古き血脈 部外者
たったひとりの青年によって振り下ろされた拳が、結界の一枚目を粉々に砕き割った。物理的な衝撃を遮断するはずだった結界の層はいとも簡単に、突発され崩れ落ちた結界は残り三層となったが、どう考えても時間の問題だった。そもそも、一枚目の結界が物理的な衝撃で割られていることで、残り二枚の結界の効能などあってないようなものだった。
そのため、青年が振るった次の拳の衝撃波再び、王都エアロを覆っていた結界中に伝わった。結界が悲鳴を上げてその波紋のように伝わった衝撃に沿って、めくりあがり剥がれきっていた。そして、最後の結界を残して、魔法を遮断する結界と侵入者を拒む結界の二枚抜きしてしまった。
衝撃の余波とまだ鳴りやまないその轟音が、キリヤが宿った複製体の耳にも不気味に残り続けていた。
最後の結界が頼りなそうにキリヤと、壁を破壊した張本人である怪物ハル・シアード・レイの前に漂っていた。
「まだ残ってるのか…」
結界の外から苛立ちを募らせた声が、キリヤの耳に届いていた。だが、もうその言葉に反応することも彼にはできず、ただただ腰を抜かして座り込んでいた。
「妙だな…この結界だけ、まるで手ごたえがない…」
ハルが、結界を探るように手でその揺らめく表面をなぞっていた。
キリヤはその最後の結界がミルケーが張った特別な結界だということを思い出すと、少しだけ信仰心から勇気をもらったのか立ち上がることができた。
しかし、キリヤが立ち上がった瞬間、まるで苛立ちが爆発したかのように、ハルが最後の結界の表面を思いっきり殴りつけていた。その衝撃は結界の内側には何の影響も及ぼさなかったが、結界の外はもはや生命が生存できる環境ではないほど、壊滅的な衝撃波が幾度となく広がり続けていた。
キリヤが宿った複製体が驚いてその場に再び、転ばされる。
破壊という概念そのものが現世に実体化したような、そんなありえない光景が広がっていた。それを五感を通して理解しようとすると、眼前の結界の外は殴られたあとも衝撃が留まることを知らず、吹き荒れる暴風が結界に圧を掛け続け、夜よりも深く、それはもうめちゃくちゃで、まるで夜という存在が詰まった空間ごと結界に叩き込まれたように、結界の外は、真っ黒に塗りつぶされ、もはや何が外で起こっているのかは内側からでは分からなかった。そして、大地を引っ張り破ったような轟音が鳴りやまず、夜を震撼させていた。それはもう、無数の死神がガラス越しに張り付いているように、結界の外には死で溢れていた。
ただ、その圧倒的な暴力が止み、キリヤはさらなる絶望を知った。
それは、たった一回振るわれた拳でここまでの、人間の、いや天使の恐怖を駆り立てる暴力はもはや、神と同等の力でしかなく。キリヤの頭ではもはや、ミルケーでも手が出ないのではと、自分の神を疑ってしまう始末だった。
「あ、わ、わわ……」
キリヤが怯える先には、死から生まれたような青年がただじっと結界を睨みつけていた。
そして、ハルが振りかぶって再び結界に向かって恐怖を振りまく死を与えようとした時だった。
「こんばんは、ハルさん、こうして会うのは初めてかな?」
情けない姿でへたり込むキリヤの背後から現れたのは、彼の信仰する神のミルケーだった。
姿はまさに夜を纏ったような美しい黒髪に黒い瞳だった。
「あなたは?」
ハルは振りかざそうとしていた拳を一度下ろした。
「私の名前はミルケー、彼のボスってところかな?」
「じゃあ、あなたが今回の襲撃の首謀者ってわけか」
「まあ、そうだね」
ミルケーは少し照れたように笑みを浮かべた。しかし、内心ではそんな余裕はとてもじゃないがなさそうだった。そのためか、彼女の指先は少し震えているのをハルは確認していた。
「ハル・シアード・レイ。私はあなたのことを、こうして神様になってから知ったんだ」
「神?」
「そう、神、知ってたこの世界には神様がいるんだよ?」
ハルは少し考え頭を使ってから言った。
「それは神書に書かれている神のことか?」
「うーん、何っていったらいいんだろう…それも神様なんだけど、じゃあ逆に聞くけどあなたにとって神って何?」
難しい答えを返すと彼はさらに考え込み、言葉を探っていた。
「それは、俺にとってのか?一般的な神の認識か?」
「どっちでもいいよ、だってその答えはどっちも合ってるから」
ミルケーが結界の内側のギリギリに立った。
「というと、やっぱり、神っていうのは人が信じたものそれ自体が神ってことで、あんたは、自称神様ってことか?」
「神様って実はみんななれるってこと知ってた?」
「それは、なんていうか話が広がりすぎて、あんたの存在証明の答えになってない気がする。だってそれなら、宗教によって神の定義は違うし、死んだ人が神様になったり、神は世界にひとりだけって決まってたりするから、あなたの言い方だとやっぱりそれは自称神で、あなたは人間だ」
ミルケーは唇に人差し指を当てて、ハルの言ったことを咀嚼してから告げた。
「私の神の考え方は、宗教なんて括りで囲ってない。実際に私の他にも神様はいるし、目指している者もいる」
「目指してる?」
ハルは彼女の発言を酷く胡散臭く思い訝しんだ。ミルケーはそんな彼の疑いの目を気にせず続けた。
「私は神というものを人間のひとつの性質だと捉えてる。それは神に至るきっかけがあったり、神に至る道筋を見つけたり、偶然神の領域に足を踏み入れたりっていろいろあると思うけど、何より、神というステージはこの世界に存在してる。ねえ、実はあなたも神様なんじゃないの?」
ミルケーは人間の段階の先に神という存在があると語っていた。全ての人間にその神になる資格があり、目指そうとすればなれるかもしれないと、そんな子供が騎士になりたいと願うくらい当たり前のように言っていた。
「俺は神なんかじゃない。だったら証明してくれないか、君が神様だってことを」
「神は別に証明するものじゃなくて、ただ存在するものだけど、いいわ証明してあげる」
そういうと、ミルケーはニッコリ笑って結界に手を触れながら言った。
「はい、証明した!」
ハルは首を傾げた。別に彼女は何もしていなかった。奇跡を起こしたり、すごい魔法を使ったり、ただ、彼女はそこにいた。
「それは、あなたが、ここにいることが証明ってこと?」
証明する必要がないから、彼女はそこに立ってそんな自信満々に堂々と突っ立っているのだろうか?だったら、とんだ肩透かしだった。
「違うよ、もう証明は終わってる。ねえ、ハルさん、あなた、この結界壊せた?」
「…………」
ハルはそこで黙り込んでしまった。
「あなたが壊せない結界を私が生み出したこと。これって相当すごい奇跡じゃない?」
「俺が神を推し量る天秤ってことか?」
「あなたにはそれだけ特別な力がある。人智を超えた得体の知れない底知れない力が、それを超えられたらもう私は神様なんじゃない?」
「あんた、俺のことで何か知ってるのか?」
その時、ハルは本当に彼女が神様になっていることを、直感だけだったが感じ取っていた。そして、この感覚はついこの間までも感じていたものと近いものがあった。
「ううん、それは私が教えてもらいたいくらいだよ。君はどうして、そんなに強いの?正直、さっきの拳、人間なんかじゃまず無理だよね?」
「俺も自分のことがよくわかってない。だけど、この力は誰かからの贈り物だと思ってる。例えば神様とか…」
「…本当にそう思ってるの?」
ミルケーは非常に疑わしい目をハルに向けていた。
「どういう意味だ?」
「神様になった私から助言させてもらうと、あなたのその力は…」
その時だった。どこからともなく、不気味で不吉な声がミルケーやハルの耳に届いた。
————黙れ
突如舞い降りたその声で、二人は完全に固まっていたが、ミルケーだけは少し申し訳なさそうにヘラヘラしながら少しだけ首をすくめて言った。
「ああ、怒られちゃった」
「いまの声…あんた、いまの声が聞こえてるのか?」
どこからともなく聞こえたその声は、ハルが今まで聞いてきた身も凍るようなおぞましい声。それが誰なのか、なぜ声が聞こえるのか、ハル自身にも分からなかった。
そこでミルケーは、からかうような、いたずらな微笑みを見せた。
「秘密…」
「あなたには、俄然興味が出た」
そうハルが口走った時だった。その場にいた誰もが反応出来ない速さで振り上げたハルの蹴りが最後の結界と接触した。その蹴りは最後の結界であるミルケーがとある者から助言を受けて、対ハルように用意した結界だった。結界は概念魔法と呼ばれる、世界のルールを変えるまさに神だけに許された絶対的な不変の魔法で紡がれたものだった。決してハルだけには破壊されることがないとこの世の根源的な法則に干渉し定めたものであった。そのため、概念魔法はこの世のルールを決める立場の人間が生み出した例外的な魔法であり、この世界というものに属している限り、概念魔法に対して抗ったり、阻止したり、打ち消したり、突破することは一切できなかった。そんな絶対的な魔法と張り合えるのは、こちらも概念魔法を使用することのみだった。
「君にはこの結界は壊せないよ」
ミルケーの目の前に破壊という名の夜が広がる。
しかし、そこで再びあのおぞましい声がミルケーのもとにだけ届いた。
———備えよ
「備える?何をおっしゃってるんですか、結界は完璧…」
その時、ミルケーのすぐそこにあった結界の表面に亀裂が走った。
「え?」
———奴を常識で語るな
「ありえない…だって、それだったら、彼は外の人間ってことですよ!!」
驚きを隠せないミルケーに、酷く冷静な言葉が下りてきた。
———奴は人間ではない
「神ってことですか?」
———神でもない
「じゃあ、あなた様と同じ」
———奴は…
その時、結界が割れ、ハル・シアード・レイが侵入してくる。
「教えてもらおうか、その声の主を…お前たちが何者なのかを…」
結界が破壊されてしまうということは、もはやハルという人物が、この世のルールに囚われていないことの証明だった。
「お前の方こそ何者なんだよ!!!」
ミルケーが怒号を発しながら、逃走を始めた。