月と聖約
ハルは砦の敷地内にある宿から医務室のある医療棟に足を進めた。結界内は温度が一定で寒さも感じない。そして、結界を通して見る夜空は揺らいでいた。それでも見る必要もないほど今日の夜空は星もなく夜空が持つ本来の美しさを失っていた。
医療棟に向かう間、何人かのエルフたちとすれ違ったが声を掛けられることはなかった。少しだけ不満げな気持ちを抱えていたからだろうか?怒ってなどいないのだが、心はざわついていた。そのせいで少し近寄りがたい雰囲気を出していたのかもしれない。そう、少量の神威を纏っていた。少しの間ひとりでいたかったハルは、砦の中庭のような敷地内の木の下に座り込んで休憩した。
砦の中は森を切り倒し短期間で建設したため、敷地の中はまだ整備されておらず、森そのものというより、森である部分がまだまだ残っていた。そのため、あちこちに木々が乱立していた。
束の間のひとりの時間を終えると、ハルは先ほどルナを預けてきた医療棟の中に入った。
医療棟は比較的静かだった。夜も深いからか?それもあったが、そもそも、けが人が思った以上に出なかったことになった。それでもここまで医療棟を大きく作っていたのは、大規模な戦闘を想定してのことなのだろう。スフィア王国の女王様も王都の奪還を考えていないわけではなく、綿密な計画のもと実行したのだろう。そうじゃなければ、空っぽの大きな医療棟を建設するはずがなかった。
女王が一番王都奪還したい気持ちを抱えていることは何となくこの廃墟っぽい医療棟から沸々と彼女の意図が読み取れたような気がした。それでも医療棟の中身は出来立てですっからかんでほとんど外側だけ作ったようなできだった。
ハルはそんな巨大な廃墟のような医療棟を誰ともすれ違わず、ルナのいる病室に向かった。
病室は109号室と壁に直接刻まれた文字があり、その部屋に入った。
中に入ると、ルナが眠っているベットまでまっすぐ進んだ。彼女は一番奥の窓際のベットに寝かせておいたため、起きていなければそこにいるはずだった。
そこそこ大きい病室の簡素な作りの8つのベットは、ルナの眠る場所以外は、すべて空いており、広い部屋を彼女だけが独占している状態だった。
『贅沢な使い方だ…』
一番奥のベットまで行くとそこにルナの姿はなかった。そのことに関してハルはなんとも思わなかった。彼女がいなくなって焦りのひとつもしなかった。
「あ、あの、こっちです…」
背後から声がかかるとハルはゆっくりと振り向いた。そこには窓を開けて夜風に長い黒髪なびかせるルナの姿があった。
「起きてたんだ」
「ごめんなさい、その迷惑かけてしまって」
「うん、迷惑した。君を運ぶの大変だったんだから」
「ごめんなさい、えっと、ハルさんが私をここに運んでくれたんですか?」
「そうだよ、感謝して」
「はい、ありがとうございます!」
ルナは姿勢を正してまるで軍人のようにお辞儀をする彼女に緊張が見て取れた。ハルは無造作に彼女に近づいて、近くのベットに腰を下ろした。
「隣、座って」
黙ってうなずいたルナが密着するように横に座ると、ハルは傍にあった彼女の手を握った。
「ひゃう!?」
そしてハルは彼女の赤い瞳を覗き込みながら言った。
「俺と話すとき必要以上に緊張しないで、緊張してるルナは可愛いけど、何度も倒れられるとこっちが迷惑だから」
「あ、はい…」
ルナのとろけるような表情と視線を受け取ったハルはそれらをしっかりと受け入れてあげた。
「大事な話があるんだ」
「何でしょう…」
「ルナと交わした婚約のことでひとつ」
ルナの表情がひどく不安に包まれたように曇り、彼女はひどく取り乱し始めた。
「も、もしかして、なかったことに…あの、もう破棄ってことですか…」
「…………」
「やっぱりなかったことにして欲しい…そういうことですか?」
「…………」
「えっと、見捨てないでもらえませんか…お願いします……」
彼女の表情は絶望というより怯えに近かった。ハルはそんな彼女の表情の変化を黙って見守っていた。
ルナに対して飴と鞭のように接していた。彼女から自分に対する異常な愛があることを理解していた。その愛はライキルと似たような性質のもので、ルナがハルに崇拝じみた狂愛を抱いていることを、彼女と話していたときに見抜いていた。というよりかは、彼女自身が教えてくれた。
『私は神を信じる盲目的な信者のようにあなたを心の底から愛しています』
五年間という長い時間ずっと絶え間なくハルという人間のことを考えている彼女。それに命まで救われたとくれば、狂ったようにハルを信仰するのも分からなくはないが、彼女の場合は常軌を逸していた。
ルナのハル・シアード・レイという人物に対しての異常な執着は、もはや神への信仰と大差なく、ハルに愛されるためなら何でもするのが彼女の人生の指針になっていた。
ハルはそんな彼女の愛を利用する。
分かっていた。自分がしようとしていることは、自分が一番よく分かっていた。
『屑だな…』
自分が自分を鼻で笑っていた。
すべてはライキルやガルナ、エウスやビナの安全のため、ハルの手の届かない場所をルナという力を持った存在に守ってもらうため、ハルはルナを自分に心酔させ落としきるつもりでいた。
ハルはルナに愛を与える代わりに彼女の力と権力を手に入れる。まさに等価交換。自分の手を汚さずに汚れ仕事はすべて彼女に任せ、その報酬として愛を与える。安売りされた愛を。
『これでいい、間違ってない…ライキルもわかってくれる……』
ハルとは考えていることが違うのだろうが、ルナのことに関しては、ライキルの意志も介在していた。
ルナに愛を告げられたあの聖樹での出来事の時。断ろうと思ったがなぜかライキルに止められた。きっと、彼女もルナが影でレイドを支えてくれていたことを知ったからなのだろう。そうやってルナにライキルが懐柔させたことは想像がついた。
ライキルも悲惨な過去を持っている。そんな彼女は優しいからルナを放ってはおけなかったのだろう。そして、ライキルの所有物であるハルという人間を分け与え幸せにする。ライキルは本当に女神のような女性だ。他人の痛みを理解できる優しい女性だ。最高の女性だ。
だけど、そんなライキルの決定でも、ハルは、ルナを認められない部分があった。
それは裏切りについてだった。
いつか、彼女はライキルを消して、彼女たちから許しを得て分け与えられていた、ハルの愛を独占するのではないか?自惚れだと思うかもしれないが、ルナは飢えた目をしており、そして、何より、ハル本人もその気質があったからすぐに彼女が自分と同類だと分かった。
愛する人のためならなんだってする。世界だって敵に回すし、平気で殺す。手段は問わず、すべては愛する人に認めてもらうために…。
普通の人ならほっといても良かった。けれど、この愛に執着する性質をもった質の悪い人たち(自分自身を含めた)を放っておくことはできない。愛に飢えた人間はいずれ暴走する。その結果はいつだって悲劇だった。だからハルは、できるだけその爆発物の愛を自分の手中で大切に管理することにした。
つまりそれは、ルナのことを一生ハルの手で飼い殺しにすることだった。深い愛を与えて、爆発しないように、平等な愛という欺瞞に満ちた愛情で満たす。
それでもルナにとってそれは、紛れもなく愛そのものであり、それを見分けるすべなどないのだ。
まっすぐな瞳で見つめて、甘くとろける言葉で誘惑し、包み込むような優しさで抱きしめ逃がさない。心臓の鼓動を聞き合って、触れた体で体温を交換する。濃厚な時間で体を溶かす。
相手が抱えた爆弾でこちらを脅迫してくるのなら、いっそのこと偽りの愛で彼女たちを満たし、溺死させた方がずっと、ハルの周りの人たちは平穏な日々を送れるはずだ。
『何でもするさ。ライキルたちと平穏に過ごせる時間が増えるなら、なんだって…理不尽に脅かされない日々が手に入るなら、たとえこの身を落としても…』
勝手に想像した不幸な未来に怯えているルナのことを抱きしめるとそのままベットに二人で倒れこんだ。
「落ち着いて、先走んないで、俺がルナを見捨てることなんてないよ」と張り付けた笑顔は完璧でルナを一瞬で安心させ虜にする。
「ほんとうですか?」容易く信じる。いや、信じざるを得ない。
「嘘じゃない、証明してあげようか?」
そうするとハルは自分の唇をルナの潤った唇に優しくそっと重ね合わせた。なんてことないキスだったが、ルナはまるで神の奇跡を目撃したかのように、大きく目を見開いて固まっていた。
「これでどう?わかってくれた?なんならもう一回して欲しい?」
「お、お願いします…」
呆然と見つめるルナの瞳はどこまでも深い赤色で、吸い込まれそうな勢いがあった。
しかし、ハルはそれ以上ルナと唇を重ねることはなかった。
「ならひとつお願いを聞いて欲しいんだ」
「なんでも言うこと聞きます」
「そっか、じゃあ、婚約のことなんだけど」
「はい…」
「一度破棄ってことでもいいかな?」
「え……」
再び絶望に囚われるルナ。彼女の情緒は不安定になり拠り所を探していた。だが、そんな世界中の可哀想を集めたような表情の彼女に、ハルは優しく言葉をかけた。
「安心して、さっきも言ったでしょ?俺はルナを見捨てたりなんかしないって」
そういうとハルはベットに横たわる彼女のことを抱き起こし、ぬいぐるみを抱く子供のようにベットの上に座り、二人は互いに互いを抱きしめ合う形になった。
ハルは彼女の耳元にささやく。
「ルナは特別だから、みんなと一緒にしたくなくて、だから、結婚っていう形で結ばれたくなかったんだ」
「どういうことですか…わからないです。結婚が愛する人同士を繋ぐ絶対の絆なんじゃ…」
「結婚は絆じゃない。結婚は誓約だよ。結婚は愛あるものだけど、そこにはルールがある。人が作ったルールがあって、それが人と人を結んでるんだ」
「私もハルさんと結ばれたい…」
ルナの助けを乞うようなか弱い震え声が耳元に聞こえてくる。
「俺はルナとそんな誰かが決めたルールに縛られたくないんだ…」
急に寂しい声で同情を誘った。案の定彼女はこちらの言葉に即座に耳を傾けた。
「でも、結婚しないと、夫婦にはなれませんよ」
「ルナは他の人が決めた関係に収まりたいの?」
「私は、それが私の知る絶対的な幸せでした…」
「俺はルナともっと崇高な関係でいたいんだけどな?」
「それってどんな関係ですか?」
そこでハルは少しルナを体から離すと、彼女の顔を自分のくすんだ青い色の瞳に映し、そして、宣告した。
「崇めてよ」
その瞬間、ハルの体から凄まじい神威が放出された。敵意の無い神威はそのまま、ルナの体を突き抜けていった。ルナの目が釘付けになり、ハルから目が離せずにいた。
「崇める…?」
「そう、俺がルナの神様になってあげる」
バカげた話だと自分でも思った。だけど、彼女の真紅の瞳はギラギラと輝きを帯びていた。まるで彼女は本当にそこに神様がいるかのように、ハルを見つめていた。
「神には信者に無償の愛を与える義務がありますね」
そういうとハルは、物欲しそうに潤っていたルナの唇に再び自分の唇を簡単に重ねた。まるでそれが当たり前のことのように、しかし、それは彼女にとっては普通ではなかった。尋常じゃない多幸感で頭の思考が一瞬で焼き切られ何も考えられなくなっていた。幸せに耐性のない彼女は幸せで気絶しそうになるのを必死でこらえていた。
「悪くないでしょ、この関係?崇めてくれたらいつでも、してあげますよ」
落としきるために最高の笑顔を彼女に向けた。この行為が自分の心を腐らせていることを実感しながら。
ルナはもう言葉を口にすることができず、ただコクコクと頷くだけで精一杯のようだった。
病室には神威が吹き荒れていた。あらゆるハル以外の存在が薄れていき、ルナの瞳にはハルのことしか映っていなかった。愛のこもった優しい神の威光がルナを照らす。その光の先にはハルだけがいた。
「愛してるよ、ルナ」
神の言葉を聞いたルナは遂には涙を流し、祈っていた。
「私も愛しています」
祈りは確かに聞き届けられた。
欺瞞の神に。
ハルは目を閉じた。
***
私はベットに座らされていた。目の前には途切れた雲から病室の窓に差し込んだ月光に照らされた私の神様がいた。
彼は、今、私だけを見て、満ち足りた顔で微笑んでいた。
「今日はこの病室でゆっくりしてて、明日迎えに来るから」
「ハル様はここにいらっしゃってくださらないのですか…」
気を引くように甘えた声を出す。そう、いまはただ彼に甘えたかった。
「今日は一緒にはいられない」
今日はということは、いずれはともに夜を超えてくれるということ、それだけで私の脳内は麻痺し、自然と口角が上がってしまった。
「あと敬称も敬語もいらない、ハルでいいよ」
「ですが…」
「みんなの前でハル様なんてやめてよ?これは二人だけの秘密の関係なんだからさ」
二人だけの秘密。これにはゾクゾク来るものがあった。
「はい、わかりました!でも、その…」
「なに?」
彼がどうしたの?といった様子で覗き込んでくる。私は勇気を振り絞って彼の前で彼を、名前で呼んだ。
「ハル…」
「はい、ルナ」
しばらくお互いに見つめ合った後、ハルは私の頭を優しくひと撫ですると帰ることを告げた。
「じゃあ、また明日。これからよろしくね」
「あの!」
私は去りゆく彼の手を掴んで引き留めた。無礼だったかもしれないが、ちゃんと伝えたいことがあった。
「私、これからもあなたのためになんでもします。あなたを失望させないように頑張ります。私を愛してくれたこと絶対に後悔させません。それと、傍にいられることを感謝していますし、私はあなたをこれから一生崇め続けます…それから……」
「期待してるよ、私の愛しい人…」
彼はひとつ私に笑いかけると去っていった。
誰もいなくなった病室のベットに私は背中から倒れこんだ。気が付けば自分の体は滝のような汗をかいており、ベトベトだった。
「ハァ、ハァ…」
荒い呼吸が止まらなかった。体はいま起こった信じられない出来事に興奮していた。影から見守っているだけの彼と、明日も明後日も会えて、話せて、愛を育める。
「これが現実なの…」
今までのすべてのことがどうでもよくなりつつあった。すべてはハルのため、ハルさえいればルナの瞳に映る世界は完結していた。
「早く、明日になれ」
強く願えど夜明けはまだ先だった。
***
ハルは医療棟を出ると、夜空はすっかり、星々を飾り付け、月が顔をのぞかせていた。月光に照らされた中庭で独り、木造の宿に足を進めた。
「………」
『利用するなんてお前らしくない』
その言葉を思い出すたびに自分が自分じゃないような気がして怖かった。
「俺が俺じゃなくなっても、みんなの日々は平穏な暮らしであって欲しい」
結局、それだけがハルの願いだった。どんな時でも、彼の愛した人たちが幸せならそれでよかった。じゃあ、ルナのようなハルの手によって利用されるような人たちはどうなるのか?答えは簡単だった。
「どんな罪も最後には全部俺が背負うから…神様の俺が彼女を許すから…」
その時、黄色い瞳を輝かせ、金色の髪をなびかせるライキルの姿が思い浮かんだ。罪や穢れから程遠い場所にいる存在。清らかで無垢な人。
「あなたのためなら何でもします」
ハルにもまた神様がいた。それは自分の手の中で大切に守りたい存在に他ならなかった。ハルもその女神様に甘やかされ、愛されたかった。
「地獄に落ちることになっても、俺は…」
急いでその女神様がいる宿に戻った。少しでも彼女と一緒にいない時間を作りたくなかった。
夜空に浮かぶ月が、ハルを照らしていた。