当たり前のようにただ君がいて 前編
空からの景色というものは物事を簡略化させ人の感受性を鈍らせる。お偉い権力者様たちだって、空から見下ろせばみんな同じ人間に成り下がるし、空は身近だったあらゆるものから遠い場所だから、悩んでいたことに対してだって鈍感になる。空は誰にも縛られず自由で解放されている。だけど、そんな大空の中でも、ライキルは変わらずハルのことで大いに悩んでいた。
例え環境が変わってもライキルの中心はいつも彼だった。ライキルにとって世界は彼がいるかいないかで大きく変わった。それは多分あんまり良くはないのだろうが、もう、こうやって彼に依存することででしか生きてはいけなかった。彼の居ない世界はあまりにも色あせていたから。
『もし、研究施設にもハルがいなかったらどうしよう。私たちに会ってくれなかったらどうしよう。ハルがこれからずっと私たちの前からいなくなったらどうしよう』
言葉にはしないが、竜を操るエルガーの騎士の後で、ひとり不安と戦っていた。
『嫌われちゃったのかな?でも、なんで…?私何かしちゃったかな…』
段々とわけが分からない方に考えていき、ライキルの視野は不安で極端に狭くなっていた。
「どうしよう…どうしよう…会えなかったら…」
最終的は呟くにまで、深く思い悩んでいた。
「お嬢さん、どうかしましたかな?」
すると前で竜を操っていた白髪交じりの黒髪の初老の騎士が、優しい声音で声を掛けて来た。
「あ、すいません、声に出てましたか」
「何かお悩みでもあるんですか?」
「えっと、その…」
ライキルは彼に悩を打ち明けるか迷ったが、しばらく空の旅を共にする仲なので思い切って打ち明けることにした。
「これから行くところにもハルがいなかったらどうしようって、思ってて…」
「作戦開始は明日ですから、大丈夫なはずです。シアード様は研究所で待機しているはずですよ」
ライキルはそこで俯いて答えた。
「はい、そうなんですが、なんだかハルはいない気がするんです。私たちに会いたくないって思ってるはずなんです」
「ほう、どうしてそんなことが分かるんですか?何かの天性魔法持ちでしたか?例えば相手の心が読めるとか、親しい人の気持ちが通じるとか?」
不安を抱え暗くじめじめとしているライキルと対照的に、彼は穏やかな陽だまりのように答える。
「あ、いえ、私はそういった大層なものは持ち合わせてないのですが、その、分かるんです。ずっと一緒にいたから…」
「なるほど、確かにそれは魔法なんかよりもずっと信頼できる感覚ですね」
柔らかな声がライキルを少し落ち着かせてくれた。そんな彼にお礼を言いたくなり、しかし、そこでライキルは彼の名前すら知らないことに気づき尋ねた。
「あの、私はライキル・ストライクと申します。あなたの名前を聞いてもいいですか?」
「フフッ、すみません、実はあなたのお名前は知っておりました」
「え、そうなんですか!?」
「はい、私も古城アイビーにお邪魔させていただいたり、ルルクさんや、フォルテ剣聖から話をうかがっておりましたから」
「すみません、じゃあ、わたしたちは初対面じゃないってことですよね…」
「謝ることは何もありません。こうして直接話したことは無かったんですから仕方がないですよ」
紳士的な態度の彼はニッコリと笑っていた。そして、彼は続ける。
「あ、申し遅れました。私の名前はジェフリード・セスターナと申します。みんなからはジェフと呼ばれているので、ストライクさん、いえ、シアードさんでよろしかったですか?」
「あ、その私もライキルでいいです。そのまだ正式には彼と結婚はしていないので…あ!でも、ちゃんと将来を誓い合った仲です。ですから、嘘じゃないんです。なんなら私はもうシアードって名乗りたいくらいで…」
「アハハハハ、そうでしたか、そうするとあの謁見は、かなり大きな賭けでしたね」
婚約者というのは嘘ではないが、式や契約などはまだなので、書面や正式な場ではライキルはまだストライク家の者だった。
「うっ、そのごめんなさい…でも、どうしても許可が欲しくて、私たちだけの力じゃ無力であの場では…」
「フフッ、どうしても彼に会いたかったのですね?」
ジェフリードは特に気にも留めないで楽しそうに笑っていた。
「その私たち後で罰せられたりするんでしょうか…」
嘘ではないがまだ皇帝の前で述べる内容ではなかったことは確かだった。正式に決まっていないことで力を振るってしまったのだから。
しかし、ジェフがあっさりと答えを示してくれる。
「まさか、陛下も分かっていて許可を出したと思いますよ」
「え、そうだったんですか!?」
「はい、そもそも、ハル・シアード・レイ様が誰かと婚約することになったら事前に各大国に伝達するように約束が決まってたはずです」
「知らなかった…」
そんなことも知らなかったライキルは自分があの場で虚勢を張っていたことが恥ずかしくなると同時に、よく許可が下りたものだなとも思った。
ジェフは話しを続ける。
「多くの国々が彼を自国に引き込もうとしているのを知っていましたか?」
「そのなんとなくは…」
「白虎を討伐した彼の力は計り知れません。そんな彼を利用して上に登り詰めようとする者たちも少なくありません」
「私はそんなつもりで彼と将来を誓い合ったのではありません!」
ハルがレイド王国の剣聖になってから国内外問わず手紙や訪問で彼が誘惑されているところは何度かあった。
そのたびに、ライキルは虫の居所を悪くしていた。ただ、剣聖になったハルは国を背負う人物になってしまったのだから口出しはできなかった。その時からハルとライキルの立場には大きな溝が生まれてしまった。
だが、結局ハルは剣聖になっても中身は何も変わらなかった。ハルがどれだけ莫大な権力を得ても、彼がやっていたことはエウスと悪巧みをしては怒られるみたいな幼稚でくだらないことばかりだったり、王城の敷地内に自分の屋敷を建ててそこに三人で住んでみたりなど、あまりにもやっていたことは子供が考えた夢のようなものばかりだった。
だから、ハルがそういった意味で遠くに行ってしまったことは一度だってなかった。必ず傍で一緒に笑ってくれていた。そんな変わらず傍に居てくれたハルがライキルは大好きだった。
「あ、その、ごめんなさい大きな声出してしまって…」
「フフッ、いえいえ、こちらこそすみません。紛らわしい話をしてしまいましたね」
ジェフは穏やかな笑顔で続ける。
「ライキルさんがそんな連中と一緒じゃないってことは、遠くから見ていても分かりました。あなたたちは強いきずなで結ばれてるとね」
「ええ、小さい頃からずっと一緒でしたから…」
ライキルは遠くに浮かぶ雲を見つめながら呟くように言った。
「そうでしたか」
ジェフがただ静かに頷いた。
「はい、でも、なんだかずっと遠回りを繰り返していたような感じで、もっと早く自分の気持ちを真剣に伝えていればなって思ったりもしました。あ、でも、あの時が一番良かったのかな…でも、もうちょっと早く結ばれていれば、あ、でもそれだと……」
ライキルはもっと早く結ばれていれば今よりももっと互いに愛を深められたのではないかと後悔していた。そうすれば、今よりももっと幸せだったのではないかと思ってしまっていた。
しかし、それはジェフに否定された。
「ライキルさん、後悔もいいですが、これからのことを考えておいた方がいいですよ」
「え!?ああ、それもそうですね。じゃあ、ハルに会えたら最初に何をするか考えておきます。そうですね、まずは、うんん、やっぱり、文句のひとつでも言いましょうか?」
「それもいいと思いますが、なるべく、後悔しない言葉の方がいいですよ」
「そっか…」
ライキルはそこでハルが明日には黒龍討伐に赴いてしまうことを思い出してしまった。
『明日には行っちゃうんだもんね、じゃあ、今日会えてもまた会えなくなるのかな…』
これ以上ハルの居ない時間を過ごすのはライキルにとっては苦痛だった。
『嫌だな』
ライキルが落ち込んでいるとジェフが言った。
「あ、見えてきましたよ」
遠くには竜の山脈の尖った山々が見えて来ていた。
龍の山脈は四つのエリアに分かれていた。
その中でも第一エリアの【小龍】、ここは龍の山脈でも比較的一番安全なエリアでもあり地獄の入り口でもあった。このエリアも山脈と言われている通り山々に囲まれているが、他のエリアの山頂で吹き荒れている無慈悲な天から叩きつける理不尽な暴風こと【黒風】が吹き荒れることはなかった。そのため、第一エリア内の山脈の上を竜で飛ぼうが魔法で飛ぼうが何の危険もなかった。ただ、それは黒龍がいないのが前提であり、本来ならば竜の大口と呼ばれる場所から馬や徒歩などで移動するのが基本的な龍の山脈への入る適切な手段だった。
そのため、第一エリアであろうと竜で侵入することは憚られ、緊急時以外はずっと地上での移動が基本とされていた。
龍の山脈では、黒龍を刺激することが一番の禁忌であった。黒龍一頭でも逃せば街ひとつなくなる計算だった。なにせ黒龍を撃退できる者がほとんど大国の重要都市や拠点などにしかいないため、黒龍という存在は非常に厄介だった。
残りの二のエリア【中龍】と、三のエリア【大龍】も、それぞれ山脈に囲まれており各々が独立していた。その二つのエリアのどちらも広大な土地が広がっており、その中には森や川など人の手が加わっていない分、自然豊かな景色があった。
それらのエリアを人間で例えると、まるで国の周囲を城壁で囲ったようなもので、黒龍たちの楽園がそこにはあった。
龍の山脈を攻略するには第一エリアから、この二と三のエリアを突破し、最後の【龍聖域】と呼ばれる黒龍の巣があるとされている場所にたどり着かなくてはならなかった。
そして、ライキルたちは今、その第一エリア【小龍】を取り囲む山脈を超えるところだった。
「あの山を越えたらすぐにハルさんの居る研究施設に着きます」
「もうすぐなんですね」
「はい、あとちょっとです」
ジェフの言葉で少しばかり希望を持ったライキルの頭の中はやっぱりハルのことでいっぱいだった。
するとその時、並行して飛んでいたライキルたちの隣にいたルルクが何かを見つけたのかすぐ傍まで竜を移動させて来た。
「向かいから何か飛んで来ています。黒龍には見えないのですが一旦みんなで固まりましょう」
「了解です」
ジェフが返事をし、エウスを後ろに乗せたルルクたちの竜についていった。
そのあと残りのみんなや予備として連れて来ていた誰も載っていない竜たちを全員集めて固まって飛んだ。
やがて、向かいから飛んできていたものの正体が明らかになって来ると、ルルクはみんなに警戒を解くように言った。
手前から飛んできていたのは龍の山脈の研究所から帝都スカーレットに向けて出発していた人々だった。彼らは討伐作戦に伴い、退避を命じられていた人たちだった。
そして、その集団とルルクたちが接近すると、先頭にいたその集団のリーダーらしき人がルルクを見ると頭を下げていた。
「ルルクさん、どうしてこんなところに?」
「今から研究所に向かうんです」
「え、なんでですか?あそこはもう立ち入り禁止ですよ?」
「陛下から許可は出てるから安心してください、命令違反じゃないですから」
「はあ、そうですか、まぁ、よくわかりませんが、気をつけてください。もしかしたら、我々が大移動したから黒龍が目をつけてるかもしれません」
すると、そのリーダーの後ろに乗っていた年老いた学者と思わる人物が口を挟んで来た。その男はいかにも不満そうな顔をしていた。
「なんじゃ?そいつらは今から向かうのか?それだったらわしらも戻っていいじゃろ!」
「爺さんわがまま言うんじゃねえ、俺たちは陛下から許可をもらってねえから、ダメなんだよ」
そのリーダーは呆れた様子でその学者の対応をしていた。
「だったら、わしが直々に陛下から許可をもらってくるわい」
「それじゃあ、結局、一旦は戻らなきゃいけないな」
「クソ、めんどうじゃな」
その年老いた学者はいつまでもぶつぶつと文句を言っていた。
「すいません、ルルクさん、どんな用があるかは知りませんがここから先は十分注意してくださいね?第一でもここはもう奴らの縄張りなんで」
「お気遣いありがとうございます。そちらもどうかご無事で」
「はい、それでは」
リーダーの彼がルルクたちの下へ潜るように抜けて行った。これは空で目上の人に対する礼儀のようなものだった。
ルルクたちも、竜を前に進め研究所を目指した。
しばらくすると、龍の山脈の山々が見えて来た。それらはどこでも見かけるような山脈だった。ただ、それでも、どこまでも連なって伸びていく山脈の規模は大きく、この大陸でも他に類を見なかった。
ライキルたちを乗せた竜たちは、その山脈を軽々と超えていく、途中黒龍などが待ち伏せをしていないか低空を飛んで注意しながら進んだが、その山からは黒龍は愚か他の生き物の気配すらしなかった。その時、本当にここから先は龍の山脈で黒龍たちの縄張りなのだと確信させられるような場所だった。
そして、龍の山脈の第一エリア【小龍】を取り囲んでいる山脈を抜けると、そこには鬱蒼とした森があり、その中に人の手が加えられた建造物を発見すると、ルルクたちはその建物めがけて一気に竜を飛ばすのだった。
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