無駄な一日
何もかも嫌になる日があった。
それまで育んで来た関係を全て台無しにして、全部を放り出して後悔と悲しみだけが残った惨めな自分に憧れる時があった。愛する人に暴言を吐き、暴力を振るい、自分を嫌ってくれと、こんな女を好きになるなと怒鳴りたくなる時があった。
愛よりも憎しみを抱くことの方が人生を生きていくうえで重要だと思っていた。信頼は裏切られ、繋がりは絶たれ、日々受け取る愛は全て偽物で、相手を自分に寄せ付けないことが何よりも賢い生き方だと幼い頃に知ってしまった。
そんな人間嫌いなものだから、好きな人に愛されてしまうと、こんな醜い自分を愛さないでくれと、愛する人にだって棘を刺してしまう。
だけど今そんな棘だらけの女を愛してくれる人がここにはいた。棘だらけの女を抱きしめてくれる人がいた。意地悪で独占欲が強い傲慢なこんな女に寄り添って満たしてくれる人がいた。
ライキル・ストライクの隣には、ガルナ・ブルヘルが居てくれた。
窓から差し込む朝の光を浴びて目が覚める。広いベットに横たわっている身体を起こす。その場で背伸びとあくびをひとつして、朝の光に目を慣らし、まどろみに囚われている意識がはっきりするまで待った。
「もう、朝か…」
下着一枚で肌寒かったが、ライキルはまだぬくもりが残っている毛布を翻した。そこには恋人の姿があった。
その恋人の名前はガルナ・ブルヘル。
半獣人の女の子で、透き通ったブロンドの髪に赤色が少し混ざったストロベリーブロンドの髪とそれに伴ったフサフサの耳と尻尾があった。燃えるような赤い瞳を持ち、褐色の肌に笑うと白い歯を見せて天使のようで、顔立ちは可愛らしい分類だ。ただ、彼女は戦闘狂な一面があり、戦うことが何よりも好きで、身体は鍛え上げられ筋肉質でバキバキで、大剣を振り回し定めた敵を薙ぎ倒すことを何よりも喜びを感じていた。ちょっと常識が足りないところがあるが、常識に囚われない彼女の魅力には惹きつけられるところが多かった。
「おはよう、ガルナ、朝だよ」
彼女の頭を撫でると、まだ夢から覚めない彼女は気持ちよさそうに微笑む。
しばらく、穏やかな弱い朝の光に当たりながら、ガルナが目を覚ますのを待った。
ふと見た窓の外の空には綿雲が朝日を浴び黄金に輝き、秋の風に吹かれて流れていた。ひとつ、ひとつ形の違う雲。同じ形は二度と見られないし、二度と思い出せないと思うと、視界から過ぎ去って行く景色にも価値があるんだと、今を大切に思えた。そう、この瞬間、瞬間には価値があるのだ。こうして愛する人の寝顔を見て目覚める朝は特別な朝だった。
やがて、毛布の中の彼女が目覚める。
「おはよう、ガルナ」
「おはよう…」
のっそりと毛布から出て来る眠たげな眼をこするガルナ。そんな彼女と目が合うと、倒れ込むように抱きしめられた。
「ちょっと、もう、起きなきゃだよ?」
「もう少しだけ、ライキルとこうしてたい」
力強く抱きしめられ、逃げようにも逃げられなかったが逃げる気など無かった。むしろ、ライキルも彼女を甘やかすように抱きしめ返し、肌寒い身体を彼女で温め直す。
「しょうがないな…少しだけだよ?」
「うん…」
結局それから二度寝をした二人が目覚めた時にはもう昼前だった。目覚めると今度は立場が逆転しており、ライキルがベットにひとり横たわっており、ガルナはライキルのクローゼットにある自分の服に着替えていた。
彼女の着替える姿をまだ眠たくぼやけた視界で一通り眺めていると、彼女がライキルに気づいた。
「おはよう、ライキル、一緒にご飯食べにいこう!」
秋になっても短パンを履く彼女は動きやすさ重視からなのか、それとも彼女に流れている獣人族の血が寒さに耐性があるからなのか分からなかったが、彼女は半袖、短パンと相変わらず寒そうだった。
「うん、いいけどそれより、クローゼットに私の長袖があるからそれ着ていいよ、ていうか、お願いだからそれを着て、選んであげるから」
「え、いいの?でも、私、服汚ちゃうよ?」
「いいよ、別に風邪ひかれるよりはましだから」
そこでライキルがベットから起き上がろうとしたが、なぜか身体が重く起きれなかった。
「どうしたの、大丈夫?」
「あぁ、ううん、何でもない…」
それでも身体が思うように動いてくれなかった。そして、無性に寂しくなったライキルがガルナに呼びかけた。
「ちょっと、こっちに来て起こしてくれない?」
ガルナもいいよと言って、ベットに寝転がるライキルを起こしにいった。だが、ライキルがそんなガルナを食虫植物のように捉えると、そのまま、ベットの中に引きずり込んだ。
毛布の中の真っ暗な世界にライキルとガルナの瞳が交わる。
ライキルが不器用に笑いながら、ガルナの純粋な瞳を二度見した。彼女もその合図だけで分かってくれたのか、ライキルの頬を両手で包み込むようにとってから顔を近づけた。
ベットの中で二人だけの時間が流れる。
ここ最近はずっとそうだった。何かが足りない、満たされない、そんな不安を全て彼女で解消してしまっていた。
常にまとわりつく拭い切れない不安がライキルの中にはあった。しかし、その原因を突き止めることはできず、淡々と続く心地よい快楽を享受し消費し続けていた。きっとこれを人は幸せというのだろうが、ライキルの中には酷い焦りがあった。何かしなければいけないのだが、それが何なのか分からないという漠然とした不安があった。
ただ、実際に、ライキルがやらなければならないことはあった。例えば、それは育ての親であるフーリと仲直りすることだったり、四大神獣討伐が終ったので新たに所属騎士団を決めて、騎士として活動を再開しなくてはならなかったりと、いつまでもこんな惰性的な生活を送るわけにはいかなかった。
ただ、逃げるようにガルナを求める日々を繰り返していた結果。今のライキルから筋肉は無くなり、体力も失い戦士としての魅力が減っていた。逆にガルナのお世話をする機会が増えて王都時代に教わったメイドとしての能力が遺憾なく発揮されていた。
最初はそんな戦意の無くなった自分なんかにガルナが興味を失くしてしまうかと思った。戦闘狂の彼女にとって戦うことが何よりも喜びだったからだ。しかし、そんなことはなかった。いくら、ライキルが弱くなってもガルナが自分を手放してくれることは無かった。
むしろ日に日に互いの仲は深まり、足りないところを埋めるような存在になりつつあった。適材適所、ガルナが得意な戦いで守ってくれて、ライキルが彼女の苦手な生活の面での世話をした。
おかげで彼女の毛並みは綺麗になり、食べ方も少しは良くなり、簡単な文字も読めるようになった。服装だってずっと同じような服からライキルの好みでおしゃれをするようになった。それでも、短パンにこだわりはあったけど。それでもそうやって少しづつ変わってくれる彼女がライキルも嬉しかった。
小さな幸せが積み重なっていくようで、毎日楽しく笑顔でいられた。
だけど、それでもダメだった。小さな幸福の裏で何か大きな大事なことを見逃しているようで、この小さな幸せに集中できなくなっていた。
そのひとつにフーリおばあちゃんと喧嘩になった要因のひとつのハルという男の存在があった。いつもニコニコ優しかったおばあちゃんがあそこまで怒るのには相当深い理由があった。子供の頃、道場に来てからライキルはギンゼスとフーリの二人から大切に育てられて来た。その中でライキルが二人から手を上げられたことなど一度だってなかった。
それでも、ハルという知りもしない家族の存在をいきなり突き付けられたことには正直ライキルだって混乱した。
フーリにぶたれて飛び出した後、ライキルは帰り際のギンゼスと屋上で話す機会があった。
そこでライキルはギンゼスとハルという男の子の話しをしていた。
『ライキル、フーリを許してやってくれ、その、この問題はとても複雑なんだ…』
ギンゼスの表情からも元気がなく、やるせない気持ちが伝わってくる。やはり、その時のライキルも何か理由があることは分かっていた。そうじゃなければあんなにフーリが怒るはずなかった。
『うん、私は大丈夫だよ。おばあちゃんが私に理由なく手を上げたりしないから、それくらい分かってるだからきっと私が凄い酷いことしちゃったんだってなんとなく分かるよ…多分、私がそのハルって人と何かあったんでしょ?』
そこでギンゼスの表情がさらに深く落ち込むと、また、自分が変なことを言ってしまったとさすがに自覚してしまった。
『ごめんなさい、その、ハルさんって人のこと何も覚えてなくて…』
『ハハッ、いいさ、ただな。ライキルやエウスの口からそんな言葉が出て来ることがワシは悲しくてな…いや、一番悲しんでるのは、みんなから忘れ去られてるアイツ自身なんだろうが…』
『そのハルって人は、私たちにとってどんな人だったの?』
『ハルはワシらの大切な家族だった。そして、それはこの国の人々たちにとっても同じだった。だから、彼がこの世界からまるで消えたような扱いを受けていることがワシには耐えられない…』
ライキルが言葉を掛けるほどギンゼスが傷ついていくのがよくわかった。そのことからも、ハルという人物が実在したんだと理解せざるを得なかった。作り話をして騙すにはあまりにもギンゼスとフーリが真剣だったからだ。
『ねえ、そのハルって人って…』
ライキルが彼のことについて尋ねようとした時だった。
そこでギンゼスが顔を上げて、後ろで待ってくれていたガルナを一瞥した。
『あそこに居る彼女はそのライキルの恋人ってやつか?』
急に彼女の話題を振られたのでライキルは思わず黙ってしまった。
『いや、別に否定する気などない。ライキルが本気で好きになったのならワシは誰だって構わないと思ってる』
そこにはライキルにとっての優しい父親としての顔があった。
『うん、私は彼女のことが心の底から好きだよ』
『そうか、今のライキルが幸せなら良かった』
ギンゼスが心の底から安心した時に見せる笑顔を見せてくれる。それはライキルの安心にも繋がった。だけど、やっぱり、ギンゼスのその笑顔はすぐに歪んでしまった。
『フーリともさっき話したが、ライキルが幸せならそれでいいと言っていた。そして、いつでも帰って来ていいとも…ただ……』
『許してはくれないんだね?』
『………』
何となくフーリの言いたいことは分かっていた。あの怒りようなのでハルというライキルの記憶の中からすっぽりと抜け落ちてしまった彼のことをライキルと同じくらい大切に思っていたのだろう。
だけど、ライキルだって譲れないことはあった。何もなくなった自分を育ててくれたことには感謝はしていた。それでも、愛する人は自分で決めたかった。好きになった人を好きだと言いたかった。それが今のライキルはガルナただひとりだった。
『ライキル、いつか、彼女を連れて道場に来なさい、歓迎してあげるから』
『うん、ありがとう、おじいちゃん…』
『あ、ただ、その前に別れましたは、なしで頼むぞ?きっと次はフーリのビンタじゃ済まんからな』
『うん、大丈夫、彼女うちにぞっこんだから…』
ライキルの瞳にガルナが映ると彼女が微笑んでくれた。胸が締め付けられ息が止まる。
『ほう、そうか?どちらかというとライキルの方が彼女に惚れ込んでいる様に見えるが?』
『そ、そんなことない、私惚れっぽくないもん』
『ハハハッ!確かにライキルは惚れっぽくはないが、ハルといた時は…』
そこでギンゼスの表情が消えた。
『あぁ、すまない、何でもない。二人の時間を邪魔して悪かった。そろそろ、ワシは戻るから、ライキル元気でな、フーリにもよろしく言っておくよ、たまには道場にも顔出してくれよ…』
ギンゼスがライキルを一度強く抱きしめると、背中を丸めて屋上を後にしていた。その後ろ姿からでも彼が絶望の中に居ることがよくわかった。
ライキルはその背中に何も声を掛けてあげることが出来なかった。何も言葉が浮かんでこなかった。
そして、駆け寄って来たガルナを抱きしめて、その時のむなしさを紛らわせた。
それからずっと、ハルという呪いに、ライキルはつき纏われていた気がした。
何度も忘れようとしても彼の影が追いかけてきている気がした。振り払っても振り払えなかった。
ライキルが彼のことをきっぱりと忘れようとした時も、まるで神様の悪戯のように六大国からハルという男を見つけ出した者に報酬が出ると大陸全土に捜索依頼が出回った。街の冒険者ギルドに張り出された彼の似顔絵。白黒だったが、どうやら青い髪で青い瞳の高身長の百八十センチを超えた青年と詳細情報もいくつか載っていた。それを見た時に、やっぱり、フーリやギンゼスが言っていたことが本当のことで、尚更、胸が苦しくなった。
ライキルの人生の中にハルという人物がすっぽりと抜け落ちている。
彼のことなんかこれっぽっちも思い出せなくてそれが、なんだか、とっても悲しいことのような気がして、彼に会ってみたいとも思ってしまった時は、自分に無性に腹が立った。その怒りをガルナにぶつけてしまった時もあった。その怒りをコントロールする方法がガルナをベットに誘い肉体関係を持つことで鎮めるというやり方があった。それだけじゃない、ここ最近ずっと上がらない気分を彼女に無理やり上げてもらうことが多くなり、さらに自己嫌悪を深めてしまっていた。けれどそれがライキルの唯一の解消方法だった。
そのおかげで、ガルナとの距離はすっかり縮み、互いに深い関係を築くことが出来たが…。
ハルという言葉を聞くだけで、二人の関係が壊されるような気がして怖かった。
「ごめん、今日もエリザ騎士団との訓練があったはずだよね…」
日が沈む頃、すでに夕日が差し込むベットの上で、ガルナに背後から包み込まれていた。安心する世界がそこには広がっていた。二人だけの楽園がそこにはあった。
「いいよ、ライキルと一緒にいる方が楽しいし!」
彼女の笑顔と言葉に救われる。複雑に絡み合った感情を忘れて彼女だけを愛していたかった。だけど、それすら、間違っているような気がして狂ってしまいそうだった。
「私、本当に今のガルナにとって邪魔にしかなってないと思う…」
「そんなことないよ、ライキルは私の大切な恋人だよ!邪魔なんかじゃないよ」
優しく頭を撫でられ落ち着かされる。
「いつか、私、あなたの元から離れて行っちゃう気がする…だって、私、裏切り者だから…」
「裏切り者?」
「こうしてガルナと一緒に居ると幸せなのに、いつも頭の中にハルって男がいて…」
そこでいつもの通り、涙が溢れ出す。もう、あれから何度泣いたことか、自分の心をどこに定めていいか分からず、いつだって不安定だった。傾き過ぎた天秤が今にも振り切りそうだった。どれだけガルナに対して愛情を注いでもその天秤が反対側に傾くことが無いこの感覚に吐き気がした。
「ねえ、こんなにあなたが好きなのに私、ちっとも幸せじゃないよ…こんなにもあなたが満たしてくれてるのに、私、最低だよ…」
「ライキルは最低じゃないよ」
きっとガルナは本当にそう思ってくれてる。
「ガルナもっと強く抱きしめて…」
「うん、いいよ」
「ずっと、傍に居て…」
「任せて」
「もっと愛して…」
「大好きだよ」
「足りない…」
「愛してる」
彼女に甘えれば甘えるほど、自分が取り返しのつかないところまで堕ちていくのを感じた。
だけど、もう、ライキルには自分でこの状況を止めることはできなかった。
ガルナの元で堕落し堕ちていく生活から抜け出すことができなかった。
そして、ハルという、消えてしまった青年の呪いに少しずつ蝕まれていくしかなかった。
ガルナの胸の中でひと通り泣き止むと、薄暗くなった城内を彼女と手を繋いで歩いて、人気のない食堂で夕食を取った。
暖かいスープがからっぽの胃に染み渡り不安に染まっていた心が少し落ち着いた。
二人のいるテーブル席にだけ炎が灯る。窓の外の空に浮かぶ一番星が輝き、夜の訪れを知らせていた。
「ごめん、ガルナ、今日を無駄にしちゃって…」
彼女にもたくさんの予定があったはずだった。それをライキルの発作のような依存が彼女の一日を台無しにしてしまった。
「謝らないでよ!私、ライキルと今日一日中一緒に居られて幸せだったんだからな!」
頬を膨らませて怒るガルナに、微笑で応えると彼女は笑顔で返してくれた。どうしようもなく彼女は可愛らしかった。枯れ始めた自分とは真逆の存在だった。
「明日、久しぶりに私に剣を教えてくれない…その、私とじゃ退屈だと思うけどさ…」
少しでもガルナの好きなことをしてあげようと思った。
「いいよ!やろやろ!」
「じゃあ、今日は明日に備えて、早く寝なきゃだね…」
ライキルがスープを飲み終えた後ふいにそう呟くと。
「本当に早く寝かせてくれるのか?」
不安が要因でライキルが頻繁に求めてしまうから、ここ最近の二人の夜は長かった。
「…あ、うん、ごめん、なんなら、今日は一緒じゃなくてもいい…」
「それは私が嫌なんだが」
「じゃあ、一緒に寝よう…」
「うん!」
ガルナも分かっていた今のライキルが独りでは全く眠れないことに…。
「あ、でも、無理しなくていいからな?」
「え、何が?」
「明日のこと…」
きっとガルナにも、ライキルが剣を振れる精神状態ではないことは見抜かれていた。だけど、ライキルの必死の提案に優しく答えてくれた彼女なりの気遣いだった。
それから、食事を終えて、夜の身支度を終えた二人は今日一日中いたライキルの寝室に戻って眠りについた。
ガルナに抱かれながら眠るライキルは夢も見ずに次の日の朝を迎えた。
だけど結局ライキルはベットから出られずガルナに甘えてしまった。
何かがライキルの中で壊れ始めていた。
いつの間にか失っていた欠片の大きさがあまりにも大きすぎた。しかし、それは本人ですらどうすることもできなかった。
世界の法則を捻じ曲げてしまうほどの力に、ひとりの人間の女の子の重すぎる愛などが敵うはずなどなかった。
古城アイビーから千五百キロメートルほど離れたエルフの森では、今も休むことなく聖樹の頂上では日夜休むことなく輝きを放っていた。
まるで誰かに気づいて欲しいかのように、必死に明滅を繰り返していた。
「僕の出番だね」
ひとりのエルフがそう呟いた。