別れ際はいつもの笑顔で
あまりよく覚えていないし、何と言ったらいいか分からないが、俺がここにたどり着いたのは、自分が居ても誰も傷つけないと保証されている場所であったからだった。
雲の上という表現が正しい。頭上にはどこまでも深い、深い青空が広がりずっと眺めていると吸い込まれそうになってしまうくらい怖い魅力すらあった。そして、辺りは黄昏時や早朝の日の出時のように、黄金色の光が降り注ぎ辺りを照らしていた。
天国なんて言い方よりかは、天国へ向かう途中の道というのがこの場所の正しい意味の様な気がした。神々しくはあったけれど、何もない寂しい場所でもあった。
そんな場所でとにかく俺は一人で居なければならないと自分に言い聞かせ続けていた。それがなぜなのかは自分が危険な存在だからというが実際にそれを見たわけではないので何とも言えなかった。それは躾けられた獣が荷を運ぶようにとにかく俺は自分をどこか人のいないところに留めておく必要があった。それが自分の使命だということは知っていた。
しかし、そんな俺が淡い希望を持ってこの天国の途中みたいな場所で、ずっと待っていたのには理由があった。正確に言えば誰にも迷惑を掛けないならこの場所が最適だと避難して来たというのが正しいのだけれど、正直なところ寂しさを紛らわすために、俺はここを選んでいた。
ここにいれば君に逢えると思ったというのが一番の理由だった。ここは俺にとって大切な彼女と出会うための特別な場所という認識として記憶されていた。
「ハル!!」
だから、こうしてまた君とここで会えたことは偶然なんかじゃなかった。
「アザリア!!!」
俺はアザリアの元に駆け寄って彼女のことを抱きしめた。彼女を抱きしめるといつも彼女の身体は少しだけ浮いた。もう離したくないと思いながら彼女を包み込むからだろうか?そして、その力強い接触に彼女はいつも快く応えてくれた。
「どうしてここに?」
「ハルに逢いたいって思って走ってたらここにたどり着いたの!」
彼女が無邪気に笑うから、俺もつられて笑ってしまった。
「そっか、俺もここにいればアザリアに逢えるんじゃないかって思ってたんだ」
永遠にも思う寂しさは彼女のぬくもりのおかげで一瞬で埋まった。
「ハルに逢えて嬉しい、本当にまた逢えて良かった…」
「俺もだよ、アザリアに逢えて良かった…」
「本当に心配したんだからね!」
俺の顔を掴むと彼女は互いの顔を引き寄せ強引に唇を重ねて来た。何度も、何度もそれは二人の間の空白だった時間を埋めるように苛烈なものだった。彼女の口づけはとてもじゃないが上手いとはいえなかった。そもそも、彼女は自分から好意を相手にぶつけるタイプではなかった。それよりも自分が常に彼女に対して激しい愛情を注いでいたため彼女のそういった機会を奪ってしまったといえばそうであったのかもしれない。
けれども、今この時の彼女は熱心に自分を求めて来てくれて、素直に嬉しかった。ただそんな彼女の変化があったというのも、もしかしたら以前会った時の別れ方が良くなかったのかもしれない。俺はもしかしたらその時酷い心配を彼女にかけてしまったのかもしれない。
あまりよくは覚えていないのだが俺が彼女に最後に会ったのは…。
『あれ、思い出せない…』
彼女の熱烈なキスを一時中断してもらい、彼女を落ち着かせた後、自分たちが前にどう別れたか彼女に尋ねてみた。
「アザリア、俺と前会ったのはいつだった?」
「ハルが黒龍を討伐した後だよ、あの時は凄い怖かった。それにハルがどこかに行っちゃう気がして…」
知らない単語が飛び出て来た。
「こくりゅうって何?」
その一言で彼女の表情が凍てつき凍りついた。何か間違ったことを口走ってしまったようだ。
「あれ、覚えてないの?ハルが討伐した龍のことだよ、あっちの世界でハルがみんなを守るために倒した龍の名前だよ」
ここであることに気づいた。人には歴史がある。けれども俺はいくら自分の内側の記憶を探ってもちっとも何もない空っぽの状態のことに今ようやく気付いた。まるで数秒前に自分が間に合わせのように創られたかのように、思い出せることはほとんどなかった。
「えっと、アザリア、ちょっと待って、あれ、俺さ、君のことぐらいしか覚えてないんだけど…そもそも、ここもどういう場所なのかな…?ずっとここにいたんだけどいまいちこの場所についても理解してなくてアザリアは何か知ってるかな?」
「………」
分からないことは分からないと言わなければ伝わらないので彼女にそう言うと、彼女は一歩下がって口をぽかんと開けたまま固まってしまった。
今思えば自分の中には、自分は存在するだけで他人に迷惑をかけてしまう邪悪な存在であることと、アザリアという女性のこと、この記憶の二つしか持ち合わせていなかった。この二つが今の自分を形成していた主な要素であった。
なぜ自分がここにいるのか?自分はこれまで何をしていたのか?まるで分からなかった。しかし、悲観することは少しもなかった。なぜならここにはアザリアがいる。それだけで俺の世界は完結していたからだ。つまり周りに誰もおらず、二人だけの空間があれば俺はそれだけで何もいらなかった。
「ハル、もしかして全部忘れちゃったの…」
「あ、いやあ、まあ、そのでも大丈夫、ほら、ここにはアザリアがいるだろ?これから一緒にまた思い出をつくっていこう?」
彼女を悲しませたくなかった。それと同時に忘れてしまったことで彼女に嫌われるのではないかとそう思った。だから、俺は自分の中にあった記憶が消し飛んだ悲しい出来事など二の次だった。彼女に嫌われ見捨てられることが今の俺にとって一番の絶望だった。そもそも、俺からしたら記憶が消えたと言っても、その前の記憶などもともと存在しなかった夢のようなものなので悲しくもなんともなかった。というより、その事実に悲しむこと自体できなかった。だから、今の俺は彼女がその事実に悲しむ出来事の方が胸に来て苦しかった。
「ダメだよ、それじゃあ、ハルにはあの世界で新しい未来が待ってるのに…ライキルたちとの幸せな日々が…みんなで笑い合える素敵な日常が待ってるのにそんなのあんまりだよ…」
今度はできる限り優しく彼女のことを抱きしめてあげた。割れ物を扱うようにそっと壊れないように優しく包み込んであげた。
「アザリア、悲しまないで俺は君の隣にいる。君が俺のために悲しんだり怒ったりしてくれてるのは何となく分かるよ。だけど、それはもう俺には必要ないことだと思うんだ。だって、俺はこんなにもアザリアを愛しているからさ…」
そういった俺に飛んで来たのは彼女の平手打ちだった。
「え…」
傷つけずに包み込もうとした結果どうやら俺はいつのまにかその割れ物を割ってしまっており、割れた先が刺さっていた。赤くなった頬がヒリヒリと痛んだ。
「あっ…」
彼女はやってしまったという顔をしていた。
しかし、多分、いや絶対にここで悪いのは完全に自分だということに気づかされた。そりゃそうだった。何を思ったのか記憶を失くした俺は、彼女のことだけしか見えていないのにも関わらず堂々と彼女に意見をしようとしていたのだ。
何が正しくて何が間違っているのかも分からずに。狭い視野で小さな窓からしか世界を見ていないのに、その窓の外にいる彼女にその世界について説き伏せているのと同じだ。
「ごめん、アザリア、俺が浅慮だった。何も知らないのに口出してごめん。その教えてくれないかな?アザリアの知ってる俺の知らない俺のこと…」
彼女は俺の赤くなった頬を優しくさすって、胸に顔を埋めるとかすれた声で「ごめんなさい」と呟いた。彼女はそれだけしか言わなくなりずっと俺の胸で泣き続けた。
今まで全くといっていいほど彼女との間には喧嘩がなかったため、彼女がこんなふうに感情を前面に出して泣くところは珍しかった。
俺は彼女の気が済むまで胸を貸してあげた。例え割れてしまってもそれでも包み込む強さが自分にはあった。
それから泣き止んだ彼女が冷静さを取り戻してくれた。
「ごめん、取り乱して」
「いいよ、俺もなんだかんだいつも君の胸の中で泣いていたから、そのお礼だよ」
そう言うと胸の中のアザリアが語り始めた。
「そう私といる時のハルはたくさん弱みを見せてくれたけど、あっちの世界のあなたは強くあろうと必死だった…」
俺は彼女の言葉にただ黙って耳を貸した。
「あっちの世界であなたは英雄だった。大勢の人の平和を守っては、多くの人々に愛されて、大事な仲間や家族や愛する人たちと幸せそうに暮らしてたんだ」
俺は彼女の語ったことに対してあまりイメージが湧かなかった。傭兵である自分は英雄という存在とはかけ離れていたからだ。
「だけど、そこであなたは強くなり過ぎた。強くなるにつれて次第に守っていくものが多くなった。それなのにハルは、あなたは全部を守り切ろうとした。あなたはあなたの知っている人たちを全て救って幸せにしようとした。理不尽な災いからみんなを遠ざけるために一人で戦った。さっき、黒龍って言ったでしょ、凄い怖くて大きな龍たちにあなたはみんなを守るために一人で喧嘩を売ったんだ」
目の前のアザリアが視線を下に落として落ち込んでいた。
記憶の無い俺からすれば、その自分はかなり素晴らしい人格の持ち主であると思った。それと同時にもし自分にも大勢の人を救うだけの力があれば、それを実行したか考えてみた結果。答えは半分半分であった。きっとその答えに行きついたのは自分がそんな力を手にしたことが無いから想像がつかないだけであったのかもしれない。とにかく、俺はそのあっちの世界という場所で頑張っていたらしい。
「でも、そのあっちの世界ってところの俺はもういないんだろ?」
なぜならここに俺がいることで証明は完了されていた。俺はここにいてあっちの世界にはいない。それだけが事実だった。
しかし、彼女は首を横に振った。
「違うよ、ハルは戻らなきゃいけない。そして進まなきゃいけない。みんなが待っているその世界に」
「そこには君もいるんだよね?」
「その世界に私はいないよ。ハル、忘れたの?私はもう死んでるんだよ…」
「………」
言葉は出てこなかった。周りの温度が酷く下がった気がした。分かっていたのに言葉に出されると上手くものを考えられなくなった。頭が真っ白になって彼女が死んでいるという事実に目を背けそうになった時だった。
「安心して私がいなくてもハルにはちゃんと大切な人達がいるから大丈夫ひとりじゃないよ」
「そう言う言葉を俺が望んでいるとでも思った?」
愛とは本当におかしなものでどんなに愛していても憎しみと言う感情で染まると、その二つの見分けが全くつかなくなってしまう。
「このタイミングで怒ってくれるハルって本当に私のことが好きなんだね…」
「アザリアは俺を誤解してる、俺は君無しでは生きていけない弱い人間なんだ。そこのところ分かってくれてると思ってたんだけど…それに君も俺無しだと辛いんじゃないの?」
「私、ハルのそういう重い愛を平気でぶつけて来てくれるところが嬉しかった。私、あんまり人からそんな風に好意を向けられることって少なかったからさ…」
「別に重くはないよ、君に対して必死なだけだ」
彼女の空いている手を握って、どこにもいかないように牽制する。
「少し歩こうか、お散歩しよう。ここら辺歩いたことなかったよね?もしかしたら意外な発見があるかもよ」
話をはぐらかされたような気がしたが、彼女が歩き出すから、俺も仕方がなく彼女について行った。
***
黄昏色に染まっている絶え間なく湧き立っては興隆と衰亡を繰り返す雲の上は、穏やかな気候を維持していた。
雲の上で、俺と彼女はあてもなく歩き続けていた。こうして横に並んで歩いていると昔のことを思い出した。
「よく、こうやって一緒に散歩したよね?」
俺は自分の中にある記憶と、アザリアとの記憶がちゃんと正しく合っているのか確かめるためにそう尋ねた。
「したよ、私は君の隣に居られる幸せをいつも噛みしめてた」
「だから歩いている時、たまに反応してくれなかったり口数が少なかったりしたの?」
「うん、外で歩いている時の君はなんだか別人みたいでカッコよくてさ」
「それっていつもの俺はダメな奴ってこと?」
「家にいる時の君は私の一部でいてくれた。そこにカッコよさとかは必要なかった」
「つまり俺は君にとって満足する人物だったってことでいいんだよね?」
二人並んで歩いていい気分になった俺は少し調子に乗った。
「満足どころか、私からしたらもう切っても切り離せない存在だったよ…」
彼女の顔は少し寂しそうだった。なんだかそれはとても俺の心に引っかかるものがあった。だけど、彼女がその心に抱えているものに対して、無遠慮に探りを入れようとはしなかった。人にはその人だけが抱えておきたい気持ちがあるのだ。そして、信頼関係があればいずれ向こうから打ち明けてくれる。待つことも大事ということだった。けれど決して無関心でいてはいけない。そうするとタイミングを見逃してしまうからだ。
俺はそれから彼女との記憶を答え合わせをするように、話題を振った。出会ったきっかけの話しや、一緒に出掛けた街のレストランの名前、よく君がお弁当に詰めた料理の具材の話し、二人が暮らしていた森の中で一番危険な場所や周辺の地理について、自分の生い立ちや彼女の生い立ち、話している内に新たな彼女の発見もあって二人の散歩は終始途切れることはなかった。
その最中に見せる彼女の幸せと憂いが交互に現れる表情を見逃すことはなかった。懐かしい話題で優しい笑顔を見せたかと思えば、すぐに表情はその幸せの余韻に浸ることなくぶつりと切れては、その落胆を巧みにこちらに伝わらないように隠していた。
だけど、俺はこの時、その彼女の気持ちの変化に気づかないように楽しい話だけで会話の内容を埋めていった。
俺は焦っていた。ここに幸せが無いことに、薄々勘づいてもいた。しかし、それでも俺はアザリアと一緒にいるこの時間を確かな思い出の一つとして心に刻んでおきたかった。どんな時でも彼女といる時間は幸せだったと言えるものにしておきたかった。
そして、この当ても無い散歩が終った時、彼女がそのため込んでいた何かを吐き出すように言った。
「本当のことを言うと、私、ハルにはお別れを告げに来たんだ」
隣にいたアザリアが遠くの深い青空を見上げた。
「今まで私とハルの間にはたくさんの出会いと別れがあったけど、それも、もうおしまいみたい…」
言葉の意味は伝わっていた。けれどその言葉の意味を理解しようとはしなかった。
「え、待って、急にどうしたの?」
「私さ、ハルのことが好きで、好きでたまらなくて逢いたくて、逢いたくて仕方がなかった。だから、こうやって死んだあともちょくちょくなんだかんだ奇跡が起こって会えていることが嬉しかった」
彼女のその戯言を聞き流してしまいたかった。しかし、戯言を言っている彼女の表情はあまりにも真剣で無視できるものではなかった。
「思ったことがあるんだけど、ハルは私がいる限りあの日のことが忘れられないんだと思うんだ」
「あの日のことって…」
「私が死んだ日のことだよ」
アザリアが死んだという事実だけで俺の頭は張り裂けそうな頭痛に苛まれた。
「覚えてる?私がどうやって死んだか?」
「………」
アザリアのことだけは鮮明に覚えている中で俺は唯一そのことを知らなかった。彼女がさっきから言っている、死んだということの理解に苦しんだ。なぜならそんな記憶最初から俺の中には無かったからだ。彼女が死んだ記憶など俺の中には一切存在しなかった。そんな記憶存在して言い訳が無かった。
自分の中からふと湧き上がって来るものがあった。沸々と煮えたぎる感情が胸の奥底から次第に彼女が死んだという事実を引き合いに這い上がってこようとしていた。しかし、その得体の知れない力はどう考えても現実に顕現させてはいけないものだと分かっていた。
「思い出して、私がどんな最後を迎えたか?その後、あなたがどうなったか?」
「アザリア…やめて……」
目の前にいるアザリアのことを必死に抱きしめた。彼女のぬくもりを感じることで彼女が存在していることを再確認した。そこには確かにアザリアがいた。
「私はもうどこにもいないのよ…」
しかし、存在を証明しなければいけない彼女自身が、アザリアという存在を否定することで、ハルは彼女の本当の在り方を認識しかけてしまった。
それだけで自分の中に留まっていた存在してはいけない力が表面上に顔を出した。
昼間のように明るかった黄金色に輝く雲の上が、蠟燭の炎が消されるようにフッと見渡す限りの明かりが消え夜が訪れた。闇に染まった空が近づき、二人がいたこの世界は一瞬で真っ黒に塗りつぶされた。
「ハルにはまだその危ない力が残ってる。自分でも制御できてないほど大きな力が…」
「アザリア、静かにしゃべっちゃだめだよ…」
すると彼女はそれ以降喋らなくなった。真っ暗闇の中、俺は彼女を抱きしめ続け彼女の存在を確認した。
「アザリアはここにいる。アザリアはここにいる。アザリアはここにいる」
呪文のように唱えた。彼女の存在をこの世界に証明した。
だが、その時、自分の腕の中にいる彼女が動いて、手探りで俺の身体を探り回り、ようやく見つけた呪詛を唱えるように開いていた俺の口を、彼女の口が塞いだ。
それだけで、彼女がいることが世界に証明されたのか、周囲全体がパッと明るくなり元の黄昏時のような神々しい風景が戻って来た。
「ハル、聞いて大切なことだから…」
彼女の俺の見る目が鋭い刃物のようで怖かった。そんな目で見て欲しくはなかった。
「私は死んだの。死んだ私がいることでハルの中の危ない力がなくなることはない。それともうひとつ、ハルにはあっちの世界で守らなきゃいけない人がたくさんいるの」
「俺にはアザリアしか…」
「あなたはもう私のハルじゃないんだよ」
「そんなことない、俺はアザリアのものだ。今までもこれから先もずっと…」
アザリアの表情が少し和らいだが、その瞳には哀愁が漂っていた。
「違うのか…」
絶望が心を蝕む。結局のところ自分はアザリアに対してろくに強く出れないところがあった。それは嫌われたくないからかもしれない。拒絶されたくなかったからかもしれない。彼女にはずっと笑顔で幸せでいて欲しかった。
「ハル、私たちの物語は終わったんだよ…ずっと前にね……本当はハルも知っていると思うんだけど、思い出したくないんだよね…分かるよその気持ち、私もできれば思い出したくないもん…」
「俺はアザリアを失いたくない」
「ありがとう。でもさ、ハル、思い出してあげてあっちの世界であなたが築き上げた愛を、みんなのことを」
その時、俺と隣にいたアザリアの目の前にひとつの光球が浮かび上がって来た。
「これって…」
アザリアがその光球に触れようとしたので、ハルがそれを止めにかかった。
「待って、アザリア、もしかしたら危ないものかも…」
いつも自らの危険を顧みず突き進む彼女の好奇心を抑えていたのは自分の役目だった。今回もそうだった。
だけど。
光球に触れてしまった時、俺の視界にはひとつの光景が映った。
『おはようございます、ハル』
そこには金髪の女性がいた。引き締まった身体をしてどこか近寄りがたい美を兼ね備えていたが、その女性がとても甘えん坊なことを知っているのはなぜだろうか?
寝室で俺とその女性はふたりだけで楽しそうに話していた。とても親しくそこで俺は自分とアザリアの関係を彼女との間にも重ねてしまった。
一瞬の夢を見た。どこか知らない世界の俺がそこにはいた。
「…違う」
否定したかったけれど、俺の頭が考え出すより先に彼女は言った。
「ハル、大丈夫だよ。私がいた世界はちゃんとあったし、あなたが見たあっちの世界ともちゃんと繋がってるから、ただね、私の世界はちゃんと終わっただけで、今見てる私はあなたの夢だってことは確かなの」
夢ならずっと続いて欲しかった。君と言う夢が続くなら、俺はどんなことだって犠牲にできた。いや、してしまったのか…?
「ねえ、ハル、未来って信じる?」
「未来?」
彼女は希望に満ちた視線を俺の深い絶望に沈んだ海底のような瞳に映した。そのおかげで底が少し照らされた。
「私はここで終わりだけど、未来があるって信じてる。その未来にはきっとまたハルと私や他のみんなが居て幸せに暮らしてるの、あ、たまにハルの取り合いとかで喧嘩したりするけど仲直りするんだ。なんだかそれってよくない?」
そんな未来が来ることが俺には全然想像できなかった。彼女のように先を見通した考えができるほど頭の出来はよくない。それに彼女の居ない未来はないのと一緒だった。
「君の居ない未来は未来じゃない」
「だけど、ハルは私のいない未来でもしっかりと生きてた。たくさんの愛に囲まれて幸せで、時には絶望があなたを襲ったかもしれないだけど、それも乗り越えてあなたはあの世界でひとりの人間としてちゃんと生きてた」
「俺には君が必要だ」
「ううん、私の役目は終わったよ。これからはハルは自分の幸せのためだけに生きていくの、愛する人たちと好きなことを好きなだけ、人助けもしてあげながらね?それはあなたの性分だからさ」
するとアザリアは短いキスをしてくれた。
「あなたがやり直した世界を邪魔しちゃってごめんなさい」
アザリアがいて邪魔なことなんて一度もなかった。俺はすぐに彼女に言葉を返した。
「邪魔なんかじゃ…な…ぃ……」
俺はその場に崩れ落ちた。足に力がろくに入らなかった。何か大切な器官が抜け落ちたように上手く身体が機能しなくなっていた。
彼女がそっと寄り添ってゆっくりと俺の身体を支えてくれた。
「力が入らない…」
「大丈夫、今はまだ私が傍に居るから…ゆっくり息を吸って吐いて…」
まだとはどういうことか考えたくもなかったが、自分の中から何か悪しきものが抜けていくような感覚があった。ただ、その力を自分が悪いもの危険なものと定めただけで、本当のところは必要なものだったんじゃないかとすら思った。どうだったのだろうか?結局のところ、その力とやらは俺の中から完全に消えてなくなると、どこかへ消えてしまった。
「簡単なことだったけど、ハルは私を愛してくれてたからこうなっちゃったんだよね。やっぱり、そう考えると私は幸せものだったんだな…フフッ」
「どういうこと…」
「愛の力って怖い!ってことかな?」
冗談ぽく言った彼女はいつものように優しい笑顔を見せた。そして、彼女の姿が段々と透き通ってくことに気づいた。彼女の全身から少しずつ光の様なものが溢れ出しては消え始めていた。
「ねえ、アザリア…身体が……」
やがて、その異変は周囲にも広がった。雲の地面から次々と大きな光の塊が溢れ出した。その光景は圧巻の一言に尽きた。神々しかった光景がよりいっそう洗練された鮮やかさを持って、そこにいる俺とアザリアはまるで何かを成し遂げ祝福されているようだった。
けれど俺はそんな美しい景色を見るよりもアザリアに起きている異変をどうにかしてやりたかったが身体が動かず何もできなかった。
そして、消えゆく彼女を止める自分の中に潜んでいた禁じ手もいつのまにかすっかり無くなっていた。きっとさっき抜けたのがその力だったのだ。それは俺の中の一部になっていたためこうして自分の元から根こそぎ引き抜かれたことで身体が上手く機能しなくなっていた。どんな悪いパーツでもいきなりなくなってしまえば全体に影響が生じることは間違いなかった。
ぐったりと動かない身体を彼女に支えられる中、彼女がその光球に触れた。すると、彼女が嬉しそうに言った。
「良かった、消えてなかった!ハルの思い出はちゃんとここにあったよ!」
アザリアが俺の手を持つとそっとあたりに漂う光のひとつに触れさせてくれた。
俺はその時見た夢で涙を流した。耐えられない幸せがそこには広がっていた。それを見た彼女が女神のように微笑む。その笑顔をずっと見ていたかった。
だけどそれも終わりが近づいていた。
その後、身体の自由が利くようになった俺は、アザリアと一緒に辺りに溢れかえった光に少しずつ触れて記憶を修復していきながら最後の散歩をした。
「アザリア、これから俺はどうすればいい?君の居ない世界でどう生きて行けばいい?」
「心配しなさんな、もともと私が居なくてもハルは上手くやってたよ。ていうか、私が消えること許してくれるんだね?」
「許してない、それに関しては俺はアザリアを恨んでるから」
「愛と憎しみは表裏一体ってよくいうもんね。でも私ハルに恨まれるのも気持ちがいいよ、ありがとね」
「ずるい、俺は君を犠牲に生き延びるんだ…」
「そうだよ、だから人生を楽しんでよ。わたしの分までな!」
「本気で言ってるの?」
「きっと、ハルは人は幸せにならなくちゃいけないと思ってるでしょ?」
「当たり前でしょ」
「そんなことないよ。人は幸せでいなくちゃいけないなんてことはない。だって幸せでいることってとっても難しいことだよ」
「だからみんな目指すんじゃないか、俺だってアザリアを取り戻そうと必死に」
「ハルにとって私は幸せだった?」
「ダメだった?」
「いいよ、とっても素敵だ!」
「俺さ、人生でアザリアに会えたこと奇跡だと思ってるんだ」
「私もハルと出会えてから人生変わったし、それにめっちゃ楽しかった!」
「ハハッ、なんか軽くない?」
「いいんじゃない?最後だからって暗くなったり重くなる必要ないでしょ」
「アザリア、本当に俺の前からいなくなるのか?」
「うん、いなくなるよ。そうなったらもう私とは一生会えないかな…」
「何でそういうこと言うんだよ」
「話を暗くしてみました」
「そういうのやめてくれよ」
「あれ、泣いてるのか?ごめんな、別に泣かせる気はなかったんだ。ほら、涙拭いてくれ」
「ごめん、服汚しちゃって…」
「バカだな、今そんなこと気にする奴がいるか!私もこんなくだらない会話が最後だったらさすがにハルを恨むぞ?」
「そっか、ごめん、気を付ける…」
「うん、あ、ほら、やっぱりハルは良い男なんだからそうやって笑ってなよ。そっちの方がモテるぜ?」
「アザリア…」
「なに?」
「最後にもう一度、君の笑顔が見たい…」
「わかった、いいよ、特別だよ、ハイ!」
「うん、やっぱり、アザリアは可愛い…」
「あ、待って、マジでそういうの来るからやめて…」
「お返しだよ…」
「もう、バカ…」
「アザリア、愛してる」
「私もよ、ハル、愛してる」
*** *** ***
ハルには二つの世界の記憶があった。
一つはアザリアという女性と二人で幸せに過ごした古い世界の記憶。
そして、もう一つはハルがこれから生きていく新しい世界の記憶。
だけど、その新しい世界ではもう誰もアザリアのことなんて覚えていない。
彼女の存在は跡形もなく消滅した。
新しい世界では存在すらしていなかった彼女の存在を知ることはできない。
彼女はハルの中に眠っていた力と共に逝ってしまった。
もうハルでさえ彼女を思い出すことはないだろう。
だが、覚えておいて欲しい。
アザリアという女性は確かに存在していたということを。
心の底からハルを愛していた女性が世界を超えていたということを。
覚えていて欲しい、ハルもまた彼女を愛していたことを。
忘れないで欲しい。
そして、ここでひとつだけ浮かんで来た疑問があった。
それは…。
―――ハルは何者?
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ここまで読んでいただきありがとうございました。ここで第四章火鳥編は終わりですが、物語は続きます。