古の血脈 休戦
ハルを探しに王都エアロまで来ていたルナは、その街の変わりように目をさらにしていた。街中の至るところに、深い森で生えているような植物たちが無理やり人工物の建物たちを飲み込みながら占領していた。うっすらとピンク色の邪悪な靄も街全体に掛かっており、ルナが見たエルフたちが集う活気あふれた知的な印象を保った街並みは、その本来の姿を失い。汚されていた。
「これが、魔法で変えられた光る人間…」
ルナが街中を歩いていると、辺りには人間を模った光の柱があり、建物の中や道の真ん中に不規則にその光の柱たちは点在し、その光る人たちの誰もがこの場から逃げ出す格好をしていた。何から逃げるように必死だった。
そこで遠くの方から凄まじい破壊音が聞こえてくると、ルナはその音のした方角に顔を向けた。
するとずっと先の街の中央で、何やら巨大な蔓が天高く上がっては、下がり、上がっては下げを繰り返し、そのたびにルナのもとまで届く破壊音が遅れて聞こえて来た。街を破壊しているのか?それとも誰かと戦っているのか?
「あっちにハルがいるかもしれない…」
ルナはそこで全速力で駆け出した。自分の使えるいずれかの特殊魔法の中から身体を加速させるものを持ち出して、それを複数重ね掛けしながら走った。
本当は飛行魔法で飛びたかったが、人目を避けるため、地上の建物の脇をネズミのように駆け抜けた。空路はとても早く移動できるが、この死角の多い市街戦では、不利に働くことが多く、伏兵を避け余計な戦闘を減らす分には陸路の目立たない場所を行く方が、近道でもあった。
ルナが街の中心に向かって走っている間、徐々に、その不気味に繁殖している植物と怪しいピンク色の靄の存在感は濃くなっていき、激しい破壊音も増していった。
だが、そうして急いで走っている時のことだった。ルナは急に前に進めなくなってしまった。
『まずい、これは…』
体全身から一気に嫌な汗が流れると同時に、ルナはその場から一目散に走って来た道をすぐに引き返した。今度は全速力で、温存していた飛行魔法も駆使して、とにかくトップスピードで、街の中央から離れるように行動した。
感じ取っていたのは、圧倒的な殺意だった。街の中央から突如発生した分厚い殺意の波動はルナの精神に多大な負荷を掛けていた。下手に近づけば死んでいたかもしれないもはや何らかの魔法の域にさえ到達しているその殺意からできるだけ離れたかった。
しかし、それと同時にルナはその街の中心に誰がいるのかはっきりと理解することができた。
「ハルだ。この神威はハルしかありえない…」
早く会いに行きたいルナだったが、どう考えてもいま近寄ったら死ぬことは確実だった。いや、もちろん、愛する神様の殺意で最後を迎えられるなら、ルナとしてはこれ以上の幸せはないと思っていたが、現在は状況が変わり、ルナは死ぬわけにはいかなかった。なぜなら、もしかすれば、その自分が愛してやまない神様と一発やれるかもしれないという、とんでもないご褒美がこの先に待っている可能性があったからだ。なんせもうキスは済ませている。これだけでも、もう死んでも良かったが、人間とはどこまでも欲望を追求する生き物で、その先があるなら目指してしまう強欲さを常に持ち合わせていた。
そんな性欲を原動力に、ここ最近のルナは生きていたわけであるが、こっちの方がなんだかとても人間的で、健康な人の営み、そのものである。そんな気がしていた。
過去のルナは、殺戮の日々で屍の山を築き、その死を糧に、数多くの名誉と権力地位財産を築き上げ、その孤独な王座から見下ろす景色はとても退屈で体に毒だった。
しかし、今はどうだろうか?五年前、ハルに救われて心酔してから、ずっと、今のいままで彼を応援し続け、恋という感情も初めて彼を通して知ることができた。
彼には与えられてばかりだった。ハルを通して、ルナは少しずつではあったが、人間らしさを取り戻すきっかけとなっていたのは言うまでもなかった。彼に出会う前は、任務、命令、孤独、など、冷え切った私生活だったが、彼と出会ってからは、任務(国を守るつまり、ハルを守ることにつながる)、命令(ハルに関する情報収集)、ハルの追っかけ、ハルにちょっかいを出す貴族の女を脅すなど、趣味も彼を中心にたくさん増えていった。
それは、ルナを冷酷な殺人鬼から、ただの美人さんの女の子に戻してくる、それはもう神様のような存在だった。彼がいれば、ルナはどんな罪もその瞬間だけは忘れられた。それほど夢中になっていた。
だからこうして彼とお近づきになれたことが、幸せでたまらなかった。
そんな彼のためなら、ルナはどんな危険な場所にでもその身ひとつで飛び込むことができた。
こうしてひとりで危険な場所に来たのだって、ルナが、ハルたちが泊まる宿にハルがいなかったから飛び出して来たまでのことだった。
宿にはライキル、エウス、ビナ、ガルナ、サム、ギゼラ、ベッケ、レイチェル、全員が集合しており、そこにハルがいないことを知ったルナは彼が、敵を追いかけたことに何となく気がついていた。それは長年の感からも確実で、特にライキルを襲おうとした。翼のエルフだけは、許さないんだろうということは察しがついていた。
悔しいことに、ライキルという存在はルナの視点から見るととても邪魔な存在だったが、彼女なしでは、ハルという人間が成立しないことも分かっていた。ハルが彼女だけに見せる深い愛情からくる視線があることを知っていた。その時のハルは、彼女に恋に落ちており、周りが一切見えなくなっていた。
そんな彼女が羨ましいと思ったが、その視線が自分に向けられることがないということは分かっていた。それはライキルとハルが長い時間を積み重ねて、二人で創り上げた特別な絆ということをルナは知っていたからだった。
強力な神威が、死を感じさせない程度に和らぐのを感じ取ったルナは、こちらも神威を展開した。
「これなら行けそう。飛行魔法は体力的にも温存しておくとして、よし、行こう…」
ルナが再び、慎重に進もうとしたその時だった。
街のあちこちで大量の破壊音が鳴り響き、ルナの眼前の街がたちまち音を立ててひとりでに崩壊し始めた。
「なに!?」
街は空から飛来した何かによって押しつぶされていた。背の高い建物や、不気味に伸びていた蔓たちは、その空から降り注ぐ透き通った何らかのエネルギー体のようなものによって、地面の染みになり、そして、消滅していっていた。
それはルナの頭上にも降ってきており、とっさに天性魔法で対抗した。
ルナの天性魔法は聖樹でライキルと朱鳥がコンビを組んだ死闘から、とても扱いやすいものに成長しており、その原因は分からなかった。
ただ、ルナの個人の見解としては、死にそうになったから、自分の能力が覚醒したという死の淵理論という独自の考えがひとつあった。人間は命の危機に瀕した時、自分の想像以上の力を発揮できる。これは、生命の生存本能から来る生き物に標準装備されている機能であるなど、ルナは日ごろから死を直面してきて思っていたことであった。
たまに死に損ない敵兵士が、急激に強くなるのもそれが原因なのではと考えを巡らせることもあったが、そんな奴らは滅多におらず、たいていはそのまま覚醒もせずに死んでいくことが常であった。
と、そんな具合でルナは自分が成長したんだなと、勝手に解釈していた。
そして、そのルナの天性魔法は以前の、【人間を自分に引き寄せる】という最強ではあるが扱いにくいものに付け加えて【指定した座標に向かって引力を発生させることができる】便利な能力を獲得していた。おまけに人間以外のものもその場に引き寄せられることに成功しており、ルナはこの成長した能力を使うのが楽しくなっていた。
しかし、いまはそんな自分の能力にうぬぼれている場合ではなかった。
ルナが降り注ぐ透明な圧に対して、座標を天に設定し、反対に押し返そうと空から引っ張るように引力を発生させた。
「何これ、あ…」
そこでルナはすぐに悟ることになった。
『まずい…私の力じゃ、全然、防ぎきれない…』
ルナは天性魔法を解除すると、すぐさま飛行魔法のリングを三つ出し、そのリングから最高出力で、その場から緊急離脱した。
透明な圧によって、ルナのいた石畳の道路はまもなく消滅し巨大な穴を形成した。しかし、休む暇もなかった。その透明な力の塊は次々と夜の空から飛来していることに気づくと、ルナは即座に意識をその力の雨に集中させた。
『まずい、まずい、死ぬ、本当に死ぬ!死ぬ!!』
言葉も出ないほど必死にルナは、空から降り注ぐ力を避け続けた。街の中央はもう酷いことに、ルナのいた場所よりも、集中豪雨のように土砂降りの力の雨が降っており、あそこではとてもじゃないが生きていられる自信がなかった。
だが、できるだけ距離を稼ぐためにルナはその力の雨の中を縫うように進んだ。
死に物狂いで進んだ甲斐もあり、力の雨が止む頃に随分と、ルナは街の中心に近づいていた。周囲は区画一帯が瓦礫と塵、そして穴だらけの大地となっていた。たくさんいたであろう、光に変えられた人間たちも、その力の雨で粉々になり、辺りには血だまりがあったり、血なまぐさい匂いが漂っていた。
しかし、ルナにはすでに嗅ぎなれた匂いだったため、特に反応を示すようなことはなかった。それはルナにとってただの当たり前であった。
ルナは飛行魔法の三つのリングを使わずに歩くことにした。先ほどの雨を必死に避ける際に体力を使ってしまい、少しでも新たな敵との遭遇に備えて、特殊魔法のみだけで対応することにした。
そして、その時はやって来た。
遠くの空中に、ハルの姿を視認すると、ルナは嬉しさのあまりそこから全速力で走りだした。
「ハルだ。ハルがいた。えへへ、無事だった!おーい、ハルゥウウウ!!」
近くに敵がいるかもしれない警戒すら忘れて、ルナは空にいたハルめがけて駆け寄っていた。
しかし、そこで異変に気付く。
ルナの目に飛び込んできたのは、全身血だらけで今にも消え入りそうな瞳をしたハルの姿だった。
『なんで、ハルがあんな姿に…』
返り血だと思いたかったが、どうにもそうではないらしく、空にいた彼は力尽きたかのように落下を始めていた。
「ハル!!!」
ルナはそこで特殊魔法、飛行魔法、天性魔法の三つすべてを使って全速力で彼のもとに駆けつけた。特殊魔法の自分の体を加速させるものをすべて発動させ、飛行魔法のリングも三つ展開し最高出力で放出し、推進力を得た。そして、天性魔法の引力で落下するハルの体を捉えて、自分のもとに引き寄せた。
ルナが引き寄せられたハルの大きな体を地面すれすれでキャッチすると、そのまま地面に足をつけて急停止をして、無事にハルの救出に成功した。
「ハル…大丈夫ですか……」
腕の中で苦しそうにあえぐ彼は満身創痍で、虫の息だった。見たところ全身の至るところの骨が折れたり、関節が外れていた。それは全身を高速で動かしたことによる負荷に耐えられなかった結果による負傷に見えた。それに加え全身からの出血は彼をより一層悲惨に見せた。
「酷い怪我…」
ルナがすぐさま、白魔法を掛けるため彼の胸に手を翳した。そして、強い白い光がハルの体を包み込んだ。しかし、その魔法でハルの体が癒えることはなかった。
「あれ、なんで!?なんで、どうしよう、白魔法が効かない!!」
「お前…どこから現れた……」
その時、ルナの傍で声がした。ルナが顔を上がるとそこには、穴だらけの黒髪の女エルフが立ち上がっていた。
これには百戦錬磨のルナも息を呑んだ。人間なら即死していてもおかしくない大けがにも関わらず、その女性は生きていた。
「何者だ…ハルの仲間か?」
穴だらけの彼女が混乱するのも無理はなかった。
ルナのその一連の動作は、自分から見れば複数の過程を経てたどり着いた結果だったが、他の者たちから見ればルナのそれは、一瞬ともいえるほど短い時間の出来事だった。
「お前こそ、何者だ!化け物が、ハルをこんなにしたのもお前の仕業か…」
「化け物はそっちだろ!!」
穴だらけの体から、あふれ出る血や臓物を押さえながら、そのエルフはハルを睨みつけていた。そして、彼女は恨み深い声で続けた。
「そいつが、ここら一体を更地に変えたんだ。化け物はそいつだよ」
「ハルが…さっきの破壊を…」
「ああ、ここはさっきまで地獄だった。そいつのせいで、私もここまで深い傷を負った。くそ何百年ぶりだ…ここまで追い込まれたのは……」
彼女は不屈の精神力で立ち上がっていたが、片手で押してしまえば簡単に倒れそうなほど弱っていた。そして、徐々にだが、彼女の穴だらけの体がふさがっていくのをルナは発見した。
『再生してる…』
ルナは次にどのような行動を取るか判断をつけられずにいた。目の前の化け物を狩るか、ハルを連れて砦に帰還するか。しかし、そのように二択を迫られた時、ルナの優先順位ははっきりとしていた。
『ここはハルを連れて逃げよう。あの傷で再生するってことは相当な化け物だし、そもそも、ハルが、負けたってことは私なんかじゃ…敵いっこない…でも、どうしてハルはこんなに弱ってるの…分からない……』
ルナがハルを抱えたまま後ずさりしようとした時だった。
「ルナ、そいつを殺せ…」
ルナの腕の中にいたハルが弱弱しい声で、目の前の再生している化け物を指さした。
「ハル…」
「俺のことは…いい…そいつを…殺せ……弱ってる…から…」
残り僅かの灯火でハルはルナに伝える。
「これは命令…だ……」
ハルの言葉を聞いたルナは、彼をゆっくりと地面に下ろすと、腰の双剣を抜き取り構え、穴だらけのエルフの化け物に向かって歩いて行った。
黒と赤い双剣の刃が月光の光に照らされ、蠱惑的に輝く。
ルナはそのまま加速し、化け物の首を刎ねようとした時だった。
「やめろおおおおおおおおおおお!!!」
ルナが剣を振りかざすのと同時に、空からひとりのエルフが落ちて来た。ルナが構わず化け物の首を狙うと、その化け物をかばうように空から落ちて来た男が地面から生えて来た植物と彼自身の胴体で、ルナの斬撃を代わりに受けきっていた。
その空から降って来た緑色の髪のエルフは、植物の盾も虚しく、胴体にはバツ印の深い斬撃が刻まれ、大量の血を流していた。
「邪魔をすんなああああ!!!」
殺害を阻止されたルナが、獣ように咆哮した。
「ピクシア!!」
緑髪のエルフが叫ぶと、そこでピンクの煙がルナの視界をふさぐようにまとわりついてきた。
何も見えなくなったルナはとにかく、目の前の化け物がいた位置にもう一度斬撃を放った。
しかし、手ごたえはなかった。
「クソ!!目障りだ!!」
ルナが、天性魔法で自分以外のものを下に叩きつけると、そのまとわりついていた煙も引っ張られ、消えてしまった。
そして、ルナの視界が晴れると、そこには、先ほどの穴ぼこエルフを大事そうに抱えた緑髪のエルフと、弱ったハルを人質にとっている薄い紫色の髪のエルフがいた。
「動かないで、こいつの命がどうなってもいいの?」
紫髪のエルフがハルの首を掴んでいるところを目撃してしまった。ルナは完全にその女エルフに対して、憎悪と怒りの感情を抱いていた。しかもそれはルナにとって、並大抵の怒りではなかった。
彼女を一生拷問にかけ、そのハルを無造作に扱ったことを死んでも後悔させる勢いの、怒髪衝天を迎えていた。
「お前だけは必ず私が殺すからな…」
内心は激しい怒りに包まれていたが、ルナはそれを表には出さず、ただ冷たい言葉として吐き出した。ここで冷静さを失っては、本当にハルが殺されてしまう可能性があったからだ。
「君、ここはどうかな、休戦とでもいかないか?」
ルナの背後で、緑髪のエルフがそう提案してきた。どうやら、彼もルナに負わされた傷が致命傷だったらしく、呼吸を荒くしていた。これなら、たぶん、あの二人とも同時に殺すことは容易かった。後ろの二人に関しては、ルナの殺しの間合いだった。
しかし、それはハルを犠牲にした場合の話だった。紫髪のエルフがハルの首を掴んでいるうちは、殺すことは不可能だった。
「休戦だと?」
ルナは内心その提案を今すぐにでも受け入れたかったが、ここは交渉の場に変わったのだとすぐに心を静めた。
「ああ、正直、君の強さは何となくだけどわかった。たぶん、いまここで深手を負ってしまった僕じゃ、ミルケー様をお守りできない。そっちのハルさんのことも君に返すよ、だから、ここは休戦として欲しい」
「ブロッサー、そんなこんなチャンスないんだよ!!この人間が私たちにとってどれだけ脅威か分かってるでしょ!」
紫色の女が甲高い声を上げて叫ぶ。彼女はどうやら冷静ではないようだった。
「それでも、ここでミルケー様が殺されたら、僕も君もきっと、彼女に殺されるぞ」
ブロッサーと呼ばれた男が、そう叫ぶ。それは正しかった。もしもここでハルが殺されたりでもすれば、ルナはひとまず近くにいるこいつらを皆殺しにした後、この大陸にいる全員を殺しきるまで、殺意の衝動のままに暴れるつもりだった。なぜなら、ルナにとって彼は世界そのものなのだから、ハルを守れなかった世界はルナにとって殺しの対象だった。そこには老若男女関わらずすべて、ルナの敵だった。
「彼の言っていることは正しい、もし、ハルを殺せばまず、そこの死にかけのエルフを殺してから、次にその緑髪のお前だ。そして、最後にお前は死ぬことよりも恐ろしい未来を見せてやるよ」
そこでルナの分厚い神威が一気に花開くと、そこで、ブロッサーとピクシアの二人は息も忘れて、ルナの圧から目が離せずにいた。
気を抜けば死ぬという警告。自分たちが、何を相手にしているか?それは理性のある獣と一緒の檻に入れられているのと同義だった。そして、その獣の理性がいつ失われるか?何がきっかけで野生に戻るか?それは二人には分かっていた。
ルナの神威に触れたことで、どれだけ彼女が内心で憤怒に駆られているか、認識できるほどルナの神威には感情が乗った勢いがあった。
「な、なによ、あんたが動けばこの男は死ぬのよ?」
「いいぜ、試すか?お前がハルの首を折るのが早いか、それとも私がお前の首を刎ねる方が早いか?」
ルナが双剣を構える。それは最後の選択肢だった。本当はそんな危険な賭けには乗りたくなかった。これはあくまで、紫紙のピクシアと呼ばれていた女より、後ろのブロッサーという男が引き留めさせることが目的の誘いでしかなかった。そのため、ルナも目の前の女が本当にハルの首を折らないか内心かなり心配だった。
「二人ともそれ以上はやめてくれ!ここで争うと双方大事なものを失いすぎる。あなた、名前は何というんですか?」
「ルナ」
「ルナさん、ハルさんはここではお返しします。ですので、約束してください。あなたが引き返した後、今夜は僕たちを絶対に狙わないことを」
ルナが一度ハルから目を逸らし、背後のブロッサーを一瞥した。彼の瞳は力強く、断固とした決意のようなものがあった。それほど、ミルケーという女のことが大事なようだった。
「それはお前たちも同じだぞ?今夜、私たちを背後から刺すようなことがあれば、必ずここに戻ってくるからな」
「はい、それは私たちも神のこのミルケー様に誓ってお約束します」
ルナは、ブロッサーという男の言葉を信じることにした。彼の言葉は信じるに値した。きっと彼も、そのミルケーという女に深い愛情のようなものを抱いているのだろう。そういった点では、ルナと同じだった。
それから、ルナのもとにハルが返って来た。ピクシアが恐る恐るハルを離すとすぐさま奪い取るようにルナは彼女からハルを取り戻した。
「最後に、なぜ、ハルの傷は白魔法で癒せない?」
「それを私たちが教える必要があるわけ?」
ピクシアがそう憎たらしく言うと、ブロッサーが割って入って言った。
「この結界の外にでれば、彼にも白魔法が効くと思います。だから、急いでください。彼はもう限界を超えています」
「ありがとう、ブロッサー。あなたのことは私の意志では殺さないでいてあげる。感謝しなさい」
それだけ言い残すと、ルナとハルの姿が、ブロッサーとピクシアの前から一瞬で消えた。
ブロッサーはその時、心の底から、自分の判断が間違っていなかったことに安心していた。
「よかった、いま、戦ってたら、ここで僕らの、いいや、ミルケー様の未来は潰されていた…」
「あの、女ほんとむかつく…」
苦虫を嚙み潰したような顔でピクシアが吐き捨てる。
「ピクシア、それより、白魔法を頼むよ、ミルケー様のこんな姿見ていられないよ…」
「あぁ、うん、わかった」
ピクシアが痛ましい姿のミルケーにそっと触れて、白い輝きを放った。ミルケーの傷がみるみるうちにふさがっていき、もとの綺麗な女神の彼女が戻ってきた。しかし、その深刻なダメージからか、彼女は目を覚まさなかった。
「キリヤのことも心配だ。ここは一旦、みんなで城に帰ろう。結界も全部後でいい、この最後の結界が残ってくれてさえいれば、ハルの襲撃も当分はないだろうし、ハルじゃなければ態勢を立て直せば対処できる」
ブロッサーが彼女を背負う。
そこでピクシアが言った。
「私は、キリヤの様子を見てくるから、ミルケー様を頼んでいい?」
「任せて」
ブロッサーとピクシアは、互いにその場を後にした。
街の中央にあたる区画は、破壊されたまっさらになった大地だけが広がっていた。そこに人々の生活の営みがあったはずであった。だが、そんな場所はもうどこにも残っていなかった。
ハルが振るった暴力によって、多くの命が無駄に消費された。
そんな血塗られた大地の上をハルはルナに抱きかかえられ飛び去っていった。
朦朧とする意識の中、ハルは傍にいたルナにすがるしか、壊れそうな心を支える術がなかった。
「大丈夫ですよ、ハル、私が絶対助けますからね!」
人の死の前で覚悟など何の意味などなかった。
ハルには一生ぬぐい切れない罪悪感と後悔だけが残っていた。
「みんなのもとに帰れますからね!」
彼女の優しい声に触れたハルは、このまま死んでしまいたかった。
弱く惨めな自分をここで殺してやりたかった。
「ハル、もう少しですからね!頑張ってください!」
薄れゆく意識の中、彼女のふんわりと優しく力強い声がハルを包み込む。
ハルは彼女の腕の中で、ぐちゃぐちゃの感情を引きずって、ずっと泣いていた。
その間、ルナは懸命にハルを抱きかかえて結界の外を目指していた。
夜明けはまだ先で、遠くにあった。
夜空に浮かぶ月から降り注ぐ月光が、ハルにはやけに眩しく輝いて見えていた。