古き血脈 溢れる憤怒
ハルの視界いっぱいに不快な同一人物で満ちていた。だから、視界が埋まった今目を閉じていた。
その同じ男たちは、キリヤというエルフが他人の命を消費して増やした借り物の体たちであった。ハルはそれを重々承知していた。そのため、むげに彼らを虐殺することもできなかった。狙うは本体ただひとりで、もしかすればこの術者本人を殺せば、いまハルを襲っている複製体たちに命を貸している人たちは助かるのかもしれない。自分の良心がそう考え、攻撃の手が止まっていた。
今のハルは、天性魔法の光でただ壁を作って外界から責め立てるその複製体たちの攻撃を防いでいた。
『これからどうするか…このまま、ここにいても俺の体力が長く持たない…』
いま立っている結界内は、あらゆる面でハルに対して不利な条件が付与されていた。まず、体に制限がかけられ思うように体が動いてくれなかった。その弱体化は致命的で、ハルが相手のスピードについていけないのは、初めての体験だった。
さらに、ここで気を抜けば思考が定まらなくなり、すぐにここから抜け出すことしか考えられなくなる危険があった。これは戦闘中も集中が途切れることを意味し、何とか、ライキルという自分の中の強い意志を思い出すことで、意識を覚醒させ続けていた。
そこでどれだけ、ハルがライキルのことを愛しているかというと、こういった精神的な攻撃に対して効果を発揮してしまうくらいには、ハルはライキルに対して強い洗脳じみた狂愛を抱いていた。そのため、ライキルのことに関する話題はハルにとってはとても繊細で敏感なものであった。
彼女のためなら、ハルは世界を終わらせることだってするのだろう。
『一番いい案は、このまま、壁を張ったまま逃げ出してみんなと合流することだけど…』
ハルはそこでこれからこんな手練れたちと、砦にいるみんなを一戦交えさせると思うとそれはあまりにも荷が重すぎると考えていた。
どう考えても、ライキル、エウス、ギゼラでは彼らと戦って十分も持たないだろう。ビナとガルナでも勝算は壊滅的なのだ。そこに、ルナ、サム、アルバーノ、ベッケ、レイチェルたちではどうか?ここはそこそこいい戦いをすると思われるが、必ず誰かは戦死してしまうだろう。そんな身内が死ぬ可能性があるならば、ハルはひとりでこの敵の主力たちが集まっているここで叩いておきたかった。ひとりでも削っておけば、それだけもし今後戦闘があるとすれば、全員の生存率が一律に上がる。それだけで、ここでハルが頑張る理由があった。
『せめてあの三人の内ひとりだけでも、持っていければ戦況はこちら側に有利に傾く』
ハルはそこで誰から先に狙うか考えた。
『ミルケーを倒せればいいが、あれはダメだ。彼女はいまの俺と互角で決着がつかなそうだ…できないことはないけど、被害は計り知れない…そうなると、残る二人だ。ミルケーをいなしながら、彼女の傍にいたどちらかの首をとる。煙の女性の方は捉えるのが厄介そうだな、となると消去法で、緑の彼からか?植物を操るみたいだが、力で押し切れそうだ』
ハルが目標を定めると目を開けた。そこには相変わらず、不快な男たちがいまもハルを殺そうと槍を振るったり、悪態をついていた。
「おい、ここから出てこい卑怯者!」
ハルは会話する気が無かった。そこでハルがこの複製体たちを押しのけて飛び上がろうとした時だった。
「ライキルのことについて、少し話さないか?」
ハルはそれが彼の得意な挑発だということを認め、無視することを決めたが、体はその挑発を聞き入れえる準備を整えていた。複製体は続ける。
「ライキルちゃん、いい女だよな、あれじゃあ、男たちが黙ってなかっただろ?」
ハルは戯言を流そうとしたが、彼の言っていることは当たっていた。ハルは王都にいたころ、彼女に悪い虫がつかないか内心では心配しているところもあった。道場にいたころのように狭い共同体ではなく、国という大きな解放された器の中に飛び込んで、悪い男に引っかかってしまったらどうしようかと、兄面というより、親面とにかくそういった庇護欲のようなものは少なからずあった。いまの自分はその欲が異常なまでに肥大化してしまっている部分があることは認めていた。しかし、だからなんなのだとハルは叫びたくなった。
「ハル、聞け、分かるんだよ。お前がライキルのことを愛してる気持ちが、毎日、毎日あの子のこと可愛がってやってるんだろ?夜、一緒のベットでよろしくやってるんだろ?」
吐き気がするような彼の言葉に、ハルは眉間に小さなしわが寄った。翼の生えている彼の見た目は天使のようだったが、どこからどう見ても彼は悪魔だった。
「彼女の体を貪って、毎日満足しているんだろ?お前たちはそうやって毎日互いの愛を育んでいる。そうだろ?何気ない日常の終わりに刺激が欲しくて、愛し合っている」
ハルはそこで根負けして口をきいてしまった。
「この壁はお前には壊せない、だから下がってくれないか?目障りなんだ」
「俺は思ったんだが…お前は本当に彼女を愛しているのか?」
「…なんだと?」
「分からねんだ。あのライキルちゃんがいながら、お前にはルナって女がいた。彼女もお前の女なんだろ?」
ライキルを親しげに呼ぶ彼に虫唾が走ったが、その怒りは飲み込むことにしてやった。
「彼女は…いいや、そもそもお前には関係ないことだ」
ハルが一歩前に踏み出すと、周りにいた彼らもついて来た。それはなんとも不快な光景だった。
「ライキルって女、本当はお前なんかのこと好きじゃないんじゃないか?お前にはどうにも複数人の女の匂いを感じる。誠実性に欠ける。嘘つきの匂いだ」
「そうだな、お前の大正解だよ、もう行くからこの複製体たちをどけてくれ…なるべく殺したくないんだよ…」
「ああ、それとそこだ。お前、人を殺しすぎだぞ?いつもこんななのか?まあ、確かに英雄だな」
「…………」
そこでハルの呼吸が一瞬止まった。意外な反応があったことで複製体のキリヤは下卑た笑みを浮かべた。
「お前、本当にライキルちゃんの隣にいる権利があるのか?英雄なんてちやほやされていたらしいが、その正体は女たらしの虐殺魔で、他人の命をなんとも思ってない屑野郎、そうだろ?違うか?」
ハルは何も言い返せなかった。いや、言い返せる言葉はたくさんあったそもそも人の命を弄んでいるのは、そっちの方だなど。だが、自分がライキル以外の女性とも関係があるのは否定できなかった。
権力者の特権、一夫多妻制などもハルはもう一度存在が消えたため特名の称号もろくに使えずその特権も消滅。たくさん保有していた財産も当然消失したのは言うまでもない。ハルのもとに残ったものは傍にいてくれた、愛する人たちだけだった。
「俺が伝えてやってもいんだぜ?ライキルちゃんに忍び寄って彼女の耳元で、お前が人殺しだってことや、お前がライキルちゃん以外にもいろんな女性といけない関係を結んでいるってことも、全部、全部、話してやってもいいんだぜ?」
「ライキルはお前の言葉なんて信じない」
「ああ、そうだろうな!だが、彼女には猜疑心を植え込むことはできる。その種はいずれお前の不信感へと成長するだろう。そうすれば、お前もライキルちゃんとはおさらば、そん時は俺が彼女をもらってやるよ。安心しな、俺は結構女の扱いには慣れているんだ。長生きしてきたからそこらへんはよくわきまえてる。本当はこんなに子どのようにからかったらするような人間じゃないんだ。あ、いまは天使だけどな」
「そうか…」
ハルの決意はもう固まっていた。どんなことがあろうと、ライキルだけは幸せにする。そこに自分が伴わなくとも。
「真実は揺るがない。お前がしてきたことは全てこの世に残り続ける。そして、言葉は魔法だ。お前がしてきたことをこの世に表現できる。どういう意味か分かるか?お前がしたことは、ライキルちゃんを裏切ってる。それはお前と彼女の間に深い亀裂を生む。もしかしたら、もう、その亀裂は見えないだけで、すでに二人の関係に深く刻まれているのかもしれない。いずれ、それは形となる。どうする?ハル、お前の愛しいライキルちゃんが俺やもしくは他の男に横取りされる。そんな未来を考えたことはなかったのか?」
彼の言っていることが、ハルには上手く想像できなかった。
「お前が好き勝手やって来た分、彼女にもその権利があるということだ。いつまでも愛する人たちがお前を愛してくれると思うな、この思い上がり野郎め」
ハルの中で、小さいころの記憶が蘇る。そこには孤独を抱えていたライキルがいて、その孤独をどうにか埋めてあげられないか、考えている自分がいたことを思い出す。ハルも目覚めたときからひとりぼっちだったから、彼女の痛みが何となく子供ながらに分かったような気はしていた。
そして、長い時間をかけて彼女とはわかりあってきた。時には衝突したり拒絶されるときもあった。けれど、最終的にハルは結局彼女のことを見捨てられなかった。多分、もうその時には好きだったのだろう。だけど、その子供の頃の記憶にどうしてか整合性が取れない空白が存在しているようなそんな気がして止まなかった。
『俺は子供の頃からライキルが好きだった?』
なぜか今そんな疑問が思い浮かんだ。そのときにはもう、ハルの心に怒りはなかった。ただひとつあったのは、その空白の部分が一体何なのか?どうしても思い出せない何かが存在している気がした。それはライキルに対しての強い思いがあったからこそ、気づけた矛盾のようなものだった。
『なんだこの妙な感覚…』
ハルの思考が完全に停止していた。
彼はハルに罵声を浴びせ続けることを止めなかった。
「お前のような化け物がライキルを救えるか?」
何か嫌な予感がした。ハルの心の奥底に何か嫌な記憶が、こびりついているような、それは思い出してはいけない。記憶であるような。しかし、ハルにはそれが何なのか思い出すことができず、ただ、ひとつあるのは、凄まじい怒りの感情だった。
これは、目の前のキリヤが吐く罵声からくるものではなかった。
もっと別の自分が抱いている、心の奥深くで眠る根源的なものであるような気がした。そして、だんだんとその気持ちが心の奥底から溢れて滲みだしてくると、ハルの表情は暗く冷酷に切り替わっていった。
何に対する怒りなのか分からないのにもかからず、ハルの体は怒りで震えていた。
『許せない…』
その怒りは自然と近くにいた自らを天使と名乗る、目の前のキリヤの複製体たちに向けてそれはもう八つ当たりのようにぶつけられた。
「全員死ねよ…」
自分でも驚くほど恨みが込められた声が出て、気づいた時には、ハルは天性魔法を発動し、周りにいた複製体たちを消し炭にする準備を始めていた。
『なんだ!?待て、お前ら離れろ!!』
ハルの心の叫びは表に出ずに、ハルの体は怒りに支配されていた。キリヤの複製体たちはハルに罵声を浴びるせることに夢中でハルが攻撃に転じていることに気づけなかった。
しかし、それもつかの間、否応なくキリヤは気づかされることになった。
憤怒に包まれたハルの体は勝手に最高出力で神威を放出し、そこですでに複製体たちの命を根こそぎ奪ってしまった。ハルの神威は簡単に人を殺す殺人道具にまで昇華されており、もはや神の威光など可愛いものであった。
「許さない、神も、お前ら人類も…この俺が……」
どす黒い感情だけが、ハルの内側を満たしていた。まるでこれがハルの本性であるかのように、純粋な怒りだけが渦巻いていた。
「殺す!!」
天性魔法が暴発し、周囲にへばりついてた大量の複製体たちを大量の光と共に消滅させた。そして、ハルを中心に数十メートルほどが本当に何もなくまっさらな大地に帰った。揺らめく神威が禍々しさを増していく。
「殴り合いと行こうじゃないか!!!」
そこでハルは頭上から聞こえて来た声に反応して上を向く前に、身体がその発生元の人間を殺そうと動いていた。すでにハル自らでは止められず、人を殺す殺戮現象と化していた。
「だいぶ、頭にきているようだね、キリヤに何か言われたかい!」
上から降って来たミルケーの踵が振り上げられる。しかし、そこでハルの視界は真っ暗闇になり、何も見えなくなり、さらには足には何かが巻き付く感触をうけ、下に引っ張られた。
そして、頭に強い衝撃が走った。
ハルはそのまま下に落下していくはずだった。
それは、瞬きする時間すらないほんの一瞬の時間だった。ハルの内側から天性魔法の光が大量に放出されると、体にまとわりついてた視界をふさいでいた煙と、足の蔓を払った。そして、天性魔法の光で足場を作り、そこから再び飛び上がると、ハルはお返しの踵落としをお見舞いしていた。
時間が止まったかのような速さは、ミルケーたちの認識力を超えていた。
地上に落下したミルケーを見下ろし、怒り狂ったハルが呪詛のように唱え始めた。
「神に死を、人類のために…、人類に死を、愛する者のために…」
片手を振り落とすと、ハルの背後に溜まっていた莫大な透明なエネルギーが雪崩のように崩壊し、土砂降りのように、地面で叩きつけられた羽虫のように弱っていたミルケーめがけて降り注いだ。
街に降り注ぐ透明な純粋な力は、街いっぱいに広がりハルたちがいた区画ひとつを綺麗に吹き飛ばした。
その力の中心にいたミルケーは悲惨だった。力が降り注いだ初動は避けようと必死だったが、空か飴のように降り注ぐ量が増えると、やがて何らかの魔法で防いでいた彼女だったが、それでも耐えきれず、あとはもうなすがままに、ハルの天性魔法をその体で受けるしかなくなっていた。
ハルの視界には数キロ先までまっさらになった街が広がっていた。そこには光に変えられた一般人もいただろう。けれど、憎悪と怒りに身を任せて放ったハルの一撃は容赦することなどありえなかった。
そして、その光景を見ているとやがてどうしようもない怒りは静まっていき、絶望に染まったハルだけが戻ってきていた。
どうしてこうも自分が無力なのか、ハルは自分が分からなくなった。
しかし、ひとつだけ分かったことはあった。
「俺は…もう、戻れない…」
消し飛んだ風景を前に、ハルは顔を塞いだ。償い切れない罪を犯し、瞳から零れ落ちた涙で頬を濡らしていた。
そして、限界を迎えたハルは、その場から力尽きるように崩れ落ち落下を始めた。
その時、遠くから声がしたような気がした。
誰だかは分からなかったが、確かに自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。
「ハルゥウウウ!!」
それは女性の声でとても必死そうだった。それがライキルだったらいいなと一瞬思ったが、それはあまりにも危険だったので、別の人が現れることを期待した。いまのハルでは彼女を守り切れる自信がなかった。
「誰だ……?」
血だらけで落下する最中ハルは見た。そこに現れたのは、それはもうハルを愛して止まない敬虔な女信者だった。
「ハル!!!」
夜に溶け込んでしまいそうな艶のある黒髪ロングをなびかせ、禍々しく血濡れたような真っ赤な瞳を夜に輝かせ、小さな彼女は必死に走っていた。月光に照らされる彼女はまるで舞台に駆け付ける主人公さながらの登場だった。
この危機的状況に駆けつけて来てくれたのは、ルナ・ホーテン・イグニカだった。