警告
「やあ、ライキルさん、お目覚めかな?」
焚火を囲う者のひとりの赤いローブを身に纏った男が、湯が立ち上るカップを両手で大事そうに持ちながらライキルを一瞥し微笑んでいる。
「ライキル、目が覚めたか!」
ビキレハが駆け寄って来るとライキルの手を握った。振り払おうとしたが一応そのままにしておいた。崩すわけにはいかなかった。自分が普通のライキルであることを。
「心配したんだぞ!お前があんな無茶するから…もし、このまま起きなかったら全部私のせいだった。ごめんな、ライキル」
「いえ、いいんです…私もやけになってましたから、あなたのせいじゃありません。ご迷惑をお掛けしました」
心から安心しきっている表情を見せる彼女を見下しながら、心にも思ってない言葉を丁寧な口調であたかもそう思っている様に表面的に自然体を崩さずに言った。
「ライキルさん、どこも悪くないんですか?」
ビキレハの隣から顔を出したウェーブがかった金髪の髪をなびかせるギゼラも心配そうに尋ねて来た。
「ええ、もう大丈夫です」
「そうですか、それなら良かったです。無理やり神威を突破したと聞いたので後遺症があるかと思いまして…」
「そうだったんですね、でも、私もうどこも異常はないので大丈夫です。心配してくれてありがとうございます」
ライキルの身体は全快しており、軽い頭痛がする程度で後遺症などという症状はどこにも現れていなかった。
あの時ビキレハがゆっくりとライキルたちを神威に慣れさせようとしていたのには理由があったのだ。ただ、さしてライキルにはどうでもいいことだったのかもしれない。なぜなら、死ぬほど急いでいたからだ。それは自分の命と引き換えにしてもいいと思えるくらい、無茶を通してでも先に進みたかったから、後の自分がどうなろうと頂上にさえつけていればよかったのだが、結果はこの通りスタート地点に逆戻りだった。
ほっと一息ついた様子のビキレハが顔を上げてライキルに言った。
「お前を助けたのはそこにいるベリルソンってやつでな、彼は私の所属してるグループの隊長で、あんまりパッとしないんだが、頼りにはなる奴でな」
ビキレハが親指で焚火で暖を取っている彼を指した。
彼がカップを置いて立ち上がり、ライキルの前に歩み寄って来た。
「初めまして、俺の名前はベリルソンって言います。以後お見知りおきを」
彼が丁寧にお辞儀をする。
だがそんな彼に、ライキルは自分のどこか頭の中の線がブチリと何かが切れる音を聞いた。
ベリルソンという男がニコニコと微笑みながらライキルが挨拶を返すのをただ待っている。
しかし、ライキルの口が彼に言葉を返すことは無かった。
代わりにライキルの黄色い瞳が彼を見据えた。微動だにしない表情は一切の感情を持ち合わせず、ただひたすらに彼に視線を送っていた。瞬きひとつせず、凍りつくような眼光がベリルソンを貫く。ライキルの瞳にはベリルソンしか映らず他のものは一切意味を持っていなかった。それは好意的な感情などではもちろんなかった。感情が死に絶えたような瞳の闇はどこまでも深く輝きを失っていた。
不気味な静寂が広がり自然とその場にいる誰もがライキルがその凝視をやめるまで動けなかった。
「助けていただき、ありがとうございました」
感情のこもっていない声が第三キャンプ場に響いた。
「え、ああ、うん、どういたしまして……」
ライキルはそのまま自己紹介もせず、ベリルソンから視線を外すと適当な場所に腰を下ろした。ライキルが彼に凍りつくような冷たい視線を送ったのはそれが最後だった。戸惑いだけが周囲に広がった。
「ライキル、そんな怖い顔してどうしたんだ?」
隣に座るガルナが一声かけて来た。
「怖い顔なんてしてませんよ?」
ライキルはいつも通りの笑顔を彼女に浮かべた。
第三キャンプ場に集まったライキル、ガルナ、ビキレハ、ギゼラ、そしてベリルソンの五人は焚火を囲って夕食を取ることになった。
ビキレハ自慢の手料理が振舞われ食事は質素な保存食ではなく贅沢なスープを主体とした肉料理に変わった。
「そう言えばこの料理の食材はどこから仕入れているんですか?」
焚火の上の大きな鍋にはたくさんの上質な肉が煮えていた。スープのだしを吸収した肉がゴロゴロと鍋の中を回っている。
「これらの肉は毎回ベリがここに届けて来てくれてたんだ。だから、ライキルもベリには感謝してあげてくれ」
「そうだったんですね、わざわざありがとうございました。ベリルソンさん」
今度のライキルの声と表情はとても柔らかなもので、周りもホッとしていた。一番安心していたのは紛れもなくベリルソンであったのは間違いなかった。
「いいんです。処分に困っていた食肉がたくさん余っていたんで」
「これって馬肉ですよね?」
「ええ、ロウのお肉です」
馬科に【ロウ】という草食動物がいた。比較的に飼いやすいロウは食用として市場に出回っていることも多々あり、少し値が張るが庶民たちに好まれるお肉のひとつであった。この大陸には比較的どこにでも分布しているが、気性が荒いため家畜として飼われることはほとんどなく、野生のロウを狩猟して、その絶品なお肉を確保することが主流だった。
「ありがたいです。ここ最近はずっと保存食ばかりで飽き飽きしていましたから、ここに来てからビキレハに美味しい料理を作ってもらえて助かってました」
「そうだろ?私、家事全般は得意だからな、料理なんて余裕よ、余裕」
得意げにビキレハが鼻を高くする。
「ビキレハは将来いいお嫁さんになることが夢だからね」
ベリルソンが空になったカップに紅茶をつぎ足しながら言った。
「ああ、いい男を捕まえて幸せな家庭を作るのが人生の最終目標よ!」
「え、家事のスキルはともかくこんな性格破綻者に恋人ができるんですか…」
耳を疑った言葉を聞いたギゼラが顔面を蒼白させてかなり失礼な発言をする。
「男を知らない、お前に言われたくないな?」
売り言葉に買い言葉、彼女はすぐにそのギゼラの聞き捨てならないセリフに突っかかっていく。
「あ?言っておきますけど、私、超モテますからね?ダンスホールに行けば男たちが私目当てに群がってきますからね?」
挑発にすぐに乗ってしまい憤るギゼラに、部外者のライキルたちも苦笑いする。
「知るかよ、モテる奴は大恋愛全集なんて醜悪な本読まねんだよ」
そこでギゼラの顔がみるみる赤くなって叫んだ。
「だ、だまらっしゃい!!」
二人の会話に第三キャンプ場に笑い声が溢れた。ビキレハとギゼラの喧嘩を止めた後、楽しい夕食は大いに盛り上がりを見せた。
大きな鍋の中身も底を尽きた頃、食後の休憩としてライキルたちは片づけをしたあと、再び焚火の前に戻って来て休息を取った。
ライキルはガルナに寄り添ってただ燃え盛る焚火の炎を眺めていた。パチパチ音を立ててたまにバチリと火の粉が宙に舞うと目で追っては、ジッと木の椅子に座って暖をとっていた。人肌も恋しくなってくる季節に外でキャンプをするのは堪えるものがあるが、それでも空をゆっくりと流れる雲の隙間から見える澄んだ星空は絶景で心休まる光景だった。旅の目的がもっと別のものであればこのキャンプはもっと素敵なものになっていたかと思うと気分はあっという間に落ち込んだ。
ライキルの隣にはビキレハがおり、ちょくちょく、その隣にいたベリルソンに適当な話題を振っては、彼を困らせていたが、二人の会話からは付き合いの長さがうかがえる会話であった。ライキルとエウスのように相手になんでも言えるような兄妹のような関係とも言えた。そんな二人を見ているとライキルも彼のことを思い出してしまった。もちろん、エウスの方ではない。そこで再び気分は沈んだ。けれどこの落ち込みはガルナの腕にしがみつくことで何とか耐え抜くことが出来た。だからライキルの気分は通常よりちょっと下あたりの感覚だった。
ギゼラに関しては、先に眠ると言ってテントに帰ってしまった。そのことに関してビキレハは大いに喜んではいた。
そんなこんなで、しばらくまったりしているとビキレハが立ち上がって自分のテントの方に消えていった。何かあったのかとライキルたちが彼女のテントを見つめていると、彼女はすぐに戻って来た。
「よし、邪魔な奴がいなくなったからみんなで乾杯しよう」
ギゼラがいなくなったタイミングを見計らっていたように、ビキレハの腕の中には大きな酒瓶が三本抱えてあり、そして、彼女の左手にはその場に居た四人分のショットグラスが器用に握られていた。
ビキレハがみんなにグラスを渡すと手際よく酒を注ぎ始めた。
「それじゃあ、乾杯!」
三人はギゼラのことを思いつつもビキレハの勢いに乗せられて渋々乾杯した。
グラスに入った琥珀色の酒を飲むとなかなかに強いお酒だった。そんな強い酒は身体をあっという間に熱を帯びさせ、頭を緩ませた。一応特別危険区域に指定されている場所だったがみんな警戒心はとっくにお酒の力で吹き飛んでいた。
その中で、すぐに酔いが回って来たビキレハは、自分が今までに出会って来た男の話しをベラベラと語り出した。彼女を抱いた、というよりかは抱かれた、いや、彼女の話からすると貪り食い散らかされた高貴な貴族や、有名冒険者、高潔な騎士、純粋な青年たちの不憫なエピソードがいくつも出て来た。そこから分かる通り、ギゼラが言っていたこともなんとなく理解できた。ビキレハという女性の本質は愛をつまみ食いする怪物とも言えた。
「いやあ、それでな、私が一夜寝たその男がお偉い王族だった時の話しなんだがな、その時そのことがきっかけで国が傾きかけてだな…」
「あんたの話し聞いてると、男たちが不憫でならないよ…」
ガルナが口を出すほど、ビキレハの話しに出て来る男たちは彼女に振り回されて最終的は捨てられていた。
「私なりに愛そうとした結果なんだ。今まであって来た男たちも許してくれるだろう…ぐす、すまないみんなぁ…ぐすん」
酷い演技でビキレハは泣き顔を披露する。
「とんだ悪女だな…」
「悪女?ハハッ、まあ、そうだな…」
にやにやしたビキレハが酒を勢いよく流し込むと、隣にいたライキルにすり寄った。
「それよりさ、私お前たち二人の関係の方が気になってるんだが?どうなんだ?私は二人が普通の女の子同士の友情が芽生えていると思えないんだけど、そこらへんどうなんだ?もっと深い仲っていう、そういう認識でお前たちを見ていいのか?」
ビキレハが身体を寄せてくると、ライキルの顔をまじまじと酔いが回った庇護欲をそそる愛らしい顔で覗きこんで来た。そして、彼女はライキルの顔を片手でクイッと自分の方に向かせると甘い声で囁いた。
「その輪に私も入れてくれないか?なんだかとっても甘そうだ…私、甘いのは大好きなんだ…」
耳元でビキレハが囁くと、ライキルの隣ではチリチリとくすぶり始めたガルナが静かに彼女を睨みつけていた。
「今日の夜にお前たちと寝てもいいか?私、お前たちに興味があるんだ。なあ、いいだろ?私も二人の仲間に入れてくれよ」
自慢の腕力で彼女を引き剥がそうとガルナが立ち上がった時だった。
ライキルがビキレハの太ももに手を置いた。
「ひゃう!?」
熱を帯びたビキレハの身体がライキルの外気で冷えた手に冷却される。少しばかりの間、冷気で覚醒した彼女の意識は酔いから解放した。しかし、ライキルの攻めは止まらなかった。そこから這うように人差し指で彼女の身体を下から上になぞった。太ももから腰、腰から胸、胸から首、首から頬へ、ゆっくりと一直線に這わせた。ビキレハその指が身体の部位を刺激し上がってくるたびに、短い吐息を吐き出していた。完全に魅せられていたビキレハは呆然とただ這いあがって来る指を目で追っていた。
頬までくるとビキレハの顔はゆっくりとライキルの方へ引き寄せられた。
最終的に目の前に居たライキルと目が合うと、息を呑んで固まっていた、そして、段々と近づいて来る彼女にビキレハがもうダメだと思った時、耳元でライキルに囁かれた。
――――ダメ。
それは魔法のような時間だった。ビキレハの目には彼女が酷く色っぽく魅力的に見えていた。からかってやるつもりが目の前に居る女の方が何倍も上手であることに気づかされた。
「ら…ライキル……」
ビキレハの酔いは一瞬で覚めたが、掛かった魔法は解けなかった。
「これを機に少しは懲りたらどうですか?」
「な、何を?」
本当にただの素直な女の子になってしまった彼女にライキルは告げる。
「男漁りですよ」
優しい笑顔で微笑む。ビキレハの心は完全にライキルの手中にあった。顔を赤くし目を丸くする彼女にライキルは余裕の態度を見せる。それはライキルからすれば何度も見て来た光景だった。
自分はまさか落とされまいと思っていたのだろう。だが、そんな女性ほどライキルの手にかかればイチコロだった。それは王都で培ってしまったものだったのだが、こうして彼女を篭絡させることが出来たことは何かと都合もよかった。立場が逆転したことで彼女を御しやすくなったと思えば今後のトラブルも減ることは間違えなかった。
「し、仕方ないな、ライキルがそういうなら控えてみようかな…」
「その方がいいと思いますよ、ビキレハは可愛いですから、すぐに心に決めて人が現れると思いますよ」
ビキレハが男を堕落させる可愛い意地悪な天使なら、ライキルは女を堕落させる醜悪な悪魔であり格が違った。
それから、すっかり時間も経つと酔いつぶれたガルナとビキレハがライキルに寄りかかるように眠っていた。
焚火にはライキルとベリルソンの二人、気まずい空気の中、静寂の時間が流れていた。しかし、その静寂に居心地の悪さを感じているのはベリルソンの方だけで、ライキルは隣にいるガルナにべったりとしてもらっているだけで十分幸せだった。
しかし、その保たれていた静寂はベリルソンが焚火に薪をくべている際に破られることになった。
「あの、ライキルさん、少しお話があるんですけどいいですか?」
「別に構いませんけど」
二人だけになるとライキルの態度はいささか冷たかった。心当たりのない彼にとってはそれだけで緊張感が増した。
「えっとライキルさんたちがここに来た理由お伺いしてもいいですか?」
「つまらないものですよ?」
奥歯をかみしめ眉間にしわを寄せひとつため息をついたライキルが返した。
ライキルには、ここにこうして集まっている人たちの理由など限られていると半ば確信していた。ここに集まっている人たちが、偶然こんなところに迷い込むはずもなく、特に全員がレキを知っていることから彼が何らかの手引きをしていることは間違えなかった。あの男の胡散臭さは異常だった。
「この際、当ててみてもいいですか?」
ベリルソンが笑顔でユーモアを利かせようとしていた。この重たい空気を少しでも和らげようと思ったのだろう。雰囲気作りと言ったものであった。
ただ、そんなことを言ってくるのだから彼も薄々気づいていると確信した。ここに来ている人たちの目的はだいたい一緒だということを、誰も、ここに目的も無しにキャンプなどしていないということを。
「ライキルさんは、ハルさんに会いに来た。違いますか?」
「正解です」
意外だったのはハルという名前を彼が出して来たことだった。
「ライキルさんたちはハルさんのご友人ということなんですよね?」
「ええ、そうですが、どうしてそんなこと知ってるんですか?誰から聞いたんですか?」
自分が着を失っている間にガルナと話しでもしたのかとも最初に思ったが、彼の答えはライキルの想定とは違ったものだった。
「あの聖樹の頂上に居る方から聞いたんです」
「聖樹にいる?………あぁ」
『レキもそんなこと言ってたな…』
ライキルのぼんやりとした記憶の中にレキがうっかり口を滑らせてしまったといった調子で呟いた言葉が今鮮明に蘇り始めていた。
「それって誰なんですか?その人の名前とか分かりますよね?」
「それが口止めされていて…」
「その人頂上で何してるんですか?」
「それも言えないんです…」
「男ですか女ですか?」
「それも…すみません……」
ベリルソンが勘弁してくださいといった様子で肩身を狭めていた。
「じゃあ、なんだったら言えるんですか?」
キレ気味にライキルが尋ねると彼は少し戸惑った様子で口を開く。
「ひとつ、ライキルさんには伝えなくちゃいけないことが合って…」
「何ですか?」
ベリルソンがグラスに入った酒を一気に飲み干すと彼は言った。
「ライキルさんを殺すようにその方から言われました」
その事実にライキルの表情はピクリとも動きはしなかった。ただ、沈黙だけが二人の間に再び訪れる。
「そうですか、それで私のこと殺すんですか?」
静寂を切り裂いて焚火の炎がパチパチ音を忙しなく奏で、火の粉が辺りに舞い散り始める。緊迫した空気が張りつめ限界に達した時、彼が口を開いた。
「こんなところで殺しはしません。ただ一つだけ言っておきたいことがあります」
ライキルは黙って彼の言葉に耳を傾ける。
「ライキルさんがもし聖樹の頂上を本気で目指しているのであれば覚悟しておいてください。その時の俺はあなたの敵です」
「敵?」
「そうです。聖樹の頂上には誰も入れさせないつもりですから」
「………」
そのことに関してライキルはあまり関心を示さなかった。そうですかと呟くとただ舞い上がる火の粉を見つめていた。
「警告はしました。だから、もし、今度俺と会う時があれば敵同士ですので、あなたたちがこれ以上先に進まないことを願います」
ベリルソンが立ち上がるとフードを深くかぶった。彼が見上げる先には幾星霜かけて生まれた星々が輝き続けていた。
「俺はもう行きます。ビキレハと仲良くしてくれてありがとうございます。彼女ずっと年の近い女友達が欲しいって言ってたんで喜んでると思います。」
彼はそれだけ言い残すと立ち去ろうとした。彼の背中に四つのリングが対照的に展開される。
「私は行きますよ」
ライキルの短い言葉に、彼が一度足を止めた。
「だから、また会いましょう」
振り向くとライキルが微笑んでいた。
ライキルが友人たちに向ける笑顔をベリルソンは目撃し、彼の顔もつられてほころぶ。彼もそこで何か返そうと口を開けたが、言葉を喉の奥に引っ込めた。これ以上この場に居たくなくなり、何も言わずに彼は暗い森を四つのリングで照らしながら夜の彼方に飛び去っていった。
焚火に薪をくべる者がいなくなるとやがて炎の勢いは衰えていった。