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逃げ出すような出発

 帝国でのメイドの役割は主に仕え、身の回りの世話や、主から与えられた命令に応えることにあった。

 帝国のお城で働くメイドたちの主は元を辿ると誰しもがアドル皇帝の下で働いていることになり、陛下の命令は絶対だった。

 そんな陛下から直接ある命令を与えられたひとりのメイドは今日も、屋敷の玄関に立って尋ねて来る人々を追い払っていた。


「どういうことですか?私たちは上位貴族ですよ?あなたみたいな小娘に指図される筋合いはないわ!どきなさい、そこを通してちょうだい!」


 家族ずれで訪れている女性が金切り声を上げる。その女性の後ろには、彼女の夫らしき少し強面の男と、彼ら二人の娘であろう女性がいた。娘は幸いその母親に似たのか、貴族の中でも上玉と言えた。


「ですから、これは命令なんです。誰も屋敷に入れるなと」


「君、それは誰からの命令なのかね?」


 なかなか道を譲らないメイドに苛立ちを覚えたのか強面の夫が口を挟んで来た。

 しかし、メイドは全く怯むことなく、圧倒的な力を持った言葉を返す。


「皇帝陛下からの直々の命令です」


「へ、陛下だと…」


 そこでたじろいた夫と妻にメイドはとどめを刺す。


「シアード様の面会は誰であろうとお断りです。それとも陛下の言葉に逆らってでも中にいるシアード様にお会いになりますか?」


 その家族たちは、尻尾を巻くように帰って行った。

 メイドは呆れた様子で帰って行く彼らの後姿を眺める。ここ三日ほどずっとこの調子で、屋敷に訪れてくる貴族たちを門前払いしていた。

 誰もがここの屋敷にいるハル・シアード・レイという男にいい顔をしておきたいのだろう。

 彼が白虎を討伐したことで帝国内でもその人気は沸騰中であった。ただその理由は帝国の脅威となっていた白虎を討伐するほどの個としての膨大な力を持っていたからだった。

 帝国内では特に武力ある者が重宝され、貴族の中でも力ある者の出世は早かった。

 そのため、ひとりで国に匹敵、いや、白虎討伐という偉業を成し遂げたまでの男はそれ以上の力を秘めている可能性もあり、貴族たちが出世の道具として放置しておくはずがなかった。彼を取り込めば三大貴族に入るのは確実だったからだ。

 貴族が目指すべき終着点が三大貴族であり、貴族の中でも特権階級で揺るぎない地位であった。

 たかが青年ひとり囲い込めば、その国の中でも巨大な権力を手に入れられるのだから、こうして、誘い出しに来るのも無理はなかった。

 だから、ここ三日間はずっと綺麗な娘を連れて来た親子連れがほとんどだった。


 ただ、彼を狙っているのは貴族だけではなく、王族だって同じだった。ハル・シアード・レイを自国に引き込めば、多くの恩恵があった。

 まず、ひとつに大きな恩恵として彼と争わなくて良いという利点があった。大陸を脅かす白虎どもをひとりで討伐したのだ。どの国だってそんな化け物を相手にしたいはずがなかった。そもそも、相手にした時点で国が亡ぶことが決まったようなものだった。彼は白虎を討伐して、それを証明してしまったのだ。

 だから、彼がいるだけで他国に対しての抑止力にもなる。彼ひとりいるだけで軍事力の面や国際交渉の面で、圧倒的な優位性を確保することができてしまうのだ。

 彼を利用すればこの大陸の全国を支配下に置いた独裁帝国すら実現は可能になってしまえるほど、もう彼の力は大陸中に広まりつつあった。

 現在多くの国が彼の存在を極めて重要視していた。


 それにここに来た理由が黒龍討伐でもあるため、もしも成功すれば、彼の価値はさらに雲の上へと昇って行くのだろう。

 そして、彼を奪い合う争いが各国で始まるのではないかと、屋敷の玄関先に立つメイドが心配になるほどであった。


『こんな扱いづらい人物早々いないよ…』


 もし万が一、帝国が彼の逆鱗に触れて争いになってしまったら、帝国は滅ぶしかないのだろうか?強い武力で強い国家として、勢力を拡大して来た歴史を持つ帝国がひとりの青年に頭が上がらないのが、帝国を愛しているメイドとしてはもやもやとし不満が募るがもちろん表にはださない。ただ、もしかしたら、彼が帝国に加われば昔のように強い帝国が戻って来るかもしれないと思うと期待は膨らんだ。


 だから、今日も屋敷の前に現れた帝国の皇女様を笑顔で迎える。



 例え、ハルから、この屋敷に使用人たち以外の人は誰も入れるなと言われていても、ひとりのメイドが皇女様の行動を阻むことができるわけがなかった。

 だから、この玄関先にいるメイドは、ハルからの評判も悪かった。皇女エステラを三日連続で屋敷に入れているからだ。ただ、メイドからしたら、来賓より皇族優先だった。それ以外ありえなかった。


「エステラ様、お待ちしておりました。どうぞこちらへ」


 そして、メイドは今日も扉を開けて皇女様をハルが泊まる屋敷の中へと入れる。

 この三日間エステラは彼に猛烈にアピールしているようで、衣装にも化粧にも力が入っていた。


『美人だな…』


 女性のメイドがから見ても惚れ惚れしてしまいそうなほどの美姫。


『全く、ハル・シアード・レイって何様なんだよ…』


 そんな、彼女の誘いを断り続けていると噂されているハルのことをメイドは生意気だと思いつつ、扉を閉めた。



 *** 



 ここまで胸が弾んだ日々を送ったのは久しぶりだった。この三日間エステラはずっとこの屋敷に籠っていたレイドの英雄ハル・シアード・レイに会いに来ていた。目的はまずはお友達になるところからだった。エステラにとって男とは自分に従い夢中になる生き物で、相手がこちらに溺れるのを待っては、少し遊んであげて飽きては捨てて来た。

 帝国傘下の国の剣聖、他国の皇子、大商人の息子、有名冒険者、大貴族の息子、数えればきりがない。

 エステラは長女ではあったが、王位継承権はイグラインにあるため、比較的好き勝手に生きていくことができていた。政治や権力よりも恋を欲していた。そのため、このような自由な立場に立てたことは、イグラインに感謝するほどだった。これは妹のラピアも同じようなことを言っていた。彼女はひとりのとある男性に夢中の様で、皇女という立場を乱用してはその彼に会っているようであり、ただ、それは今のエステラと変わりはしなかった。皇女という立場を利用して立ち入り禁止のハル・シアード・レイがいる屋敷に無許可で毎日立ち入っているのだから、人のことは言えない。


 だが、なぜここまで彼に魅かれてしまうようになったのか?エステラはこの数日の間で考え抜いて出した結論は、今まで自分と対等な男がいなかったからなのでは?だった。

 今までの男たちは皇女であるエステラと対等に口を利ける立場にいなかった。だから、いつだって彼らは敬語で言葉は優しさに包まれ、こちらの様子をうかがう丁寧な気遣いばかりで刺激がなかった。しかし、ハルはどうだろうか?三日前の初対面の皇女に対してのあのあまりにも無礼な態度。さらに会いに来た皇女を部屋の外に数時間締め出すという神も悪魔も恐れる無慈悲な所業。そして、あの時見せてくれた当たり前のありがとうの言葉。何もかも彼と会うと普通じゃなかった。そこにはエステラが求めた普通の関係を築ける歳の近い友人の様な男がいた。支配関係も上下関係もない、素直に互いに下の名前で呼べる彼が、堅苦しい礼儀も恋の駆け引きもない、まっさらな関係がそこにはあった。


 エステラが屋敷の廊下を駆けて行くと、すれ違うメイドたちが頭を下げていく。


 ハルの部屋の扉の前にたどり着くと、合いかぎを使って扉を開けた。


「ハル!今日も来てあげたわ!」


 しかし、部屋の中は空っぽだった。


「む、また部屋を変えたか…今度はどこに行った?」


 エステラは屋敷の部屋の扉をかたっぱしから開けていく。昨日訪れた時、彼は部屋を変えていた。もちろん、メイドに場所を尋ねるとすぐに彼の居場所を教えてくれた。だから、今回も同じように近くにいたメイドに尋ねた。


「そこのあなた、ハルがどこに行ったか知らない?」


「シアード様なら、四階の特等室でお休み中です」


 ハル以外誰もいない貸切状態のこの屋敷で彼の選べる部屋は自由なのだ。


「ありがとう!」


 エステラは急いで四階を目指して階段を駆け上がった。


 あまり運動をしないエステラは四階に着くと息を切らしていた。それでも、廊下を駆けて特等室の扉の前まで行った。扉には鍵が掛かっていたのでジャラジャラと鍵束を取り出して、特等室のカギを使って扉を開けた。


 部屋の中に入り、彼の荷物があることを確認すると、宝物を見つけた子供の様な笑顔が広がった。


「よし、メイドの言った通りね」


 リビングに彼はいなかったが、エステラはリビングと寝室を繋ぐ扉を開けると、ベットの中で彼は朝の日差しを照明に本を読んでいた。


「おはよう!ハル!」


 元気よくエステラが挨拶をするが、返事は返って来ない。ただ、本の上から顔をのぞかせる彼の怪訝な視線があるだけだった。


「何読んでるの?」


 エステラはそんなのお構いなく、ハルのベットまで近づくと彼に身体を寄せて読んでいる本を覗き込んだ。


「あ、これ七王国物語でしょ、私も読んだことあるよ。私は第五章が好きかな、血で血を争う戦争の話し、あそこ見てるとゾクゾクするよね」


「あのさ、勝手に入って来ないでくれますか?それと近いから離れて」


「ええ、いいじゃん別に、それに私たちもうあれじゃん!?えっと、その、友達みたいなものでしょ?」


「違う」


 バッサリと否定されたのはショックだったが、それでもめげずに彼の懐に入ろうと腕を掴もうとした時にはもう彼の姿がそこには無かった。というより、寝室にすらいなかった。突然、部屋に独りぼっちになったエステラは混乱した。


「え?あ、あれ?ハル、どこに行ったの?」


 リビングへ続く扉の奥で彼の姿が横切るのが見えたので、彼は寝室からリビングに移動したのだろうとエステラは納得するしかなかった。


「ちょっと、ハル、もう少し私の相手してよ……」


 エステラがリビングに戻ると、鬱陶しそうな顔をしているハルがいた。彼は読んでいた一冊の本をバックに詰めると、次に着替え用の服を詰め込んでいた。


「邪魔だからどっか行ってくれないかな?」


「…それ、私に言ってるの!?」


「他に誰かいるように見えます?」


「はわぁ…」


 エステラは男の人が自分をこんなにも邪険に扱ってくれていることに感動してしまい目を輝かせていた。彼様なセリフを普段さんざん言い寄って来た男たちにぶつけていたが、いざ、自分が言われると、魅かれてしまうものがあった。


『そうかだから、あの男たちは私に何度もあしらわれても諦めずに食らいついて来たのね!うーん、でも、そうすると私もこのままがつがついくとハルに嫌われちゃうわね…』


 どうしたものかと黙って考えている間に、エステラの前ではハルが身支度を終わらせようとしていた。


「ねえ、ハルはどうしてそんなに私を遠ざけるの?」


 手を動かし続けるハルに質問をぶつける。彼の荷物はほとんどなく、着替えをカバンに詰め終わると後は巨大な刀二本と、黒いローブだけが彼の持ち物の全てだった。


「エステラ様だけじゃなく、俺はみんなを遠ざけてるはずなんですが?」


 言われてみればハルはこの三日間この屋敷にずっと籠って誰とも会わずにいた。友人であるらしい剣聖のフォルテがハルを尋ねても門前払いで、この屋敷に入れてもらうことができなかったようで彼は少し落ち込んでいたような気がした。いや、気のせいだったかもしれない。


「なんでそこまでしてみんなを遠ざけるの?この三日でここに訪れてくれてたみんなだって私みたいにあなたに会いたいから来てくれているのよ、その思いを無下にするのはどうなのかしら?」


 少しは相手をして欲しいから口調を強めて抗議する。

 ただ、そこでハルが手を止めてエステラに振り返ると、吸い込まれるような青い瞳を向けられた。そのどこか恐ろしさも含んだ瞳は、反射的にエステラの背筋ピンと張らせた。


「…その考えが通るんだったら、俺は誰にも会いたくないからこの屋敷に籠っていたで、どうですか?」


「それは、そうだけど、みんな、あなたを思って会いに来てくれてたのよ…会ってあげるくらい良かったのでは?それかまとめてパーティを開くとか、それなら私がセッティングしてあげるけど?ほら、前みたいにお父様の前で堅苦しい感じじゃなくてもっと若者たちだけで楽しめるパーティーを…」


 しかし、言葉の途中でハルが青い瞳を閉じてしまうと静かに口を挟んだ。


「素敵な提案ですが、俺はもう行かないといけません」


 彼が少ない荷物をまとめ始めた時から嫌な予感はしていた。


「行かないといけないってどこに?」


「龍の山脈です」


 薄々分かっていた。彼がここにいる時間が短いことぐらい。何とかして引き留めておきたかった。まだ、会ったばかりで彼のことなど何も知らない。


「ねえ、本当にもう黒龍を討伐しに行かなきゃいけないの?せめて後一か月くらいは大丈夫なんじゃない?」


「俺は一刻でも早く、黒龍を殺して帝国やみんなを救いたいんです」


 彼が微笑みながら答えた。ただ、それは彼と会って日が浅いエステラでも分かった。彼は嘘をついていると。時折見せた辛い表情をするのは彼に何かあった証拠なのだろう。だけど、その根本的な彼の抱えている闇を聞き出すための信頼を作る時間などありはしなかった。彼と出会うのは遅すぎたのだ。もっと早いうちに彼と会っていればこんなに虚しい気持ちになることだってなかったはずだった。


「嘘よ、それはハル私たちのこと遠ざけてるし、どうでもいいって思ってるんでしょ?」


「それとこれとは話が別です。俺がみんなに会いたくないのはもうみんなに会えないから会いたくないんです」


「…待って、会えないってどういうこと?」


 エステラは彼がいなくなってしまわないように彼の手を取った。


「エステラ様には関係ないでしょ、それと勝手に触んないでもらえますか…俺、あなたのような王女様は嫌いなので……」


 好き勝手言われたエステラだったが、それでも彼の手は離さなかった。そして、エステラはそこで彼の手を掴んで分かってしまった。彼が今どんな気持ちでいるのかを…。


「ハルの手震えてる…」


 彼の目の焦点がどこも見ずに左右に揺れて動揺していた。


「本当は怖いの?」


「………」


 そこでしばらく二人の間に沈黙が降りて静かに広がった。見つめ合う二人の瞳。彼を救ってあげたかった。だけど、どうすれば彼を救えるかが分からなかった。エステラが今できることは、彼の手を離さないことだけだった。

 しかし、エステラが次にハルを見た時に、彼は優しい笑顔を浮かべていた。


「怖くないよ、自分で決めたことだから最後までやり通す。だから、エステラも俺のこと見守ってて欲しいな、遠くからでいいからさ…」


 そこにはきっと本当の彼がいたのだろう。冷たくないどこまでも温かい彼の微笑む姿があった。


「………」


 言葉が出なかった。きっと彼が愛する人たちに見せている素顔を、ほんの少しエステラにも分けてくれたのだろう。その優しい笑顔と言葉がエステラの心を掴んで離さなかった。

 しかし、それと同時に別れの時間は一瞬で訪れてしまうことに虚しさが押し寄せていた。

 ハルが真っ黒いローブを羽織ってバックを肩にかけ、二本の大きな刀をまとめて縛った紐を片手で掴み、そのまま持ち上げた。


「もう二度と俺みたいな無礼な奴に会うこともないと思うから安心してね…」


 エステラを残して、ハルが部屋の外に歩いて行った。


「私…その…」


 伝えたいことはたくさんあった。だけど、一緒に居る時間はもう無い。


 ひとり残されたエステラが慌ててハルを追うように扉を開け廊下に出るが彼の姿はもうどこにもなかった。


 エステラは走った。



 ***



 イラスヘルム城の謁見の間の扉を開け奥にある玉座なで進む。

 玉座にはアドル皇帝が、その傍には皇后の【サーラ・フューリード・アスラ】と皇族のイグライン、ラピアがおり、帝国の第二剣聖フォルテ・クレール・ナキアと、第一剣聖のシエル・ザムルハザード・ナキアが彼の護衛として両隣に立っていた。そして、謁見の間には帝国の大貴族や上位貴族、多くの精鋭騎士たちが立ち並びハルを迎えていた。


 玉座の前で跪くと、アドルはよいとだけいい、ハルを立ち上がらせた。


「陛下、これから龍の山脈に向かいます。大口を通る許可をお願いします」


「ああ、こちらがその許可書だ、受け取ってくれ」


 ハルの下にひとりの文官が来て書簡を渡した。


「ハルくん、作戦実行日は明日の明朝と共にで、いいんだね?」


「はい、その時間でよろしくお願いします。それとひとつだけ最後に確認させてもらいたいことがあります」


「何かな?」


「作戦当日は誰も竜の山脈に近づけないことについてです」


 アドルは力強く頷いた。


「それなら問題ない、明日には誰もハルくん以外は龍の山脈にいないように撤退する命令を出している。龍の山脈にある研究施設やそれらに付随する防衛施設などにも全部にだ。だから、当日は人々の被害のことは考えないで思う存分討伐に集中できるはずだよ」


「ありがとうございます」


 ハルは深々と頭を下げた。

 討伐当日の話し合いはこの三日間の内にもう済ませてあった。ただ、作戦当日の打ち合わせと言っても作戦の中心であるハルの要請にアドル皇帝が首を縦に振り続けるだけで、これといった問題はなかった。特にハルは以前から各国に事前準備を進めるような命令を出していたため、準備の最終確認と、各国と連絡を取っているアドルから他の国の状況を聞くくらいであった。他の国々も問題なく準備は進んでいるようで、今回の作戦に不参加のシフィアム王国の代わりも、ニア王国、スフィア王国の兵士の増員で対処したとのことで各国の防衛も問題はないとのことだった。


「それでは行って参ります」


「ああ、健闘を祈るよ」


 ハルが最後に一礼して、その場を去る。


 その時だった。


 謁見の間の扉が乱暴に開いたのは。


 全員の視線がその開かれた扉の先に向かった。

 そこには息を切らしたエステラが膝に手をついてこちらを熱い視線が見つめていた。


 時間が止まったかのように謁見の間は静まり返った。


「ハル、行かないで…私、まだあなたともっと話がしたいもっとあなたと一緒にいたい!」


「なんで…」


 悲劇は二度と繰り返したくない。ハルの頭の中に彼女と別れた記憶が蘇る。それだけで、もう、二度と誰かと親しくなろうなどとは思わなかった。それだけじゃないこれから先に待っていることを考えると、尚更、誰かと親しくなることなど避けたかった。

 だって、そうだろう?永遠のサヨナラがすぐそこに来ると分かっていて誰が人を愛せるだろうか?ハルには無理だった。これ以上、幸せな日々は離れ離れになる時間が、あまりにも残酷過ぎて生きてはいけない。ただでさえ、今も限界を迎えているのに、これ以上大切な人達を増やしたくはなかった。

 これからは独りで生きていかなければならないのだから、愛などいらなかった。


「私あなたのこと…」


 ハルは耳を塞ぎたかった。

 その先の言葉はもう誰からも聞きたくなかったそれは辛いだけだったから。


『やめてくれ…』


 ハルが彼女の頬に触れる。びっくりしたエステラが言葉の途中で固まる。彼女は期待してしまっていた甘い現実を…。

 しかし、そこに甘い現実などなかった。

 ハルが触れた手から恐ろしい感覚が彼女を捉える。触れられた場所から穢れていくようなドロドロした負の感覚がエステラを蝕む。


「…ハ…ル…?」


 それは恐怖そのものだった。

 エステラがその恐怖に抗いながらも目を見開いてどうして?と訴えかける。彼女の身体は恐怖で硬直していた。

 ハルは、純度の高い恐怖を直接エステラに注ぐことで、彼女の頭の中を破壊して自分の存在を忘却の彼方に葬ろうとしていた。


「………」


 だが、その手は終ぞ彼女の記憶を消すことは無かった。


『もう、二度とこんなことしたくない…』


 その時ハルの脳裏には、ひとりの女の子の幸せそうな笑顔が浮かんでいた。


「エステラ様、私は、あなたにこれから先素晴らしい人生が待っていることを、あなたの人生の隅っこでただ祈らせてもらいます…」


 その言葉の意味は彼女にもしっかり伝わっていた。だから、涙を溜めて歯を食いしばっている彼女の表情は見るに耐えなかった。


「短い間でしたが、お世話になりました。それでは失礼します」


 ハルは身動き一つ取れないエステラの横を通り過ぎて行った。

 誰もがハルとエステラ、二人だけの空間に入って来ることはできなかった。みんなが二人の行方をただ静かに見守っていた。

 だけど、二人が結ばれるような、誰もが納得するような結果は訪れなかった。

 謁見の間に重たい沈黙だけが広がり続けた。



 ***



 謁見の間を出たハルは、そのまま城の外に出ると、その場から一瞬で姿を消した。


 もうすぐそこまで会いたくて仕方がない人たちが来ているのが分かっていたから、ハルは逃げるように龍の山脈へ出発したのだった。

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