明けの明星
夜が訪れてからだいぶ時間が経ち、真夜中の深い静寂も超えて、朝に降り注ぐ陽光の気配が東の空からチリチリ聖樹に忍び寄る。日付は変わりすっかりその日の一日が早くも始まろうとしていた時、質素な寝袋の中からひとりの青年が身体を起こした。彼は寝起きの定まらない思考と深い睡魔と格闘しながらも、自分がどこに居てこの目覚める前に何をしていたのか昨日の記憶を思い出そうとしていた。しかし、それに関しては全く何も思い出すことができなかった。何があったかまるっきり頭の中からすっぽりと抜けていた。まるで酒宴で飲みすぎ記憶を吹き飛ばしたように昨日というよりここ最近の記憶がぼやけて曖昧だった。ただ、彼はそれがまだ寝起きのせいだと思っているところがあり、まずはここがどこだか探ろうとした。
寝ぼけ眼で辺りを手探りで探っていると、何かむにゅりと柔らかいものに当った。その感触にビックリした彼はすぐに手を引いて、目を軽く擦り視界を鮮明にして、そこにあるものがなにか確認した。
そこには彼が、【ハル・シアード・レイ】がよく知る女性が眠っていた。
ハルは彼女の名前を呼んだ。
「ライキル…」
金髪ロングでしなやかなバランスの良い筋肉を持ち、鋭い美しさを無自覚に振りまいては他の男と女両方を惑わせるような美貌を持った女性であった。みんながみんな彼女を好きになり、彼女の魅力について語れば、口が塞がることが無いほどハルの愛しの女性であり、将来を誓い合った大切な人だった。
どうして彼女がここにいるか分からなかった。そもそも、ハルはこの状況を上手く飲み込めずにいた。
だが次第にハルの頭も必死に考え時間が経過してくると、頭が冴えて自分が何をしていたのかじわじわと記憶が溢れかえってきた。
「そうだ、俺、黒龍殺した後、エルフの森の朱鳥を狩りに…あれ……」
頭上を見上げればそこには低い簡易的な布の天井があり、ここがテントの中だと分かった。ハルは質素な寝袋にライキルと一緒に添い寝をしていた。
これはほとんど夢と言って良かった。ありえない現実がハルの前に広がっていた。
「ありえない…俺の隣にライキルが……」
そして、ライキルとは反対方向の右隣を見るとそこには半獣人のガルナの姿もあった。ボサボサのピンク色のような金髪が前見たときよりも少し伸びていた。天真爛漫で彼女に会うたびにハルは心が癒されていた。しかし、そんな彼女は破天荒で暴力的な一面もあった。ただ、そこに関してハルは愛情や彼女よりも厄介な怪力でカバーできるため何も問題はなかった。そう、ただ彼女もハルが将来を誓い合った女性のひとりで大切な人だった。
「ガルナまで、どうしてここにいるんだよ…」
ハルはそこで一瞬嫌な想像が頭をよぎり青ざめてしまった。それはハルが自らの手で殺してしまったのではないかという疑問だった。
記憶が正しければハルは自分の中の殺意が具現化したような、触れただけで対象の命を奪ってしまうような力の波を抑えられずにいた。半径数十キロはくだらない広範囲の死のフィールドの展開。ハルの周りはまさにキルゾーンとなり、自分に生身で会うことが出来る生命などまずいなというのがハルの見解だった。
黒龍を討伐してからハルが率先して取った行動がその殺意の抑制であった。四大神獣討伐も自分にしかできないことであり、どうにか残りの二体を狩ろうともしたが、それ以前にあまりにも自分の内側から無限に溢れ出る死のエネルギーが障害となっていた。
そのため、人気が無く尚且つ、目標だった四大神獣の朱鳥がいるなどある意味ではハルが黒龍討伐後着地に選んだエルフの森は正解とも言えた。エルフの森に入ってからハルはずっと自分の殺意を止めるために必死だった。黒龍を討伐した後はすぐに聖樹の頂上にいた朱鳥の前に降り立ち、それと同時に朱鳥のことはバラバラの肉塊にすることには成功した。というより、黒龍を討伐した余力が有り余っており、朱鳥に関しては相手にすらならなかったことを覚えていた。しかし、それも朱鳥の再生力を知らない間までだった。
朱鳥を一瞬で肉塊にしても、その鳥は死という概念を覆し再び炎と共に蘇りハルの手を煩わせた。殺しても、殺しても蘇る不死鳥にハルは頭を悩ませた。困り果てているところに悲劇は重なった。
ハルは自分から溢れ広がる死の波動の制御に集中しなければならなくなるほど、ハルの中の力が暴れ始め、手が付けられなくなっていった。下手をすればその死を運ぶ波動はエルフの森を超えて人々が暮らす、大陸全土に広がる恐れがあった。
そうなってしまえば、朱鳥の相手をしている場合ではなかった。ハルは一割にも満たないカスのような力を朱鳥の惨殺に割いて、残りの全てのリソースを自分の中の死の波動の抑制に力を入れた。
ハルが恐れていたことはその死の波動だった。もし止まらなければハルはこの世を去る覚悟もあった。
自分の中で育ち続けていた闇は、四大神獣の脅威を軽く凌駕していた。そう、ハルは完全に四大神獣よりもよっぽど自分の方が人類にとって害悪であることに気づき始めていた。
白虎や黒龍のように人類が抵抗すればもしかすれば生き残れるチャンスがあるかもしれないのに対して、無限に隙間なく広がる死のエリアであるハルのキルゾーンはあまりにも無慈悲と言えた。それはもはや死神の鎌で逃れられるものではなかった。
そんなこんなで自分のような死を振りまく怪物の傍に人がいるのはおかしいと言うのがハルの導き出した結論であった。
それにたちの悪いことに最愛の二人が傍で眠りについているように見えるのが救えなかった。
ハルは傍で眠るように死んでいる二人を眺めた。
「俺が殺したのか…」
ハルが傍で目を閉じていたライキルを抱きかかえようとした時だった。ハルは慌ててライキルの口の前に手をかざした。
「!?」
彼女は息をしていた。それだけじゃない。胸に耳を当てると確かに彼女の心臓が脈打つ音が聞こえた。
「はぁ?」
混乱したハルの心臓の脈打つ音の方が早くなりつつ、急いで反対で目を瞑っているガルナにも同じように口に手をかざし呼吸を確認した後、胸に耳を当てた。
生きていた。というよりも、二人ともただ眠っているだけであった。
「嘘だ…」
もう会えないと思っていた。
黒龍討伐後はもう普通の生活、普通の人間に戻れないことは何となく分かっていたから、ライキルたちとは黒龍討伐直前の別れで最後かと思っていた。
ハルはしばらく二人の寝顔を交互に見守り、早く目覚めてこの不安な気持ちを吹き飛ばして欲しかった。もしもこれが夢ならば覚めて欲しくなかった。
ハルは身体を震わせながら、ゆっくりと立ち上がり、今すぐこの場から逃げ出すことを決めた。自分の手で彼女たちに手を掛けてしまえばもう戻ることが出来ない。失う恐怖に囚われハルは目の前にあるぬくもりから遠ざかろうとした。
テントを出て目の前に広がる光景を目にするまでは。
「やっぱり、夢だったか…」
この世のあらゆる存在が気忙しく焦り出す。世界の終わりが顔を覗かせ悲鳴を上げる。たった一人の純粋な怒りが、万物の生と死を左右する。警鐘が必要だった。覚悟をする必要があった。彼の激しい情動が世界を揺らすから、生きとし生ける者たちは、どうしようもない命の危機に焦燥する。だが、実際にその振りかざされる理不尽な彼を目の当たりにすれば、誰もが諦観するだろう。
テントを出たハルの先には澄んだ空気の中差し込む黄金の陽光をたっぷり浴びながら、無防備に眠る四大神獣朱鳥の姿があった。
夢とはいつもでたらめで、つじつまが合わなくて、楽しく意外性があって、でもとても寂しいものだった。
ハルが朱鳥に右手をかざした。何も考えずただ自分の身体をめぐる力をその右手に収束させた。その力は無垢な光となって現実に顕現した。眩い光の粒たちがハルの手元で燦然と輝く、だが、その美しい光には大量の死が内包されていることは明らかだった。
突如現れた急激なエネルギーに、周囲一帯の大気が震え始めた。まるで当たりの存在を押しのけて捻出されるその光は世界に対する暴力そのものであった。
不気味な音をたてながらその輝きは増していくばかりだ。
そこで、朱鳥が目覚めた。
身の危険が迫っていることにいち早く気づき戦闘態勢に入ろうと大きな翼を広げた。視界いっぱいが赤く染まり、朝の陽光を遮りハルの周りには影が落ちた。
しかし、闇に染まることは決してなかった。ハルの手元で輝く光が周囲を照らし出した。
そして、その光を目撃した朱鳥の動きはピタリと止まった。飛び立つことも抵抗することも諦め悟った。
それもそのはず、彼の手の中に凝縮されたエネルギーは、たった一羽の鳥を殺すためのちんけなものではなかった。そのエネルギーは夢を吹き飛ばすためのものであった。つまり標的はこの世のすべて。
世界はたった今、一人の青年の勘違いで終ろうとしていた。
「この夢から覚めたら本当に殺してやるよ…」
ハルの手のひらからその光が自由になろうとしたときだった。
「ハル…?」
聞き馴染んだ声がハルの耳に届いた。
世界がそこで終わることは無かった。
煌々と鮮明な光に誘われた金色の蝶が姿を現す。
破滅の光が緩やかに衰退し、澄んだ早朝の中に差す黄金色の陽光が台頭する。
後ろを振り向くとそこにはライキルがいた。
「ライキル…」
ライキル・ストライクが生きて自分の前にいた。
彼女が何も言わず駆け寄って来て、自分を抱きしめると、ここが夢ではないことをハルは知るのだった。
手に灯った光はどこかに消えてしまっていた。