表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
元剣聖ハル・シアード・レイの神獣討伐記  作者: 夜て
新世界と古き血脈編
479/781

古き血脈 呪瞳

 人気の無い森に、冬の夜天から零れた、白い結晶が降り注ぐ。けれどその冷たい雪がハルたちに降り注ぐことは無かった。ドーム状の水の膜の上に積もっては温度差で溶けてた。


 ハルは木の幹に寄りかかって座り、呼吸を整えていた。いまも脳裏の裏に焼き付く化け物たちの見るに耐えないおぞましい姿。肉を腐らせたような腐敗臭。二度と聞きたくない身の毛もよだつ奇声。

 だが、そこまで思い出して思うことがあった。


『目の奥が熱い…』


 人間に対してハルの心と身体は強い拒絶反応を示していた。瞳は人間を肉人形のように映し出し、鼻は人間の匂いを悪臭に変え、耳は彼らの声を不快に感じる音に変換した。

 人間の傍にいると息苦しくなり、しまいには心臓が焼けるように痛み、鼓動が早まった。耐えられない気持ち悪さが体に侵入して蝕んでは、すべてを吐き出したい気分になっていた。

 ハルにはそんな人間と分かり合えないようにするための、妨害処置が全身に施されたような感覚の中にあった。そんな人からの愛を一切寄せ付けない身体になり果てたハルが思うことはひとつだけだった。


『変わったのは俺だ…』


 ハルはその場に項垂れて、自分の身に起こっていることに対して落胆した。それはどうしようもないほど悲しい現実だった。そして、そんな今の自分と、過去の自分とを比較して絶望した。


『でも、どうして……急に……』


 ハルが頭を抱えていると、すぐ傍から声が掛った。


「気分、戻らないですか?」


 ハルの隣には、ぴったりと寄り添うように黒髪で赤い瞳を持った女の子がいた。同じ木の幹に寄りかかり、隣でじっとこちらを満面の笑みで見つめていた。その笑顔の下には企みが見え隠れしていたが、それでも、ハルにはいま彼女の存在が何よりも心強いことに変わりはなかった。

 なぜなら、彼女の姿は醜くもなければ悪臭を放つわけでもなく、言葉もすっと耳に意味として理解できる、ハルと同じ人間だったからだ。ハルの身体が彼女に対して、拒絶反応を示すことはなかった。


「だいぶ良くなった。ありがとう、ルナのおかげだ」


「いえ、そんな、お礼ならいまからたっぷりしてもらうので、全然構わないんですけど…」


 頬赤く染める彼女とは対照的にハルは事務的に淡々と質問した。


「どうして、俺があそこにいたこと分かったの?」


 ハルは、ルナの英雄の任務が終わった後の動きに関しては特に何も指示を出していなかった。そのため、彼女はもうとっくに砦の敷地内にある半壊した宿に戻ていると思っていた。


「民衆に演説して、物資を配り終わった後、私、ずっとハルを探してたんです」


「どうして?」


「どうしてって…それは褒めてもらいたかったってのもありましたが、ていうか、私はいつだってあなたの傍に居たいんです。それが理由で探し回っちゃダメなんですか?」


「時と場合による」


「ええ、いつも傍にいたいんですけど……」


 肩を落として、しょんぼりとルナが落ち込む。しかし、彼女が気を落とす必要はなかった。ハルは本当のことを言ったまでだった。


「俺とルナはもう立場が違うでしょ?」


「まあ、確かに私にとってハルは神様ですから…そりゃあ、あなたに命令されたら離れますけど…あ、でも…ううん……」


 小難しいことを考えているようだったが、ハルは彼女の勘違いをほどいてあげた。いまはそのような二人だけの間に結んだ関係性の話ではなかった。もっと、分かりやすく現実を考慮した二人との関係を考えると答えは明白だった。


「ごめん、そっちじゃないんだ。今日、影から見ていて分かったけど、ルナは立派だった。大勢の人を導き救うまさに英雄。先導者だった。だから、そう、俺とルナの立場はもう違う。ルナは英雄で、俺はもうただの浮浪者だ。分かるだろ?立場は全然違う」


 街の燦燦と輝く広場で人々に称賛されながらパンを与えるルナと、街の薄暗い路地で人からパンを受け取ったハル。この違いを覆すことはできない。


「ふふっ、何言ってるんですか!たとえ私が英雄だったとしても、ハルは私の神様です。そこが揺るがない限り、立場で会えなくなるなんてありえませんよ!」


 ルナから不安が消えるが、ハルはそうは思わなかった。そこにはハルが受け入れられなくなってしまった人間たちの問題があった。


「君がこれからもっと人々に愛されるようになれば、俺は離れていくだろうね…」


 もし、今日みたいな発作のようなものが再び起きてしまえば、ハルが普通の人間生活を送れるようになることは、間違いなく無かった。


「大丈夫です、私の心はいつもハルのことでいっぱいなので、それに私あなたのこと以外、他の人間のことなんてなんとも思ってないので、安心してください。ルナ・ホーテン・イグニカは、あなたの敬虔な妻ですから、私から離れることはありません。むしろ、私が怖いのはハルの方が離れて行かないかが心配です…」


 どさくさ紛れて、まだ結んでもいない誓いを成立させる彼女は楽しそうに笑っていた。


 だがそんな彼女の笑顔を横目に見たときハルは思った。その彼女の見解には誤りがあると。


「ルナはこれからレイドを代表する英雄的存在になる。君にはその土台がしっかりと備わっているし、これから、そうなって貰う予定だよね?」


「はい、私は、ハルのためなら英雄にだってなりますからね」


 彼女の無邪気な笑顔は消えない。その無邪気な笑顔を浮かべられる余裕が少し羨ましいと思いつつハルは告げた。


「ルナは、今日みたいに人々に愛され、日の光を浴びる場所で活動することになる。だけど、今後、俺は人目のつかない道を歩むことになる。これがどういうことか分かる?君ならきっと分かるんじゃないかな?」


 そこでようやく彼女の顔が曇り始めて来た。


「え、だって…いや、私…ハルの傍にいられるように、今日だって見たくもない群衆の顔を見ながら物資を配って、演説したんですよ…」


「うん、だからルナはこれからそうやってみんなの英雄になってもらうんだ。人々に感謝されて、尊敬されて、愛されて、この大陸中が君の話題で盛り上がる。大国たちが君を無視できない存在として扱うようになる。君の声が国中によく通るようになって欲しいからね。だから、そんな素敵な英雄様に俺のような身元も不明な男がついて行くわけにはいかないんだよ」


 いまはまだ混乱を極めたスフィア王国だから、ルナの傍に誰がいようと人々の関心は、彼女にしか向かなかった。絶対的な救いだけを求めている者たちに周りを見る余裕はなかった。それは王族や貴族たちもまた同じだった。国をどうするべきか?明日のわが身は無事なのか?みんながみんな考える余裕がなかった。

 しかし、その混乱も治まった後、ハルが彼女の傍にいられる余裕があるとも思えなかった。


「だったら、それこそ私の権限であなたを傍に着かせます。それくらい可能なはずです。私にはいくらでもそう言った権限がありま…」


 ハルはそこで彼女の言葉を遮った。


「ごめん、ルナ、少しいいかな?」


「はい…」


「さっき俺が、えっと、恥ずかしいんだけど、吐いてうずくまっていたか分かるかな?」


「いえ、ただ、体調が悪かっただけなのかと、でも、白魔法は掛けましたから…」


 そう白魔法は万能で、どんな傷も体の不調も治すから大丈夫なはずだった。しかし、いまだにハルの記憶と心には、先ほどの化け物たちに囲まれた最悪な光景が刻まれており、思い出すだけで吐きそうになるほど気分が悪くなっていた。


「俺はもしかしたら、もう二度と表を歩けないかもしれない…」


「どうしてですか!?」


 ハルは彼女に分かってもらえなくても正直に事実を話すことにした。バカげているかと思われるかもしれないが、ハルの言葉になら何でも耳を傾ける彼女なら信じてくれそうな気がした。


「人が怖いんだ」


「人が怖い?」


「人が化け物に見える」


「それって普通の人がってことですか?」


「そう、だから、さっき住民たちだったんだろうけど、俺には化け物に見えて、その化け物の見た目や匂いや声が、気持ち悪くて吐いてた…」


 みっともない姿を彼女に見られて恥ずかしかった。彼女には自分を崇めろなど強気な態度に出ていたため、優位性を保っておきたかった。

 ルナ・ホーテン・イグニカという大きな権力を利用して、野望を叶えるためには彼女が逆らわないように従順に手懐けておく必要があった。


「そんな、それって…」


 ルナが絶望した顔を露わにする。


 けれど、ハルは彼女に何度も危機を救われていることから、次第に彼女との立場や関係性にも歪みが生じていた。


「じゃあ、ハルは、私もそう見えているってことですか?」


「いや、ルナはちゃんとルナに見えてる。黒髪で赤い瞳の綺麗な人間の女性に見えてる。だから、大丈夫…」


 ハルは彼女の顔を一瞥して言った。ハルの感覚器官が彼女を拒絶することはなかった。


「綺麗って、言ってもらえて嬉しいです。ありがとうございます」


 彼女は化け物に見るかどうかよりも素直に褒められていることにひとまず先に礼を口にしていた。


「それよりも、その症状私の患っていたものと似てますね?」


「ルナも同じように人が化け物に…?」


「いえ、私の場合は色ですかね?ええ、それはもう、周りの景色が灰いろに染まってしまって、色がついていたのは………」


 そこでルナが不自然に言葉を切って、固まった。


「そうか、もしかして、そういうことなの……」


 彼女が何かをぶつぶつとつぶやき始めた。


「だとしたら、え、本当に…」


 ハルが考え込んでいるルナを見ていると突然彼女はハルの方に顔を向けた。


「ということは、ハルは私以外の人間が化け物に見えているってことですか?」


「いや、それは分からない。ただ、ルナは今のところ大丈夫なだけであって、もしかしたら、ライキルとかガルナ、エウスとかも大丈夫かもしれない…根拠はないけど、そうあって欲しくて」


「それはどうですかね…もしかすると、彼らも化け物に変わっているかもしれませんよ?」


「そうだとしたら、俺は……」


 ハルが物寂し気な顔いろを浮かべると、身を乗り出して来たルナが、ハルの頬を無理やり両手で包み込んで顔を近づけて来た。


「大丈夫です。あなたには私がいます。そうですよね?」


「………」


「あなたの瞳が映す世界中の人間が化け物になったとしても、私は変わりません。私があなたの一番の理解者でいてあげます。あなたにはこのルナがいつでもそばにいます。だから、何も心配いりませんよ」


 ルナが顔を近づけ、ハルの瞳と自分の瞳の視線を重ねて合わせた。ハルをルナだけしか見えないようにし自分だけに意識を集中させていた。追い詰められた人間から希望を奪いつつ、自分が希望であるかのように事実をすり替える。洗脳の基本だった。


『落とす、落とす、落とす、ここでハルを私に落とす。きっとこれは私と同じ類の呪いだ。弱っている彼を、落として私のものにする』


 ルナがそう強く意気込んで彼に洗脳を掛けようとした時だった。


「うん、でもね、ルナ…」


 そこでハルから零れた言葉は、彼を洗脳させることだけに集中していたルナにとっては不意打ちに反撃だった。

 ハルはルナの肩を両手で掴んで彼女の顔を人が話すのに適正な位置まで離してから言った。


「俺は、ライキルやエウス、ビナやガルナが、化け物になってもずっと一緒に居るつもりだから…」


「………」


 今度はルナが黙り込む番だった。


「その時は、お願いなんだけど、ルナには俺の目になって貰っていいかな?きっと化け物に変わってたとしたら、俺じゃ、誰が誰だか分からないかもしれないからさ」


 そうやって寂しく冗談めいて笑って見せたハルに、ルナは感情が死に絶えた表情しか見せることができなかった。


 そして、「はい」と小さく返事をしたルナはそれ以上、何も言う気はなくなっていた。ルナは木の幹に寄りかかると、そのまま、力なく手足をだらけさせ、項垂れて無気力に近くの地面を見つめた。


 ハルの彼らに対する深い愛情にルナは血の底まで深く嫉妬した。その愛が自分に向けられないとどこかで一瞬でも思ってしまった時、ルナは激しい衝動に襲わていた。

 拳を固く握りしめ、今すぐにでもハルに愛情を向けられた彼らをこの世から消してしまいたかったが、当然、そんなことができるはずもなかった。彼らを消し去ったところで彼の特別な愛情が自分に向けられる保証はどこにもなかった。


『分かってたけど、ずるい、あいつらばっかり…私はいつだって、頑張ってるのに何で彼らばっかり、いや、分かってるけど、だけど、私だって…私だって彼のために…』


 だがそうやって、ルナが悔しさに震えている時だった。


「ごめん、あと、それとさ、いろいろルナとは立場がとか言ってて、言いずらいんだけどさ…」


 ルナが横目でハルを見つめる。彼の言葉にルナが耳を貸さないわけが無かった。そして、ルナはそこで大きく目を見開いた。


「そろそろ、しない?」


 ハルは恐怖から逃れられたことで酷く安堵していた。吐くほど嫌な思いをして不安に駆られていたが、この場で唯一気を許せる女性と二人っきりでいると、生物として、それ以上に男としてハルは相手のことを求めていた。それも恐怖からの解放で余計に身体に熱を帯びていたハルは、ついに自らそう口走ってしまった。


 そこには恥じらいで頬を赤く染め、我慢できない苦しさで白い吐息を荒く吐くハルの姿があった。ハルの目がトロンとし、ルナだけを見つめては、他には何も見ていなかった。いまにも襲い掛かろうとしているのをぎりぎりの理性で保っている様子だった。


「我慢できなくて…」


 それはルナにとって、洗脳された姿よりもよっぽど魅力的で価値のあるものだった。神聖な神にも等しい彼があろうことか、自分に欲情しているのだから、これほど彼女が求めていたこともなかった。


「嫌だったら、いいんだけど…」


 彼の一言、一言がルナの死んでいた感情を激しく揺さぶり目覚めさせた。

 現実とは思えない光景を目の当たりにしつつも、この現実が覚めてしまわない内に、ルナはすぐさまハルに手を伸ばした。


 無表情のルナが、隣にいたハルを抱き寄せると、すぐさま欲望のままに彼の唇を貪った。そのまま、流れるようにルナは彼の身体に手を出しいった。心を許したハルにルナの手が止まることはなかった。

 二人は粉雪が降り注ぐ中、愛し合った。寒さなど気にならなかった。そこにはお互いを求めあう男女しかいなかった。


 夜が深まる。


 ***


 静寂と闇があたりに漂う深夜も過ぎた頃。

 ハルとルナは、お互いに自分たちの脱いだ服を着ていた。

 服を先に着替え終わったハルが元の木の幹に寄りかかり彼女に言った。


「ひとつ言っておかなきゃいけないことがあるんだけど」


「なんですか?」


 着換え途中の彼女が振り返る。彼女の白い素肌が男としてハルの視線は釘付けになってしまった。ただ、それでも頭を働かせ、彼女に伝えておかなければいけないことを言った。それはこれからのことだった。


「もし、そのルナが遠く立場的にも離れて、俺との縁を切りたくなったらその時は迷わず言って欲しい…」


 すると着換え途中だった下着のままのルナが心外だという表情と共に、座っていたハルの前に向かい合うように、またがって来て膝の上に腰を下ろした。


「何言ってるんですか?そんなことありえないですよ?いまもこうして愛し合ったじゃないですか…」


 不安げな瞳を覗かせる彼女がハルの首の後ろに腕を回してきては逃げ場を奪う。逃げる気もないハルはそんな彼女に冷静に言葉を返した。


「誤解しないで欲しい、これからルナは光の当たる表の世界を、俺は影の中の裏の世界を歩んでいくことになると思う。だから、その時、表の世界にいるルナが、俺の存在が煩わしくなった時、切り離してもいいってことを伝えておきたかったんだ…」


 ハルは光の表世界を経験していたからよくわかった。表の世界は、ありふれた平和な日常と人々の愛に溢れたどこまでも優しい世界だった。その一方、裏の世界がどういう場所か、ハルにもだんだんと分かってきていた。裏の世界に愛は無い。あるのはただ自分の利益のためだけに殺し合う世界だけ、自分の主義主張を相手に押し付け、逆らえば力で押し切る殺伐としていた。何よりも人を殺すということが日常と化していた。それは表の世界では異常であり異物であった。光と闇が交わることは無い。そこにはただ入れ替わりがあるだけであり、ルナがハルを遠くから見つめてくれていたように、今度はハルが彼女を見つめる側の立場になった。


 そう考えたとき、もし、ルナが表の世界でハルたちといるより良い環境を築き、幸せに暮らすことができるのだとしたら、ハルはその環境を守ってあげるつもりだった。いままで、ハルが彼女にしてもらっていたように、彼女が幸せになる未来を守ってあげる答えが、縁を切りたいときは切ってもいいという提案だった。

 光の中に闇が零れないように、ルナにも幸せになって貰いたかった。もう手放せないひとりになってしまっていた。


「そんな約束しなくていいです。それに私がそんな表の世界に馴染めると思ってるんですか?そう考えているんだったら、言わせてもらいますがハル、あなたは大きな間違いをしています」


 彼女がハルを説得するように、荒々しく語る唇からは白い吐息が吐かれていた。そんな彼女の吐息がハルの唇に当たるほど二人の顔の距離は近かった。

 彼女は続ける。


「私がこうして深い愛情を向けられるのはあなたにだけなんです。正直なことを言わせてもらうと他の人なんてなんとも思ってません。あなたが一言私に命令すれば私はあなた以外の誰でも手に掛けることができるんです…できてしまうんです…だから私があなた以外の人と親しそうにしているが見えたらきっとそれは全部演技です。ハル、あなたに気に入られようと仕方がなくその人と語り表情を作っているだけで、心はいつだってあなたにしか向いていません。分かりますか…私は、もう、とっくに壊れているんです。あなた以外に愛せないんです…だから、お願いです。どうか私を愛してください。あなたの愛だけが私の生きる希望なんです…」


 そこまで言い切ると答えを待たずに彼女の唇がハルの唇に重ねられた。


 ハルはどれだけ彼女に愛されているか知った。そして、ハルもまた彼女のことを愛し始めていた。ずっと傍に居たい。そう思える人がライキルという絶対的な存在以外にもいることを認識し始めた時だった。


 ハルの瞳がより一層暗く濁り、その瞳に映る光を遠ざけた。体内にドロドロと暗い感情を伴った泥のようなものが染み出す感覚が襲った。その結果、ハルの前でルナの姿が悪臭放つ異形の肉の化け物に変わった。


 そんな彼女と唇を重ねていたハルに凄まじい嫌悪感が生じる。


『うっ…』


 まるでヘドロを口に詰め込まれたような感触に、ハルはすぐに彼女との口づけを中断した。

 顔を離した二人が見つめ合った。だが、そこにはさっきと同じように普通の人間の姿をしたルナしかいなかった。彼女はうっとりとした表情で、キスの余韻に浸っていた。

 逆にハルは全身から嫌な汗を流しては、この出来事が彼女に悟られないように必死に表情を隠していた。


『最悪だ…』


 一瞬でも姿が変わってしまったということは、ルナも例外ではなかったことになってしまった。


『ルナもなのか…待て、そしたら…ライキルはどうなる…ガルナやビナは……』


 不安をよそにハルは目の前にいる彼女にも恐怖を覚えてしまった。


「ルナ、服を着て、そろそろ、帰るよ…」


 ハルがルナを抱きかかえて自分の膝から下ろすと、立ち上がった。


「はーい…分かりました…」


 彼女は残念そうな声をあげて、脱ぎ散らかした服を着こんでいた。


 ハルはその後すぐにルナと共に自分たちの宿に戻った。


 帰り際ハルは自分の身に起こった現象について考え続けていた。


『何が起こってるんだ…俺の身体に……』


 ハルは別に化け物が怖いわけではなかった。本来のハルなら全く怯える必要のない姿だったのだが、その人間たちが変わってしまった肉の化け物は、自分が思う感情どうこうを無視して直接、ハルの身体に嫌悪と恐怖を身体に注入していた。そのため、人がその化け物に見えてしまった時、ハルは本能的にその変わってしまった化け物に対して強制的に恐怖を抱き嫌悪するしか手段がなかった。

 身体がその生物を拒絶していた。


『何がきっかけで変わる…』


 目の前の人がいつ自分の恐怖の対象に変わるか、分からなかった。


『俺はこれからどうすればいい……』


 それはまるでハルが人を愛せないように誰かが仕込んだ呪いそのものであった。人を憎むように体のあらゆる器官が作り変えられてしまったかのように、ハルは変わってしまった。


 ハルはそこで自分の隣を一瞥した。するとルナと目があった。手を繋ぎ、隣を歩く彼女はずっとこちらを愛おしそうに見つめていた。


「雪、綺麗ですね!」


 パラパラとまばらに降る粉雪が、雲の隙間から差し込んだ月光に照らされていた。二人が歩く道の先はそんな粉雪に敷き詰められた白い絨毯で埋め尽くされていた。


「そうだね…」


 ハルはそういうと目を軽く擦って何度か意識的に瞬きをした。暗く歪んだ瞳は、月光を映すことは無かった。




 ハルはまだ気づいていなかった。自分の瞳が青い色を落とし、黒く濁ってしまったことに。


 その小さな彼の変化に気づいてたのは二人だけだった。ひとりはその変化を黙認し、もうひとりは、ついぞ言い出せなかった。


 人を拒む呪われた黒い瞳が、青を蝕み続ける。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ