古き血脈 暗き瞳
彼の帰りを待てなかった後悔が悪夢を呼んだのだろうか?
ライキルは、夢の中で人を殺していた。あたりは真っ白などこまでも果てが無い世界でまるで現実味がなかったが、自分の傍で転がっていた死体だけは妙に生々しい赤黒い血を流して倒れていた。
世界にはライキルとその死体だけ、うつ伏せで顔は見えなかった。けれどその後ろ姿だけでも、ライキルは誰が死んでいるか分かっていた。
ゆっくりと、その死体を仰向けにすると、そこには血だらけで倒れているライキルの夫のハルの姿があった。
彼はすでに死んでおり、ライキルの手は血に染まっていた。
そんな、夢を見た。最悪の悪夢を。
だから、目覚めは最悪だと思った。
けれど、それは違った。
***
瞼の裏が朝の光で温められる。我慢できなくなったライキルは渋い顔で目を覚ました。一体なぜこんなに、眩しいのか?何が起きているのか?誰かに説明して欲しかった。
「ングググガッア…ううん、眩しい……」
不機嫌な面でうなりながら不快な朝を迎えようとしていた。しかし、ライキルはすぐにそんな、だらしがない目覚め方をしなければ良かったとすぐに後悔した。
「おはよう、ライキル」
柔らかな聞きなれた声が耳に届く。
「へえ!?」
驚くのも無理はなかった。ライキルが枕にしていたのはハルの膝の上だった。見下ろしてくる彼の笑顔に完全にライキルは硬直してしまう。不細工な声を上げて目覚めたところを、愛しの彼にしっかりと見られていたのだ。それも至近距離で、これは死なずにはいられなかった。
ライキルはすぐにハルの膝から頭を上げると、彼に縋りつくように腕にしがみつくと懇願した。
「あ、あのさっきの私の鳴き声は忘れてください」
「フフッ、鳴き声って何?」
ライキルはめちゃくちゃに顔を赤らめながら、もう、ハルのことを直視できずにいた。
ハルが、腕にしがみつくライキルをそっと抱き寄せながら頭を撫でてくれた。
「俺はライキルのいろんな一面が見られて嬉しいよ」
「ですが、変なところは見られたくありませんよ」
「一緒に暮らしてるんだし、俺にくらい気を許して欲しいんだけど…まだ、そんなに俺とライキルの間には距離があった?距離の詰め方とか間違えたかな?」
ライキルは恥ずかしさで下を俯いてたが、そのハルの言葉が全身に染みわたっていき、心が彼で満たされていった。
「いえ、全然間違えてません…」
「友人からやり直そうか?」
ハルがからかっていたのだが、寝起きだったライキルはそれが冗談に聞こえなかった。昨日のこともあり、彼に不信感を抱かれてしまったのではないかと不安に思っていた。
「待ってください!それはとっても困ります!!私はハルの新妻になるんですから、結婚もしない内に友人に戻るのは嫌です!!というより、絶対に嫌ですからね?ね!?」
ライキルがここ一番に大きな声を出すと、ハルはいたずらに笑っていた。けれどすぐに抱きしめる力を強めると彼は言った。
「ごめん、こんなこと言ってあれだけど、俺の方がライキルと離れるのは嫌だって思ってる。意地悪してごめんなさい。ライキルの方こそ、俺の傍からいなくならないでよ?それされると、俺は多分生きてる意味が分からなくなるからさ…」
彼の言葉がライキルの心にぶっ刺さっては貫いていた。ライキルは自分の幸せが怖かった。どうして自分が求めている彼にここまで言ってもらえるのか?嬉しさで頭が彼のことでいっぱいで他のことなど考えられなくなっていた。彼の前だとありとあらゆる不幸が影を潜め、幸せや希望だけが溢れ、ライキルを照らし温めてくれた。もう、さっきまで見ていた悪夢のことすら忘れてしまう勢いだった。
ライキルはハルの自分を求めてくれている言葉を聞いて彼の腕の中で幸せそうに、にやけていた。
「ねえ、ライキル、聞いてくれてる?」
「はい、もちろん、聞いてますよ。ハルが私なしでは生きていけないってことですよね?」
「そういうこと、俺は君なしでは生きていけない」
ライキルはその繰り返された言葉を聞いてますます嬉しくなって、きっと、彼も少し顔を赤くしながら私のことを思ってくれているのだろうと、そう、顔を上げた。
「ですよね、ハルは私のことが大好きで………」
違和感があった。目覚めたときから、何かこの幸せ絶頂な空間の中に小さな違和感があった。しかしそれが何なのか、目覚めてからの恥ずかしさと、嬉しさで気がつくことができなかったが、ライキルがハルの顔をしっかりと見たとき、その違和感の正体に気づくことができた。
ハルの瞳が夜のように暗く輝きを失っていた。まるで光を映さないくらい真っ黒な瞳が、ライキルを見つめていた。そこには人間としての感情や、人を愛する愛情も何もないように感じられた。ただ、ひたすらに闇に染まったその彼の瞳は、何も映さず虚空を宿していた。
「ハル、目が…」
「今日から、忙しくなりそうなんだ。会えない時間が増えるかもしれないけど、夜には必ず戻るからさ、待っててくれるかな?」
ハルが恥ずかしそうに顔を赤らめて言うが、彼の目には光が無かった。
「えっと……」
「愛してる」
ハルがライキルの唇に自分の唇を軽く重ねた。別れ際の挨拶を済ませると、彼はすぐに近くにあった部屋の扉から外に出て行ってしまった。
一方的に告げられた、愛しているにライキルは返すことができずただ、呆然と彼が出て行ってしまった扉を見つめていた。
ライキルは幸せの残り香に包まれた、窓ひとつだけで、家具が一切ない簡素な部屋の中、朝の光を浴びながら、取り残されていた。
「なんで……」
彼の変わりようが怖かった。それは自分の手元から離れていく感覚があったからかもしれない。それまで、ハルは自分たちと同じ性質だったはずだった。どれだけハルが最強で逸脱していても、話すテンポ、浮かべる表情、共に目指す未来、笑うタイミング、何をするにしても同じ価値観が漂っていたのに、今出て行ったハルからはそういった同じ場所に立っていたという感覚や雰囲気が一切消え失せていた。
ライキルが部屋を駆け出し、勢いよく扉を開けハルの後を追おうとした。
「ハル!」
しかし、扉を開けた先には、ライキルの不安を煽る光景が浮かんでいた。
「あ…」
ハルが歩くその隣にはルナの姿があった。彼女は彼に終始楽しそうな笑顔で話しかけていた。二人は砦の方に一緒に歩いていた。
ライキルはその時、そっと扉を閉め部屋に戻った。
自分の居場所がなくなっていた。
ライキルはそのまま何も考えず独り部屋に戻った。そして、部屋の隅っこの光が当たらない場所に身をうずめて、ひとり啜り泣きながら眠りに着いた。