ただ強くあれ
目覚めると隣ではまだガルナが眠っていた。起こさないように彼女のおでこにキスをして、テントを出だ。
森の中はまだ薄暗かった。
秋が深まり紅葉し始めた葉が、徐々に赤みを帯び始めていた。ところどころに枯れ葉も落ち始め、季節の変わり目を知らせていた。
ライキルはテントから第二キャンプ場の中央にある焚火に移動した。焚火の炎は消えていたが、まだ炭に熱が残っており近づくとほんのり温かった。
ライキルは火を焚くために燃料となる薪を用意するためにひとりで森の奥に出かけた。
森の中を歩いていると昔のことを思い出した。シルバ道場はレイド王国の深い森の中にあり、このエルフの森の景色は幼い頃の記憶を刺激した。お姫様や令嬢のように城や街で育ったわけではなく。ライキルも根っからの森育ちだった。道場に最初に来た頃は籠っていたが、次第に彼らと会うと外に頻繁に出るようになった。毎日道場の家族たちと午前は稽古しては午後は外に遊びに行き、森の中を駆けまわっていた。けれどそんな楽しいことばかりでもなかった。
森の中には人里から離れてひっそりと生きている野生の動物たち、それと魔獣たちがおり、森には人間のルールの他に、彼ら野生のルールがしっかりあった。シルバ道場もそのルールに従って生活していた。
例えば、それは魔獣たちの縄張りには近づかないことだったり、余分に森の食料を取らないことなど、森に居れば自然に身につく野生のルールを守っていた。そうやって、森の中で他の生き物たちと共生して暮らしていた。
「魔獣の縄張りには近づくな…」
ギンゼスが口を酸っぱくして言っていた言葉だった。
「ひとりで森に入るなもそうだったけ…」
子供の頃の森は危険と新たな発見に満ち溢れており、冒険にはもってこいの場所だった。しかし、大人に近づき視野が広くなっていくほど、自然が牙を剥いた時の恐ろしさを知っていくのが。誰もがたどる道ではあった。
ライキルの場合はそれを早く知ることになってしまったのだが。
ズンンン!!!
ひとりで森を歩きながら手ごろな枝を拾って回っていると、何か大きな地響きのような音が聞こえて来た。それは何度も薄暗い朝の森に響き渡っていた。
ライキルは警戒しながらその音の方に向かっていくと、そこは昨日ライキルとガルナが訓練をしていた少し開けた広場だった。昨日は何度も激しく地面を蹴ったり、えぐったりしたのでその痕がいまだに残っていた。
広場の奥にはその低い地鳴りような音を発している人間がいた。
大きな男が大木に向かってひたすら拳を打ち込んでいた。男の拳が何度も大木に打ち込まれては、激しく幹が揺れ、紅葉した赤い葉っぱの雨が降っていた。
「おはようございます、ドトルエスさん」
ライキルが後ろから声を掛けると、男の動きがピタリと止まった。そして、男が勢いよく振り返る。ライキルはそこで少し後悔した。彼はかなり大柄な男で情けない姿しか見ていないが、顔はかなり厳つく、相手を無意識に威圧してしまうほどの迫力を持った顔つきをしていた。
しばらく、ドトルエスに見つめられたライキルはたじろいでしまいそうになったが、昨日、しっかりとガルナにしごかれたおかげで怯むことはなかった。
しかし、ライキルのそんな身構えたことなどお構いなしに彼は絶叫した。
「イヤアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!」
あまりの怯えっぷりにこれにはライキルも目を見開いて固まってしまった。さっきまでの鍛錬にいそしんでいた勇ましい姿はどこにも無く、そこには頭を抱えて震える大柄の男が居た。
「え、あの、ドトルエスさん…」
「女、怖い、来ないでヒィイイイ!!!」
のたうち回るドトルエスにライキルはどうしていいか分からずとりあえず経過を見守った。しばらくすると、こちらをちらりと何度か確認すると彼はそのまま尻を向けたまま声を出した。
「な、何しに来たんだ。こんなところに、俺をなぶりに来たんだろ……」
「すみません、ドトルエスさん、稽古の邪魔しちゃって…」
とりあえずライキルは彼の集中力を妨げてしまったことを詫びた。
「あれ?あぁ、そうか、君はあの化け物とは違うのか…それに、あの口の悪い付き添いの金髪女でもないみたいだな…」
「私の名前はライキルです。ライキル・ストライク、ここには聖樹に向かうために来ました」
「そうか、俺は名前はレキから聞いたのか?」
そっと立ち上がる彼の背はやはり高く二メートルぐらいはあるんじゃないかと思えるほどだった。
「はい、レキさんからです」
そこでライキルは続けて彼に尋ねた。
「あのどうしてドトルエスさんはそんなに女性に対して拒絶反応を示しているんですか?」
「あぁ、いや、そのちょっと、ここで一緒に稽古してた人に酷い目に遭わされたっていうか…本当にあの日々は地獄だった。もう思い出したくない…」
「それは大変でしたね…」
どんな酷いことをされたのかライキルはあえて踏み込まなかった。こんな屈強な男を屈服させるとはよほど腕の立つあるいは怖い人なんだろうとライキルは思った。
「だが、あんたは優しい人そうで安心した」
「ええ、別に私はあなたに危害を加えるつもりはありませんから、安心してください。それより、ドトルエスさんはお強いんですね。どこかの騎士か何かなんですか?」
一瞬言葉に詰まった彼が答える。
「あー、そうですね、そんなところです」
彼は言葉を濁しているようだったが、そんなことより、ライキルはさっき大木を揺らしていた拳の打ち方を教わりたかった。
「もしよかったら私に強くなる秘訣とか教えてくれませんか?さっきのパンチとかすごかったですよね!」
「ああ、さっきのは拳に防御魔法を張ってるんです」
「防御魔法ですか?」
「以外に便利ですよ、身体を覆える防御魔法だったらなんでもいいんですが、こうやって拳に防御系の魔法を纏うと」
ドトルエスの拳がキラキラと光に包まれる。何かしらの特殊魔法に部類する防御系の魔法を手に纏っていた。
「はい、これで完成。そして、これを」
そう言うと彼は、さっき揺らしていた大木の幹に向かって自分の拳を打ち付けた。
大木が揺れ、ズウン!と大きな音が明け方の森に響き渡った。そして、大木にしがみついていた紅葉した葉がゆらゆらと何枚か落ちて来た。
「結構、この防御魔法の応用は役に立つんだ。体術が得意ならこの考え方は覚えておいて損はないな。攻守どちらも同時に行ってるから魔導士相手なんかにも肉弾戦に持ち込めるんだ。なんせ防御しながら相手に近づけるんだからな」
これは面白いことを聞いたと思ったが、残念ながらライキルには防御系の魔法の適性が一切なくこの情報は完全に宝の持ち腐れだった。
「でも、私、防御系の魔法というより特殊魔法の方は全然だめで…」
「そうか、だが、そういう相手もいるってことは覚えておいて損はない。戦いは情報戦だからな」
失礼なことだと思ったが、図体の割にはなかなか彼は戦略的だった。
「まあ、もちろん、どれだけ相手を理解しても超えられない壁ってものはあるんだけどな…」
ドトルエスが大木の幹に拳を打ち付けたままうなだれて呟いた。
「…ですね」
そこでドトルエスが気を取り直したのか、そこで初めてニッコリと笑顔を見せた。
「それにしても、ライキルさん、あんたが怖い人じゃなくて良かった。俺も少しは警戒心を解くことにするよ」
「ええ、大丈夫ですよ、それより、私にもっとドトルエスさんの戦闘知識を分けてもらってもいいですか?」
そこでドトルエスは少し難しい顔をした。
「俺の技術はそのあんまり綺麗なものじゃないぞ?」
「私、強くなりたいんです!」
「うーん、分かった。じゃあ、ライキルさんには教えてやる。こうして、俺の女性に対する恐怖を和らげてくれた礼だな」
「ありがとうございます。それじゃあ、これからよろしくお願いします!」
二人のいる森に朝日が降り注ぎ辺りの空気が温められる。身に応える冷気が和らいでいく。しんとした広場で二人は師弟関係を結んだ。
けれど、その時だった。
広場のライキルが来た入り口の方から人影が現れた。
二人はその広場に現れた人物の異常な殺気に勘づくとドトルエスは拳に防御魔法を纏い、ライキルは剣を抜いた。
広場に現れた者は、血に染まったような真っ赤な大剣を地面に引きずりながらこちらにゆっくりと向かっていた。赤い瞳を光らせ吐く息は浅く、じりじりとこちらとの間合いを測っているようだった。まさに獣そのものといった感じの野性味溢れた人物だった。
というより、そこに居たのはガルナだった。
「あ、なんだ、ガルナじゃないですか!おはようございます!!」
ライキルが元気よく手を振った時だった。
ライキルの横を目にもとまらぬ速さで通り過ぎる赤い大剣と獣。
その牙が向かったのはドトルエスの首元だった。
「うぎゃああああああああああああああああ!!!」
ドトルエスはガルナの初撃を持ち前の防御魔法を纏った拳で防いだ痕全力でガルナの元から逃走した。それをガルナは全力で追いかけ、二人は広場をぐるぐると回り始めた。
「お前!!うちのライキルに手出したな!!!殺す」
「た、助けてええええええ、ベリルソンンンンンンンン!!!助けてくれ!!!ジェットさんんんん!!!殺されるぅうううう!!!」
必至に逃走するドトルエスと、目が本気のガルナ。ライキルが誤解を解こうとしたが、聞く耳を持たないガルナが必死に彼を狩ろうとしていた。
大剣が彼目掛けて振り落されるたびに地面が陥没し、土煙が舞った。
やがて、ドトルエスが地面にへこたれるとガルナがとどめを刺そうとしたところを、ライキルがさすがに止めた。
「ライキル、ケガはないか?今からこいつの首を切り離すからな」
「ちょっと待って、ガルナ、ドトルエスさんは悪い人じゃないよ」
「そうなのか?てっきり、ライキルの可愛い容姿に目がくらんだのかと思ったが」
なかなか嬉しいことを言ってくれるがそんなことより今にも振り下ろしそうな大剣をドトルエスからどけさせる方が先だった。このままでは本当に大剣を振り落としかねない。そうなれば、彼から教わるはずだった技術を聞けなくなってしまう。それだけは避けたかった。それにガルナを人殺しなどにはしたくなど無かった。
「大丈夫、ドトルエスさんに稽古つけてもらうと思ってたの」
「こんな雑魚にか?」
「ドトルエスさん、ここで一緒に稽古してた人に酷いことされてそれで心に傷を負ったみたいで…それで女性を見ると怖くて逃げだしちゃうんだって…」
「そうか、それは悪いことしたな、だが、ライキルも少し不用心すぎるんじゃないか?」
「それはごめん…」
焦りはあった。いや、そもそも焦ってもどうしようも無いことなのだが、少しでも強くなっておきたかった。この身体を鍛えることは気休めにもならないのだが、やらないよりはマシだった。ライキルのここに来た目的を達成するためには必ずしも力は必要ではなかったからだ。やり方はいくらでもあるからだ。それでもきっと、鍛えることに意味はあるのだろう。それは心を強く保つことに繋がるからだ。こっちのほうが重要だと言えた。
「私、その強くなりたくて…」
ガルナが酷く困った表情で言葉に詰まってしまう。それもそのはずだ。彼女には自分の目的を伝えているから、強くなりたいという動機に賛成できないのだろう。
「それだったら私が教えてやるから、こんな男に頼るな」
「うん、でも、ドトルエスさんも結構凄い人っぽいから稽古は三人でしない?」
「分かったそれでいいよ」
呆れた顔をしたが、ガルナは了承してくれた。
ドトルエスは干からびた芋虫のように縮こまって震えていた。
***
それから、第二キャンプ場にて三人の修行の日々が始まった。
強くなると言ってもライキルは体力づくりが優先で、ドトルエスは女性恐怖症のトラウマの克服が優先だった。二人は知的なガルナさんにこっぴどく鍛え上げられた。
毎日朝早く起きては森の中を駆けまわり体力を使い果たし、その状態で午前の厳しいガルナとの稽古に耐えて、午後からはドトルエスが様々な対人用の戦闘技術を教えてくれた。その中にはライキルやガルナを納得させるだけの理に適った戦闘体系が組み込まれた技術もあった。どうやらその技術はフェルナーズさんが持って来た二百年前ほど前に書かれた古い指南書のようで、現代では聞いたことも見たことも無い、対人に特化した戦闘技術が載っているとドトルエスは言った。彼はその知識を吸収し自分の戦闘スタイルに取り込みことで、他の人とは少し変わった戦闘スタイルで戦うとのことだった。防御魔法を攻撃に転じさせるのもその一種だと言っていた。
強くなるために、ライキルはあらゆる努力をした。
けれど結局ライキルは体力を取り戻せただけで劇的に強くなることはできなかった。
そして、第二キャンプ場に来て、三週間ほど経った頃。何食わぬ顔でレキがやって来ると、彼は言った。
「二人とも合格です。それでは先に進みましょうか!」
ライキルとガルナの二人の第二キャンプ場での修業はあっけなく終わりを告げるのだった。