幽霊
幽霊なんて存在、信じてすらいなかった。自分の神様は見つけることが出来たけれど、幽霊に関して言えばそれはおとぎ話の存在だと思っていた。
だけど実際にこうして会ってみるとそれは意外な存在だった。
「あなたにしかできないの」
聖樹セフィロトの頂上に降り続ける生暖かい赤い雨の中、ひとりの女性が言った。
テントの中にいたルナは彼女の言葉に耳を貸さずに愛しき青年の身体をタオルで拭いていた。
そう、驚いたことに二人を取り巻く環境は大きく変化していた。
身動き一つせず、刀を握ったまま、目を瞑って、手をかざし沈黙している青年の周りには、すでにごちゃごちゃと日常生活で目にするありとあらゆるものが用意されていた。
青年の頭上にはすでにテントの屋根で覆われており、常に振り続ける赤い雨に当ることはもうなかった。その大きなテントに壁となるものは無く四つの柱で屋根を支えているデザインのテントであった。そこにはルナがハルをお世話するための日用品が大量に用意されていた。
それはレキが用意してくれたものであった。彼は可能な限りルナの望むものを用意してくれていた。彼は便利な瞬間移動の魔法を駆使してルナ専属の運び屋になっていた。
そのため、数週間の単位でルナはレキに物資を運んで来てもらっていた。
ルナはここ数か月で考えをしっかり改めていた。最初はハルに会える喜びで舞い上がっていたが長期滞在あるいは死ぬまでここにいるとなると、物資や食料が必要だった。そのため、ルナはレキを頼ってこうしてあらゆるものを揃える手立てを確立していた。
ハルと二人で暮らしていると気づくことがたくさんあった。
ひとつ目は、ハルは動かせないということだった。
最初、ハルをどこか安全な場所に移動させようとしたが動かそうとした時、彼から強力な神威を感じ取ったので、彼の位置を動かすのはやめた。握っている刀を取ろうとしてもそれは、一緒のことだったので、それには触れないことにした。
そして、最終的に、レキに頼んで瞬間移動で飛ばそうともしたが、レキ曰く、彼にはどういうわけか魔法が掛けられないとあっさりと断られてしまった。
二つ目は、彼のかざす手の前に立っても何も起こらないということだった。
最初、四大神獣を磨り潰し続けるほどの強力な力が出ているのかと思ったが、そういうわけではなかった。前を塞いでも朱鳥はぐちゃぐちゃのミンチになり続けるし、その手に恋人繋ぎを試みてもやっぱり朱鳥は常に肉塊にされ続けた。
最後は、栄養補給や排せつなどの生理現象による人間的営みに関する問題だった。
まず彼に口から調理した柔らかいものを食べさせようとしてもすぐに吐き出してしまった。それからどうにかして食事を口にしてもらいたかったが、このルナがここに来てからの数か月間食事はおろか水さえ一切取らずに彼は生命活動を維持していた。毎日、首の脈と心臓の音呼吸があるかを確認しているが、ハルの身体は常に正常だった。
そして、一切食事をしないため彼がここに来てから排泄をしたことは一度もなかった。
もちろん、ルナは彼の生命活動維持を観察するため隅々まで彼の身体はチェック済みだった。
こう見えても医学は小さい頃から必須科目であり得意であった。父に紹介された拷問官から人間の身体の仕組みを一から教えてもらっていたのだ。
ただ、それはあくまでも人を助けるためではなく殺し屋として相手から情報を引き出すためであり、人間の急所を知り拷問術に生かすことが目的だった。
拷問する前に痛みを与える部分の身体の仕組みを事細かに説明すると大抵の被験者は痛みを味わう前に情報を吐いてくるからだ。
話はそれたがルナにそういった劣情から彼をどうこうしようとする気持ちは無かった。
そう、毎日全身を清潔なタオルで拭いて、下着と服を取り換えてあげることぐらいでそれ以外で彼の裸を見ることはなかった。決してなかった。決して。
ただ、ひとつ気になったことは、彼の背中に刻まれていた痛々しい何かにえぐられた後の様な古い傷跡だった。
この傷を見るたびに彼の過去に何があったのかルナは気になった。
歴代最強と言われた英雄にこの傷をつけたのは一体何者なのか?
ハルについてルナが知らないことはまだまだたくさんあった。
『いつ見ても痛そうだな…』
上半身をはだけさせた彼の傷だらけの背中に手を当てる。
『誰かを庇ってついた傷なのかな…そう考えたら庇ってもらった子は幸せものだな…』
「ねえ、聞いてるの?」
ルナは、いつの間にかいた見知らぬ女性に声を掛け続けられていたが、無視を決め込んでいた。
ここに自分とハル以外の人間がいるはずがなかった。レキと会う場所だってこの聖樹の頂上ではない。ここは二人だけの聖域で誰も入れることはしなかった。
なんならハルと朱鳥の神威に上乗せしてルナも独自の神威をこの空間に重ねがけして三重の結界とも言える強固な神威による絶対不可侵領域を形成していた。
「あなたに言ってるんだけど?気づいてるんでしょ?ねえ、そんなにハルのその傷が気になるの?教えてあげよっか?なんでハルの背中にそんな悲惨な傷があるか?」
何かを知っている雰囲気を醸し出す彼女にルナが睨みを利かす。
「お前邪魔だな、今すぐここからいなくならないなら消し飛ばすけどいいか?」
その瞬間、ルナの周辺の空気が歪み始める。ルナの殺意のこもった神威が広がり始めようとした時だった。
「ま、待って、待って、待ってって…!別に私はあなたの敵じゃない。ごめん、それだけは言っておく…からやめて…それやめて本当に……」
ルナのその神威は半透明の幽霊の彼女もビビり散らかすほどの威力を秘めていた。
「用件はなんだ。その前にお前は誰だ?」
少し警戒じみた声で彼女に問いかけた。ここにいるということはそういうこと、あらゆる可能性を想定しなければならなかった。
しかし、ルナの警戒虚しく怯えながらも彼女はひとつ咳払いをすると答えた。
「私の名前はアザリア、そこに居るハルとは…えっと知り合いみたいなものかな…うん」
「そう、私はルナ」
「ルナちゃんか…」
ちゃん付けしたところで睨みつけると、彼女は苦笑いをしてその場をしのごうとしていた。
「ところでひとつ聞いてもいい?」
害がないと分かるとルナの口調はすぐにいつも通りの柔らかさに戻った。
「はい、何でもどうぞ!」
「なんであなたの足元は透けてるの?」
「え!あぁ、えっとそれはね…」
幽霊程度でルナの背筋が凍ることなどまずない。それでも不思議に思ったから質問した。それに幽霊と話せるなどこんな貴重な機会は滅多になかった。そもそも幽霊など本来ありえない存在であった。
だが、そこでルナはひとつ自分が最近習得した神威というものを思い返してみるとあながちそういうことなのかな?とも思ってしまった。
『神威はこの世に存在する力のことって言ってたけど、見えない存在が見えるようになったのは、やっぱり神威がレンズとしての役割を持っているからなのか?』
ルナは考え込む。最初にこの聖樹で強い神威に触れた時に見たあの光景をルナは忘れられずにいた。
『例えば空間にあるマナは肉眼では見れないけれど、特定の魔法を使えば見えるようになる。そう考えれば、彼女のような幽霊が見えても不思議じゃない…』
珍しい体験をしていたルナは彼女の存在をどうにか自分が持っている知識の中で解決しようとしたが、次の彼女の発言で謎は深まるばかりだった。
「それは多分この世の住人じゃないからかな?」
「どういうこと?」
「私はもう死んでるの…へへッ…」
屈託のない笑顔で笑うが彼女の顔には少しだけいびつさが残っていた。死んでいることに関しては幽霊なんだから当たり前と予想していたが、やはり未練があることに変わりはなさそうだった。
「それで何しに来たの?ハルに会いに来たってわけ?」
話を聞いてあげるだけの価値はありそうな気がした。それにハルを知っているとなると妻として…いや、まだお世話係としての役目だったからだ。
「そうだね、それもそうなんだけど、一番はあなたにお願いがあって来たの」
「私に?何の用があって来たんだ?」
「止めて欲しい子がいるんだ」
「名前は?」
「ライキルって子」
「ライキル…」
その名前はよく知っていた。ずっと、レイドでハルを追っかけている時代からずっとそのライキルという女性の名前は知っていた。彼女のことはルナにとって何よりも邪魔な存在であったと同時に彼れから切り離せない存在でもあった。
「そう、彼女は必ずここにやって来る。だけどそれはハルにとっても、あなたにとっても、彼女にとっても、私にとっても、不幸な結末しか招かない…」
「彼女が何をするんだよ…」
「彼女はここにいるハルを殺そうとしてる」
「…はぁ?」
「あなたにはそれを止めて欲しい…」
その言葉を聞いたルナはしばらく放心状態だった。何をどう考えても、どうしてもライキル・ストライクという人間がハル・シアード・レイを殺そうとする道筋にたどり着くことができなかった。
「そんなの世界がひっくり返りでもしなきゃあり得ないことよ…」
知っていたずっと見てきたから、ライキルという女性がハルを愛してることを、それは呪いとも言い換えることが出来るほど深すぎる彼女の愛が、ハルにはまとわりついていることを知っていた。王都に居た頃彼に他の悪い女性たちが寄り付かなかったのはどう考えてもあのとびきり悪い女が傍にいたからだった。彼女はどんな手を使ってでもハルから女の視線を逸らせていた。彼女はハルを独占しようとしていた諸悪の根源とも言えた。
「世界はひっくり返ったでしょ?」
「何?」
聞き捨てならない言葉を聞いた。
「みんながハルのことを忘れてしまった。それは彼女たちも例外じゃなかった」
「ッ!?」
目を見開いたルナが再び固まった。
「彼女はハルがいなくなった穴を埋めようとしたんだ。それで彼女は傍に居たガルナちゃんを選んだ。だけど、その穴は埋まらなかった。誰かの代わりなんて誰にも務まらないからね。それだからライキルたちはここまでハルを追うことになって、たどり着いてしまった」
「だけど、それだったらライキルはハルを救いに来るはず…私みたいにハルを手にいれようとするはずでしょ…?」
そこでアザリアが少し俯き目を伏せてその疑問に答えた。
「うん、そうだね、だけど、この森に来てライキルはハルの本当の神威に触れて、見てしまったんだ、彼の過去をね」
「彼の過去?」
「そう、そのことで言っておかなければならないことがあるんだ…」
アザリアは深く息を吸う動作をした。ただ幽霊の彼女が息を吸うことに意味があるのかは分からなかったが、何かとても緊張しているようだった。
「ルナ、あなたになら言えると思った。毎日熱心にハルの世話をするあなたになら彼の本当のことを伝えてもいいと思った」
ハルのことなら何でも知りたいと思ったルナは口早に言った。
「教えて欲しい、私ハルのことならなんだって知りたいから…」
「言っておくけどもし聞くなら覚悟が必要だよ」
「覚悟はいつだって出来てるわ」
ルナは息を呑んだ。
アザリアが口を開くまでに少し時間がかかったが、次の瞬間にはルナは自分の耳を疑っていた。
「ハルはこの世界の人間じゃない」
その言葉を聞いてすぐに傍にいたハルのことを見つめた。そこにいるのは、すらっとした高い背にくすんだ青い髪、今は目を閉じているが、優しい笑顔が素敵な彼はみんなの英雄ハル・シアード・レイで間違いなかった。
「ハルはこの世界の人間だ…今ここにいる、私の目の前にいるこれは変わらない真実だ!」
ルナが焦って口走った。
「うん、あなたの言っていることは合ってるよ。だからこそ、私みたいな人間は本来こうやって存在してちゃいけないんだ」
アザリアが自分の透けている足に視線を落していた。
「お願いルナ、私はこうやって頼むことしかできないけど、ライキルのことを止めて欲しいんだ。これはあなたにしかできないお願いなんだ…頼まれてくれないかな?」
呆けていたルナだったが、少し考えた素振りをみせた後頷いた。
「わかったわ、その願い叶えてあげる。ただ、そのかわり、アザリア、あなたとハルの本当の関係を教えて」
「本当の関係?」
「幽霊になってまでこうしてハルや彼の周りのために動いているあなたが、ハルと生温い関係だったとは思えなかったの。だから教えて欲しい、ハルとあなたの本当の関係を…」
アザリアがそこでテントの中にいるハルの顔を見つめた。そして、ルナに向き直ると少し恥ずかしそうに笑って言った。
「別の世界でハルは、私の夫だったよ。大切な家族だった」
「そっか…」
ルナは困ったように眉をひそめた。そしてそこからは何も言えなかった。
次の瞬間、アザリアの姿はルナの前から消え去っていた。
だけど、彼女の声が最後に聞こえた。
「ルナ、約束だからね。みんなを守って、それとハルと幸せにね」
その場に崩れ落ちたルナが見つめる先には、相変わらず赤い雨が降り注いでいた。
「私は…」
その時ほどルナはこの血の雨が止んで欲しいと思ったことは無かった。
運命の時が近づく。