竜舞う国 目的
宴も終わりを迎えた。シフィアムの王家であるナーガード家の者たちが食堂から出て行くとハルは一息つくために、もう一度、竜酒の入ったジョッキ呷った。再び酔いがハルの頭を揺らし、気分を良くした。
『酔ってる間はいい、全部忘れられそうだ…全部…』
空になったジョッキにハルはひとりで再び竜酒のボトルを傾けた。しかし、すでにそのボトルは空っぽで、一滴も酒は落ちてこなかった。すると、後ろに控えていた竜人の使用人が新しいものを用意しましょうか?と申し出てきたので、ハルはお言葉に甘えて、追加の竜酒を頼んだ。
「ハル、まだ飲むんですか?」
隣にいたライキルが心配そうに声を掛けてきた。彼女は、青いドレスに身を包んで、少し頬が赤らんでいるだけで、それほど酔ってはいないようだった。そう、王たちの前で泥酔するまで飲む者など普通はいない。
しかし、そこでハルは思う。今、彼らはいないと。
「飲むよ、ライキルたちは先に部屋に帰ってていいよ、俺はもう少しだけ飲んで行くから」
「だったら、私も残ります。ハルが倒れたらすぐに介抱してあげますから」
ライキルが、ハルの空になったジョッキを持つ方の腕に、手を置き、黄色い瞳で一緒にいたいと訴えかけて来た。
ハルはそんな彼女を流し目で見た後、言った。
「ありがとう、でも、今は一人で飲みたい」
「え?」
彼女の中に一瞬の動揺が走る。
「ライキル、みんなを連れて先に戻っててくれないかな?多分、部屋も決まってないと思うから、好きな部屋を選べると思うんだ」
「あの…」
「俺の部屋も勝手に決めていいからさ、今は、みんなを連れて行ってくれないかな?」
拒絶されたことで、ライキルの中には小さなショックがあるようだった。
「お願い、ライキル」
しかし、そこでハルが彼女の目をしっかり見て頼み込むと、すぐに立ち直ってはい!と元気に返事をして、みんなにそろそろ今日泊まる部屋に戻る様に促していた。
ハルの手元に新しい竜酒が届く頃、ライキルが、泥酔しているガルナ、半酔いのエウス、お腹いっぱいのビナを連れて、ハルの前に来た。
「それじゃあ、ハル、みんなを連れて先に行ってるので、早く飲み終わって戻って来てくださいね?」
ハルは何も言わずに、笑顔で手を振った。
ライキルがみんなを連れて、案内係の使用人について行き、この食堂である『口の間』の出口から出ていった。その途中、エウスやガルナがハルはどうした?とライキルに聞いていたが、彼女がみんなを無理やり連れ出して行ってくれた。
広い食堂でひとりになったハルは、竜人の使用人に、竜酒をジョッキに注いでもらった。その後、礼を言って、自分でやるからいいよ、と言ってその使用人を下がらせて、ひとり酔いに浸った。
ハルは、さっきのことで少しショックを受けていたライキルの顔を思い出す。それだけで胸の奥が張り裂けそうに痛んだ。
『まだ、正常…』
できれば、今もこうして、隣で自分が酒を飲む間の話し相手になってくれていたら、どれだけ、この時間が幸せなものになったかと考えると、酒を飲む手が進んだ。
夜に鳴く鳥の声が聞こえた気がした。いや、ここは竜舞う国、聞こえたのは鳥ではなく、遠くで竜が咆哮した音だったのかもしれない。どちらにしろ、誰もいない食堂にその生き物の鳴き声は外から響いていた。
「………」
賑やかな宴の後の静まり返った食堂にハルはひとり取り残される。
食べかけの料理、消えかかる燭台の炎、空のボトル、誰もいない椅子。人の残り香。宴の終わりは、ある意味で死を連想させた。人は宴が終わった場所に長くとどまるものではないのかもしれない。
『何もかも全部終わったら、こんな感じなのかな…』
諦観が心を蝕む。
『ここでやめるって言ったら、みんなどんな反応するかな?』
ハルの中で絶対にありえない選択肢がひとつあがった。
『ライキルとガルナは、許してくれそう…』
ハルの頭の中に二人の笑っている顔が浮かぶ。
『エウスもなんだかんだ許してくれそうだけど、ビナには失望されそう…』
もし、自分がここで四大神獣討伐をやめればどうなるか、酔った頭でハルは考えていた。しかし、途中で、この妄想が酷く意味が無いもので、くだらないものだと思ったハルは、バカバカしくなって、酒に手をつけて考えるのをやめた。
「もっと、俺が強ければ、誰も傷つけずに済んだのに……」
空になったジョッキに竜酒のボトルを傾ける。ボトルはジョッキを半分も満たさずに空になった。
「空か…」
「追加の竜酒でもいるかい?」
「!?」
気がつけばハルの目の前の席にシフィアム王国宰相のバラハーネ・ムル・ナーの姿があった。ただ、宰相にしては、とびきり若いのがハルがサラマンから紹介された時に、引っかかっているところではあった。彼女の見た目はどう考えても二十代くらいの肌艶をしているのだ。しかし、纏っている雰囲気はどこか長生きしたエルフのような奥行きの深さがあった。
見た目から判断できない彼女の歳が気になっていた。
「ムルさん」
「なあに、バラハーネでいい、それより、ほれ、竜酒じゃ、これは、うまいやつじゃぞ」
ニコニコしたバラハーネが、持っていたショットグラスに竜酒を注いで、ハルの方に突き出していた。
まだ飲み足りなかったハルは潔く頂くことにした。
「それじゃあ、遠慮なくいただきます」
「そうじゃ、若いうちは遠慮なんかするもんじゃない」
バラハーネも自分の分の龍殺しを、新しいショットグラスに注いでいた。
「乾杯といこうかね」
「はい」
ハルは、バラハーネと乾杯して、その酒を喉に流し込んだ。
「う、これ、とんでもなく強いんですけど…」
口の中と喉と胃に焼けつくような刺激が駆け巡る。
「フフフフッ、当然、龍殺しなんて呼ばれる竜酒じゃからな、普通の人間は一滴も飲めんよ」
そう言ったバラハーネも一口その酒を飲むと、目をつむって、刺激に耐えていた。
「龍殺しですか?」
「そうじゃ、あまりに強い酒じゃから、そう言われておる」
「へえ、ハハッ、龍殺しか、これで黒龍たちも酔い倒せたら良かったんですけどね」
「そうじゃのう、けれど、黒龍はそんなぬるい相手ではないからのぉ。残念じゃが、ハルさんに任せるしかないという状況じゃな」
「そうですね」
ハルが龍殺しの二口目をまるで水のようにするすると飲むと、バラハーネが、ほう、と感嘆の声をあげていた。
「ところで、ハルさんたちは、どうしてこの国へ来たのじゃ?まさか、兵を出す我が国への感謝を示すためだけに来たのではなかろう?あの、英雄様をそんな使者でもできることには使わないじゃろ、レイドも」
「バラハーネさん、残念ですが、俺はここに感謝を示しに来たという目的が大半ですよ」
「それは、また、レイドでは英雄になっても苦労するんじゃのう」
呆れた様子のバラハーネが少しずつ龍殺しを飲んで行く。そのたびに身体に雷が走ったかのようにビリビリしていた。
「ここに来たのは、ほとんど俺の意思です。ただ、ここに来れば黒龍のことが少し分かるんじゃないかって希望を持って来たっていうのもあります。竜に関する図書館があると聞いたのですが?」
黒い手紙の真意は隠して、フルミーナとの会話をハルは思いだしていた。黒龍に関する書物なら、シフィアム王国が良いという助言を。
「ああ、なるほど、ありますとも、ただ、その図書館に入るには許可が必要なんじゃ、行きたくなったら一筆書いてあげよう」
「本当ですか、ありがとうございます」
「いいのじゃよ」
空になったハルのショットグラスにバラハーネが二杯目の龍殺しを注いだ。
「ただ、それでハルさん」
「なんでしょうか?」
「ここに来た本当の目的をおっしゃったらどうじゃ?」
「え?」
バラハーネがにやりと笑う。ハルは一瞬黒い手紙の差出人が彼女なんじゃないかと疑ったが、次に飛んで来た言葉で、それが全く見当違いなことだったとすぐに理解する。
「もらいに来たんじゃろ?キラメア様とウルメア様を」
「どういうことですか?」
「とぼけるでない、よくもまあこんな短い時間であの二人を虜にしたものじゃ」
「あの、本当に違いますけど…」
「また戯言を、わしは、こう見えてもな、百を超えておる。おぬしの五倍は人生の経験を積んでおる。それにワシは恋の猛者じゃ、乙女の抱く感情など手に取るように分かるわい。そうじゃ、知っていたか?キラメア様だけじゃない、ウルメア様もあんたに惚れ込んでおるようじゃぞ。彼女、隙をみればおぬしの面をジッと熱い眼差しで見つめておったぞ、気づいていたか?」
バラハーネはだいぶ、酔っぱらって饒舌だった。次から次へと、二人の姫がハルに惚れ込んでいる証拠を突き付けてきた。
「いいか、そもそも、キラメア様はまず人の話を聞かない。ところがじゃ、お前さんとサラマンが話しているとき、彼女は頷きながら拝聴しておった。この意味が分かるか?相当、キラメア様はお前に惚れ込んでいるんじゃ」
喉が渇いたのかバラハーネは、龍殺しを飲んで身体を震わせていた。
「ウルメア様もじゃ、あの子はほとんど身内意外と積極的にかかわろうとしない。ところがじゃ、彼女、お前さんに何度も話しかけようとうずうずしておったんじゃが、それなのに、お前さんはサラマンとばかり、酒を酌み交わすから、ウルメア様が可哀想じゃったわい!」
バラハーネがどんどん龍殺しを自分のショットグラスに注いでは飲み、語って、喉が渇けば、注いでは飲みを繰り返していた。
「待ってください、バラハーネさん、飲み過ぎなんじゃないですか?」
姫たちの恋愛事情よりも、強烈な酒を飲んで酔っ払っている百歳を超えている彼女の身体の方が心配だった。
「バカ者、わしが何十年この酒を飲み続けてきたと思っている、龍殺しのボトル一本も空にならんうちに潰れるものか!さあ、おぬしも遠慮せずに一緒に飲むのじゃ」
「は、はい、じゃあ、いただきます…」
飲む間にハルとバラハーネが語り合ったことは、ひたすらキラメアとウルメアの話しだった。というよりも、一方的にバラハーネが二人の魅力についてさんざん語っては、ハルが相槌を打つことの繰り返しだった。
キラメアは幼いころから城中を暴れまわる子で、トラブルの中心はいつも彼女だったと語った。今の彼女を見ればそれぐらいは想像に容易かった。
ウルメアの方は、小さい頃からしっかりもので、キラメアという暴れ姫が素直に言うことを聞くうちのひとりだったようだった。もうひとりは、二人の母親のヒュラだとバラハーネは語る。
父親のサラマンの言うことは、ヒュラを通さなければ、キラメアは聞く耳を持たなかったと言う。
ハルが、バラハーネの言うことは聞くのか?と尋ねると、「わしにはキラメア様の行動に口を出せるほど権限があるわけではない」と宰相であるのにも関わらず自分を卑下していた。
ただ、最後に彼女は、「まあ、幼いころからいろいろ助言はしてやっておるがな、悪戯の極意とか…」と小声で言い、おちゃめな笑顔を見せる。
酒がなくなるまで語る間、バラハーネの話しから、キラメアとウルメアがどんな女の子だったのかが、少しずつ見えて来ていた。
外には出させてもらえなかった不自由はあったろうが、王城内で、王女の二人は、たくさんの人達の愛に囲まれて、大切に育てられてきたようだった。
少しだけ、ハルは幼いころ暮らしていた道場のことを思い出していた。
「お二人とも素敵な女性に育つわけですね…」
「そうじゃ、お二方はこの国の宝じゃ、そんな二人をハルさんは、なぜ拒絶する?」
ハルはそんな二人をなぜ自分なんかに安売りする?と言いたかったがやめた。少なくとも宰相の考えが少しだけハルには透けて見えていたからだ。
自分で言うのもなんだが、五つの大国から、自分の国から出るなと行動制限されるほどの人間はそうそういないのだ。
「バラハーネさん、あんまり憶測で話を進めるのは良くないですよ。人の気持ちは、その人にしかわかりませんから…」
「憶測もなにも、今日、キラメア様がサラマンに結婚報告までしておったじゃろ?」
「あれはきっと俺を困らせたかったんだと思います」
「本気で言ってるんじゃったら、おぬしは本当にアホじゃな」
「そうですね」
素っ気ない態度でハルはショットグラスを傾けた。
「実はおぬし性格悪いな?」
「お姫様たちを俺なんかに安売りして、国の安定を図ろうとしている人に言われたくないな?」
「ふん、別に構わんじゃろ、宰相が自国の未来を明るくしようとするのは」
バラハーネも自分のショットグラスを勢いよく傾けた。
「俺なんかいたらちっとも未来は明るくなりませんよ?」
その答えに、バラハーネは顔をしかめ、静々と語った。
「取り込める力があるなら取り込む、その力が大きければ大きいほどいい。シフィアムとレイドの絆も強固なものになる。それにじゃ、政略結婚でも、そこに愛があるなら、尚更、未来は明るくしかならんじゃろ?」
そこでハルが耐えられなくなって笑ってしまった。
「アハハハハ、じゃあ、やっぱり、未来は真っ暗ですね」
ハルがもうこの話に興味なさそうに、バラハーネの空になったショットグラスに少しだけ酒を注ぐ。彼女の身体を労わって。ただ、もっと注げと彼女がグラスを傾ける。
「おぬしのそう言う素直さも、わしは評価しているんじゃぞ?」
「だったら、それこそもうダメじゃないですか。この話の答えは出ましたね」
「おぬし若いくせに欲がないな…少しは愛欲に溺れたらどうじゃ、後で後悔するぞ?」
「それが何ですか、俺は最後まで一緒にいてくれる人たちを選びました。ただ、それだけです」
「ふん、それだったら、キラメア様もウルメア様も最後まで添い遂げてくれるじゃろ。全く何を言っとる。夫婦になるんじゃから当然じゃろ?」
そこでハルは乾いた笑いで言った。
「………無理ですよ…」
その後の言葉をハルはとっても小さな声で呟いた。
あの二人だって無理なんだから…。
「何か言ったか?」
「…いえ、それより、バラハーネさん、もうなくなってしまったんですけど…」
ハルが空の龍殺しのボトルをひっくり返した。
「なら、追加の龍殺しじゃ!」
結局、ショットグラスでちまちま飲むような強い酒のボトルを二本開け、それをハルとバラハーネの二人だけで空にしてしまった。
強気の発言を飛ばしていたバラハーネも、二本目に突入した時点で、すっかり泥酔して限界を迎えていた。
「もう、飲めんわい…」
半分眠った状態のバラハーネが呟く。
「終わりにしましょう」
「そうじゃな…」
ハルが使用人を呼ぶと、女性の竜人の使用人が二人駆け付けてきてくれた。そこで、酔いつぶれているバラハーネを介抱するように頼むと、片方の使用人が彼女に肩を貸していた。
「シアード様もお部屋の方にお戻りになられますか?」
「そうさせてもらうかな、案内頼めますか?」
「かしこまりました」
ハルが使用人の後をフラフラもせずについて行くと、肩を貸されているバラハーネが通り過ぎるハルに言った。
「ハル・シアード・レイ、キラメア様とウルメア様のことよく考えておくのじゃ、そのうち、選択を迫らせるからな!」
ハルは無言で手だけを振って食堂を後にした。
***
食堂を後にしたハルが、部屋に案内してもらうために使用人の後について行っていた。円形状の長くて広い廊下を使用人の持つローソク立ての明かりを頼りに進んで行くと、外側の壁沿いに、渡り廊下が現れた。
その渡り廊下には【鱗の間】と書かれており、その鱗の間が城内の宿泊施設であると使用人がハルに説明してくれた。
シフィアム王国の王城ゼツランの形は、巨大な円形状の建物に、いくつもの花びらが付いているかのように、渡り廊下の先に様々な区画の施設が建てられていた。そのため、王城ゼツランは、上から見下ろすと一輪の花の形をしていた。
古城アイビーと比べると、何倍も大きな造りをして、ひとりで歩くと迷子になりそうだった。
そんな巨大な花のような城の花弁に、渡り廊下を渡り切ったハルが、【鱗の間】と呼ばれる宿泊施設に到着した。
【鱗の間】のホテルの中は、落ち着いた雰囲気の造りで、センスのある凝った造りの装飾品や絵画が、内装の雰囲気を崩さない程度に程よく配置されており、ホテルのエントランスにいるだけで、リラックスすることができた。
城内のホテルではあったがしっかりと受付のカウンターもあり、そこでは使用人が常に待機して客の用件を伺う体制が整っていた。この【鱗の間】は本当にただの巨大な高級ホテルであった。
「シアード様のお部屋は三〇二号室になります。案内いたしますので、どうぞこちらへ」
ハルは使用人について行くと、階段を上がってホテルの三階に到着した。
三階には、いくつも宿泊するための部屋があったが、その中央にはゆったりとくつろげるスペースがあり、椅子やテーブルなどが、用意されていた。さらに、そのスペースの奥には、シフィアム王国の王都の街並みを見渡せる巨大な窓があった。
いい場所だなと思いながら、気が付くとハルは、三〇二号室の扉の前にたどり着いていた。
「お荷物はすでに、お部屋の中に運び込まれています。それと、このフロアはシアード様たちの貸切となっておりますので、空いている部屋なら好きにお使いください、それではわたくしはこれで下がらせてもらいます。何かございましたら、下のカウンターまでお手数ですがお申し付けください。すぐに対応いたします」
使用人が丁寧に説明して去って行くと、さっそくハルは三〇二号室の扉を開けた。
そこは、一人では寂しく感じるほど、広々とした部屋であった。必要最低限のシンプルで高級な家具が、邪魔にならない心地の良い場所に収まっていた。
部屋の奥には、レースのカーテンで仕切られたダブルベットがあった。
そして、そのべっとの上には、金髪の女の子が待っていた。
「お帰り、ハル」