尾行者
全員の視界からハルが消えたのも束の間、背後から凄まじい音がした。みんなの最後尾にいたビナが振り向くとそこには闇が広がっているばかりで、何もなかった。前列ではハルが居なくなったことで騒がしくビナの心にも気忙しさを運んでいた。ビナは背後の闇の奥をただ見つめていた。
みんなが灯す炎の明かりが鈍く光っている。ハルはみんなから数百メートルほど離れた適当な木の裏に移動していた。そんなハルの右手には木の幹に押さえつけられ、鷲掴みにされている尾行者の頭があった。
「動いたら殺す」
ハルの手にかかれば人間の頭など数秒で砕き圧殺で来た。脅しではないことを分かってもらうために、じりじりと大声を出さない悲鳴が出るくらいの力で指を食い込ませた。
しかし、尾行者は拷問されることに慣れているのか悲鳴ひとつあげなかった。
「何が目的だ?なぜ彼女のことを狙った?」
「………」
質問に答えない尾行者の頭にさらに力を込める。声は出さなかったが身体が激痛に勝手に反応し始める。力は緩めないすでにその尾行者はハルの怒りを買っていた。
「答えろよ、口ついてるんだろ?」
尾行者の顔は自分の拷問の手でよく見えなかったが、口はしっかりついていた。荒い息を吐いていた。さらに尾行者は、目元を覆った黒い仮面をつけて、夜に紛れる暗殺者の様な格好をしていた。と言うよりかは、暗殺者なのだろう。
夜に紛れて人の死角から忍び寄る、この尾行者の追跡能力の高さには驚かされた。そんじゃそこらの刺客とは格が違うのかと思わせるほど、尾行者からは音や匂いが無く、闇に紛れたこの尾行者は誰よりも存在が希薄であった。
だが、相手が悪かった。ハルの周りにいる人間に死は訪れることはない。世界に充満し蔓延っている悪意が群がって来ても、天秤がつりあうことはない。ハルはこの世の悪意に対しての理不尽そのものだった。
「私を殺したら、あなたは罪人になりますけど…」
「だからなんだ?」
「あなたにその覚悟があるんですか?」
命乞いにしては、声も震えておらず、どこか毅然とした態度が目立つ言い方だった。
「いま上からものを言える立場にあるのはどっちか、知ってたか?」
「殺すんですか?私みたいな一介の暗殺者を?」
こんな生き死にが掛かった状況で挑発してくる尾行者の気持ちがしれなかった。それともまだ自分が助かるなんて淡い希望を抱いているのだろうか?そうだとしたら、哀れな平穏のための犠牲者だった。
『面倒くさいし、殺すか…』
ハルが力を込めようとした時だった。
「英雄であるあなたが?」
そこでハルの指の動きが止まり、すぐに力を緩めて離してやった。
どうやら、尾行者はやせ我慢をしていたようで、すぐにその場に倒れ込むと自分の頭に穴が開いていないかあちこち触って確認していた。
「君、何か知ってるね?いろいろ質問に答えたらお家に帰してやってもいいが、答えないならこれまで生きて来たことを後悔させるほどの目に合わせるけどいい?たぶん、辛いって言葉も嫌って感情も出てこないほど後悔すると思うけど…」
前に腕を組んでハルは、彼に選択肢を与えた。けれど、その尾行者にゆっくりとハルの神威が忍び寄る。答えによっては禍々しい神威が尾行者の身体を弄ぶことは確実だった。その神威には尾行者も勘づき、強がった表情を見せたが身体だけが全力でこの場から逃げることを選択しようと必死だった。
「最初の質問、俺のことなんで知ってるの?」
木の幹に背中を預けた彼が、迫る神威を払いのけようと限界まで後ずさっていた。しかし、後ろには遥か昔からそこに生えていた木があるのでそれ以上後ろへは行けなかった。
「知ってるも何もあなたは有名人だ。知らない人はいない…知っていても何も不思議じゃないだろ…」
「世界は変わったと聞いたけれど?」
「…あぁ、そうだな、どういうわけか、確かにあなたは忘れられた。私の周りでも君を知る者はいなくなってしまった」
尾行者の彼の言葉で初めてハルはみんなに聞かされたあれやこれやの、この世界に忘れられた自分の存在を確認した。きっとハル・シアード・レイは消滅したのだ。大多数の人たちの中から完全に消え去ったのだ。だから、自分を知ってくれている人は貴重だった。例えそれが自分たちを狙って来た暗殺者だったとしても。
『そうか、みんなの言ってたことはやっぱり本当だったんだな…』
ハルは星の無いのっぺりとした夜空を見上げた。そこにはどこまでも闇が広がっていた。
「私も聞きたかったのですが、なぜこんなことが起こっているんですか?」
思い上がったのか尾行者の彼が質問して来たので、ハルは無視して言った。
「誰に言われて俺たちを狙った?ここは慎重に答えろよ」
ハルの神威は彼の目と鼻の先まで来ていた。そのためか、彼はべらべらと口早に質問に答え始めた。目に見える死を超えた恐怖を目前に段々と彼の素が見え始めていた。いや、人間みんなが持っている元来の姿であろう。誰だって、絶望に染まりたくはない。
「えっと、わ、わたし、お、俺は、ただここら一帯の警備をしていただけで、ハルさんたちにはたまたま出会ったのが本当のことなんです!つい、あなたの実力を測ってしまいたくなったんです!神獣殺しの英雄の底を、でも!無理でした。殺してもいいので、その俺のこの目の前まで迫っている魔法を解いてもらっていいですか!?」
魔法なのかハルもいまいち神威についてまだ知識不足のところがあったが、彼にはもう戦意のようなものがなかったので、神威を放つのもやめてあげた。別にいつ何時、襲いかかって来ても返り討ちにできる程度の実力差がある相手に、身構える必要もなかった。
だから、ハルは少し気になったことを聞くことにした。もう、ハルにも彼に対して敵意をむき出しにすることはなかった。なんなら、いまの彼はなんでも喋ってくれそうだった。
「警備って言ったけど、ここはエルフの国で君は人間に見えるんだけど、どういうことなの?ここらへんで警備員として雇われてるの?」
「…あ、そうだ、ハルさん、あなたに一緒に来て欲しいんです。今、エルフの国が大変なんです!!」
「どういうこと?」
「スフィア王国、王都エアロが陥落しました」
「はあ?」
自分がいなくなった間に六つある大国のうちのひとつが落ちたとは、なんともまあ、想像しにくい出来事ではあった。
「ハルさん、あなたの力が必要なんです」
尾行者の彼が神威の恐怖が去ると、ゆっくりと立ち上がって仮面を取った。
「俺は、サム・フェルトル・アサイン、帝国の特殊部隊です。ここには平和維持のために来てます」
夜に染まる黒い髪に、灰色の瞳が静かに力強く闇の中ハルを見据えていた。
「ハルさん、どうか、スフィア王国の混乱を治めるために力を貸してくれませんか?」
その瞳に悪意はなく、真摯な思いだけが詰まっているように見えた。帝国に属していながら他国を助けてくれとはなかなか、勇気のある決断であると同時に、ハルはその暗殺者にしては真っ直ぐな瞳に、心打たれると二つ返事で快諾した。
「わかった、いいよ」
サムの顔に希望が満ち溢れ、彼はすぐに歩き出しついて来て欲しいとお願いし、そして、その際に彼は嬉しそうに言った。
「ハルさんがここに居てくれて本当に良かったです!」
「まだ、何もしてないけど…」
「あなたはこの大陸の希望です。あなたが味方にいてくれれば、途端にどんなことも怖くなくなります」
「それにしては、最初に俺たちを襲おうとしたのはどうしてなの?」
「さっきも言いましたが、自分の実力を試してみたくなったのと、人質をとって交渉に持ち込もうとしました。失敗しましたが」
暗殺者としての彼はどこかに消え、まるで少年のように憧れの目でハルを見ていた。
「殺されるとは思わなかった?」
「ハルさんが人を殺さないことは知ってたので、ただあれです。あの殺気だけは勘弁して欲しかったですね」
「………」
サムの後で聞こえない声でぼそりと呟いた。
「どうかな…」
その後、ハルとサムは、みんなの元に戻り、合流するのだった。
夜の闇が深まる。