伏兵
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青い瞳を通して見る現実は鮮明で美しい。というありきたりな使い古された言葉で、それでもやっぱりそれ以外の言葉での表現がしようがないくらいこの世界は美しくて、この世に生まれて良かったと思う。
呼吸をすれば白い息が空に霧散する。目覚めれば世界はいつだって俺の目の前に広がっていて、今ここに存在して生きているんだと自覚できる。
そんな世界で僕は君に、君たちに出会った。
君が、君たちがいれば他に何もいらない。そう思えるくらい俺は君たちのことが大切だと思うようになった。俺が出会った君たちはとても素敵で魅力的だった。そんな君たちのことを考えた時に思うことは、ただ、ひとつ幸せであって欲しいそれだけだった。
そのために俺ができることは、手の出しようもない大きな脅威から君たちを守り遠ざけることだけだった。
君たちが健やかに幸せな日々を送れれば、俺はこれ以上にないほど幸せだった。
ベットで目覚めて、朝の陽光差す中、食事が並べられたテーブルの向こうで、大切な人におはようと言って微笑んでいる。そんな日常がこれから先絶え間なく続いて行けばそれだけで良かった。
他には何もいらなかった。
だから、忘れてもいい。
君たちの中から俺が居なくなっても、遠くで君たちが笑って楽しく過ごせているなら、俺の願いが叶っているのとなんら変わらない。
君たちの日々がちゃんと幸せで満ちているのならば、俺という人間を無理に思い出す必要もない。
世界は何度も新しく生まれ変わり姿を変える。
そこに君たちの変わらない笑顔があれば俺は…。
なんら構わないことなんだ。
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聖樹の頂上はねじれ木が入り組んで成り立っているため、地面がでこぼこしていた。
テントを張る際、テントと地面の接地面を安定させるため、ねじれ木の幹を削り平らにした状態でテントを張っていた。
テントは全部で三つあり、ひとつはルナがレキに用意させたテントを、もう二つはライキル、ガルナのテントがひとつ、エウスが持って来たテントがあった。もちろん、ルナ以外の二つのテントは聖樹の頂上にはないので、移動が大得意なレキに頼んで運んでもらっていた。
そんな三つのテントから出てすぐのちょうど中心の場所には、みんなでねじれ木を削り成形加工して作った小さな憩いの場があった。即席の間に合わせではあったがなかなかに出来はよかった。
人数分のねじれ木を加工して作った椅子が八席あり、その椅子たちの中央には焚火ができるように地面のねじれ木が少し削り取られ、そこに平たい鉄の大なべが敷かれその上で炎が上がっていた。
そして、そのちょっとした広場でハルは椅子に腰を下ろして、みんなと焚火を囲んでいた。
「ということで、ハルくん、どういうわけか世界は君のことをなかったことにしているんだ」
レキから告げられた、信じられないような言葉を吟味しながらも思案を巡らす。
ハルはみんなから黒龍討伐後にあった出来事を聞かされていた。
ハル・シアード・レイの消滅。その消滅により生じた世界改変。朱鳥は安定化し害は無いということ。大まかにそのような内容を大雑把に語り、ハル救出のため、みんながこの聖樹に集ったことを教えてくれた。
その中でもやはり、自分の存在が世界から消えているという事実だけはいまいち実感が湧かなかった。
「その神威ってものがあればみんなは俺の記憶を思い出すんですか?」
「神威はそんなに便利なものじゃないが、どうやらそうらしいね。ここにいるみんなは君のことを思い出しているから」
「そうですか…」
【自分が持っていた力】(天性魔法とはまた別の力)に【神威】という名前があることは知らなかった。
以前から無意識に使っていたその神威という力は、ハルにとって相手に対しての威圧または無力化の手段であり、無駄な争いを生まないため重宝していた。
『そうか、神威か、そんな名前があったんだな…』
ハルは感慨深くその新情報に浸っていると、耳元でぼそぼそと声がした。
「私も頑張って覚えたんだよ…ハルに逢うために…」
「うん、ありがとね…」
ハルの膝の上にはライキルがいた。恥も外聞もかなぐり捨てて彼女はハルにしがみついていた。みんながそれぞれ自分の席に座っているのにも関わらず、彼女だけがそのハルの膝の上という特等席を欲しいままに独占していた。
ハルも最初は彼女との再会に胸を躍らせ抱きしめたが、いつまでも離してくれない彼女に、どうしたものかと頭を抱え始めようとしているところですらあった。
どれだけ言っても離れてくれず諦めたハルは、これからはこのまま彼女を抱えたまま生きて行く決意を固めようとしていた。
『ライキルとの密着生活。いいけど、どうやって暮らしていこうか………』
と、まあ、そんな冗談はさて置き、いや冗談とも言い切れない状況ではあったが、彼女には心身ともに疲弊させてしまったことや、自分に会いに来てもらうために無理をさせてしまったことについてハルは深く反省していた。
もちろん、ハルとしてはもう会えないと思っていたため、そんな自分を追いかけて来てもらうことは無いと諦めていた。だが、ライキルの愛はそんな一方通行の身勝手な別れに屈しないほど強かった。それがハルにとっては何よりも嬉しかった反面、彼女を危険な目に合わせたことを後悔しているのは確かだった。
それにここにいるみんなにも同じような大変な思いをさせてしまったことをどうしても申し訳なく思う自分がいた。ただ、それと同時に嬉しかったのもまた事実ではあったが、そろそろみんなのハルと言う男に対しての独断行動並びに放浪癖にしびれを切らしても仕方がなかった。みんなを守るためだったとは言え、心配を掛けられた当事者たちからしたら、たまったものではないのはライキルを見れば一目瞭然だった。
「ライキル、ごめん、また君を遠ざけるようなことをしてしまって…」
そこでハルは赤子を抱き上げるように軽々とライキルの身体を持ち上げた。見上げると泣きはらした後の赤い顔をしたライキルが離れるのを嫌がり手を伸ばす姿があった。それはまるで駄々をこねる子供のようだった。
「ハル、私を遠ざけないでください…」
「これからは、なるべくみんなの傍にいるよ」
ハルは立ちあがって、代わりにライキルを自分のいた椅子に座らせた。そして、ハルはいつものエウス、ガルナ、ビナ、ライキルに向かって頭を下げた。
「みんなには凄い心配と迷惑をかけました。ごめんなさい…」
その対応にいつもの彼らは様々な反応を示した。
ビナはどうしたらいいか慌てた様子で、隣のエウスを見たり、忙しなく身振り手振りをして視線を泳がせており、エウスはそんな彼女を見てクスクスと笑っていた。
ガルナに関しては何か言いたげな顔をしていたが懸命に自分を押さえこむように黙り込んでただじっと固まっていた。
ライキルは慈愛に満ちた眼差しで見つめていた。
「それと、レキさん、ルナさん、ギゼラさんには、ここにいる彼らに力を貸してくださって本当にありがとうございました。あなた達の手助けが無ければ俺とみんなはこうして再会することができませんでした」
ハルはレキとルナとギゼラが居た方向にすぐに身体を向け深く頭を下げて心からの礼をして、この場にいる一羽を除いた全員に頭を下げた。
「なんていうか、別に僕たちは君に礼を言われるような人間ではないさ、なあ?君たちだってそうだろ?」
レキが大人の余裕を見せながら、ルナとギゼラに振り返った。
するとそこには緊張で震えながら地面の一点しか見つめていないルナと、それを面白がっているギゼラの姿があった。
「えぇー、そうですね。私たちというよりかはここにいるルナさんはめちゃくちゃハルさん救出のために頑張ったんので、それなりのご褒美は欲しいですけどぉ?あれ、そうですよね?ルナさん?」
金髪のウェーブをなびかせるギゼラが、ルナの肩に手を置くと、彼女はビクッと身体を震わせ息を止めていた。
「ルナさん…」
【ルナ・ホーテン・イグニカ】彼女はレイド王国を裏から支えている組織のボスであり、ホーテン家という由緒ある家系であった。彼女のことは彼女自身から直接聞かされたため、知っていた。
しかし、なぜここに彼女がいるのか?その真意が読み取れずに頭を悩ませていた。レイドにとってハルは重要な戦力であるため回収しに来たか?国に反逆する意思がないかの確認と言ったところなのだろうか?始末しに来たのならすでにタイミングは去っており、周りにいる誰を人質にしてもハルは返り討ちにできる自信があった。そう、もはや自分の前で不測の事態は起きようがなかった。
それは自分の中にある力が素直に自分の意思で動かせる点にあった。力の調整をしなくても自分の力を取り出したい分だけ、オーバーすることなく、ぴったりと制御できるようになっていたからであった。まるで今まで余分だった力が引き抜かれたかのように身体の調子も以前より快適で調子が良かった。
「何か欲しいものとか、して欲しい事とかありますか?お礼をさせてください」
椅子にジッと座り前かがみの状態で、手入れの行き届いた黒い長髪を前に垂らし顔を隠すルナ。ハルとは絶対に目を合わせないぞという強い意思を感じた。さらにそこでルナの神威というものを感じ取ることが出来、彼女が妙に殺気だっていることに気が付いた。
『怒ってるのかな…まあ、流石にレイドに報告も無しだったからな……まずい事したかな…』
殺気立つ彼女にハルは少し身構える。彼女の強さは、実際に解放祭で体験しており、とっても腕の立つ人だということは知っていた。
『でも、大丈夫』
それでも、今のハルならば周りに一切の被害を出さずに彼女を沈められる自信があった。これは前の時にはなかった感覚であり、自分の中にあった抑えきれないほどの莫大な力を克服できたからだと確信していた。
ハルの中にあった余分ともいえた力はすっかりどこかに消え去っていた。
黒龍と戦っている最中に全て出し切ったのか?それとも、自分が眠っている間に何かあったのか?答えは全く分からなかったが、とにかく以前よりも自身の力の制御が良くなっていた。
どれくらい良くなったかというと、ここで朱鳥と本気の殺し合いをしてもみんなを守り切って圧勝できるくらいには、力の制御ができるようになっていた。
もともと、膨れ上がり続けるその謎の力は、小さい頃からであり、制御しようという試みは以前からしていた。そのため、その力を抑え込む稽古を積み重ねて来たという点も大きいとは思うが、この聖樹で目覚めたのを境に、急に力が抑え込めたというよりかは、消え去った感覚は、どうにも納得のいかないものはあった。今までの積み重なて来た努力が報われた感じがまるでしなかったからだ。
それでも、今のハルの調子は絶好調だった。
余分な脂肪が筋肉に変わったように、万能感にさえ包まれていた。だから、何となく、態度も余裕で落ち着き払っていた。
まあ、それも長くはもたなかったのだが。
「俺にできることなら何でもしますよ?」
「何でも…ほほう…」
ルナに言ったつもりだったが、隣にいたギゼラが怪しい笑みを浮かべた。
「じゃあ、私と結婚してください!」
満面の笑みのギゼラからの一言で、場が静まり返った。数キロ先までその静けさは一瞬で広まった。場が凍りつくというよりかは、場が一気に真空状態になり生物が即死するような空間が突如辺りを満たしたといった感じで、状況と言葉一つで地獄は顕現するのだと思い知らされた。
塞ぎこんでいたルナが顔を上げ目を大きく見開いて呆然とギゼラを見つめていた。耳を疑うような言葉に理解が追いついていない様子だった。
それもそうだ。告白されたハルでさえこの状況に整理がつかなかった。ただでさえ、目覚めたばかりで混乱しているのにこのとっ散らかりようは制御しきれなかった。
「身元もなくなったあなたを私が保護してあげますよ?」
ハルはその言葉に納得させられる部分があった。それと同時に失ったものの大きさを改めて思い知った。
「今のハルさんは、たぶん元剣聖でもなんでもないただの一般人です。どの国にも属していない身元不明の浮浪者です」
「あ、そうか…」
目覚めてからレキやみんなから告げられた自分が眠っていた間の話を合わせると、ハル・シアード・レイという人物は世界から存在を消し去られ、ほんの一部の神威という特殊な技術を持った人間しかハルのことを思い出すことが出来ないようで、自分が今まで暮らしていた世界とは全く別の世界と思った方がいいとさえきっぱりと言われていた。
今までのハル・シアード・レイは死んだも同然とまで言われた。
それはなかなかに心に来るものがあったが、こうしてまたみんなに出会えただけで奇跡であった。みんなを救えた上に、こうしてまたみんながいる。これ以上何かを望むのも欲張りで、ライキル、ガルナ、それにエウスやビナ、彼らが思いだしてくれただけでも十分だった。
もちろん、忘れてしまった人たちの中にはハルという人間を思い出してもらいたい人たちもいた。
だけど、それは間違っているかもしれないとさえ思う自分がいた。
それは今、自分が身に纏っている黒いローブがなによりもの証拠だった。
その人がその人らしくいられること、それは素晴らしいことだ。そこに無理に部外者が立ち入ってはいけない。あなたはこうだと勝手に決めつけてはいけない。消滅してゼロになったのなら、そのゼロはゼロのまま、そこから新しく始めるべきなのだと君だったら言うのだろう。ハルもそう思っていた。
「私がレイド王国でハルさんの身分を保証してあげます。貴族は無理でも一般市民程度の地位なら今すぐにでも取ってあげられます。それくらいの根回しなら私にもできますからね!」
ギゼラが得意げにどこか裏のありそうな笑顔で応えた。そして、彼女は勝ち誇ったかのような顔でルナを見下ろした。
「どうでしょうか?私をあなたの花嫁に迎え入れてはくれませんか?後悔はさせませんよ?」
彼女は自称セクシーで誘うようなポーズを一生懸命決めていた。
深い沈黙が包み込み、誰もがハルの返答を待っていた。後ろにいたライキルが何も発言しないのも不気味だった。
もちろん、断ることもできた。断ることはあまりにも簡単だった。ハルにとって市民権はそれほど必要なものではなかったし、無理にレイドに戻る必要もなかった。むしろレイドに戻ることはなんだか、今のハルからしたら気が引けることだった。
しかし、それでもその話を無下にできない自分がいることも確かだった。
それは一度ハルが似たようなことで大きな失敗をしているからであり、愛とは時として人を激しく暴走させる。それも自分の知らないところでその暴走は加速する。それが力を持っている人であれば尚更だった。なんとも自己陶酔的な解釈ではあるが、実際にそれで巻き起こった事件は多くの人を不幸にした。
シフィアム王国が復興しつつある今それは唯一の救いなのだろう。
ハルは何も言わず、後ろにいたライキルとガルナを一瞥すると、ギゼラに歩み寄った。
そこで調子に乗っていたギゼラの顔にも段々と焦りが見えていた。目が泳ぎ始め笑顔もぎこちなくなり始めていた。
ハルはそこで彼女の手を取り自分側に引き寄せ顔を近づけ言った。
「それ、本気で言ってますか?」
丁寧に、けれど恐ろしく真剣にハルは彼女がうわごとを言っているのかどうかを確認しようとした。からかっているのならそれでもいい、だけど、もし、本気ならこちらも真面目に答えなければならない。たとえその答えが断ることになっても彼女が納得のいく結果に導かなければならない。同じ過ちを繰り返すわけにはいかない。誰の愛だろうとぞんざいに扱ってはいけない。ただ、それだけだった。
「…はえ、あ、えっと、その…」
「あなたが本気でそう言うのなら、私に、いえ、私たちに少し時間をくれませんか?」
ハルの奥まで見透かすような本気の青い瞳と、彼女の動揺している黒い瞳が互いに映り合う。ハルは真剣そのものだった。冗談でも誠意を見せることに重きを置いた。
「は、はい、も、もちろん、だ、大丈夫です」
「ありがとう」
ハルはギゼラから離れる際に、屈託のない笑顔で笑った。まるで二人だけの秘密を語り合った後のように、ハルは彼女にだけ向けた笑顔を見せた。ギゼラはその笑顔から目が離せなかった。
地獄のように静まり返った中、ハルはライキルとガルナの傍に戻るとひとこと言った。
「後で三人で話す時間が欲しいんだけどいいかな?」
申し訳なさそうにハルが二人に声を掛けると、止まっていた時が動き出したかのようにライキルとガルナが慌てて頷いていた。
ハルが改めて視線を前に戻すと、そこには一糸乱れぬ視線でこっちを凝視しているギゼラと、流れる時の中で口を開けたまま呆けて固まっているルナがいた。
「えっと、それじゃあ、これからみなさんどうしますか?」
ハルはカチコチに固まった空気を和らげるため、今後の話題をみんなに振った。その合図に、フォローするようにレキとエウスが率先して話に加わって来て今後の予定をみんなで決めることにした。
みんで話している途中、ギゼラの調子はあからさまに上がっており、隙があれば何度も盗み見るようにハルのことを見たり、完全に意識していた。
隣にいたルナは目を見開いたままただ地面の一点を見つめていた。
その話し合いは、ひとまず朝食を取ることを優先することになり中断された。結局、その短い話し合いの中では何も決まることはなく、朝食を取りながらでもゆっくり決めることになった。