイスの横で静かに同じ中庭の方向を見つめて黙っていた。その間に、先ほど見た光景がいつ自分が見たものなのか、頭の中に残っている記憶と照らし合わせていた。そうやって記憶の中から思い出していれば、さっき懐かしい感覚を自分のものにできると思った。記憶とは常に劣化する。エルヴァイスという偉大な過去を持つものでさえ、歳をとり劣化していく記憶の忘却を止めることはできなかった。
『あの記憶はどこの一部と重なったものだったんだ…大切な思い出のひとつだったはずなんだがな……』
エルヴァイスは元妻との記憶を辿っていたが、どれも先ほどの女性が花壇で花を愛でる記憶と照合はできなかった。
諦めたエルヴァイスは、考えるのをやめて体を後ろに反らし楽な姿勢を取った。
「記憶巡りか…、思い出したい記憶でもあった?」
「お前、ここ最近、随分と馴れ馴れしく話すようになったじゃないか、エルヴァイス様はどうした?」
恥ずかしそうにミルケーは顔を背けていた。
「君とは対等じゃなければ相手にされないと気づいてね、口調も態度も変えてみたんだ。それにこっちの方がヴァイスも話しやすいだろ?」
彼女が再び体勢を戻しこちらを一瞥するが、エルヴァイスは少しも彼女の方を見向きもしなかった。
「お前はもっと根暗でもあったことも覚えていたが、変わったんだな…」
「信仰深かったと言って欲しかったな、過去に私は君を熱心に崇めていたんだ」
「信仰する対象を間違えたな」
エルヴァイスも純血主義を掲げた身であり、彼はその中でも象徴的存在でもあった。しかし、そんなことに一切意味を感じていなかったエルヴァイスにとって、相手がどう思おうが知ったことではなかった。いつだって最悪な状況に最善の手で抗っていた。その結果が純血主義を掲げることや、フルブラットの解体など、ありとあらゆる過去を生み出していった。つまるところエルヴァイスはどこまでいっても自分のことをただの人間であることを自覚していた。特別などではなく、行動を選んでいた。
「間違えてない。私が間違った選択をしたことは一度だってない」
それは呆れた答えだった。
「お前を殺そうとしたことも間違ってないのか?」
「ああ、間違っていない。実際に私はこうして君に殺されていない。私は何一つ間違わなかったから神にだってなれた」
「お前は神なんかじゃあねえよ」
吐き捨てるようにエルヴァイスが言うと、彼女はにっこりと微笑んだ。怒っているわけでも、受け止めたわけでもなかった。彼女は、当たり前の揺るがない事実で守られたその事象に、吐かれた暴言を可愛いものだと、勝手に許していた。つまりこちらの意見など初めから聞いていなかった。それは悔しいことにいかにも神っぽい精神性だった。彼女の方が正しい。そんな絶対的な真実が彼女を守っている気がした。それがエルヴァイスは気に食わなかった。
ミルケーがヴァイスの空になった紅茶のカップを受け取ると、盆を持って立ち上がった。
「今夜一緒に食事をしよう。私の手作り料理を振舞ってあげるよ」
「神様が料理するわけがないだろ」
「神だって花嫁修業はする。安心しろ、毒など混ぜない。ただ飛び切り美味しく作るから私の料理の虜にはなるだろうけどな」
自信満々の彼女は神などではなく、普通の女の子のように純粋無垢な笑顔を浮かべていた。
「まあ、楽しみに待っててくれ、それまではこの城で自由にしていればいい」
そういうとミルケーは、エルヴァイスの手錠を外した。
そして、彼女は盆を持って立ち上がり、キッチンがある通路へ歩き始めた。
「………」
エルヴァイスは手錠が外れたことで自らの力をすべて取り戻した。
彼女の背後は無防備で、殺すには絶好の機会だった。
エルヴァイスはすぐさま自らの手に天性魔法を纏いあらゆるものの内部に侵入しては破壊する最強の矛となった。
しかし、エルヴァイスがその矛を振るうことはなかった。それ以前に立ち上がることすらなく、座ったまま、中庭をただじっと見つめていた。
「人は変れるか…」
ミルケーがいなくなっても、エルヴァイスはずっとそのエントランスの椅子に座って、大きな窓の外を眺めていた。