海宝青心
「おはよう――――」
狂おしいほど愛おしい声が耳元で鳴った。薄目の黄色い瞳に眩しい朝の輝きが差し込むと同時に遮るように誰かがライキルの顔に影を造った。
くすんだ青い髪に、優しい眼差しをこちらに向ける青い瞳。見慣れたけれど決して飽きない魅力的な優しい笑顔。
暖かい朗らかな陽だまりが広がる部屋のベットでライキルは覗き込んで来る青年の顔をまじまじと見つめた。
そして、彼の名前を呟く。
「ハル…」
「なに?」
「どうしてここにいるの?」
目覚めて最初に出て来る言葉に彼は嬉しそうに笑った。
「アハハハ、もしかして昨日のお酒がまだ残ってる?」
「え?」
「もう朝だから起きてね。朝食作ったから、リビングで待ってる」
それだけ言うと彼はライキルの頬に軽い口づけをして、部屋の扉を開けて出て行ってしまった。
ライキルは見慣れない寝室にひとりポツンと取り残されてしまった。ベットから見える窓の外の景色には見たことも無い海が見える街並みが広がっていた。
青い海から反射した陽の光がキラキラとライキルのいた薄暗い寝室を照らしていた。
そんな綺麗な海の見える景色に釘付けになっていると、突然ハルが出て行った扉が再び開いた。
「二度寝しちゃダメだよ?あと、寂しいからなるべく早く来て!次起きて来なかったら、えっと、あれだね、本当にダメだからね?」
彼は急かすようにそういうとまたすぐに扉の奥に消えてしまった。
霧がかった混乱した思考でライキルは慌ててベットから飛び起きた。
何も信じられない中、唯一信じられる彼の声の方へ駆け出した。
***
寝室の隣にはすぐにリビングが広がっていた。リビングには大きなガラス張りの壁がありそのガラスの向こうには透き通った海と、下り坂に並ぶ海岸沿いの街並みが広がっていた。
そんな絶景を眺められる場所にシンプルなデザインの白いテーブルがひとつ、白い椅子がふたつ向かい合わせに並べられていた。
左側の椅子にハルが座っており、テーブルを挟んで反対側の席が空いている。テーブルの上に置かれた簡単な朝食には手を付けず、彼はライキルを待っていた。
遠慮がちにトボトボとその朝食を取るためだけには贅沢な清々しい空間に足を運んだ。
「改めて、おはよう――――」
「おはよう…」
「ごめん、料理が上手じゃないから簡単なものしかできなかった」
切りそろえられたこんがりと焼けたパンにバターが塗り込まれていた。いい匂いが鼻腔をくすぐる。みずみずしい木のボールに入ったサラダには赤緑黄色紫と豊富な種類の野菜たちが顔を覗かせている。
ライキル前にあった開いたグラスに、ハルが白いポットを取ってミルクを注いだ。
「朝からお酒はダメだよ?朝は気持ちよく行こう、はい、カンパーイ」
ミルクが入ったグラスを二人は軽くぶつけた。
ライキルは勧められるがまま食事に手を付けた。シンプルな朝食は予想通り美味しく寝起きで空腹だったライキルの食事の手を次々と進めた。
夢中で食べていると不意に顔を上げた時ハルと目が合った。
「美味しい?」
「うん…」
「良かった、いっぱい食べな、まだまだたくさんあるから」
午後の日差しのように穏やかな笑顔を彼は浮かべている。このよく分からない状況でも彼のその笑顔だけはライキルの心を甘く溶かした。うっとりと見惚れてしまうけれどそこでライキルの記憶がこの状況に警告を鳴らしていた。
これは現実か?と。
「あのさ…ハル、ちょっといい?」
「どうしたの?」
「これは夢なの?」
「これって?」
首をかしげる彼は本当に困ったようにけれどしっかりとライキルの言葉の意図を理解しようとしてくれていた。そう、ハルはいつだって私の話しをよく聞いてくれる。私の―――
『私?』
【これが夢だったとしてあなたはどうする?】
『え、誰?』
【私はライキル、あなたよ】
『それはおかしい、私はこの私だけだ』
【それは、一体誰が決めた?それにほらあなたはそこにもいる】
「フフッ、なんだか今日のライキルは面白いね」
クスッと笑ったハルが、ライキルに語り掛けていた。
「いつもはつまらない女ってこと?」
「卑屈な――――でさえ見ていて可愛いって思うのは俺だけかな?」
「多分、そんな意地悪な人はハルだけだと思う」
「こんなに意地悪なのも――――にだけだよ。これは特別な意地悪。他の人になんかやってあげないなんてね」
「バカハル…」
そこには私とハルが楽しく食卓を囲んでいる景色があった。正確にはハルとライキルの二人の食事を、ライキルからはがされた私といつの間にか傍にいた容姿だけは私と同じ【彼女】は眺めていた。
『どういうことなの?これはなんなの?』
【ひとつ言えることはこれがあなたの思い描いている理想ということだ。こうなりたいという強い思いが形になったものに近い。無意識下の欲を具現化していると言える】
『こんなこと望んでない』
【いいや、望んでる。あなたは今のこの風景を否定したいんだろうけど無理よ。これがあなたの本心。心の奥底から願っていたあなたの理想なの】
『私はハルを憎んでる』
【憎んでない。あなたは彼を憎めない。世界がひっくり返っても、全てを忘れても、何もかもが生まれ変わっても、あなたは彼から逃れられない】
ガラス張りの壁からバルコニーに出るこれまたガラスのドアをハルが開けて部屋の中の空気を入れ替える。新鮮な空気と海の潮の匂いが部屋を満たす。
白いカーテンが揺れている。
「今日のお昼あたりに、ちょっとお出かけでもしない?」
「え!?いいよ!どこに行く?」
「浜辺でも一緒に散歩とかどう?」
「うん!行く!行く!!ハルとならどこにでも行くよ!」
喜びながら頷くライキルを私は見ていた。幸せそうに彼と話すライキルに、見ている私まで幸せになってしまいそうで、それがたまらなく悔しかった。だけど、それと同時にたまらなくその空間にいるライキルに嫉妬すらしていた。そんな感情に抗いたかったがどうしてもこの中途半端な感情から抜け出すことが出来なかった。彼を拒絶したいのに、ありとあらゆる自分の存在すべてが、目の前のライキルの存在を否定できずにいた。
【無理だよ、あなたは彼の愛に囚われてるから、抜け出せない。彼から離れることはできない。彼無しでは生きていけない、ほら、見てて】
食事から少し時間が経ちハルとライキルが、準備を整えると海の見える家を出た。
白い家々が連なる緩やかな下り坂を下る。
二人は手を繋いで今日の予定なんかを語り合う。景色のいい場所を知ってるんだけどそこにも行く?どこで昼食を食べたい?そう言えば最近新しいレストランができたって行って見る?散歩に疲れたらどこで休憩する?何かお家に足りないものはあったけ?あ、それとも予定変更して街でも見て回る?なんなら家で二人でゆっくりする?ライキルと二人ならどこでもいいや。
計画を立てたり、くだらないことを話したり、何気ない日々の小さな幸せが二人に積もっていく。
優しい暖かい風が二人の間を通り抜ける。
世界中にはたくさんの人がいるのにハルとライキルはお互いに夢中で通り過ぎていくい人たちにだって目もくれない。
世界は二人だけを中心に回っていた。いや、それは少し違った。広すぎる世界の中に二人だけの小さな世界が少しだけ幅を取っていた。二人の間だけならいいでしょ?と主張していた。
二人が坂を下り切り街を横切って海岸沿いに出ると、そのまま、砂浜を歩いた。誰もいない砂浜で二人は靴を脱いで押しては返す果てしない海の端で戯れる。
二人の間の時間はゆっくりと流れる。けれど外の時間はとても早く流れた。楽しい時は体感する時の流れを忘れさせた。
それから、二人は濡れた足を海を眺めながら乾かした後、海岸沿いの白い街の新しくできたレストランで昼食を取り、街中をぶらぶらと日が暮れるまで散歩したあと、坂道の上にある二人の家に戻った。
家に戻ると薄暗いリビングにある窓の外には街明かりの輝きと夜の黒い海が見えた。
歩き疲れた二人はバルコニーに椅子を持ち寄って、月明かりに照らされる街を眺めながらお酒を飲み交わした。
盗み見るように隣に居る彼の顔を見た。月を眺めながら酒を呷る彼がいた。当たり前のようにそこには彼がいた。
「ねえ、ハル?」
「なに?」
「…なんでもない」
「え、なに、なに、気になるんだけど?」
不安だった。もしかしたらまた離れ離れになってしまうんじゃないかと思うと怖かった。
『あれ、またって何?離れ離れになったことなんてないのに…何でこんなに怯えてるんだろう…今日は少し歩きすぎたかな?疲れてるのかも…』
「大丈夫か?なんか深刻そうな顔してたけど…」
「ああ、うん、大丈夫。たいしたことじゃないよ!」
「ほんと?」
「ほんとだよ、今日ハルと歩いてめっちゃ楽しかったなって真剣に考えてた」
「フフッ、何それ、そんな難しく俺とのデートのこと考えなくていいと思うけど…あ、もしかして、考えこまなきゃいけないほど楽しくなかった?それならごめん、今度はもっと上手く…」
夜に浮かぶ遥か遠くにある月から、隣にいる身近なハルの顔に視線を移すと彼はとても焦った表情を浮かべていた。意地悪してもよかったけどそれは可哀想だったからすぐに誤解を解いてあげた。
「ううん、違うよ。楽しかったのは本当だよ、だからさ、こうやっていつまで二人で一緒に居られるのかなって思ったら少し怖くなっちゃって…」
「そっか…俺もずっと一緒にいたい」
二人の間に一時の静寂が訪れた後、ライキルが言う。
「でもさ」
「永遠なんてないって――――はいうんでしょ?」
ハルは隣に居たライキルに言った。
「そう、永遠なんて無いから私たちはお互いを愛おしいって思えるし、またどこかでなんて希望が持てる。だから、いつか必ず来る別れもそんなにつらいことじゃないと私は思うんだけど、ハルはそうは思わないと」
「――――と一緒に居られないなんて考えられない…ずっと死んでも、死んだ後も一緒にいたい…」
視線を落とし頬杖をつく彼に…ライキルは見入ってしまう。けれどすぐに弱いところを隠すと彼に告げる。
「そういう、ハルの私に対する闇を感じるところ実は結構気に入ってたりする」
「大好きなんだから許してよ?これくらい、ハルさんの愛は結構重いんだ…」
自虐的に笑う彼にライキルも笑った。
「もちろん、好きなだけ愛してくれていいよ、私も頑張って返すからさ、少しずつで申し訳ないけど、私は感情表現がそのそんなに得意ではないから、ハルみたいに大好きしゅきしゅきみたいにはいかないと思うから」
「え、俺、そんな滑稽に見えてるの…」
ハルが飲んでいた酒を吹き出しそうになり固まっていた。
けれどそこでライキルは真面目に一切ふざけることなく真摯にハルの問いに対して答えた。
「あぁ、ごめん、言っておくけど滑稽なんかじゃない。愛するなんて行為みんなそういうものでしょ?愛おしくて、愛おしくてたまらない。その感情を外に出すか出さないかの違いであって、私も内心ハルのこと大好きでたまらない…」
「そっか、ありがとう。なんだかんだこんな俺の重い愛を受け入れてくれる人――――以外にはいないからさ、嬉しかったんだ…」
ハルがライキルの手を取る。
「ありがとう、――――」
けれどそこでひとこと言ってしまう。
筋書きとは違う言葉を言ってしまった。
「そんなこと無いと思うけど………」
美しい誰かの理想が終る。青い海、白い街、爽やかな風、愛する二人、幸せな生活、坂の上の邸宅、黄色い満月、静かなバルコニー、ガラス瓶の中の琥珀、優しい夜。理想の世界を構成していたすべてが崩れ始める。
ありとあらゆるものが消滅し始める中、私は叫んでいた。
『なんであなたはそこまでして私にこんな綺麗な夢を見せの?あなたはバカだ。大馬鹿だ。私よりバカな人なんて初めて見た。この大馬鹿野郎!!!』
【…………】
『怖かったのはあなたの方でしょ?誰よりも彼を愛していたから、離れ離れになるのが怖かったんでしょ!?誰かに奪われるのが嫌だったんでしょ!?わかるよ、私も大好きだったから、いつも優しくて、いつも誰かに幸せを振りまいて、彼の自分勝手な行動はいつだって誰かのためで、自分のことなんか二の次で人のことしか考えてないお人好しで、誰よりも涙っぽくて寂しがり屋で、本当に辛いことは絶対にみんなの前に見せない強がりで、バカばっかりして、でも、でもさ…』
震えるほど彼女に対して私は怒っていた。
『私だって大好きだったよ、彼からもらったものが大きすぎていつまでたっても返せなくて、ひとつ返しても何倍もの愛で返されて、間違ってばかりの私のことをずっと見捨てなかった最愛の理解者だよ!!』
誰よりも愛していると思っていた。
だけど…。
『それでも、あなたには勝てないって思った』
【………】
『だってそうでしょ!ハルが本当に愛しているのは、あなただけなんだよ?それに今のあなたの理想を見て分かったよ。あなたもハルを手放せないでいる。どれだけ強がってもあなたもハルを求めてるし、ハルもあなたを求めてる』
悔しいし、だけど何より悲しい。悲劇の中にいる私じゃない、彼女がだ。
『私たちの入る隙間なんて本当は少しもなかった。それなのにハルは私たちまで救い上げて本当の愛を与えてくれた』
噓なんて言わせない。短い間だったけど、ハルは本当によく私たちを愛してくれていた。ライキル・ストライクのわがままな夢を叶えてくれた。どうしようもなかった私に最高の理想的な幸せを与えてくれた。彼もきっとたくさん悩んだと思う。そしてその道は間違っていた。けれど、彼は私たちに夢を見せてくれた。
裏切り行為?くだらない。愛されない?バカみたい。そんな軽い言葉たち、異常なほど重い愛を持つ私たちにはなんら響かない。
だけど彼女は違うでしょ?今も引きずってる、彼と離れてしまうのが怖くてたまらない。その怖さを誰よりも知っている私は彼女の気持ちが分かる。痛いほど分かる。
だから、私はもうよかった。これ以上誰かの幸せを踏みにじって生きるのは辛い。
『私は返すの、あなたにハルを…』
【………】
『私はもう十分救われてた、ハルとあなたにね…』
【私は…】
『もういいよ、私に任せて、取り戻しに行こうよ』
私は彼女のことを抱きしめた。
彼女は私より背が低いのだ。
花のようないい匂いが鼻腔をくすぐる。
彼女はライキルの腕の中で確かに存在していた。
『必ずあなたをハルに会わせてあげるから、今度はあなたが救われる番なんだから!』
彼女はライキルの腕の中で泣いていた。
【ダメだよ…】
『ダメじゃない、ダメなことなんてこの世にないんだよ…』
私の記憶には時々曖昧な景色があった。知らない女の子と話している記憶があった。今思えばあれは彼女だったんじゃないかと思う。そんなこと今更どうだっていいのだけれど、ずっと私たちを見守ってくれていたのなら、それはきっと彼女の未練だ。
『私はもう行くね、決着をつけに行くよ』
彼女の身体を離す。少しだけ彼女を孤独にしてしまうかもしれない。だけど、それももう終わるから、ライキルは最後に彼女の名前を呼んだ。
【ライキル、ダメだ……私は……】
『ハルが私を待ってる』
私は目を覚ます。
【ごめんなさい、私は彼女を止められない】
ひとり孤独に真っ白な世界で嘆いた。
【助けて、ハル!!】
*** *** ***
「いい夢だった…」
分かっていた。
あんな立派な宝箱に大事にしまわれているような透き通った美しい青白い夢が、私の理想なんかじゃないことは、はじめっから分かり切っていた。
もし私の理想が具現化したとしたら、あんなに綺麗な世界を創造したりはしない。もし私の理想が具現化していたら、もっと世界はどこまでも黒くドロドロと汚れ切っていただろう。彼は私の強い劣情のはけ口になってただろうし、私と彼以外に全生命はいなかっただろうし、きっと立場だって逆転してずっと私が一方的に強い愛情で彼を溺死させていただろう。
そう、私は所詮そんな女なのだ。彼女のように綺麗で純粋な心を持った人間じゃない。だけどさっきも言ったように、そんな薄汚れた私のことをハルは本当によく愛してくれた。ありえないくらい優しく甘えさせてくれた。私にはそれだけで、もう十分だった。理想は叶っていた。
だから、ありがとう、って言うよ。
「ありがとう」
そして。
「サヨナラしようか…」