古き血脈 彼女の名前
結界が割れると同時に、ミルケーが逃げ出す後ろ姿を見た。ハルは彼女を捕まえようと後を追いかけようとしたが、その結界内に入った瞬間、得体のしれない恐怖感に包まれた。その感覚はまるでハルの幾つもの積み上げてきた存在という層を一枚一枚丁寧に剝がされているかのように、この場に留まることを、この空間の存在そのものが禁止しているかのように、ハルを拒絶していた。この空間内では、ハルは異物として排除しようとする流れがあった。まさにこの空間何に限りハルの存在そのものが侵入者であり、ここではハルの全てが拒絶されていた。
限定的ではあるが、この世界から拒絶されているような感覚が常に付きまとい。気後れさせていた。
『気分が悪い、ここにいたくない…みんなのところに帰りたい…なんだか、今すぐにライキルに会いたい…』
この事件を素早く解決するために、単騎で突撃したハルだったが、こんな気分にさせられるとは思ってもいなかった。
この結界内では、ハルの動きはかなり鈍くなり一般的な成人男性と変わらないまでの身体能力にまで落ち込み、意識も揺らぎ酩酊状態のように視界も歪み、立っているのですらやっとだった。
掴めようと追いかけたミルケーはすでに遥か遠くまで浮かんで逃げてしまい。とてもじゃないが、いまの状況で彼女を捕らえることは不可能だった。
彼女に聞きたいことはたくさんあったが、この空間内ではまず下手をすればハルは自分の身を守ることすら怪しいのではないかと思った。
だが、傍にいた複製体の体を借りたキリヤが腰を抜かしているのを見て湧いた殺人衝動が掻き立てられると、全速力で走っていき、怯え切った彼の首を掴んで強引に持ち上げた。
「彼女は、お前のボスはどこに行った?」
「…………」
するとそこにはもうキリヤは宿っておらず、空っぽのエルフが白目をむいているだけだった。ハルはその複製体を投げ捨てると、とにかく、彼女が向かった方向に足を進めた。
街の中を行くととにかくそこには光が溢れていた。まだ夜のはずなのに昼間のように眩しくて、意識と視界が歪み始めていたハルにはその影響で眩暈を起こしていた。
そんな眩しい人間サイズの光の柱が、無数に街の中に点在しており、ハルはついに自分がどっちの方向に進んでいたのか分からなくなってしまった。
『まずい…もう気持ち悪い…長居しすぎちゃダメだったんだ…』
ハルがその無数にもあると思えた光源のひとつに手をつくと、その光の柱は簡単に倒れてしまった。
「ああ、ごめんなさい…」
光に酔っており、誰もいない街中で誰かに謝る。
『ダメだ、一旦ここから離れよう…自分が自分じゃなくなっていくような気がする』
だんだんとこの結界内の恐ろしさを身をもって実感していた。ここにいる間ハルは、まるで世界に嫌われたかのように、全てが自分の敵のようにも思われた。
しばらく出口を見つけようと彷徨い歩き回っていると、足元にすっと靄が掛り始めた。その靄はハルの目がおかしくなっていなければ、ピンク色であった。
やがて、そのピンク色の靄が体の後ろへと通り過ぎていくと、さらにはおかしなことに気付き始めた。
彷徨えば、彷徨うほど、人工物が蔓延る街中のあちらこちらに、巨大な植物が現れそれはどうやら蔓のようで、背の高い建物たちに巨大な蔓が巻き付き、きつく締め上げて夜空に向かって怪しげに伸び続けていた。
ハルが歩く街は、そんなでたらめな夢の中のようにゆがめられていた。現実か夢かの二択の狭間で目が回る。
そんなハルが、狂った街を歩いているとやがて、周囲にはその夢のような街の住人たちなのだろうか?通行人がそこかしこに現れ始めた。
その時点でハルの視界はとっくにぼやけ始めていたため、その自分とすれ違う人々がどんな顔をしているのか分からなかった。
ただそこでハルはその人たちにこのおかしな世界から出る道を尋ねることにした。
「すみません、夜遅くに、あの…この街から出たいのですが、出口を知りませんか?」
ハルの声は疲労と吐き気などありとあらゆる気分の悪さをまとめて煮込んだような体調だったため、声は弱弱しく掠れていた。そもそも、身体も鉛のように重く、こんなに手足が重く感じるのは、子供の時以来だった。まるで自分が普通の人間に戻ったかのような、そんな感覚だった。
そのすれ違う通行人の人に尋ねたのにも関わらず、両手に膝をつきながら息を切らしていたハルは失礼を承知はしていたが、それでもこの状況から脱出するためには、誰かに頼るしかなかった。
「知ってますよ」
その通行人は、それだけ言うと、ハルの傍まで来た。ハルの視界からでは彼の髪が金髪なことぐらいしか分からなくなるほど、視界がぼやけていた。きっとそれもこの特殊な結界の効力なのだろう。
しかし、ここで致命的だったことは、ハルの不調は体だけではなく、思考にまで及んでいることをこの時のハルはそんなことが分からなくなるくらい酷い状況だった。だから、目の前にいた人が、当然のごとく、さんざんハルが怯えさせた人物だということに気づくことさえできなかった。
「ほんとですか!?もしよければ、どの道を行けばいいか教えてもらえませんか?」
ハルはまず最初にどっちに行けばいいか方向だけをこの人に聞いて、別のその方角に向かうひとに、連れってもらうと考えていた。ハルが見る限りだと周りには通行人がたくさんおり、教えてくれる人には困らなそうだった。
「いいですよ、えっと、街の出口は…あっちですね!」
通行人の彼が指でその出口の方向をハルに指示してくれた。
ハルはその指された方向に顔を向けた。そっちの方向はピンク色のどこか怪しい雰囲気を醸し出した靄がとても濃く、さらに巨大な蛇のように動く蔓や、風もないのに枝や葉をざわめかす樹木が鬱蒼と茂み始めていた。
ハルは彼が指し示す方向を疑うことはなかった。そこが正しい出口への道だと認識した。そして、視線を戻したハルは彼に礼を言った。
「ありがとうござ…」
だが、そこでハルの腹部に強烈な熱と痛みが走ったかと思うと、勢いよく地面に叩き付けられ、何メートルも背後に吹き飛ばされた。街中で道路は石畳だったため、吹き飛ばされたハルは全身擦り傷で血だらけになっていた。
「がはッ…くそ……なんだよ………」
ハルは道端に倒れこむと、すぐに地面に手をついて重い体を何とか持ち上げた。
「ハハハッ!どうしちまったんだ?お前、本当にさっきまでのハル・シアード・レイか?」
「あなたは…」
ぼやける視界の先に、背の高い金髪の人間が立っていた。
「もう忘れたのか?だったら思い出すまでお返ししてやるよ!」
そういうと、その金髪の彼が、足元がおぼつかずふらついているハルめがけて、二度目の蹴りをお見舞いした。その蹴りを何とか両腕で防いだハルだったが、その蹴りは人間が出力できる蹴りの威力を軽々と超えており、そのまま後方に吹き飛ばされていた。建物をいくつも貫通して、樹海とピンクの靄の吹き溜まりが濃い区域の方角に飛ばされる。
この特殊な結界内で、ハルは自分の身体能力が人並みに落ちていることは分かったが、自らを構成する体の内部の方は変わらずずっと頑丈のようで、家屋をいくつも貫いたのにも関わらず、口から少し血を吐くだけで済んでいた。
それでも外側は擦り傷だらけで至るところから血が溢れ、全身は自分の血で真っ赤に染まっていた。
「早く、ここからでなくちゃ…まずい…何かは分からないけど、ここに俺はいちゃいけないんだ…急がないと……」
そう言うと、どこか知らない人が住んでいた生活感残る家の二階に、風穴を開けて侵入したハルは申し訳なさそうな表情で、玄関を探すために立ち上がった。
『穴をあけて、血で床を汚してしまったが、緊急事態なんだ…早くいかなきゃ…』
すっかり状況と思考が定まらないハルは、罪悪感を残して、二階の廊下から一階に降りて、背の高い扉のついた玄関から、家の外に出た。
外は相変わらず夜であった。
「おいおい、そっちから出てくるのかよ。おい、みんなこっちだ。ミルケー様も来てください」
さっきの通行人が扉の外で待っておりそう叫んでいた。しかし、頭が回らないハルにはもう、何が起きているのかさっぱり分からなかった。
そんな頭がおかしくなってしまったハルの前に、緑の髪の人、薄紫色の髪の人、黄色い髪の人はそこかしこに大勢おり、そして、最後に空から黒い長髪の背の高い人が降りてきた。
「あの、俺、何かしましたか?ここから外に出たいだけなんですけど…」
息を切らしながら、全身血だらけのハルはそう周りにいる人たちにお願いしていた。すでにハルの頭の中にはこの場所から立ち去りたいという欲求しかなくなっていた。それほど、この場所はハルという一個人を拒絶していた。
そこで黒髪の背の高い人が言った。声からその人は女性のようだった。
「どうやら、しっかりと彼にも世界のルールは適用されているようだね。いびつな形ではあるけど…」
「あの出口を教えてくれませんか?」
「でも、そもそもここにあなたがいることが、ありえないことなんだけどな…だってあなたは本来この結界内に一歩も立ち入れないはずなのに、それなのに…」
「あの出口を…」
ハルが申し訳なさそうに尋ねる。しかし、その女性はハルを無視して独り言を続ける。
「あなたは、概念魔法を、この世のルールに抵抗がある…それが意味するところは…あの人が執着する理由は、私と同じ世界を変える可能性があるから?分からないけど、なんだか、それはむしゃくしゃする…」
「出口…」
その瞬間、その黒髪の女性が怒気を纏いながら、ハルの顔面目掛けて勢いよく蹴りを放った。とっさに、反応したハルは両腕でその蹴りを防ぐことに成功した。しかし、それと同時に、自分の左腕の骨が折れる鈍い音が聞こえると、激痛と痛みを帯び始めた。その威力は先ほどの金髪の彼とは比較にならないほどであった。
ハルは再び建物の壁をまるで紙切れのように貫いていき、吹っ飛んでいった。
またもや知らない家屋の壁を破壊し、見知らぬ部屋の中でハルはうなだれていた。そして、大量の血を吐き出すと、そのまま、気を失いそうになった。
しかし、それだけでは終わらなかった。ハルの足にはいつの間にか蔓が結び付けてあり、その蔓に目をやった時にはもう、吹き飛ばされ多分の距離を引きずり戻されていた。
貫いた壁をくぐって蔓に引かれ、もといた黒髪の女性に吹き飛ばされた場所に強制的に戻されていた。
「おかえりって言いたいところなんだけど、私、殺す気で蹴り飛ばしたんだけど、どうして生きてるんですかね…やっぱり、あなたも私と同じなの?」
「お家に帰りたいんです…」
ハルは周りの人たちに懇願していた。それを周りにいた金髪の人たちが聞くと、一斉に笑い出していた。
「だったら、帰らせてやるよ。ミルケー様、私にこの男を打ち取る機会をいただけないでしょうか?」
「いいけど、キリヤ、あなたにできるの?」
「ええ、あなた様に手を煩わせるわけにはいきません」
そういうと、大勢いた金髪の人たちが避けるように道を開けると、ひとりのまたもや金髪の人が歩いてきた。しかし、その歩いてきた金髪の人は周りの有象無象と違って、キラキラと強い輝きを放っていた。そして、よく見ると彼の背中には白い翼が生えていた。そこで思考力が低下していたハルは、本当に今いる場所が夢か現実か分からなくなってきていた。ハルには彼が天使に見えていた。
「彼には俺があなたに代わって罰を与えます」
彼が手のひらを前に出すと、どこからともなく現れたギラギラと鈍く輝く槍が手に収まると、その槍を夜の闇が見下ろす天に向かって掲げた。その槍は強烈な光を放ち輝き夜の暗闇を切り裂いていた。
そして、彼は光輝く槍を構えた状態で、道を尋ねたそうな顔をしていたハルに語り掛けた。
「そこでじっとしてろ。動くなよ、そしたら、出口を教えてやる」
「本当ですか、だったら動きませんけどどれくらい止まっていればいいんですか?」
「三秒でいい、そしたら、お前を家に帰してやるよ」
「…三秒ですか?まあ、それなら、わかりました……」
そういうと、ハルは困惑していたが、呼吸を止めて全身が動かないようにその場にじっととどまっていた。
そうして、キリヤが足に力を込めて槍をハルに向けて叫んでいた。
「ライキルにもよろしく言っておいてやるよぉおお!!」
キリヤが槍を突き出す。
だが、その剣がハルの体を貫くことはなかった。
ハルは右手の二つの指でその勢いよく突き出された槍をつまんでいた。
「なんで彼女の名前をあんたが知っているんだ?」
その場の空気が一瞬にして凍りつく。キリヤが、ミルケーが、ブロッサーが、ピクシアが、誰もハルの目覚めの前で、忘れていた恐怖を取り戻していた。
そして、まるで幻覚に囚われていたようなハルは彼女の名前を聞いて一瞬で目を覚ましていた。
しかし、目が覚めただけで身体能力が戻ったわけじゃない。そして、ライキルのことを思い出していないとすぐに、また思考がぼやけ始め、この結界内で動くにはライキルの存在が欠かせないものとなっていた。
「ずいぶん、いいようにしてくれたな?」
ハルがそう吐き捨てると、瞳には尋常じゃないくらいの怒気が籠っており、その場にいたキリヤ、ミルケー、ブロッサー、ピクシアの四人は誰一人として身動きが取れなかった。
それは、ハルの神威が、彼らの体の自由を恐怖で奪っている証拠だった。
「覚悟しろよ、特に、キリヤ…お前からだ」
名指しを受けたキリヤの瞳は絶望し、ひっきりなしに額から嫌な汗をかいていた。
そして、ハルが自分に向けられていた槍を上にはじき、動き出すと止まっていた時間が動き出したかのように、その場にいた誰もかれもが動き出し、戦闘の火蓋が切って落とされる。
キリヤを守るように、ミルケー、ブロッサー、ピクシアが、化け物めがけて各自全力の魔法を放つ。
ブロッサーが、強固な蔓でキリヤ本人を守護し、ピクシアが化け物の視界をピンクの煙で覆い視覚を奪い弱体化し、その隙をつくように、ミルケーが放った邪悪な黒い波動が化け物を捉えると、その化け物は人工物の森に吹き飛ばされ、四人の前には一時的な平和が訪れた。
「キリヤ大丈夫?」
ブロッサーが呆然としている彼の傍まで来て声を掛ける。
「俺、生きてる…」
「何ボケっとしてるの、キリヤ、しっかりして!」
ピクシアは、キリヤがへこたれて座り込むところを肩を貸して立ち上がらせていた。
「死ぬかと思った…俺、もう怖いものなんてないと思ってたんだ……」
「あいつが、もうすぐ近くに来てるんだよ。私の煙が感知して……え、待って!もう、本当にすぐそこにいる!!!」
ピクシアの絶叫を聞いたミルケーが、三人をかばうように前に出た。
すると、先ほど吹き飛ばしたはずの化け物がすでにミルケーの前に現れ、折れた左腕を鞭のようにしならせミルケーをぶった。
キリヤ、ブロッサー、ピクシアの目の前から、ミルケーの姿が消える。代わりに遠くで、家屋がいくつも破壊される連続した轟音が響いていた。
そこには月光に照らされ、真っ赤に染まった、化け物が白い息を吐いて、三人を見据えていた。
もはや人間の思考を捨てた狂人がそこにはいた。人の在り方として、狂気という純粋さで満たされた、ひとつ人としての完成された姿がそこにはあった。
「殺す、ライキルを知ってる者は全員殺す!!!」
その狂気と理不尽に、三人の天使たちは心の底から震えあがっていた。