君去りし時 後編
頑丈な扉の先には、霧が立ち込めるどこまでも長い道が続いていた。お城の奥の扉の先にある空間としてはあまりにもおかしかった。
私はここが本当にお城の中なのか確かめようと後ろを向いた時にはもう、頑丈な扉はどこにもなく。私は薄っすらと霧が立ち込める白い一本道に立っていた。
「何、ここ…」
私はてっきりお城の扉の先には王様が座るような立派な玉座があってそこに彼が座って待っていて私を温かく迎えてくれると思っていたのだが、頑丈な扉の先にはまだ道が続いていた。
「どうしよう、でも行くしかないか…」
光あふれる白い道を私は前に向かって歩き始めた。立ち止まっていても仕方がない。少しでも物事を前に進めることが出来るなら研究者としてはその選択を取りたかった。停滞は後退するのと同じだった。
私の足が白い道を一歩一歩踏みしめて歩いて行くと、その足元では霧たちが絡みつくようについて来た。さらに私の進む先の前方はその霧たちがたくさん集まって立ち込めており先の景色を見通すことはできなかった。
私が歩いているこの白い道の上には真っ白い空が広がっていた。確かにお城の中の頑丈な扉をくぐってこの道に出たのだが、どうやら私が迷い込んだこの世界では常識というものが通用しないようで、空には太陽もないのに辺りは昼間のように明るかった。
時折、どこからともなく吹きつける風は私の白い髪を後ろになびかせた。一定方向にしか吹かないその風は常に向かい風だったが、私の行く先を阻むほど強い風は一度も吹かなかった。
「みんなはどうやって彼に会ったんだろう…」
名もなきお城に来る途中の坂道で出会った過去や未来の私がどのようにして彼に会ったのか疑問に思った。
もしかして本当は彼がまだあのお城の中に居て、私は頑丈な扉の前で出くわした悪魔に騙されてしまったのではないだろうか?
「もし、そうだったら…」
しかし、帰り道が消えてしまった今、その考えがまるで意味の無いことに気づかされる。
「進むか…」
私はどこまで続くか分からない白い道を進み続けた。
***
私がその白い道を黙々と歩いている時だった。突然、ふわふわと浮かびながら空間を漂う光球が現れた。
その光球は向かい風が吹く風に乗って私の横を通り過ぎって行った。その浮かぶ光に私は興味をそそられたが得体のしれないものに最初は視線だけを注いで見送った。
「なんだったんだろう…」
それから風に乗って行ってしまった光球に後ろ髪を引かれたが、完全にその光球が行ってしまうと私はまた前を向いて歩き出した。
それからのことだった。私が向かう先から、フワフワと風に乗った綿毛のように飛んで来る光る球体がいくつも現れたのは。
私の周りにはその飛んでは過ぎ去っていく光の球体で満ち溢れていた。
光球たちは私が歩くと避けるように道を譲った。
その光球は見ているだけでなぜか心が落ち着いた。
優しい光だった。太陽光のように直視するだけで目を傷つける光とは違いその光球が放つ光はまるで人のぬくもりのように優しい光だった。
けれど、そんな優しい光は私を避けるように飛ぶから、私はその光に触れて見たくなった。
ひとつフワフワと目の前に飛んで来たその光球に私は触れた。
するとそこで私は一瞬の白昼夢を見た。
そこには小さな木の家屋に私と彼がいて楽しそうにおしゃべりをしていた。
「今のって…」
夢はすぐに終わってしまった。私は辺りに浮かぶ光球に目をやった。光球たちは私のことなどお構いなしに風に流されていた。
私はそれから可能な限り、光球に触れ続けた。するとその光球に触れるたびに私は何度も一瞬の夢を見た。
小さなテーブルで朝食を食べて、散歩に行き草原でピクニックをして、夜になったら二人で星空を見上げていた。それだけじゃない、初めて彼と出会った時の記憶や、二人で街に買い物をしにいったこと、それから小さな木の家の下二人で愛を交わしあったこと、二人で過ごした永遠のような時間がその光の中には詰まっていた。
夢を見終わるたびに風に運ばれる光たちは私の後へと通り過ぎていった。流れて来る数も多いため私はその過ぎ去ってしまった光たちの中にある思い出も見てみたい気持ちに駆られた。何一つ見落としたくなかった。けれどその光たちは残酷なまでに私の元から去ってしまった。
それでもまだまだ遠くから大量に光は流れて来ており、私は必死になって手を伸ばしては、幸せな思い出の中に身を置いた。
しかし、私がそうして彼との思い出に手を伸ばしている時だった。
私が手を伸ばそうとするのを誰かに止められた。
「もういいでしょ?」
そこにはもうひとりの私の姿があった。
「もう十分でしょ?」
「あなたは…」
「私はあなた。今のあなた。過去でも未来のでもない今のあなたそのもの」
鏡を見ているようだった。私の目の前にいるもうひとりの私は自分と同じ姿形をしていた。
光あふれる世界で私は今の私に出会った。
「この先に進んでも何もないよ」
光たちがフワフワと風に流され漂っている。
「どうして、あなたにそれがわかるんだ…?」
私はもうひとりの自分に質問をした。
「先に進もう」
しかし、彼女は何も答えてくれず、私の手を引いて光が漂う先へと歩き出した。私たちは進んで来た道を引き返し始めた。もう一人の自分に手を引かれ、フワフワと浮かぶ光球たちと共に同じ方向へ進み始めた。向かい風は追い風となり私の背中を押した。
「どうだった?ここまで来て見ての感想は?」
「どういうこと?」
私はわけが分からず返す、彼女は少しうんざりした顔をした。
「いつまでもとぼける気?」
彼女はそれだけ言うと、私の手を離して歩き出し、私はそこで立ち止まってしまった。私にだって彼女の言いたいことは分かっていた。だけどそれを認めるには時間がかかっていた。できればもう少し光球の中に映る記憶を眺めていたかった。
「ねえ、本当にこっちで合ってるの…」
「合ってる」
彼女の反応はとても冷たかった。
私たちが頑丈な扉をくぐって最初に出た元いた場所まで戻って来た。正確には分からなかったがだいたいそれくらいの場所まで進んだ分戻って来た。
「あなたが進むべき道はこっちでしょ?」
彼女は私が最初に向かった方向とは真逆を指さしていた。その道は清々しいほどに晴れ渡った空が広がっていた。霧ひとつない透明な世界が広がっていた。空気は澄み渡り、辺り一面に光が溢れ輝きに満ちていた。
そこにはちゃんとした時が流れていた。
自分が立っている場所も方向も分からなくなるような、霧が立ち込める道とは違いその先には無限の可能性が広がる世界が広がっていた。
「こっちの道は怖い…」
目を塞ぎたくなるような強い光で溢れていた。眩しくて私は手をかざす。
「未来はいつだって怖いものだろ?だけどそれを自分の望んだ形に変えていくのが生きるってことなんじゃないのか?」
「私は…」
怖気づいた私は、その光輝く道に向かって後一歩がどうしても踏み出せなかった。
どうしても、そっちの道に進む勇気がなかった。彼女が言った通りそっちには未来があった。
未来は私にとっては敵だった。先に進めば進むほど事態は悪化し悪くなっていく。知れば知るほど世界は私たちに牙を剥き襲いかかって来る。それはあなたがいても敵わない相手だった。
優しく幸せな過去だけが私の居場所だった。私は未来になど進みたくなかった。後ろにある光る記憶たちと共にいつまで幸せな思い出に浸っていたかった。
「ここから一歩踏み出すのがそんなに嫌?未来の自分を想像するのがそんなに怖い?」
彼女はすでにその光輝く世界に立って私に語り掛ける。
「未来がいつだってあなたの敵とは限らないでしょ?それは過去を見れば分かる。過去はあなたが通って来た未来の道だ。そこにはたくさんの幸せがあったはずでしょ?未来もその過去と一緒。辛いことばかりじゃない、幸せな出会いも待ってるんだよ」
彼女が必死になって私を説得する。だが、私が言えることはひとつだけだった。
「あなたは未来がそんなに怖い?」
「…怖いよ、そんなの当たり前でしょ。死んでる私には未来が無い。未来が無い私には未来が怖くてしかたない」
未来がもう無い私にはこれから先の輝かしい未来に進む意味が見いだせなかった。いつまでも霧が掛かった曖昧な緩い幸せな記憶の中に留まっていたかった。
彼女もそうは思わないのだろうか?
「未来は無くなるようなものじゃない、ずっと続いて行くだけ。その中で私たちも変わり続けていくんだよ」
彼女は光輝く世界と薄明るい霧の世界の境界を軽々超えて私の手をもう一度取った。
「あなたの怖いって気持ちは私にも痛いほどよく分かる。だけど、私は未来で彼と出会った」
彼女は嬉しそうに微笑んで話を続けた。
「それは今まで生きて来て一番幸せなことだった。そんな素敵な出会いが未来にはたくさんあるってこと忘れないで欲しいんだ。もちろん、その中には辛い別れもあるけれど、別れが辛いってことはそれだけ幸せな思い出がたくさんあったってことだから悲しむことは無いんだよ」
「それでも、私は彼を失うのが怖いよ」
「分かるよ、私も彼の前からいなくなるのは嫌だし怖いよ。だけどさ、私たちはもう未来に進まなきゃいけないんだよ。いつまでも彼の思いにしがみついて存在し続けるわけにはいかない。私たちはあの時にちゃんと終わったでしょ?彼と一緒に」
その時、彼女つまりもう一人の私がとても強い人格の自分だということが分かった。私は凄惨な過去を思い出して心がくじけそうになった。だけど、彼女は言った。
「彼には未来を生きてもらいたいの、あの世界にいるみんなと一緒にね。過去の私に囚われないで純粋にあの世界で幸せになって欲しいんだ」
その願いは私もまったくといっていいほど一緒だった。だけどそれでは私はどうなる?いくら強い私だって愛する人と離れ離れになれば傷つくだろう。私は私自身のための最後の砦でありたい。自分を守れるように自分が壊れないようにするための防衛手段でありたかった。自分に対しての欲に忠実な自分。そういった意味では私の様な臆病でずるい自分がいないと人は生きていけない。
彼女は話しを続ける。
「そうでも、幸せになって欲しいけど、彼は私がいることであの世界で生きづらくなってる。私を忘れられないからずっとあの日の怒りが彼の中で渦巻いて終わらせられないでいる」
「あの日のことって…」
「私と彼が元いた世界で死んだ日のこと…」
私は彼女から目をそらし、何も考えないようにした。思い出したくないことは心の奥にしまっておきたかった。
「彼が自分の力を制御できないのは私がいるから。私が存在しているだけで彼はずっとあの日の怒りで、この星を世界を破壊しようとしてしまう…だから、私たちは前に進まなくちゃいけない。止まっていた時を進めて前に進まなくちゃいけないんだ」
彼女は覚悟を持った真剣な眼差しで私に言った。
「彼を救うために、彼に未来を与えるために」
彼女はそう言い切ると最後は私の判断にゆだねた。だから、私も最後に彼女にひとつ質問をした。聞いておかなければならないこと、それは彼女の本心だった。
「あなたは本当にそれでいいの?」
しかし、彼女は少しも迷うことなく言った。
「私のこの願いあなたが叶えてくれないか?」
私はどうやら想像していたよりも強い精神を持ち合わせているようだった。弱い私もすぐに頷いた。
「もちろん」
「良かった…」
すると彼女は私の中に入り込んで来た。いや、もともとひとつだったものが元の形に戻っただけだった。
心の奥から声がした。
『最後のお別れ言いに行こう?』
私はその時にはもう光の世界に向かって駆け出していた。
愛するあなたに会いに。
あなたと最後の時間を過ごしに。
止まっていた今を動かし、私は未来へと進んだ。
走っていると次第に世界はその輝きを強め、私の視界はすっかりと真っ白になって何も見えなくなってしまった。
やがて視界が正常に機能してくると辺りにはまた別の変わった風景が広がっていた。
そこには地面の代わりに白い雲がどこまでも地平線の先まで広がっており、頭上には深い青空が広がっている以外何もなかった。太陽も無いのにただ辺りは黄金色に輝いて明るかった。空中で朝焼けを見た時のような清々しさが永遠に維持されているような場所だった。
そして、ここは私が何度も彼と会っては別れを惜しんだいつもの場所でもあった。
私はその雲の上で彼を探し回った。ところどころ霧のように雲たちが風に運ばれて来ては周囲の視界を遮った。
ここでもし彼を見つけられなかったらと思うと私は不安に駆られた。
けれど、周囲に漂っていた雲の切れ間の先で私は彼を見つけた。
黄金の光を浴びながら立ち尽くしていた、あなたがいた。
私は彼の名前を呼んだ。
「ハル!!」
くすんだ青髪の青年が私の声に反応して振り向いた。そして、彼が嬉しそうな表情を浮かべて私の名前を呼んでくれた。
「アザリア!!!」
さあ、別れを告げよう、最後の別れを。
あなたを救うために、もう背負わなくていい運命から彼を解き放つために。
私のために生きてくれた彼に新しい未来を。
伝えなくちゃいけない。
終わらせなくてはいけない。
私とあなたの物語を。