古き血脈 命令
誰にだって見られたくない、聞かれたくないことはあった。それが男女の駆け引きならば尚更であり、それがずっと慕ってくれていた人で、憧れを壊したくない人だったとしたら、ハルだって弁解の言葉を述べたくなるものだった。
「………」
まず最初の言葉がどうしても出てこなかった。ハルは戸惑いの赤い瞳を向けるビナ・アルファと見つめていた。
頭が真っ白になって、得意げにルナに見せていた立場を利用して女心を掌握した態度はすっかり消えていた。それはもう毒気が抜かれたみたいに、ハルはビナの前では企みのような位部分を持たない、理想的な人物としての在り方を保とうとしていた。そこにどれだけの意味があるかなど関係なしに、ハルは彼女の前では不格好でも光の中を歩くような英雄でありたかった。そこに何の意味もなくても、彼女の抱いていた理想をこの手で壊したくはなかった。
彼女の知っているハル・シアード・レイのイメージを崩したくなかった。それは純粋な彼女の心に刃を突き立てているようで、自分のやってしまったことに後悔するようなそんな喪失感がこの場にはあった。
「ハル団長、あの…」
団長という言葉。彼女はまだハルという人物に敬意を払ってくれているような子なのだ。
「どこまで聞いてた?もしかして全部聞いてた?」
「あ、いえ、私は何も…」
戸惑いながらも相手を傷つけないように配慮するビナ。ハルはそんな彼女の優しさを受け取って、申し訳なさの詰まった微笑みを浮かべた。
『あぁ、どうしよう、ビナにこんな顔させたくなかったな…』
ビナはこの場でどうすればいいかわからず、何度も足を組み替えたり、目を泳がせていた。居心地の悪さにいまにもこの場を逃げ出してたくって、たまらない様子だった。
ビナとは短い付き合いだけれど、彼女がハルを見てくれていた時間はあのルナと同じくらい長いことは彼女から聞いていた。だから、それも相まってハルは彼女にだけはどこか嫌われたくない、見捨てて欲しくない。彼女の前ではハル・シアード・レイでいたいという欲求があった。
「な、何も聞いてませんよ。というより、何となくお二人がそういう関係だってことも知ってましたし、ハル団長はたくさんの女性とお付き合いしていることは知っていました。ほら、ライキルとガルナすでに二人と付き合っていますし…」
なぜか一生懸命ビナが、ハルのことを弁明しようとしていた。
彼女は続ける。それも勢いに乗った彼女は完全にハルの味方でしかなかった。それは一種のルナにある狂気的な信仰心と似たものがあった。
「ハル団長は選ぶ権利があると思います。国を救った英雄ですからね、私、知ってるんです。特名を持つほどの高い地位の人は何人も妻や夫を持ってもいいと、だから、ハル団長のこと私、何にも悪いと思っていませんよ!」
ハルはそんな彼女の姿を見て、ある一線を越えてしまった。健気で純粋な彼女の語るハル・シアード・レイと、今の自分がかけ離れすぎて、取り返しのつかないことを言ってしまった。
「じゃあ、ビナも俺と結婚してよ?」
「え!?」
結局それが彼女の幸せを壊し、傷つける最悪の選択だった。
「それは…冗談ですよね?」
「冗談じゃないよ」
ビナが恐る恐る聞くと、ハルは真剣な顔で返した。
世界が変わってしまったから?それとも自分が変わってしまったから?いいや、違った。ハルの手元に残っているものがもうあまりにも少なくて、これ以上何かを失うことに我慢できなかった。現実を知れば知るほど、世界が変わり自分の存在が消滅したことがひしひしと実感させられていた。だから、ハルはいま必死に残った大切なものをかき集めて、守ろうとしていた。
「私にはもう心に決めた人がいます」
「それでも俺はビナが欲しい。もうビナみたいな大切な人たちとの離れ離れは考えられないんだ…」
「そんなのダメです。私はもう、あの人と付き合っているんで…わかりますよね?ハル団長も…」
「付き合っていてもいいよ、それでも、俺はビナを手放したくない」
「え…」
彼女の声は終始震えていた。しかし、それは怯えからではないように見えた。まるで何か自分の中の葛藤を抑えつけているようなそんな、与えられた選択肢の迷いからくるものに見えた。選択の余地など本来ならばありえないが、ビナの中にある積み重ねてきてしまったものが彼女の決断を揺らいでしまっているのだろう。
ハルはその揺らぎを自分に振り切らせるために彼女にすべてを話すことにした。誰にも言えない二人だけの秘密を共有し、一心同体の片割れにすることを決めた。それは彼女の理想を破壊する行為だったが、彼女が離れていくよりかは遥かにマシだとハルは思った。秘密を共有することで彼女を自分という鎖につなぐことにした。
「なんでこんなこと言うか、ビナには全部話してあげるよ…」
「ふえ?」
ハルはビナの手を握って、まっすぐ見つめた。彼女にもう逃げ場はなかった。
「俺が何を考えて、どうしてそう思っているか?これから何をしようとしているか?」
ハルは自分の考えていることをすべて話した。これから先に考えていることすべてを、暗い部分も包み隠さず話した。
それはハルが最後の四大神獣を討伐したら、世間、表舞台から消えること。ルナを使ってレイドを裏から掌握し、地位と権力を再び手に入れた後、隠居した場所にハルの愛する人たちを集めて暮らすこと。誰もハルの手から離れないように確実に守れるように愛する人が理不尽に奪われない楽園を創るということ。そこにハルはビナもいて欲しいということを告げていた。
「ビナには俺の傍にいて欲しいんだ。最後まで…」
ビナは必死にハルの誘惑と戦っていた。彼女には恋人がいるようだったが、ハルには関係なかった。
命を救われ、彼のファンになって、長い間追いかけて、それでこうして憧れに近付けて、友好を築いて、求婚を迫られる。
ハルの方からしたら、ビナの恋人の方が二人の間に入って来た異物だった。
「わ、私は、そもそも、私なんかがハル団長とつり合うとは思えません。それに、恋人のこともやっぱり裏切れません、だから、えっと……」
ビナは純粋な女の子だった。相手の気持ちをよく考えて、誰かを傷つけることが嫌いな心優しい女の子だった。家族思いで、誰に接するにも礼儀がまずあって、本が好きで彼女はよく考えてから物事の正しさを追求して常に誰かのために動けた。親しくなってくればよく笑い冗談も取っ組み合いの喧嘩もできる。小さい体に秘めた力強さは彼女の元気の源で、いつもはつらつとした素晴らしい女の子だった。
だから、そんな平穏を体現した彼女を、ハルは壊してでも彼女を自分に陶酔させ、自分の世界に引きずり込みたかった。
「あ、そうだ、ライキルとかガルナとか、あとさっきのルナさんとか、私と関わると彼女たちといる時間が減りますよ、そうですよ、やっぱり、私は…………!?」
これが地獄の始まりでもハルは何の問題もなかった。この選択が大勢の人を悲しませる選択を招いても、もう、ハルは自分の傍から大切な人たちがいなくなるのに耐えることはできなかった。
嫉妬、色欲、傲慢、強欲、支配欲、庇護欲、洗脳欲、ハルがビナに対して抱く欲望はどれも、彼女の清らかな未来を奪うものだけだった。だけど、もう止まることができなかった。それらの欲を彼女にぶつけ、純粋な心を破壊しにかかった。彼女が壊れた末、一緒にいてくれるならそれだけで満足だった。そこに彼女の意志は一切介在させるつもりはなかった。
ハルはビナを抱き寄せると、彼女のその柔らかい唇に強引に自分の唇を重ねていた。
ビナは拒絶も反応もできずその場に固まることしかできなかった。ハルがそっと唇を離すと、彼女は顔を真っ赤にして呼吸の仕方を忘れていた。そこでハルはさらに彼女に追い打ちをかけるように優しく包み込むように抱きしめた。
「ビナ、嫌でも愛して」
「わ、わた、わたし…」
「これは団長からの命令」
「あ、あっ……」
「拒否は許さない」
ハルはゆっくりと最後にもう一度、放心状態の彼女に一方的なキスをすると、去り際に耳元で「愛してる」と囁いた。
光で満たされていた少女の魂に闇が注がれる。どろどろした暗い愛で彼女の器は満たされる。
ビナはその場に膝をついて崩れ落ち、去りゆくハルの背中を食い入るように見つめていた。
***
ハルがビナの下を去り、まだ元の森が広がる木々の間を通り抜けていくと、ふと、通り過ぎたひとつの木の裏に、静かに背中を預けて立ち尽くしていたルナ・ホーテン・イグニカがいた。
「なんで戻ってきてるの?」
とっくに歩いて行ってしまったと思ったルナがまだそこにいた。
「ハルが他の女性と二人っきりで会ってたのが目に入ったから、つい、戻って様子を見てました……」
「あっそ」
ハルが歩き出すと、ルナが後をついてきた。
「ハル様」
「様はやめてって言ったよね?」
「はい!ハル」
崇めろと言ったり、様はつけるなと言ったり、いろいろ横柄で理不尽な態度をとっていたが、ルナは嫌な顔せずむしろ嬉しそうにニコニコしていた。
「それで、なに?」
「あの子まで無理に落とさなくても良かったんじゃないですか?」
「………」
「そりゃあ、ハルの魅力にかかればあんな小娘、いちころですけど、あなたとあの小娘が結ばれて幸せになれるとは思いません、その私の直感というかその…」
ルナはもうずいぶんとハルの前で正妻面をしていた。それは気に食わなかったが、彼女は大切な部品の一部なので強くはでなかった。それよりもハルの気持ちはなぜか沈んでいた。
「俺とビナのこと何も知らないくせに黙ってて…」
「はい、わかりました、黙ってます。ですがひとついいですか?」
ルナがそこで気がかりそうな顔つきで続けた。
「なんだよ…」
「どうして、泣いてるんですか…?」
「…………」
一筋の涙がハルの頬を伝っていた。そこでハルは立ち止まるとひとつため息をついた。そして、ルナに振り向くことなく、すぐに再び歩き出すと言った。
「ルナは知らなくていいよ…」
「わかりました」
ルナは素直に答えるとハルに甘えるように腕に抱きついてきた。鬱陶しかったが振りほどきはしなかった。
「ところで今日の夜…その本当にしてくれるんですか?そのあれを男女の…」
「今日は無理、気が変わった」
「ええ!?さっきまであんなに乗り気だったのに!?」
がっかりと肩を落とすルナの気持ちなど気にも留めず、ハルは自分の影を振り切るように足早に宿に戻った。
後悔だけが強く尾を引いていた。
『最悪の気分だ』
*** *** ***
「命令…」
ビナは唇に手を当てて左右に何度も熱が残っている感触を指で探っていた。夢にしてはいつまで待っても覚めてくれず、現実にしてはあまりの現実味の無さに、いま起きたことに整理がつけられない状況だった。
彼女はいまも見えなくなったハルの後ろ姿の幻影を見つめていた。