心変わりの代償
医療棟から木造の宿に帰宅したハルは、部屋の扉を開け中に入った。
部屋の中には月光に照らされた女神がいた。その女神は眠るガルナを膝に、優しく一定のリズムで頭を撫でていた。愛おしそうにでもどこか憂いのある黄色い瞳を注がれるガルナをうらやましくも思った。
「ただいま…」
その気を少しでもこちらに向けようと小さく声をかける。
彼女がこちらに気が付くと黄色い花のように愛らしい笑顔を咲かせた。
「おかえりなさい」
彼女のこの声を聴くだけで心が安らぐ。大げさかもしれないが、彼女の笑顔はハルには万病の薬にもなる。ハル・シアード・レイにだけ効く特効薬。罪悪感とぐちゃぐちゃになった感情を洗い流し彼女の清らかな心で満たしてくれる。
「ライキル…」
しかし、これから変わりゆく自分をどれだけ彼女が許容してくれるか、そう思うだけで急に言葉が喉をつっかえた。そんな今すぐには訪れない不安で嫌な汗が頬を伝った。
そして、その不安が彼女にも伝わったのか、何とも言えない気まずそうな顔をしていた。
「ガルナ、もう寝たんだね…」
「はい、寝る直前まであなたの名前呼んでました」
そこで眠っているガルナから、「ハル、どこにもいくなよ…そばにいろ…」と、寝言が漏れる。
「寝た後もですね」
そこで二人はクスクスと彼女を起こさないように声を潜めて笑った。
しかし、彼女の笑顔が消えるのは思いのほか早く、二人の間に静けさが戻った。
ハルがその場に立ち尽くしていると、ライキルが言った。
「ルナさんの様子どうでしたか?」
あまりライキルと彼女の話はしたくなかったが、答えなければならない当然の問いにハルはライキルの横に座って答えた。
「目覚ましてたから、明日、みんなで迎えに行こう」
「良かったです。彼女本当にハルのことが好きだから、あんまり急いで刺激の強いことしちゃだめですよ?」
ライキルは何でもないように言うが、彼女のその態度に引っかかった。どうしてルナの時だけは、嫉妬や怒りも交えず淡々と受け入れるのだろうか?今までの他の女の子がハルに絡んでくると、親の仇のように敵対していた彼女が、ルナに肩入れする理由がいまのハルでは見つけきれずにいた。
ハルもルナがずっと自分たちを影から一方的に支えてくれたことは、彼女と直接二人だけで話したときにきちんと聞いていた。けれどだからといって、あの時、自分を犠牲にしてまでライキルがルナをかばったことに違和感があった。
ルナの婚約を受け入れなければ、ライキルが結婚しないと言い出した時は、ひどく焦ったが、結果として、彼女を受け入れることをライキルに告げたことで彼女は納得してくれた。そのため、ライキルはいまシアードの家族がハル、ライキル、ガルナ、そして、ルナの四人であるという認識のもと話していた。
けれど、ハルの認識は違った。ハルの中でルナはていのいい駒に過ぎなかった。
それは家族とはほど遠い場所に位置する存在だった。もちろん、それをライキルに伝える気もなければ、真実を話す必要すらなかった。
ルナとハルは、幸せになるべき人たちのための絶対的な平和を生み出す生贄だった。
光と闇は分けなければ、お互いに場所をとって争いを生んでしまう。
「ライキルはさ、ルナのことどう思ってるの?」
率直に聞いて彼女の真意を確かめることにした。
「彼女も大切な家族のひとりです。だから、ハルも彼女のこと愛してあげてくださいね」
まるで人々を慈愛の心で救う女神のように、彼女の顔は優しさに満ちていた。
だが、そこに闇の中の空気を吸い込んで成長したハルが小さな声で反対した。
「嫌だって言ったら?」
「ええ?………」
予定調和だと思っていた答えと全く別の回答が飛んできたことで、ライキルは動揺していた。
「ルナを家族だとは認められないって言ったら?」
「でも、もう、約束しましたよね?ルナさんと結婚するって…」
「結婚は誓約、破棄はできる」
「それはダメです。ハルはルナさんと結婚して幸せになるべきです」
なぜかライキルはひどく焦っていた。
「俺は彼女がいなくてもライキルとガルナがいればそれでいいよ」
ハルがそういうとライキルは首を横に振った。
「彼女はずっとハルを私たちのために頑張ってくれてたんです。裏社会というところで、手を汚して、そのせいで彼女はずっとハルに合わせる顔がなかったんです。それじゃあ、彼女はずっと報われません…」
「みんなが報われるっていうのは無理な話でしょ、そしたら、俺は好意を向けられた人たち全員を受け入れなくちゃいけなくなるよ…」
「それでいいと思います。ハルは私のようなひとりの女性に収まる器じゃありません」
「それ、本気で言ってるのか……」
ハルはそこで言葉を失ってしまった。
「ハルには私よりお似合いの人がいっぱいいます。ルナさんとかがまさにそうです。彼女あなたのことが大好きで、大好きで私よりもずっとハルのこと愛してます。彼女はハルにとっての理想の女性になると思います」
「ライキル、もしかして、俺のこと嫌いになった…」
恐れていたことを口にした。まるで自分から離れる理由を作るようにライキルがルナを推すため、そういう考えが出てきてしまった。眠っていた期間はおよそ三か月ほど、ありえない話ではない。そして、それが本当ならば立ち直れないかもしれない。だが、ハルに後悔をする権利すらないのは当然のことだった。
一夫多妻。それは権力を持つ者の特権。ハル・シアードを名乗るいまのハルではただの不貞野郎だった。それに財もないとくれば、捨てられるということも視野に入って来ることは当然だ。何となくハルは自分が過去に成し遂げた栄光にすがっていたが、それはもうみんながハルを覚えてくれていた世界の出来事で、ここにいるハルはただ常軌を逸した力を持っただけの青年だった。ハルの過去はこの世界から消し飛んでしまった。それも自分のせいでとくれば救いようがない。
『なんだか、ルナに言い寄られてたから勘違いしてたけど、いまの俺って…相当……』
自分の立場がとても貧弱なことに気づく。今のハルは何も成し遂げていないに等しかった。世界から自分が生きていた痕跡が消し飛ぶということはそういうことだった。
「私は…」
だが、その時ライキルの頬から一筋の涙が伝うのと同時に、彼女は傍にあったハルの腕を力いっぱい抱きしめていた。そして彼女は抑え込んでいた気持ちを吐き出すように心中を吐露した。
「世界が何度変わっても、ハルへの愛は変わりません。ですが、私は私を許せないんです。ハル以外の人を好きになった自分が憎いけど、その人のことも忘れられない…その人のこともいまも大切で気持ちに整理がつけられないんです。だから、私、いま、どうしたらいいかわからないんです…」
懺悔するように告白された。その内容にも驚いたが、ハルは内心で彼女が自分を嫌いになったわけじゃないことが薄々見えてきて、まず最初に安堵が舞い降りていた。結局、ライキルに根深く依存していたハルは、彼女を中心にあらゆることが回っていた。もし天秤の片方にライキルが、もう片方に世界が乗っていれば、それは簡単にハルの中で釣り合ってしまうほど、彼女の存在は唯一無二だった。だから、ライキルが望むなら、ハルは彼女の欲望や願いを最優先した。
ライキルが他の人を好きになったのならば、ハルは手助けをしなければと頭の中が切り替わっていた。例えそれがどんな相手でもハルは自分の心を殺して、ライキルの幸せを優先できた。
「その好きな人って誰のことなのかな?」
その時のハルの声は恐ろしく死んでおり何とか抗う心に自制心が勝ち尋ねられた魂の叫びだった。目からは血の涙が流れてきそうな勢いがあった。ハルが息をのんで答え待っていると、彼女はハルから離れ、うつむいて言った。
「ガルナ…」
「え?」
「ガルナのことを好きになってしまったんです…」
ハルの思考はしっかり止まり、しばらく投げられた解読困難な疑問に頭を悩ませていた。その沈黙の間で、ライキルは膝の上で呑気に眠るガルナを罪悪感に苛まれながら見つめていた。
「ガルナって、いまライキルの膝の上で寝てるガルナ・ブルヘルさんのことで合ってる?」
「そうです…」
ライキルがこくりとうなずいた。
ハルの中に張っていた緊張の糸が思いっきり切れると、全身の力が抜け、ライキルの方にもたれかかった。
「よかった…」
『俺の全く知らない誰かじゃなくて安心した…っていうか……』
ハルの安堵とは裏腹に、ライキルはなぜか追い詰められていた。
「よくないです。私、ハルのこと裏切ったんですよ!」
「全然、裏切ってないし、むしろ俺は嬉しいかな…」
「どうしてですか…?」
「小さい頃から人嫌いだったライキルがこうして道場外の人を好きになって愛するってところまで変わったこと、それがなんだか、俺のお兄さん目線的な目で見ると嬉しくってさ…」
なんだかんだ言って、ハルとライキルの関係は小さい頃から続いており、兄と妹のような関係の方が長かった。当然、道場は戦争孤児や捨て子が多かったので、誰一人として血はつながっていなかったが、シルバ道場全体はひとつの共同体。そう家族だった。
「ハルは私のお兄さんじゃないですし、私はハルの妹じゃありません…」
だけど、この兄妹という話を持ち出すとライキルはいつも頑なに否定してきた。それがどういう理由なのか今となってはよくわかったが、何も知らない子供の時は、よくこれで喧嘩をしていた。
「私はハルの妻です。そこを間違えないでください」
彼女はこの話になるといつもものすごい剣幕で、まあ、怒ったところも可愛いのだが、すぐに謝った。
「うん、そうだね、ライキルは俺の妻で俺はあなたの夫だ。間違って、ごめんなさい」
「あ、いえ、そのハルも分かっていると思うんでいいんですけど…」
ライキルは顔を赤くし、急にしおらしくなっていった。
それから、ハルは先ほどの話に話題を戻し根掘り葉掘り質問した。ライキルは終始こちらに申し訳なさそうに答えていた。その際、男女の仲のようなこともフワッと軽い感じで聞いてみると、案の定しっかりと二人でやることはやっていた。けれどハルは特に気にすることはなく、それだけ二人が愛し合っていたことに、こっちまで嬉しくなってしまい。ガルナに嫉妬までする始末だった。
そのガルナとライキルの関係は、ハルが消失してから、神威を覚えるまでの間に芽生えたもので、ハルはライキルから二人の惚気話を聞いているとき、ずっと幸福感に包まれていた。
「俺がいないときのガルナのどこに惚れたの?」
「なんていうか、守ってあげなくちゃって思ったのと、それと彼女が傍にいると妙に安心して、彼女、私が辛い時いつも傍で支えてくれたんです。その時、あ、私、この人のこと好きなんだなって、それで勢いに任せに私が告白して…」
夢中で膝の上で眠るガルナのことを語っているライキルが我に返り、こっちを向いた。
ハルが興味深々な姿勢をとっていると、ライキルは慌てていらない弁解をし始めた。
「あ、でも、これはハルがいなかったからであって、ハルを思い出した時にはすでに心はあなたに惹かれてました。私もガルナも…」
「俺のことはいいから続けて、続けて」
「よくないです。私はハルが好きで…」
「ガルナも好き」
言い淀むであろう言葉をハルが先回りして答えた。
「はい、そうです…」
ライキルは力なく答える。
「いいんじゃないかな?これから、いままでよりもずっと深く三人で仲良く愛し合っていけば、それは幸せなことでしょ?」
「四人ですよ…」
そのライキルの返しに、ハルは少し微笑むだけで答えを示さずうやむやにしながら続けた。
「とにかくライキルだって、別に誰を好きになってもいいんだよ?俺だってそういう観点から見たら、ライキルを裏切りすぎて、もう一緒にいられないくらいだよ…」
「違います。ハルはいいんです。ハルはたくさん女性を囲むことで、それだけハルが生物として優秀ということだったり、周囲の人たちに威光を示せます。だから、なるべくハルは権力を持ったお姫様なんかを落としていくのがいいと思ってます。きっと育ちがよくて可愛い女の子が多いと思います。例外もいましたが…」
ここまでライキルを寛容にしてしまったのは、やはり、ライキルを一人だけを愛さなかった結果なのだろうか?彼女がこっちの幸せを願って言ってくれていることは確かなのだが、女性を装飾品のようにぶら下げる趣味はけほどもなかった。
しかし、このライキルの寛容さをハルは利用することに躊躇はしないつもりだった。ルナがその一例であるように、利用できるならいくらでも利用するつもりだった。すべては目の前の可愛い、可愛い、愛するライキルのために。
『あぁ、そうかもしかしたら、これからはもう純粋にライキルのこの戯言も、鼻で笑い飛ばすこともできなくなるのか…』
「ごめんね、ライキル…」
ハルはまっすぐ彼女の純粋な瞳を見つめて言った。
ライキルは意図のわからない謝罪に首をかしげていたが、わけも分からず彼女は無邪気に笑っていた。
「いいですよ、ハルのことならすべて許します!私もガルナのことも許してもらったので」
「別にライキルのその話は最初から悪いことじゃなかったでしょ?」
「でも、私、こう見えても結構悩んでたんですよ、このことで…」
「そっか、気づいてあげられなくて、ごめん」
「いいんです、もう済んだことなので、ていうかハルは何にも悪くないですからね」
ライキルはいつもハルの味方だった。それは敵がライキルでもだった。
「そろそろ、俺たちも寝ようか」
気が付けば、夜もだいぶ更けていた。ハルたちは持ってきた荷物の中から三人分の毛布を取り出し、一つは床に敷き、もう二つはライキルが寝ているガルナと使うといい、余ったものをハルが受け取り、毛布を掛けて眠りに着くことになった。すでに寝ているガルナを真ん中に三人で分けた毛布で眠りに着く。
そう、眠りに着こうとしていたのだが…。
ハルがガルナの隣で寝ようとしたとき、足元から何かが這いずりあがってくる感触があった。それは次第にハルの体を伝って上へ上へと上がってくると、ハルの胸の前でその這いずりあがってきた何かが、毛布の出口から姿を見せた。出口からはライキルが顔を出していた。
仰向けになって寝ていたハルの上に彼女が寝そべっていた。
お互いの顔の距離は近く、吐息が触れ合うほどで、彼女の目は眠たさなのかそれとも別の感情からなのかトロンと溶けるような視線をハルめがけて注いでいた。
「もう寝ちゃうんですか?」
「うん、もしかしたら、明日何か起こるかもしれないからね」
ここは宿ではあるが、ハルたちは決して観光などという愉快な旅の途中などではなかった。
スフィア王国の王都エアロを奪還するべく建てられた建設中の砦。軍事基地だ。不測の事態はあり得るのだ。
「だけど、その、いろいろ久しぶりで、しかも私とハルとの間の誤解も解けました。つまり、いまの私たちは愛し合っているという状態で、ですね。ここで、愛し合っている男女がすることといえば、ひとつしかないですよね?ほら、とっても仲良しの恋人同士なんかがするやつです」
そこまで言うと彼女の顔はすでに真っ赤に染まりあがっており、息もひどく荒く興奮している様子だった。
大胆に甘えてきたにしてはかなり回りくどい言い回しの彼女に、ハルは優しい微笑みを向けた。
「じゃあ、する?」
「ええ、しましょう!」
「わかりました、ライキル様に従います」
「よっしゃあああ!!」
***
窓から差し込む月明かりに照らされる中、二人で愛の再確認をしていた。
ライキルはそこでふと、ハルの広い胸を見て、思い出したくもないことを思い出してしまった。
それは、自分の振るった刀が彼の胸に風穴を開けるあの聖樹での出来事であった。その脳裏に焼き付いた光景は、急に蘇ってライキルの心をえぐった。
それが引き金となりライキルは一瞬吐きそうになったが、どうにか快楽に身を任せて思いとどまることができた。顔色が悪くなったライキルにハルが大丈夫?と声をかけるが、ライキルは余裕の表情を取り繕って何事もない自分を演じた。
「フフッ、大丈夫です、何でもないですよ?」
ライキルはハルの胸に顔をうずめて、いまは考えるのをやめ、彼の愛を一心に浴びた。
夜はさらに更け、新たな世界で愛し合った二人は深い眠りに着いた。
やがて世界に朝が訪れると、結界内の砦にも平等に陽の光が降り注いだ。
しかし、行為が終わった後もライキルはひとり眠れずハルの胸を空虚な瞳で見つめていた。
*** *** ***
世界はハル・シアード・レイを忘れ、新世界として生まれ変わったが、彼はちゃんとここに存在していた。
新世界に立った彼は、前よりも深い愛情を彼女に注ぎ、そして、どんな手を使ってでも守り抜くのだろう。
忘れても忘れられない失った記憶を元に彼は変わっていく。
今度こそはもう失わないように。
悲しい別れを告げないように。
世界を終わらせないように。
迫りくる理不尽な運命を殺し、襲い掛かるあらゆる悪意に牙をむく。
例えその身が、正義振りかざす私欲の化物、理不尽の権化、権力者の天敵、虐殺の天使を飼いならす悪神、偽りの英雄、破滅の邪神、信愛を弄ぶ魔王、に落ちぶれたとしても。
手に入れたかった。
死という概念を殺してまでも。
愛する人たちがいつまでも笑って過ごせる未来を。
自分自身が変わることで、彼はその理想に手を伸ばしていた。
光あれば闇あり。
光が強ければ強いほど、おのずと表裏一体の闇も濃くなり、その差が狂気を生む。
彼は愛に狂い世界を混沌に誘う狂人。
彼の笑顔の裏に災いあり。
*** *** ***