二人の過去 ハル
夜の山道をエウスの荷馬車は進んでいた。
この道は小国群のある地域とレイド王国を最短でつなぐ道があるが、商人たちはほとんど誰も使わない。
山道は天候が変わりやすく、道が整備されていなかった。
さらに、高低差も激しく、魔獣も出ると噂があったからだ。
それに山を迂回するルートには途中、町や村があるため、商売や補給する場所があり、どんなに急いでいても、安全に商品を運ぶなら誰もがその迂回するルートを選んだ。
荒れた山道の中、エウスが荷馬車を走らせていると、突然、雨が降り出し、嵐になった。
空が光はじめ、あたりに豪雨が降りしきる。
「最悪だ、どこかで、雨宿りしないと…いや」
エウスは少しでも前に進もうと、荷馬車を進めたときだった。
大きな雷が近くに落ち、馬が暴れだし、勢いよく走り始めた。
「おい、止まれ、おい!」
近くには大きな崖があり、エウスは落ちないか焦ったが、次の瞬間には、彼の体が宙に浮いていた。
「は?」
大きな石に荷馬車の車輪が乗り上げ、バランスを崩したエウスはまんまと崖の下に落ちていく。
その中でエウスが思ったのは商品の無事だったが、その後にじわじわと死が自分に迫っていることに気づいた。
そして遠くなっていく荷馬車と空を見上げながら、自分の愚かさを呪った。
「わかってた、俺が何者にもなれないことぐらい…」
エウスは恐怖心のなか、目を閉じる。
大人になった自分が大商人として成功している姿を想像し、悲しんだ。
大きな衝撃と共にエウスの意識はそこで途切れた。
エウスは夢を見た。
村が魔獣に襲われて、小さなエウスは家の中で怖くて動けなかった。
ドン!ドン!
家の扉が、激しい音を立てて、今にも壊れそうになっていた。
「…やめてください…やめてください」
エウスが悲痛な声で小さく呟き続ける。
しかし、その音があるときから、だんだん小さくなっていき、やがて静かになった。
扉が開き誰かが入って来る。
そこにいたのは、あのエウスを救った商人ではなかった。
まったく別の誰かが立っていた。
「だれ?そこにいるの?」
「さあ、行こうぜ、エウス、旅の始まりだ!」
エウスが目覚めると高い木々に囲まれている場所にいた。
彼の周囲には自然がいっぱいで、気持ちのいい日差しが木々に落ち、木漏れ日を作り出していた。
エウスは上体を起こすが、そのとき、立つことができない痛みが足に走った。
「いてえ…」
それから、なぜ自分がこんなところにいるのか疑問に思ていると。
近くから人の声が聞こえた。
「あれ、起きてる!起きてる!」
その声がする方を見ると、自分と同じくらいの背のくすんだ青髪と青い瞳した少年が立っていた。
「お前もう大丈夫なのか?」
そう尋ねる少年の手には、焼かれた魚が握られていた。
エウスは状況が飲み込めずしばらくその少年を見つめていた。
「大丈夫か?これ食うか?」
その少年は手に持っていた魚を突き出していた。
「俺、なんでこんなところにいるんだ?」
「お前、ここの近くの川を流れていたんだ、それを俺がここまで運んできたんだ」
「助けてくれたのか」
「そういうことになるな!」
その少年は腕を組み、自慢げに言った。
「ありがとう」
「いいんだ、それよりお前なんで川を流れていたんだ?」
少年は首をかしげながら言った。
「崖から落ちたんだよ」
「ええ!あっちの方にある山からか?崖ってあっちの山にしか見当たらないぞ」
「たぶん、川ってことはそうだよな…」
自分が落ちた時のことを懸命にエウスは思い出そうとしていた。
「…お前すごいな」
その少年はそう呟き、いつの間にか魚をかじっていた。
「君、名前なんていうんだ?」
エウスがその不思議な少年に尋ねた。
「ハルだ!ハル・シアードだ、いい名前だろ、君は?」
「俺はエウス、エウス・ルオだ、本当に助けてくれてありがとな」
「エウスか、よろしくな!」
ハルのその純粋な笑顔がとても眩しかった。
「ここ、どこなんだ?」
「知らない」
その答えにエウスは疑問を覚えた。
「知らないって、お前家は?」
「家はないよ」
ますます、エウスはハルのことが分からなくなった。
「じゃあ、家族もいないのか?」
「俺、記憶がないんだ」
エウスはさらに混乱した。
「え?記憶がないってどういうこと?」
「そのまんまだよ、俺も気づいたらこの森にいた、で、腹が減ったから、この森で魚とか動物とか狩って生活してた」
「いつから記憶がないんだ?」
「数日ぐらい前に、この森で目が覚めたから、その日からずっと過去の記憶がないんだ」
「お前、何歳だ?」
「わからん」
エウスは頭を働かせた。
『だいたい、俺と同じ年齢だとしても、十年間、記憶がないことになる。それでも言葉は話せるし、どうやら狩りの知識もある、そしてあいつの着てた服、庶民が着るような普通に売っている服だ、てことはどこかの村か町から来たってことになる…』
エウスは考えれば考えるほど目の前のハルという少年のことが分からなくなった。
「なあ、なあエウス、魚一緒に取りにいかないか?」
「いや、悪い足が痛くて立てないんだ」
「ええ!それは大変、横になって安静にしてなきゃだめだよ、俺が魚とってきてあげるから待ってて!」
そう言うとハルはエウスを残して、どこかに行ってしまった。
「あ、おい!いったい、何者なんだ…」
エウスがハルの帰りを待っていると、草むらから物音がした。
「お、帰ってきたか、ハル、お前…」
そう言いかけたエウスだったが、草むらから飛び出してきたものに、彼は目を疑ってしまった。
草むらから現れたのは巨大な熊だった。
「あ、や、やばい…」
エウスはゆっくりと這って逃げようとしたが。
こちらをじっと見ていた熊が、突然、叫びだし、エウスに向かって襲いかかってきた。
「うあああああああ」
そのとき、熊とエウスの間に一つの影が割って入った。
それは魚をたくさん抱えたハルの姿だった。
ハルが突進してくる熊の顔を蹴り上げた。
熊はそのままひっくり返り、何が起こったか分からず、急いで体勢を立て直そうとしていた。
ハルのその蹴りは子供が出せる力を超えていた。
そもそも、そのような蹴りができる人間をエウスは見たことがなかった。
エウスが驚いて、ハルの姿を見ていると、熊はその場から去って行った。
「…ハル、お前」
「魚たくさん取ってきたぞ!」
その彼の嬉しそうな顔は、さっきまであった恐怖を取り除き、安心を与えてくれた。
それから、数日経ってエウスは立って歩けるようになった。
「おめでとう、エウス!」
「ありがとう、ハル、お前のおかげだ」
「そういうことになるな!」
ハルが相変わらず腕を組んで自慢げに言った。
エウスはこれから自分がいた小国に戻ろうと考えていた。
最低な場所だが、それでもエウスにはそこしか帰る場所がなかった。
「ハル、お前これからどうするんだ?」
魚をかじっているハルにエウスは尋ねた。
「俺は、これから、魚を取って来るよ」
「いや、そうじゃなくて、これから先のことだよ」
「どういうこと?」
「わかるだろ、ずっとここで魚を取って暮らす気か?」
「うん、ここの魚おいしいし、たまに食べる動物の肉もうまいし」
エウスはハルがここで一生暮らす、それがもったいないと思っていた。
自分とだいたい同じ歳で、熊をその体一つで撃退できるほど強い、それならなんにでもなれるはずだと。
エウスはそんなハルが羨ましく感じた。
自分には無い、なんにでもなれそうな、彼の可能性に。
だがエウスは、ハルがおいしそうに魚にかぶりつく姿を見て、そんな嫉妬も自分のみじめさも、どこかに吹き飛んで、ただこいつと一緒にいたいと思えた。
それは、短い間だったが、ハルとあってから辛いことよりも、楽しいことの方が増えていたからだった。
エウスが大商人を目指していることを話すと、ハルはかっこいいと褒めてくれたし、幼かったころの悲惨な過去を話すとハルは真剣に心配してくれたし、商人をやっていて、いろいろな場所に行った話をするとハルは夢中で聞いてくれた。
ハルに毎回大量の魚をどうやって取って来るのか聞いたら、素手と答えた時はエウスは大笑いした。
そんなハルは、毎日エウスに新しい発見と笑顔をくれた。
まるで、今までの嫌なこと全ては、このときのためにあったのかと思うくらい、エウスにとって楽しい日々の連続だった。
エウスはその素晴らしき日々を思い出すとハルに言った。
「なあ、ハル、これから俺と一緒にもっとおいしいもの食べにいかないか?」
「いいね、山か?」
「違う違う、もっといい場所」
ハルが一生懸命考えているとエウスはにやりと笑った。
「道場だ!!!」
その言葉にハルは意味が分からず、ただ、むしゃむしゃと魚をかじるばかりだった。
しかし、それとは反対に、エウスはわくわくしていた。
目の前にいる、このハルという不思議な少年とこれから何が起こるかわからない旅に出ようと考えていたからだ。
「さあ、行こうぜ、ハル、旅の始まりだ!」
二人の人生は幕を開けた。
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