訪問者たち 後編
一階に降りて、東館と西館に挟まれた、芝生が敷かれたいつものだけどどこか寂しい中庭を突き抜ける。
何かが足りない中庭を突き抜けて、広い、広い運動場に出る。だけどそこも何かが足りなかった。
ライキルの視界に広がる景色には、いつも何かが足りなくて、その足りないものが何なのかもわからなくて。
吐きだす息が苦しかった。久しぶりに全力で走ったからなのだろう。体力の衰えが目に見えて実感できた。鍛え上げられた筋肉はしぼみ全体的に身体も痩せてしまっていた。
「ハァ…ハァ……」
中庭から運動場へ下りていく階段の前で、膝に手をついて顔面蒼白で大量の汗を流して何度も深呼吸を繰り返していた。
「大丈夫、苦しい?」
背中を丸めていると後ろから追いかけて来たガルナが背中をさすってくれた。
「ガルナ、私、ごめんなさい、あのお金があればきっと一生苦労しないで生活できた。ガルナだってずっと養ってあげられたのに…本当にごめんなさい、あのお金は受け取れなかった…」
ガルナは書類にサインしたから相当のお金が入っていたはずであった。
ただ、それに比べたら今のライキルは金がそこを尽きた状態に等しかった。
「私はお金のことはあんまり分からないが必要なら一緒に集めよう」
「ガルナにはあるよ、たくさんお金が、でも、私にはないの…あの紙にサインしなかったから…」
もう彼女とは対等ですらいられなかった。お金もない、世話をしていたのだって付き合ってから最初だけで、今はライキルが彼女にすがり依存するばかりで何も彼女に与えられていなかった。彼女の優しさに甘えて自分の弱さを必死に隠していた。それだけじゃない、会ったことも話したことも無い、ハルという男に無意識に惹かれてしまうことがあり、それが強い悩みとしてライキルを苦しめていた。
お金を受け取らなかったのだって、そのハルという男の影が見えたからであった。
モデス・リッチーが誤って渡して来た顧客リストを見た時、違和感があった。そこにはライキルが知っているレイドの人たちの名前があった。そこから分かる通り、そのお金を譲渡した人物は、確実にライキルも知っている人物という線が濃厚になったのだが、しかし、それでも国を買えてしまうほどのお金を出せる人など、ライキルの知っている中で誰ひとりとしていなかった。
それはライキルと関係の薄い大国の王たちですら出せない金額なのだ。最初に浮かんだアスラ帝国のアドル皇帝だって、そんなお金用意することなどできやしなかった。そもそも、そんな金、どの大国も一個人や一組織に寄付をすること自体ありえなかった。
つまり、そう考えると、譲渡された莫大な富は何かの間違いか、考えたくはないがハルという男の仕業、以外、他に今のライキルでは考えられなかった。
六大国が突然総出で探し始めたハルという男なら、もしかしたら可能なのではないかと思ってしまったのだ。それほど、各国にとって重要な人物なら権力や大金を持っていてもおかしくはない。
現在彼を見つけた者には高額な報酬が出回っているが、それを上回る何かが彼にあるのだとしたら、ライキルが推察できるのはそこまでだった。
普通ならあのお金を受け取ることがガルナと幸せに暮らせる選択だったのだが、ライキルはその選択肢を消し去ってしまった。それはハルという男の影のある金を受け取ってガルナに嫌われるという建前を利用した嘘だった。
あの時、自分がその巨万の富を手にする判断をしていたら、その大金にかまけて一生ガルナと人生の終わりまで堕落していこうと考えていた。
無意識のうちに四六時中考えてしまうようになったハルという人の存在をすべて忘れて、毎日、ガルナと甘い生活を送ろうと思っていた。自分の中にある真実を無視して何かも金の力で封じ込めてしまおうと思った。
だけど、それはできなかった。この時点でライキルがガルナを思いっきり裏切っていることになるのだが、彼女なら笑って許してくれそうな気がした。これも彼女への甘えであり、ライキルの自己満足でしかなかった。
それにライキルのためなら何でもしようと頑張ってくれる彼女なのだ。
もし、ライキルが「ハルって男の人が気になるから一緒に探しに行ってくれない?」と言ったらきっと彼女は嫌でも頷いてくれるのだろう…
そんな考えが浮かんだライキルは自分を殺したくなった。
感情がぐるぐると回り、心に暗い水が注がれ、思考が汚染され散らばる。
「私のこと捨てる?」
「…え?」
「こんな私捨てていいよ、だって、あなたにとって邪魔でしかないでしょ!!」
ライキルがガルナの胸倉をつかんで叫ぶ。行き場のない不安と怒りが溢れ、それと同時に後悔の念が押し寄せるが止まれない。
「…ライキル………」
ガルナが優しく彼女を抱きしめる。ライキルが暴れるのを力づくで押さえる。二人の力の差は歴然のため、ガルナにとってライキルを押さえ込むことは容易だった。
「そうやっていつも抱きしめてくれるけど、嬉しいけど…それが私を傷つけてるってなんでわかってくれないの!」
「ごめんなさい」
「謝らないでよ、いつも悪いのは私じゃないか…いつも、あなたを困らせてるのは私じゃないか!……もう、ほっといてよ……」
「できないよ、大切な人だから…」
「嘘よ…」
「嘘じゃないよ」
崩れ落ちるライキルをそのままガルナが包み込みながら一緒にしゃがむ。
「私ってこんな女なの知ってるでしょ…とっても弱くてもろくて、何もできない、誰かにすがって生きることしかできない…」
「そんな…」
ガルナがどう答えればいいか戸惑っている間に、ライキルが続ける。
「私といたらずっとこうよ?それでもいいの?こうやっていつまでもあなたに寄りかかって、こんなんだったらいつかあなたも私を嫌いになる。いつか私を裏切るよ、人ってそうでしょ…それだったらもう、私をここで終わらせてよ!!」
苦しそうに涙を流すライキルが地面に向かって叫ぶ。
彼女に向けたくないドロドロした暗い感情。どうしようもなく自分のことを嫌いになっていく。
前までは明るく照らされていたはずなのに、今は光りの無い世界が広がっていて心が塞がっていく。当たり前だった自分がどこかに行ってしまったかのように、前の自分に戻ってしまっている気がした。
人を愛したいのに傷つけてしまう自分がいた。
「ライキル、顔を上げてくれ」
ライキルが顔を上げると、そこにはガルナがいた。だが、どこか雰囲気が違う。こういう時はいつも彼女は優しい目と優しい言葉で、なだめてくれるのだが、今の彼女の目には切れがあり鋭かった。
そんな彼女が少し怖くなったライキルが彼女から離れようとしたのだが、抗えない強い力で手繰り寄せられ、そのまま、彼女の唇をライキルの唇に押し付けられた。
「……んん…」
最初は抵抗しようとしたが、それがライキルの求めていたものであり、愛やら信頼の証といったものだった。
「お前がどんなに面倒くさい女でも、私は愛してやるって毎回言ってただろ?」
「…………」
やっぱりいつものガルナと雰囲気が違った。
「分かる、分かるよ、怖いよな?深く繋がってる愛が途切れるのは、愛した人に捨てられるのは…」
「そう、そうなの…分かってるじゃない…でも、私はそれだけじゃない。あなたを裏切ってる自分が許せないの…これ以上優しくされたら私が辛くなる…」
「他に好きな人でもいるのか?」
その言葉にライキルの感情がさらにぐちゃぐちゃにかき乱された。それも彼女に言われればなおさらだった。
「いいよ、別に言ってみろ、誰が好きなんだ?」
「なんでやめてよ…そんなこと言わないで、ねえ、あなた本当にガルナなの?」
「残念だけど私もガルナだよ」
「私もって、どういうこと?」
少し目を逸らした彼女だったがすぐに真っすぐ見つめ返してライキルに問う。
「こんな私は嫌いか?」
「いや、好きだけど…」
そこはすぐに即答した。どんなに変わってしまってもライキルの歪んだ愛がぶれることはない。どれだけ相手が変わってしまっても、その人が愛した人ならライキルは溺れる自信があった。
「フフッ、そっか、ありがとな、そういうところは、やっぱりお前マジで可愛いよ」
鋭い視線とがさつだけど愛のこもった言葉。そして、頭を撫でられたライキルの顔は、みるみる赤みが増していた。
「落ち着いたか?」
ライキルが無言で何度も頷く。
「それなら良かった」
ガルナが立ち上がり、こちらに手を伸ばして来た。ライキルはその手を掴んで立ち上がると彼女が泣き腫れた目元の涙を拭ってくれた。
「なあ、ライキル」
「何?」
「誰を好きになってもいいけど、私のこと見捨てないでくれよ…」
「え?」
彼女の鋭い目つきが、優しい目つきに変わるのをライキルは見た。彼女はライキルの頬を両手で支えて微笑んでいた。
『何だったんだろ…分からない…』
訳が分からないままのライキルの手が自然とガルナの頬に触れた。彼女はくすぐったそうに、その手に猫のように顔を預けていた。温かい彼女の頬はぷにぷにして柔らかかった。
「ねえ、ガルナ?」
「ん?」
「ガルナって二人いる?」
「二人?いや、私は、私しかいないぞ?」
「そう、だよね…ごめん、変なこと聞いて…」
ライキルが不思議そうに彼女のことを眺めているときだった。
「あ、こんなところにいたんですね!おーい!」
中庭の方を見ると、ビナが元気よく駆けて来ていた。
そして、その後ろには金髪のエルフの姿があった。