竜舞う国 真実
耳触りがいい言葉だけ聞いてきた気がした。
正しさを見誤ったかもしれない。
都合のいい現実に身をゆだねていた。
見せかけだけの虚構を信じていた。
真実から目をそらし続けていたようなそんな気がしていた。
どうしようもできないことがこの世にはあると知った日の自分はあまりにも無力だった。
「ハルさんはどうして神獣討伐をしようとしているのですか?」
灰竜の館の主人であるクラシャが、魅惑的な瞳を銀色の瞳で覗き込んでくる。彼女の美しい見た目はどこか人離れした冷ややかな雰囲気すら漂わせていた。
言葉一つ一つが艶っぽく、こちらを誘惑しているかのように艶めかしい声色だった。
ただ、彼女の話す内容は決して心地の良いものではなかった。
「それって何か関係あるんですか?その真実ってやつと」
「ハルさんが救おうとしている人々が本当に救う意味があるのか?考えたことはありますか?」
「そんなの、考えたこと…」
考えたことはあった。
きっかけは解放際だった。
あの時、泣いていた女の子が、なぜ私を助けたのかと襲いかかってきたことがあった。
それは忘れらない記憶としてハルの記憶の中に残っていた。
「その様子だとないんですね?フフッ、本当にあなたは素敵です。そうですよね、誰だろうとあなたの比類なきその力で救って来たんでしょうね」
「救われちゃいけない人なんて…」
「いますよ、この世には大勢の救われちゃいけない人々がちゃんといます」
彼女に言葉途中で遮られ、冷ややかな目線が送られた。
「別に神獣討伐を否定しているわけじゃありませんよ?あれはこの大陸を救いますから必要なことです。ですが、ハルさんに分かっていて欲しいのは救っちゃいけない人たちもたくさんいるということです」
「そんな人いないと思うんですが…」
ただ、結局解放祭で会った彼女との出来事があっても、なおハルはそのような答えに達していた。
救われてはいけない人などいないと…。
「いますよ、たくさんいます。それに今後必ず現れますよ?あなたの前に救っちゃいけないような人間が」
クラシャが不敵な笑みを浮かべる。愉悦に浸っているようなその瞳はギラギラと輝いていた。
「………」
もしそんな人が目の前に現れた時、自分はどうするのだろうか?と考えたが答えはでなかった。
「あ、ごめんなさいね、ハルさんは大勢の人々を救った英雄なのにこんなことを言ってしまって…」
「いえ、クラシャさんのその言い分に理解を示すことはできます…」
記憶を辿り思い返せばそのような人物をひとり思い出すことができた。解放祭でであった女の子がそうだった。
「今日はね、ハルさんには本当のことをそんな真実ってものを知っておいて欲しかったの、この世にはあなたの知らない世界がまだまだたくさん溢れてるってことをね」
クラシャがニッコリと笑った後、続けて告げた。
「まず、私がハルさんに伝えたかったことは、レイド王国の本当の歴史といったところかしら?」
「本当の歴史ですか?」
「そうよ、レイド王国がどういう国なのかハルさんは知っていますか?」
「そりゃあ、レイドは俺が住んでいるところなんで、国の歴史なんかは一通り教え込まれました」
ハルは、エウスやライキルと一緒に王城で学んだことを思い出す。
現在残っている大国は千年ほどの歴史があり、レイド王国もその中のひとつであるということ。
始まりは神獣レイドを討伐したレイ・ホーテンが、ミドル・ハドーと共に国を築いたのが始まりだった。
ミドル・ハドーを王とし、レイ・ホーテンを初代剣聖として、最初のレイド王国ができた。
そこから何代もハドー家が国を守り今に至っているということ、そして、ホーテン家も…。
「ハルさんは知らないと思いますが、レイド王国には今もホーテン家が存在しています」
「それは知っています」
「え!?」
優位性を保って愉悦に浸っていた彼女の表情が崩れる。
「実際にホーテン家のルナさんにはお会いしました…」
「あのレイドの大物に会ってたんですか?」
「はい、解放祭でお会いしました」
『やっぱり、凄い人なんだよな、ルナさんは…』
ルナ・ホーテン・イグニカ。短い間だったが彼女のことは鮮明に記憶に残っていた。そして、この世にはどうしようもなく救いが無いことを教えてくれた人でもあった。
「だったら話は早いです、ハルさんレイド王国は裏で多くの人を虐殺しているんです。レイド王国に存在する四つの裏部隊を使って、国にとって都合の悪いことは全て潰して、関わった人たちは全て抹殺しているんです。特にそのルナ・ホーテン・イグニカを筆頭に…」
「だと思います…」
ハルは、ルナの存在を知ってから国というものがどういう場所か知っていた。
人々が平和に暮らせるように自らの手を汚し続ける人たちがいる。国にはそういった者たちが必ずいる。ハルは軽蔑はしない、それが正しいやり方だとも思わない。
だけど、もし彼らもハルと同じく、理不尽に訪れる脅威を事前に防いでいるとしたら、誰かのために命を削って人々の平穏な日常を守っているとしたら?
誰が彼らを責められるのだろうか?少なくともレイド王国の人たちは彼らに一度は礼を言わなければいけないのではないだろうか?
ルナが泣いていたことをハルは思いだすのだ。彼女があそこで泣いていた意味を…。
国を支えるための代々人殺しの家系ならば、選択肢がなく彼女が人を殺すという重い罪を背負わされることが生まれる前から決まっていたならば、それはあまりにも悲しいことじゃないのか?
『そんな運命なら、辛いに決まってるよな…』
だからこそあの時、ハルは彼女を罵倒すらせず、むしろ肯定したのかもしれない…。彼女が手を汚し続けてくれたおかげで、自分たちの平和な日常があったと考えると、その恩はハルにもレイドの人なら誰でも、返せないほどのものなのではないか?
「だと思いますって…そんな国をあなたは許せるんですか?」
クラシャの不機嫌な態度にも納得がいく、本来そのような非道は許してはいけない…。
だが、ハルは許せてしまった。
エウス、ライキル、ビナ、キャミル、ダリアスなどレイドにいたハルの大切な人たちのことを影から守っていたと考えると許せてしまうのだ。つまり英雄だろうが何だろうがハルも所詮は人であった。
そして、全ての人々が絶対に分かり合えないということを、証明されてしまったような気がして虚しくなった。
なぜなら、彼女が国のために殺した人々は誰かの大切な人だったはずであり、そう考えると、この負の連鎖は誰にも止められない。
最後のひとりになるまで続くのだろう。
ここは現実で天国ではない。
「俺は許せますよ…レイド王国が俺に隠れて国を守ってくれていたのですから」
「でも、そのやり方はあなたが一番許せないやり方じゃないんですか?人殺しですよ?あなたが救いだした人たちが殺されるかもしれないのですよ?」
「人はいずれ必ず死にます…俺もあなたも…」
「………」
クラシャの表情が固まった。手で胸を押さえて息苦しそうに呼吸をする。
「それに俺もたくさん命を奪ってみんなを救っています」
霧の森の出来事が目に浮かぶ。そこには大量の生き物の死が海の様に広がっていた。
「人と獣は違います、そこには明確な差がありま…」
ハルはそこで彼女の言葉を遮った。
「ありませんよ」
ハルにとって人も魔獣も獣も生きとし生けるもの全て命は命だった。そこに明確な差はないという考えも少なからず持っていた。
言葉が通じる通じないに関わらず、食らう食らわないにかかわらず、分かり合う分かり合えないに関わらず、生命を殺すということはみな等しく平等に罪であるという、どうしようもないくだらない理想を持っていた。
それはまるで世界を何も知らない偽善者の言葉であり、ハルはその通りだと自分でも思っていた。
「人殺しも魔獣殺しもどちらも命を奪っている行為に変わりないです」
理想はいつだって脆く、現実にそぐわない。
ここは地獄だ、奪い合って生き残る様にできている。
じゃあ、天国はどこか?死んだその先にあるか?きっと無い。
天国は自分の内側にしかない、心の中、この刺激溢れる世界で感じたものを自分の中でどうとらえるか、そこに平穏と安らぎを自分たちで見出さなければならない。
救いとは自分が誰かが手を差し出されたものにしか訪れない。
救世主になるか、救われるのを待つ者になるか?
選択しなければならない。
生き物はその二択を必ず選択している。
ハルが白虎を狩って人々を守ることを選択したように、白虎だって自分たちの巣を守るためにハルを殺しにかかる選択をした。
共存できないから争うしかない、ここはそう言った場所、それは人間同士でも同じことであった。
分かり合おうとしないのではなく、絶対に分かり合えない者同士が同時に存在してしまっているのだから仕方がない、だから、最後に残るのが命の衝突だけになる。
この世界は冷たく残酷で、温かく幸せで、そして、美しい。
「だからあなたもそういった連中と同じだと?裏で人殺しを平然とする者たちと一緒だと?」
クラシャは裏社会で生きるルナたちをどうしても貶めたいのだろう。理由は分からないが何かそういった意図がうかがえた。
「立っている場所が違うだけで俺も本質は彼らのような人たち同じです…」
たかが数年レイドで剣聖として剣を振るっただけの自分と、千年もの間、国を支えてきたホーテン家どちらが本当の意味で人々から愛されなければいけないか?そんなのは決まっていた。
たまたまハルが誰からも討伐を許された共通の敵と認識されている魔獣を殺しているだけで、これが人だったら、今のハルは英雄と呼ばれていただろうか?いや、呼ばれてはいないだろう。時代が時代ならそう呼ばれていたかもしれないが今は違う。
「魔獣か人かの違いだけです…」
あの時、彼女は泣いていた。
救われたことで悲しみが続くのが彼女の世界だった。
ハルが救ってしまった人の中に、そう言った思いのある人がいるとは思ってもいなかった。
ただ、それでも救われちゃいけない人なんてこの世にいないと思いたかった。
たまたま、自分たちが恵まれた場所にいるのであって、立っている場所や育った環境の違いで、人は大きく変わってしまうものではないのかとそう思うのだ。
『だって、そうでしょ…ルナさんだって一緒に俺たちと道場で育っていたら今頃一緒に…』
隣で笑っていたかもしれないのだ。
「な、なんで、そんなに彼らを庇うんですか…?あなたはレイドの英雄で人々の希望なんじゃないんですか…?」
クラシャが肩を震わせていた。
「そんなあなたが国の汚点に目を瞑っていいのですか?あなたは人殺しを容認しているのですよ?裏切られたと思わないのですか?国に、あなたと親しいハドー家であるダリアス王に、だって彼はずっとあなたに黙って騙し続けていたんじゃないんですか?」
たしかに、ダリアス王の口からそのような国の裏事情を聞かされたことは一度もなかった。
これは信頼関係に大きく傷がつくことではあった。
ただ、なぜ教えてくれなかったのか?それには理由があるのではとハルは冷静に考える。
『俺にはまだ見えていないものがある…ダリアスは……そう、ダリアス王は……』
そこでひとつ思い出すことがあった。
それはある人がハルに忠告してくれていたことだった。
*** *** ***
それはレイドの王城の中にある軍部のある男の執務室での出来事だった。
滅多にいないその男に呼び出されたハルは、ちょっとした自分の近況を報告させられている時だった。
報告を終えて、他愛のない会話をしている最中に彼はハルに大事な忠告をしてくれていた。
『それでですね、ダリアス王が酔っ払いながら、キャミルのことで俺に愚痴をですね…』
ハルのダリアスとの酒場で出来事を聞いていた彼は、静かに微笑むと会話を途中で遮って声を掛けて来た。
『すまない、少しいいかな?ハルくん』
『あ、はい、いいですけど、どうかしました?』
『君とダリアス王はとても仲が良いと思って、ひとつ言っておきたいことがあったんだ』
『何でしょうか?』
窓から穏やかな日差しが差していたのを覚えていた。
『いつかハルくんが我々の王を信じられなくなる時が来ると思うが、その時は自分の視野の狭さを疑って欲しんだ』
『視野の狭さですか?』
『そう、君はまだここに来たばかりでレイドというものを知らないし、国外にだって出たことがないだろう?』
『ええ、まあ、そうですけど…』
『視野が広がるといろいろと考えられるようになる。何が正しくて何が間違っているか、そして、どちらを選んでも自分次第で答えが変わって来る問題もある』
『正義の話しですか?』
『その人が立っている場所の話しさ』
『立っている場所?』
彼はそのことを説明はしてくれないで続けた。きっと自分で気づき理解して欲しかったのだと今になって分かった。
『ハルくん、もし、この国にずっといてある時、全てを知ったとき、それでもダリアス陛下のことやみんなのことを信じてあげて欲しんだ』
『え、それならもちろん大丈夫ですけど…』
このとき自分は深く彼の言ったことを理解してはいなかった。
『そうか、それなら良かった』
そして、その男はハルの目を見据えて最後にいった。
『ハルくんには誰を信じるか間違って、後悔して欲しくないんだ…君の力は強すぎるからね…』
そこで記憶は途切れた。
*** *** ***
ハルがその人との記憶から戻って来る。
「ダリアス陛下にも何か理由があって、俺にそのことを隠していたんだと思います…」
「ハルさん…ダメですよ、レイドはあなたを利用しようとしているんですよ?このままあそこにいたらいずれ、彼から人を殺せと命令されるかもしれないのですよ?」
「その時は、俺が自分で考えて判断します。彼は誰よりも言葉の通じる王様なので…」
クラシャに苛立ちが見えていた。
「だってそれじゃあ、ハルさんはずっとレイドにいることに………」
彼女がぶつぶつと呟いていた。
ハルが椅子から立ち上がった。
「ど、どこに行かれるのですか!?話はまだ終わってません、大事な話が残っているんです…」
「ああ、すみません、ちょっと外の景色が見たくて…」
ずっと座って話していたためか、身体を伸ばしたくなっていたハルは、窓際に移動して背筋を伸ばした。
窓の外の景色は薄暗い霧が漂う林の中だった。この館は結界の内側であるため、自由に空間内の風景も変えることができるのだろう。
もちろん、現実と区別がつかないようにするほどまで鮮明な景色を作り変えることは高度な魔法技術が必要なのだろうが、クラシャのような実力者なら簡単にやってのけてしまうのだろう。
「あの、いいですか?」
「あ、はい、どうぞ」
ハルがボケっと創られた外の景色を眺めていると、クラシャが傍に寄って来て尋ねてきた。
真実とは告げられれば、退屈なものになってしまうのかもしれない。すっかり興味が失せていた。
「えっと、その、ハルさんは何か望むことはありますか?」
「望むこと?」
なんだか彼女はだいぶ焦っている様子であった。
「なんでもいいです、権力が欲しいとか、力が欲しいとか、あの女性を抱きたいとか、何かありませんか?」
突然望むことと言われても、今のハルに思いつくことは少なかった。どれもこれもあまりにも自分に時間が足りないせいで欲というものが減衰していた。
「じゃあ、もう、帰ってもいいですか?真実とやらを聞けたので…」
「え!待ってください、ここから何です、ここから!あ、やばい時間が…そうだ、ハルさんはドミナスという組織を知っていますか?」
「ドミナス?」
「はい、ドミナスです!ハルさん、あなたは我々の組織に招待されているんです!それも本部のほうにです!これはとんでもなくありえないことなんですよ?あの魔女様たちや我々の王に認められたということなんですからね!」
そこでクラシャの姿が段々と消えていくことにハルは気づいた。彼女の姿が透明になっていく。
「え!?クラシャさん!?」
もう何が何だかわけが分からなくなってきた。
「あ、ハルさん、四階に来てください本当の私はそこにいるんで!!」
「え、ちょっと、待って…」
ハルの隣に居たクラシャが目の前から消滅してしまった。
「………」
二階の貴賓室に取り残されたハルはとりあえず、天性魔法を使って周囲を調べることにした。
ハルが手を前にかざす。
ハルだけにしか見えず感じない光が広がるとその光は館内を包み込んだ。
「あ、本当だ、四階に二人人がいる、この真上の部屋だ…」
ただ、そこで広がっていったハルのその光が、外にまで溢れて結界の天井に触れた時だった。
何重にも張られていた結界。
その中のひとつの防壁を担っていた結界が崩壊したのか、天井に穴が開くのをハルは光を通して捉えた。
「なんだ、何か…この結界内に入って……!?」
ハルはその場で屈むと力を足に溜め一気に解き放ちジャンプすると、二階の貴賓室の天井を殴りつけた。
その破壊は三階、四階と広がっていき、大きな穴を開けた。
そして、四階の部屋にいた二人の元にハルが飛び上がり姿を現した。
「にゃ、にゃにごとだこれは!?おい、メイド何が起きてる!?」
そこには椅子に座って目隠しをしているクラシャと、先ほど紅茶と菓子を持って来てくれたメイドの姿があった。
「えっと、シアード様が…床を突き破って…」
「うええ!?どうしてぇ!?」
直後四階の部屋に招かれざる客が現れた。それはハルがとっさに察知した敵だった。
四階の天井を突き破って、赤と黒の鱗を持った翼竜が現れた。とても筋肉質でギラギラと輝く赤い目がこちらを睨みつけていた。
「ク、クラシャ様…竜が現れました…」
「え!マジ?やばくね?だって私、天性魔法、今、使えないよ?」
「なんで力を残しておかなかったんですか!」
「だって、ハルさんが来てくれるっていうから、こんな私を見せるわけにはいかないじゃん?」
「もう、遅いですよ!」
二人が慌てている中、ハルは冷静にその竜を分析していた。
「なんで竜がこんなところに…ってそれより、この竜……」
ハルはその竜に見覚えがあった。
「ウルメアが乗ってた竜か?いや、間違いない…お前どうしてこんな…」
その時、その竜の筋骨隆々の前足が、ハル、クラシャ、そのメイドの三人を肉塊にしようと、横なぎに振るわれた。
「クラシャ様!にげ…」
メイドがクラシャを逃がそうと彼女のもとに駆け出すがもちろんそんな時間はない。
振るわれた前足は、無慈悲な暴力となって、襲いかかる。
が、しかし、そんな理不尽を破壊するためにハル・シアード・レイという男はいた。
振るわれた前足を片腕でだけで容易く止める。
竜とハルの腕が衝突すると、その衝撃波で部屋の窓が一気に外に向かってはじけ飛んだ。
「何が起こってるんだ!?」
クラシャが椅子に座ったまま見当違いの方向を見渡す。
「シアード様が守ってくださいました!」
「マジかよ!ハル最高!愛してるわ!」
「こんな時にふざけないでください!クラシャ様!!」
ハルのうしろでは、クラシャとメイドさんが、仲良くケンカしていた。
「二人とも動けますか?」
ハルが二人に振り向きながら、竜の前足の蹄を掴んでいた。その赤黒い筋肉質の竜はハルに掴まれている間、少しも前足を動かせないでいた。
「私は動けますが、クラシャは目が見えず、足が不自由です…」
「え?でも、さっき俺といた時は普通に…」
「あれはクラシャ様の天性魔法です。彼女はもうひとりの自分を実体と霊体の二つから選んで召喚できます」
「あ、こら、メイドの分際で私の魔法を勝手にばらすな!減給じゃい!!」
ごちゃごちゃとハルたちが言い合っていると、筋肉質の竜のもう片方の前足がハルを握りつぶすように振るわれる。
「ハルさん、左から来てます!」
メイドの声に反応するまでもなく、ハルは自らの天性魔法で竜の動きは完全に把握していた。
ハルは先ほどから掴んでいた竜の前足を引っ張って体勢を崩させるとそのまま壁に叩きつけるように竜を投げ飛ばした。
「す、すごい……」
ハルが片手で投げ飛ばしたことに、メイドは目を見開き驚いていた。
ただ、軽く投げ飛ばしたため、竜はすぐに起き上がってこちらに敵意を飛ばし激しく咆哮した。
ハルはその咆哮の大きさにうんざりし、メイドは両耳を塞ぎ咆哮に耐え、クラシャは状況が把握できていないため、その咆哮をもろに食らっていた。
「ぎゃああああああああああああああああ、耳がぁああああああああああああああ!!?」
悲鳴を上げているクラシャと、うずくまっているメイドの二人の前にハルが歩みを進め、怒り狂っている竜の前に立ちはだかる。
「お前何があったんだ?」
当然竜に言葉は通じない。
今にも襲いかかってきそうな目で殺気をまき散らしていた。
「ごめん、少し眠っててくれ…」
ハルが殺気を竜に向けて送る。
「…これは!?ああ、来る来る、おい、メイドこれは貴重な体験だぞ、ハルの圧倒的な、か……」
「クラシャ様は黙って伏せていてください!」
クラシャが椅子の上で前のめりになり興奮しだしていたが、メイドがすぐに彼女の言葉を怒鳴って遮った。
ハルの強い意思が身体を通して、この世界に発現する。
全生命が嫌がるハルの圧倒的な強者の殺気が竜の全身を包み込む。
竜がそのハルから向けられた殺気に触れると雄たけびを上げた。
が、しかし、その竜はその後全く動じることなく、ハルに向かって突進してきた。
「あれ、こっちじゃだめか…」
そう呟いたハルはすぐさま手をかざして、自身の天性魔法を使った。
すると、竜の勢いが一気に衰え、足をもつれさせると、ハルたちの真横を通り過ぎて壁に激突した。そして、竜の巨体がそのまま壁を突破して、四階から地上に墜落していった。
ハルはすぐさまその落ちていく竜の下に先回りして受け止めてあげた。
二十メートルはある巨体の竜をハルは軽々とお姫様抱っこしていた。
そこですぐにその竜をそっと下ろして、観察と状況の把握を始めた。
「この子はウルメアがレイドに来たときに乗ってた竜だ…」
ハルはそのまま、竜の顔がある方にぐるりと回った。竜は白目を向いて気絶していたが、息はしっかりとあった。
「なんでこの子は恐れなかった…?あれ、ちょっと待てよ、もしかして……」
このように強力な殺気にさらされても気を保ち、恐れない状態があることをハルは知っていた。
「正気じゃなかった?」
ハルがその事実に気が付くと、四階から声が聞こえた。
「ハルさん!!!」
メイドの声を拾ってハッとしたハルはすぐに四階に飛んだ。気が付けばこの結界内の壁を破って侵入して来る空を飛んでいる竜たちを複数体確認することができた。
「何が起きて………」
防壁を担っていた結界が竜たちによって跡形もなく破壊されると、連鎖的にその結界に紐づいていた他の層の結界もバラバラに崩壊して、灰竜の館を囲っていた結界は完全に消滅してしまった。
薄暗い林と霧に囲まれていた景色から、一変して、シフィアム王国の四番街の街並みが姿を現す。
現実にある灰竜の館はぐるりと一周を建物に囲まれていた場所に建っていた。
そして、四階から見る外の景色は、ハルが言葉を失う光景が広がっていた。
「なんだよ、これ…」
辺りから竜の咆哮が響き渡り、至ることろで竜が空を飛び回り、街からは煙が上がり、周辺からは悲鳴が上がっていた。
「すみません、俺、行かないといけません」
「え!?」
「みんなを助けないと…」
「あ、あの、ここにいる竜たちはどうすればいいでしょうか?クラシャ様はまだ天性魔法がつかえなくて、私は戦えないので、えっと、その…」
メイドは縋りつくように、この場を離れようとしているハルにそう声を掛ける。
それはもちろん、このままでは自分たちが竜の餌になってしまうから必死になるのも当然だった。
「二人はこの館から出ないでください、ここが一番安全ですので」
ハルが片手を空にかざしていた時にはもう周りにいた竜たちは火に群がり燃え落ちる羽虫のように地面に墜落していた。
「え、あれ…ああ、あれ?」
気が付けばクラシャとメイドの前にハルの姿はなかった。
「なあ、メイドよ」
肝の据わったクラシャが椅子に座ったまま、うっとりとした表情をしていた。
「今のハルのやつはなんだ?」
クラシャが興奮気味にメイドに話しかける。メイドも怯えた表情から、すぐに冷静な顔に戻っていた。まるで、演技していたかのように。
「分かりませんが、クラシャ様、ハルさんを引き留めなくてよかったのですか?ジャバラ様からお願いされていませんでしたか?」
「大丈夫、大丈夫、もう十分時間は稼いだでしょ、それより、メイドよ、どうだったハルと会った感想は?」
クラシャが、メイドの方を正確に見据える。
「彼、本当に人間ですか?」
「それそれ、マジでやばいだろ、ああ、なるほど本当に王や魔女たちが彼に目をつけるわけだよね」
納得した表情で小さく笑うクラシャ。異常な強さをその身で体験したことにより、彼の価値が組織にとって計り知れないものになると確信する。
「あ、そうです、あの勧誘の方は上手く行きましたか?」
竜人でメイドのアロアが、クラシャに尋ねる。
クラシャは首を横に振った。
「ダメだった…ていうか、ハルさんなんか裏のこと知ってたんだけど…」
そこでアロアが眉をひそめた。
「入って来てる情報と違いますね?ハルさんは裏社会のことを知らないんじゃなかったんですか?」
アロアが情報をすり合わせようとするが、クラシャは上の空で呟いた。
「…うん、でも、そんなことより、今日ハルと話してみて分かったけど…彼、私たちの世界には入ってこないような気がするな…」
「なんでそう思うんですか?」
「だって、彼、強いけど、私が出会ってきた人間の中で一番普通っていうか、なんか、似合わないんだよね、こっちの世界にいるのが…」
クラシャは自分の光を失った目に触れる。
『ハルのは優しかったな…』
そして、動かない足を動かそうとして見るが、やはりもう動かなかった。
『あれは相手を殺すためじゃなく、分かり合おうとするものだったな…』
クラシャが、そこであるひとりの青年のことを思い出してしまった。
金色の髪でハルと同じ青い瞳の青年のことを、忌々しい記憶が彼女の脳裏にはいまだに刻まれていた。
クラシャから光と自由を奪った青年のことを…。
『あのクソガキとは大違いだ…』
クラシャがハルとの素敵な時間を過ごした後に彼の顔を思い出してしまい、最低で吐きそうになった。
「どうかしましたか?」
「いや、別に、ただ、私がハルの優しさに惚れたってだけ」
「クラシャ様、惚れっぽいですからね」
「そんな軽い女ではない」
「それより、もっと中に移動しましょう、ここは危ないです」
「お前がいれば大丈夫だろ!」
「いいから、中に入ってください、今日はお菓子でも食べてゆっくりしましょう」
「え、やったー!」
アロアがクラシャを背負うと、二人は館の中に姿を消していった。
*** *** ***
絶望が広がる竜舞う国。
暴走する竜と地下から這い出て来た暴徒たちが、王都エンド・ドラーナを炎の海に変える。
凄惨な光景が街のいたるところで繰り広げられる。
だが、もう英雄は解き放たれた。
最悪の現状は彼を中心に終息に向かうだろう。
しかし、忘れてはならない。
この事件を起こしたのが誰であるかを、彼の仲間が危機的な状況にあることを、そして何よりこの事件の引き金が彼自身にもあることを。
忘れてはならない。
この世には救ってはいけない人もいるということを…。
彼を愛する元凶は王座の間の王座に腰かけ待っている。
ハルはこの出来事に答えを出さなければならない。
竜舞う国に終焉が近づく。
*** *** ***