幕間 古き友と世界変容
樹海にそびえ立つ聖樹と呼ばれる大樹の上には、朱色に輝く巨大な影を落とす鳥がいた。両翼を広げればそれは1500メートルほどにも達し、人の想像の域を超えたまさに伝説の鳥だった。
圧倒的な生物として人間に格の違いを見せつけ、食物連鎖の頂点に食い込む朱鳥が、人類を襲わず静かに過ごしていたことは単なる気まぐれであったかもしれない。明日にでも人類は朱鳥の振るう脅威に滅亡の危機にすら直面している可能性すら捨てきることはできなかった。
当然、そんなことはなかったのだがあくまでも可能性の話しであった。
聖樹の頂上でレキはそんな強大な力をもつ野放しになっている鳥を見上げていた。
「やあ、久しぶりだね…」
『レキか、何百年ぶりだ?』
レキからも朱鳥の御尊顔は拝めなかったが、空から降って来るような自分にだけフォーカスされた不思議な朱鳥の声だけは聞こえた。
「僕は、そだね、何百年たっただろうか…でも、君や僕にとって時の流れはたいして重要なものじゃないだろ?」
レキは独り言のようにその場で言葉をこぼしていく。
周りには朱鳥以外、遠くにライキルたちがハルを寝かせているテントに集まっているだけで、他に誰もいなかった。
『お前は随分変わったんだな』
「君はおしゃべりになった」
『何百年ぶりの話し相手だ、退屈していたんだよ』
そういう朱鳥の空から降って来るような声はちっとも退屈そうには聞こえなかった。
『それに目覚めも最悪だった』
それに関しては今後ろのテントで眠り続けている青年の所業であったが、仕方のないことでもあったし、レキにも彼のコントロールは不可能だった。特に彼に関しては…。
「悪かった、君の評判を覆すことは僕にはできなかった。いろいろ動いてみたけど全て徒労に終わって君を悲惨な目に合わせたね…」
そこでしばらく沈黙が流れた。まるで繋がっていた糸が切れたように朱鳥からの声が降って来るのが止んでしまった。しかし、それもほんの少しの間だった。
『レキ、お前も知っているように私は君たち人類に対して大罪を犯した。その罪は消えない』
「人間の世界のルールが君を括れるとでも?」
『人類は彼を私によこした。罰が下ったんだよ』
彼とはテントで眠る青年のことだった。朱鳥もどうやら彼には相当参っているようで、テントにいるライキルたちが彼の名前を口に出すと朱鳥は落ち着かない様子を何度か見せていた。
「神書でも呼んだのかい?その本の中だと君は罰を与える側なんだけどね?」
『レキ、あの人間は何者なのだ?人の域を超えているぞ?』
「そんなこと言ったら君も生物としての域を超えていると思うんだけど?」
『はぐらかすということはお前何か知っているな?そこにいる人智を超えた男について』
レキは頭上から降って来たその言葉にかぶりを振った。
「分からないんだ。僕でも彼のことはね…」
朱鳥はまるでレキのその言葉の真偽を判断するように間を置いた。そして、結局、朱鳥は不満気だったが納得を示した。それは信頼というよりかは諦めといった方が強かった。それはレキという者が何者か知っている朱鳥なりの配慮でもあったのかもしれない。
『言いたくないならよい』
「本当に分からないんだってば」
朱鳥はだんまりを決め込んで拗ねてしまった。
それからレキはうんともすんとも言わなくなった朱鳥から離れ、みんなの居るテントに戻ることにした。
その去り際、レキは言った。
「ファーストは今もそこにいるのかい?」
『さあな…』
「そうか、もし、彼に会ったらよろしくと言っておいてくれ」
レキは朱鳥に背を向けてテントに向かった。
『バカものめ』
朱鳥の声が空から降って来た。
***
レキがテントに向かって歩いている時だった。何か得体のしれない強い力がこの世界に働くのを直に感じ取った。それはレキの背筋をぞっとさせるほどの強い力だった。まるで世界の仕組みの歯車を誰かが無理やり素手で取り除いたかのように、世界は大きなショックを受けていた。もちろん、そんな力が世界に加わっていることにレキ以外ここにいる誰も気づいていなかった。しかし、確かに世界は一瞬にして何かを失い変わってしまっていた。
その失ったものが世界にとってどれほどの影響のものだったのかは分からない。すでにこの世界にいるレキ自身もその消失した存在に対しての認識を持ち合わせることができなかった。
しかし、その時世界は確かに何かを失っていた。
『なんだ…』
捉えることのできない不安がレキを襲っていた。気づかなくてはならないことに気づけない。目の前に迫っている脅威に対処できない。どこか自分の知らない場所で世界が大きくその仕組みを変えている。何か取り返しのつかないことが起こっているような気がしていた。
『何が起きている?分からなくては…』
そこでレキは必死に自分の持っている力を駆使して、この世界で今起きている変化を捉えようとした。
レキはそこでひとつの答えにたどり着いた。いやどちらかと言うと疑問の塊であり正体不明の彼の元へ急いだ。
テントを開けるとそこにはまだ眠っている彼とその周りには彼の仲間たちがいた。みんな彼の取り囲んで酷く普通で特別でもなんでもないどこにでもあるような日常会話を繰り広げていた。
世界の変化になど一切気づかずというより彼らには気づくことが不可能であるこの感覚をレキだけがひとり体験していた。
彼らは言う。
「レキさんもこっち来て、ハルがどうやったら起きてくれるか考えてくれませんか?」
自分が体感しているこの壮大で不気味な感覚と、彼らの穏やかで平凡な日常風景に挟まれてレキの頭は思考を中断してしまった。テントの入り口の前でぼうっと突っ立っていると、みんながどうしたのか?と心配していた。
レキは我に返り、なんでもないと言うと、彼らの輪に入って一緒に眠り続ける彼のことを考えてあげることにした。
けれどレキには確信があった。
『彼は目を覚ます…』
世界は彼の目覚めに備えて準備をしている。そう思ってしまえるほど、世界が不気味に軋み続けていた。
『ハル・シアード・レイが帰って来る…』
レキは眠るくすんだ青髪の青年をみんなと一緒に見守っていた。