夕日に溶け合う二人
日が傾き、辺りがぼんやりと薄暗くなってきた頃。ハルは、そろそろ新兵たちの稽古から、夕暮れの稽古に移ろうとしていた。だから、このエリザ組の午後の訓練を途中で抜けようとしていた。途中で抜けるといっても今日の彼らの稽古は終わっているようなものであり、残っている稽古のメニューといえば、明日に疲れを残さないための柔軟体操ぐらいだった。ここまで来るとハルのすることは何もなかった。
夕暮れの稽古の参加者は、ハル、エウス、ライキル、ビナ、ガルナのいつもの五人で行っていた。参加は強制ではなく自由で、時間も決めておらずだいたい薄暗くなったら集合。人が二人でも集まり次第、開始するのが夕暮れの稽古の決まりのようなものになっていた。要するに適当で緩い集まりだった。しかし、その稽古は元剣聖のハルが直接指導してくれるということもあり、内容としては十分質の高いものであることは間違いなかった。
その稽古の場所は第三運動場の片隅で、ハルが今いる第二運動場の隣であった。第二運動場を見渡すとガルナがもうすでにいないことから、彼女は先に行ってしまったことが分かる。
ハルも、隣の第三運動場に移動するために、土手で休憩をしていたシオルドにひと声かけてから、第三運動場に向かった。
第三運動場の規模は第二運動場とあまり変わらない。第一運動場に比べれば二つの運動場は少しだけ狭いが、人の目から見たらそんなものは誤差でしかなかった。
ハルたちがいつも夕暮れの稽古で使わせてもらっている第三運動場の場所は東側の端っこだった。人数も少ないため当然であったし、特に不満もなかった。さらに、そんな隅っこからは医務室がある建物が近いため何かケガをした時などは便利な場所だった。さらに言うと、以前アスラ帝国と親善試合をした大きな道場が近くにあり、雨の日なら室内での稽古も可能だった。
そんな第三運動場の稽古の場所にハルが、到着するとそこには先に行ったガルナと、ライキルの姿があった。二人は土手に腰を下ろして楽しそうに会話をしていた。
「二人とも、お待たせ」
二人に声を掛けると、彼女たちはそれぞれ正反対の反応を示した。
ひとりは、待ってましたと、言わんばかりに立ち上がって、「さあ、戦おう」と歓迎してくれた。けれど、もうひとりは、ただ、目を見開いてこちらをジッと見つめるだけで、返事も何も返してくれなかった。そして、彼女は俯いて何か考え事でもしているのだろうか?ぶつぶつと何か呟いていた。
「おっと、あ、ちょっとガルナ待って、少し時間ちょうだい」
腕に抱きついてきたガルナがそのまま引っ張って戦場に引きずり込もうとするのを待ってもらった。彼女が、分かった早く来いよ、と言うと、木の剣を振りながら運動場に走って行った。
「ライキル…」
しゃがんで、ぶつぶつ何かを呟く、ライキルの顔を覗きこんだ。しかし、彼女は何かを考えることに夢中なのか、こっちには全く気付いてくれなかった。
「ライキル」
もう一度呼びかけると、顔を上げたので、そこで夕焼けに染まった彼女の大人びた可愛らしい美顔を拝見することができた。
「あ…あ、えっと……ハルさん!?」
何故か取り乱し始め、慌てている彼女。
「うんと…えっと…その!?」
「どうしたの?」
顔が赤く息遣いがあらい、もしかして熱でもあるのかと思ったその時、彼女はひとこと呟いた。
「ち、近いです…」
「え…あ、ごめん…」
心配していたため、そのような、配慮に欠けてしまっていた。嫌がっている彼女から、しゃがんだまま一歩離れた。一歩ぐらいで許して欲しいのはハルの本音だ。今のハルにとって『近い』と小さく突き放されただけでも心に来るものがあった。
休日デートの失敗、大量の宝石のプレゼントからの拒絶。あの日から、彼女と関係は変にこじれてしまっていた。あまり口も聞いてくれないし、顔を合わせる頻度も減った気がした。しかし、どれもこれも自分のせいであることをハルはもちろん自覚していた。
彼女に積極的に声を掛けたり、スキンシップを求めたり、自分の欲求ばかりを満たそうとして彼女のことを考えてあげることができなかった。
けれど、ハルもそうやって気を引かなければやっていられなかった。
その理由は…。
『みんなが離れて行く前に、愛しておきたい…』
目の前にいるライキルが怯えているのか、怒っているのか、ずっと視線を合わせてくれない。というより俯いて、こっちを向いてくれさえしない。それでも、ハルは彼女のそわそわ落ち着きのない手を取った。
「ひとつ聞いてもいい?」
「………」
彼女はずっと無言でハルに掴まれた手を見つめていた。
「ライキル、こっち向いてくれないかな?」
慌てた様子で彼女が顔を上げてこちらを向いた。怒っていると思って緊張しているのか目を見開いたその状態で彼女は固まってしまっていた。
ハルは少し申し訳ない気持ちになりながらもちゃんと確かめなきゃいけないことを彼女に尋ねた。
「俺のことまだ好き?」
*** *** ***
まだ好きとはどういうことか?ライキルは心の中で疑問に思った。がそれより、そんな質問ライキルの中で答えがあまりにも当たり前すぎて呆れてしまうほどだった。
『いや、ハル、好きですよ、めっちゃ好きです。ていうか、私と将来を誓ったじゃないですか!?だから、未来永劫、私はあなたを離しませんよ…これは絶対です。ハルが私のこと嫌いになっても、何があっても私はあなたを離しません。あ、でも、もし本当にハルが私のこと嫌いなら…って、うわあ、そんなこと本当に考えたくないなぁ…あれ、でも、最近、ハル、すっごい私に積極的な気がするんだよな…だってさ、手つないできたり、ビックリしたのは抱きしめてきてくれたときかな、あれは毎日して欲しい……』
ライキルの頭の中が暴走している間、気が付けばハルが不安そうな目でこちらを見つめていた。
『え、待って、やばいです。ど、どうしよう…なんて言おう、なんて言えば、ハルは喜ぶかな…えっと、えっと…』
ライキルはハルに二度恋に落ちていた。一度目は道場にいた時、彼に助けられたことがきっかけでそこからずっと大好きだった。二度目は数日前のあの休日の日を境に彼と過ごしたことがきっかけだった。
この二度目の恋の落ち方は、どこまでも深く底が見えず、とろけてしまいそうなほど甘かった。なぜなら、それは、自分の恋に落ちた相手がすでに自分のことを死ぬほど愛してくれているからだった。
ハルは、ライキルを激しく愛している。なぜそんなことがライキルに分かるのかというと、それは簡単だ。あの休日の草原で、彼が聞かせてくれた重い愛の囁きが、独占欲にまみれた瞳が、愛する人を永遠に自分と縛り付けるかのような口づけが…それらの何もかもが、疑いようもなく証明していた。
それにライキルは今のハルが過去の自分ととてもよく似ていると思っていた。愛する人を独占したい、他の誰かに奪われたくない失いたくない、誰を不幸にしてもその人から自分に愛を注いでもらおうと考える最悪で最高の思考。
『ハア…本当にここ最近のハルは最高だよ…ほんとに好き…好き…好き……』
完全に自分だけの世界に突入したライキル、ハルの顔を見ながらぼんやりとしていると声がかかった。
「ライキル、聞いてる?」
心地のいい声が聞こえてくると、ライキルはすぐに首を縦に振った。
「だったら、その…答えてくれないかな?」
ハルの顔が再び近づく、これをやられると、緊張して身体が固まり頭が彼のことでいっぱいになる。しかし、ハルのとても不安そうな顔を見た、ライキルはちゃんと伝えなければと決心した。
「好きです、ハルのことが…前よりもずっと、好きです」
ハルが、ほんとに?と疑って聞き返してきたが、それももっともな返しだと思った。なぜなら、ここ最近は本当にハルに惚れ直していて、どう接していいか分からないから避けてしまっていた。彼がこちらを大好きなことはわかっていたが、それでも、彼を前にすると気持ちの高ぶりと彼のことで頭がいっぱいになってしまい。会話にすらならなかった。そんなことでは、ダメだと思い、この気持ちが落ち着き慣れるまでは、なるべく彼に会わないようにしていた。その結果が彼を不安にさせこんな質問までさせてしまうざまなのだが、もう、そんなすれ違いを終わらせてライキルは幸せに前進することを決めた。
ハルの騎士服の襟を掴んで強引に引き寄せ、彼に溶けるようなキスを一発おみまいした。
「!?」
ライキルは、放心状態のハルに告げる。
「ごめんなさい、私、ハル、あなたに恋してたんです」
「え?」
何が起こっているのか分からないと言った感じの彼、当然だ、今まで控えめな行動をとっていてからのキスと意味のわからないだろう言葉だ。彼が混乱しないわけがない。
「だから、私、恋に落ちてたんですよ。ハルっていう私の愛する人にもう一回溺れそうなほど深い恋をしたんです」
「恋って、だって、俺たち、将来を誓い合ったよね…」
「そうです、でも、私たちって小さいころからずっと一緒でしたよね?」
「うん、そうだけど…」
そこで頷くハルを見た、ライキルはそこで少し小さい頃のハルを思い出した。青い髪青い瞳の元気な男の子。力持ちで優しくて、エウスといつもバカやっていた男の子。懐かしい遠い日の思い出。戻らない過去。
「あれです。要するに小さい頃からハルを見てきましたけど、最近、ハルが見違えるほど変わったので一目惚れしたってやつです」
「…変わった……?」
「そうです、正直、私の超好みのタイプにハルが変わったんで、どうしましょう!?ってなってました。あ、もちろん、その前からもずっと好きだったんですけどね!」
息ができないほどハルに愛して欲しかった。それが、ライキルの願いだった。愛する人には風のような爽やかな好きをもらうより、泥のような重たい好きをもらう方がライキルには好みだった。だから、ここ最近ガッついて来てくれるハルには嬉しくて、こっちもやり返してあげたかったが、本当にそんな冗談も返せないぐらい、ここ数日の彼には参ってしまっていた。
「安心してください、確認なんていりません。私はずっと好きですよ、どんなにあなたが変わっても」
「………」
「でも、もし、また不安になったらいつでも聞いてください、その時はさっきみたいに私が何度でも証明してあげますから、なんなら毎日聞いてもいいですよ、そしたら、えへへ…」
最後は完全にライキルの私欲が混じっていたが、それでもこんな私欲も彼にとっては嬉しいのだろうと思う。なぜなら、もし、立場が逆だったら毎日しつこいぐらい彼に尋ねて、愛してるを証明させようとするからだ。
今のハルと昔のライキルはよく似ている。だから今の彼に必要なのは、愛する人からの深い愛情だと思った。そして、そんな彼の愛する人が自分であることが何よりもライキルは嬉しかった。思い上がりかもしれないが、それでも、確信できるのは、ここ最近のハルの行動を見ていればこそだった。デートに誘ってくれたり、スキンシップが増えたり、とにかく傍に居ようとしたり、そして、決めつけは大量の宝石で縛ろうとしてきたこと、正直あれがライキルにとって一番嬉しい出来事だった。そこにハルからの、ライキルというひとりの女性に対する深い執念と闇のようなそこの無い愛を感じられたからだ。
辺りは夕日に染まっている。やがてお互いの顔も見えずらくなってしまうだろう。だから今のうちにライキルは彼の顔を瞳に焼き付けておく。
「!?」
「………」
だが、そこで気づく、夕焼けに染まる中、ハルの目に涙が溜まっていることに、今にも泣きだしそうな彼に驚きを隠せなかった。
「ハル…」
「ああ、ごめん、なんでもないよ」
涙をぬぐって彼は笑った。
「そんな、どうしたんですか?」
「ライキル」
そこでハルにやさしく丁寧に頭を撫でられた。これはかなり効く。気持ちよさに黙ってしまうと彼は言った。
「俺が変わったら、嫌いになっていいよ、そこは無理しなくていいから…」
「え?」
その言葉だけはライキルは頭の中で上手く処理できなかった。
「ハァ、でも、ほんとに良かった。俺、ライキルに嫌われてなかったんだ。それが聞けただけでもう十分だよ今日は」
ハルが大きな安堵のため息を吐いた。
「ハル、今、なんて言いましたか?」
尋ねるが誤魔化されるように彼に優しく両手で頬に触れられた。
「ねえ、ライキル、あんまり、俺をいじめないで仲良くしてね、これは大切なお願いだよ?」
「あ、はい…」
「よかった、愛してるよ、じゃあそろそろ、行くね」
ハルがそう言って恥ずかしそうに笑うと、木の剣を持ってガルナのいる方に逃げるように駆けだして行った。
残されたライキルはしばらくそこから動けずに、ただ夏の夕日に照らされていた。
『変わったら、嫌っていい、なんでそんなこと、ありえない、だって私はそれでも……』
ライキルは、剣を振るうハルのことを見つめていた。言葉の真意を探りながら、けれど答えは出てこなかった。そして、そんな彼の言葉も、楽しそうに稽古をしている彼の姿を見たらいつの間にか忘れてしまっていた。
ここから、ライキルはハルと愛に満ちた幸せな日々を送った。
その時が来るまで…。