三日月
夢見た景色はここにあった。
こうしてあなたに触れられているだけで、こうしてあなたの傍に居られるだけで私は十分幸せだった。
叶わないと思っていた夢が、今、叶い続けている現実に眩暈がしそうだった。
あなたの傍に居られるこの日をずっと夢見ていた。
決して理想的な形ではないけれど、それでも、私はあなたがいるそれだけで良かったから、だから、たとえ、あなたが私に気づかなくても、言葉を返してくれなくても、見つめてくれなくても、想ってくれなくても、触れてくれなくても、何も与えてくれなくても、今、とっても幸せだった。
私があなたを気にかけて、毎日言葉を掛けて、飽きることなくずっと見つめて、あなたがうんざりするほど想って、気が済むまで触れて、全て与えて愛してあげる。
私ができることは全てしてあげる。どんなお世話も見てあげる。あなたがもう一度目を覚ますその時まで私があなたを隣で支えてあげる。
あなたをこうして直接支えられることが出来ることは何よりも幸せだった。
たくさんのものをあなたからは受け取ったから、少しでも返せることが嬉しかった。
この時間が永遠に続くならきっと私は世界で一番幸せな女の子だと思う。だけど、少しだけ贅沢を言うなら私はもう一度だけあなたの声が聞きたかった。言葉を交わしてくだらない話題で笑って、思い出を語って、私の知らないあなたを知って、もっとあなたのことを好きになりたかった。
赤い血肉が降り注ぐ中、私はあなたに寄り添う。血肉でどれだけ私とあなたが汚れようと二人一緒なら何も問題はなかった。
聖樹の頂上でずっと輝いていた聖なる炎が、消えては灯りを繰り返す。死と再生が循環し続ける。それは私とあなたの生活の一部となって、狂った日々はやがて日常になった。
あなたは刀を握り、もう片方の手を前にかざして魔法を唱え続けている。
それは見たこともないほど残酷で凶悪なけれど洗練された恐ろしいほど透き通った美しい魔法だった。
そんな美しい魔法が芽吹こうとし続ける生命を死に追いやっている。
あぁ、なんて綺麗なんだろうか…
血に染まり、ため息交じりにそう思う。
この一瞬一瞬を私は生涯絶対に忘れないんだろう。
みんながあなたを忘れても私だけはあなたを忘れなかったように、これから先もずっと、ずっと、あなたの隣で…。
だけど。
私があなたの隣でくつろいでいると、ふとこの聖域にひとりの悪魔が現れた。
血の雨でぐしょぐしょになる私たちとは違い、彼は水の膜を張って血の雨から身を守っていた。
その悪魔は言った。
「彼女たちがここに向かって来てる。名前は…」
彼はひとりの女性の名前を告げた。
それは私とあなたの日々を台無しにする最悪の言葉だった。
彼はそれだけ告げると背を向けてその場から消えてしまった。
私は憤ったと同時に諦めかけそうになった。
だって、本当は分かっていたから。
「私なんかじゃ、あなたを幸せにはできない。そんなことくらい、分かってる…」
あなたの顔を見上げて言った。
「ずっと、見て来たからさ…」
聖樹の上のあなたの隣。私の目からは涙が流れた。血の雨に降られてすぐにその涙は赤く染まってしまった。
「だけど、もう、今度こそは諦められない…どうしてもこのチャンスだけは手放したくない…」
私はあなたにすがるように抱きついた。見捨てないで欲しい。遠ざからないで欲しい。運命が決まっているのだとしたら、どうか私に味方して欲しい。だって、こんなにもあなたを愛しているのだから…。
世界があなたを失っても、私だけはあなたを見つけだした。二人だけの時間を奪わないで欲しい。これ以上、もう、私の邪魔をしないで欲しい。どうか、お願いだから、あなたの傍にいさせて欲しい。
あなたと共に血の雨に濡れるのは、綺麗なままでいたくないから、私と同じくらい酷い人間になって一緒に地獄に堕ちて欲しいから、私は毎日あなたと血の雨に濡れていた。
私はこの血の雨が止んで欲しくないと心の底から願った。
聖樹がエルフの森がこの大陸全土が血で染まるまで、あなたと私だけでここにいたかった。
「ねえ、聞いて、聞いて、ここに来てるってよ、あなたの大事な彼女さんが…」
私はあなたに問いかける。いつものように言葉を掛ける。少しでも反応して欲しいから言葉を掛ける。しかし、あなたは、ただひたすら目の前の鳥に死を与え続けるだけで、相変わらず見向きもしてくれない。
「好きな人が迎えに来てくれるなんてこんな嬉しいことは無いもんね」
強く抱きしめて言葉を吐き出した。ただ、ただ、自分が惨めで仕方がなかった。それでも少しでもあなたが戻って来てくれるなら。
「彼女さんが来たら私はあなたのもとを去らなきゃダメかな?あなたの傍にはいられないかな?」
すがるように私はあなたの唇に触れて答えを求める。
「それは、嫌だな…」
杭が打ち込まれたような激しい痛みが胸の奥からやってくる。
「すごく、嫌だ……」
辛い言葉を吐き続ける自分の喉が悲鳴をあげる。
「嫌だよ…」
身体全身がその事実に拒絶反応を示す。自分でもどうしたらいいか分からなくなって彼の胸の中でひたすら泣いた。大粒の涙がいくつも頬を伝って真っ赤に染まった聖樹に落ちる。
どうしようもなく避けられない運命があるのなら、私はきっとその犠牲者だ。何もかもが決まっているなら、私は一生あなたとは結ばれない。運命が定まっているのなら…。
聖樹の頂上で私とあなたは血の雨に濡れる。
私の壊れそうな心を支えてくれるのはあなたの存在だけだった。
あなただけが私のすべてでした。
だから、あなたを悲しませることだけはできない。
あなたは私の救世主だから。
やがて、溢れ出した涙が止まると私は落ち着きを取り戻した。
「私はあなたを失う…そうなんだよね?」
惨めな問いに答えは返ってこなかった。
手に入れたつもりなんてなかったけど。
「ねえ、私、あなたが好きだよ、とっても、とっても大好きだよ、あなたはどうかな?」
一度でいいから私もあなたに言って欲しかった。
抱きしめられながら。
愛してると。