陽だまりの花園で
古城アイビーに休日が訪れた。騎士たちにも休息が必要だ。日々の訓練から解放されて思う存分自由な時間が与えられる。誰もが休日は日々の疲れを癒すために、ゆっくりと起きて来る。
そんな休日の早い朝にハルはふらりと花園に足を向けていた。城から歩いて五分もかからず花園前に着きボロボロの鉄格子を開き中に入る。
昨日の夜、雨が降ったのか地面は濡れておりところどころに水たまりができて、空には暗い雲がぽつぽつと浮かんでいた。
花園の中に入るとそこには、薄っすらとかかる夏霧が、花のアーチの道を幻想的な姿に変えていた。そのアーチをくぐるたびに自分がどこか別の世界に行ってしまうのではと不安な気持ちにさせられた。が、進んで行くと見慣れた花に彩られてた木造の一軒家が現れて、ハルの心のざわめきは平穏を取り戻していた。
「起きてるかな?」
その一軒家にはマリーという女性が住み込みで暮らしているはずなのだが、彼女の家のドアを軽くノックしても朝の静けさと同化しており返事はなかった。
「朝の水やりでもやってるのかな…でも、雨が降ったからどうなんだろう、それともやっぱり寝てる?」
ハルは一時期何度もこの花園を訪れていたため、ここの管理人であるマリーの行動はある程度知っていたのだが、昨晩降った雨のせいか今日はさっぱり読めなかった。
仕方ないのでハルは、勝手に花園の庭の中にお邪魔することにした。と言っても、過去にここに頻繁に訪れるようになった時、いつも勝手に入ってはマリーにいたんですか!?と、びっくりされていたので、今日もそれで許してもらおうとハルの悪いところが出ていた。しかし、それもハルにはここに訪れたいと思う譲れない強い意志があったからで、ハルがそんな頑なになるのは、いつだってあるひとりの女性が関係していた。
夏の花が咲き乱れる庭園をハルは進む。この花園の庭園はいつも季節の花が咲いている。その種類はとても多い。それはここが貿易の盛んなパースの街だからだ。各国の花の種が多くパースの市場に出回っており、この花園はその恩恵を受けていた。そんな色とりどりの花を一切見向きもせずにハルは一直線に目的の場所に足を運んでいた。
ハルが魔法使いの女の子の銅像の前まで来ると足を止め視線を横にそらした。そこには花壇があったのだが、ハルの望むものはもう跡形もなくなっていた。
その花壇には以前美しい白い花が咲いていたのだが、今は雨でグチャグチャになった土しかなかった。
「………」
ハルはその場にかがんでしばらくそこから動かなかった。そこでひとりの女性に想いを馳せる。ハルの大切な人のひとりにもうどこにもいない女の子に…。
「アザリア、俺、ライキルとガルナの二人と結婚する約束をしたんだ…」
ひとり呟く声は誰もいない花園の庭園にひっそりと吸い込まれていった。
「俺は君のいないこの世界で二人も傍で守ってあげたいって思う素敵な女性に出会ったよ…」
ハルはその選択を後悔していなかった。するわけがなかった。
「でも、アザリア、俺は君のことやっぱり忘れられなかった…だからさ告白するとき二人に君のこと話したんだ…信じてもらうつもりはなかったけど、二人ともすっごくいい子でね…」
そこからハルは少し自分のことを嫌いになりながら話した。
「ねえ、アザリア聞いてよ…俺、ライキルに告白するとき先にライキルから告白されたんだ…」
ハルはしゃがんだままうなだれて手を前で組んでいた。なんともその姿は落ち込んだ姿の象徴のようだった。
「嬉しかったよ、でもさ俺、彼女にアザリアが好きなんだけどいいかとか、ガルナのことも傍に置いておきたいんだけどいいかとか…何やってんだよって感じだよな……それでなぁ………………」
自分の考えを改めてアザリアのいない世界で生きていくと決めたハル。生きて会いに行くという約束もハルの願望でしかなかった。ただ、それほど、ハルはアザリアというひとりの女性のことを忘れることがどうしてもできなかった。このまま彼女を忘れてはいけないとハルの知らないハルが叫んでいるそんな気がしするのだ。何か、大切なことを自分がずっと忘れ続けているような感覚がハルの中にはあった。
その奇妙な感覚以外の要因としてハルが純粋に彼女のことを今でもとっても愛してるということの方が大きいのだが、アザリアに対しての自分の中の思考はそう単純なものではなかった。
ハルが誰もいない花園で自分の情けなさを吐露している時だった。
『ハルってほんとそういうところ正直っていうかバカだよね、ほんとに…』
聞き覚えのある声が聞こえたようなきがした。
気が付けばハルは雲の上のような場所にいた。辺りはやけに明るく、風が心地よかった。雲の地面の上はどこまでも深い快晴の青空が広がっていた。
そして、そんな奇妙な世界にいたハルの目の前には一人の女性がいた。当然ハルは駆けつけて彼女のことを急いで抱きしめた。
「おいおい、将来を誓った女の子を二人も抱えた男が、そんなに簡単に私みたいないけてる若い娘にがっついていいのか?」
光を反射する真っ白な髪をなびかせ、もちもちした柔らかい褐色肌は健康的で、ピンク色の瞳がどこまでも魅力的に輝いていた。知的で物静かそうな顔立ちをしているが、元気いっぱいの笑顔がバカっぽくてだけどとても彼女には似合っていた。
アザリアがそこにはいた。
「アザリア、会いたかった…あれからなんで顔を出してくれなかったんだよ…」
ハルがきつく抱きしめると、アザリアが嬉しそうながらも苦悶の表情を浮かべた。
「待て、ハル、ちょっと苦しいんだが…」
「ああ、ごめん」
慌ててアザリアから離れたハルであったが、彼女との距離はとっても近かった。
「ハルさん」
「はい…」
「近い」
「ごめん」
やっと話せるほどの距離になると、アザリアはハルの顔を眺めてニッコリ笑った。
「ハル、体調は元気そうだね」
「ありがとう、えっと、アザリアは…」
「フフッ、私は別に体調とかないからそこらへんは気にするなよ!」
「そっか…」
笑顔でそう言うことを口にするが、ハルからすればそれはとても悲しいことだった。だが、そんなことを忘れるほどハルは目の前の女性に話したいことがあった。
「そうだ、アザリア、俺…」
「分かってるよ、可愛い女の子二人ゲットして人生最高だぜってことだろ?」
「………」
ハルは何も言わないでただすがる様にアザリアの手を握った。
「俺、告白するとき二人にアザリアのことも話したんだ…」
「二人はなんて言ってた?」
「それでもいいよって」
「君はすごいな、あの嫉妬深いライキルにそう言わせるなんて」
「ライキルはそんな女の子じゃないよ…」
「ハルは知らないだけだよ。彼女、君を手に入れるためだったらなんでもするタイプだよ、ああ、怖い怖い」
アザリアの言い方には棘があった。いつも大人ぶって失敗するような彼女が今は最初から子供のようだった。ハルはそんな彼女に気がつき、恐る恐るあることを尋ねた。
「アザリア、その、怒ってる…?」
そう言うとアザリアから笑顔が消えて、代わりに普段の余裕ぶった薄笑いの表情に戻っていた。
「まさか、ハルに私の感情を見透かされそうになるとはね。だけど言っておくよ、私、怒ってるわけじゃないんだ」
そう言ったアザリアが今度は彼女からハルの方に抱きついてきた。
「少し、みんなのことがいいなって嫉妬してただけ…私もあの三人の中に居たいなって思っただけ…」
「アザリア…」
「私、結構、あの二人には会いにいってるんだぜ、特にガルナとはもうほとんどマブダチなんだぜ」
ハルはそのことを聞いたとき大きな違和感を覚えた。それはハルが告白するときアザリアのことも話したのだが、全く知らないといった様子でガルナは話を聞いていたからだ。ガルナが嘘をつけるような性格じゃないことをハルは知っていた。だからハルはアザリアの言ってることが理解できなかった。
「それってどういうこと?俺がガルナについて話した時アザリアのことなんか知らないって感じだったよ」
「ああ、それはそう、だってここはちょっと不思議な場所だからね…」
アザリアがハルの胸から顔を上げて言った。
「アザリア、きみは何か知ってるの?」
「うーん、残念だけど、私にもここがどこで、なんで私がこうしてハルに会えてるのかもさっぱりわからないんだよね」
そう言うと再びアザリアはハルの胸の中に顔をうずめた。
そして、アザリアがハルから顔を離して呼吸をし、照れくさそうに微笑むと話しを続けた。
「でもさ、ほら、私ってこう見えても魔獣の研究者だったし、物事を探求することは得意なんだよね。だからかな、この変な世界にいると、いろんな人に会えるって気が付いたんだよね」
「え、アザリアは、ずっとここにいるの!?」
その質問にアザリアは、下を向いてしばらく思考を巡らせたのちに、なんとも難しそうな表情を浮かべて答えた。
「いや、そういうわけじゃないんだけど、なんだろう、説明が難しいな…気がついたらここにいたり、いなかったり、でも、そうなるとここにいない間、私はどこにいるんだろう?ってことになるんだけど…」
ハルはアザリアでもわからないのなら自分も理解は難しいと思い、ただこの世界を受け入れて話しを次に進めた。
「わかった、じゃあ、アザリアは、みんながきみのこと覚えてないってどうやって気づいたの?」
「ああ、それは簡単。何回か会ってる人たちに約束みたいなのをして次また会うんだけど話が食い違ってたりするんだよね。それに酷い時なんか私のこと全部忘れてたりする人もいたね。だから、その、こっちとハルのいる世界?では、全く別の法則が働いていて思い出が記憶されてる場所なんかもそもそも違うのかなとか考えてたんだけど、ハルはどう思う?」
「………」
ハルはアザリアが言っていることの理解が追いつかず限界を迎えようとしていた。しかし、彼女もこの場所やこの状況について微塵も理解できていない様子だった。それは彼女が考えながら話しているところから察しがつくことだった。知っていることだったら彼女の口からはもっとスラスラと分かりやすい言葉がなだれてくるからだ。言葉に詰まったり憶測を話しているところを見るとこの世界が何なのかは彼女にもお手上げであることがわかった。
「まあ、なんだここで体験したことはハルのいる世界じゃあ、まさに夢の様にぼんやりとしか思い出せないってことよ、うーん、でも、私にもよくわかんないや、フフッ」
そんなことどうでもいいといった感じで放り出したアザリアはだらしなくハルの胸の中で笑っていた。
そこでハルはふと呟いた。率直な思いを…。
「アザリアのこともう忘れたくないな…」
「忘れたらまた思い出せばいいじゃん?」
「でも、忘れられてる間、アザリアは辛いだろ?」
「大丈夫、ハルのことだから待ってれば必ず迎えに来てくれるから、ほら、今だって私の傍にこうして居てくれてるじゃん?」
「うん…」
その通りだったこうしてハルの前にはアザリアがいて幸せな時間を共有できていた。この幸せが長く続いて欲しいとハルは願うのだが…。
二人が抱きしめ合って話している途中で、アザリアがハッとした表情でハルから離れて辺りを見渡した。
「どうしたの?」
「うわ、最悪、時間っぽいな…」
「時間?」
「お別れの時間だよ、そろそろ、ハルはここから消えちゃうみたい…」
「え?それって…」
そこでハルは自分の視界がだんだんと薄れていくのを実感した。身体の力もスッと抜けていく感覚までも同時に。
「…そんな、待ってくれ、だってまだ俺は、アザリアに婚約の告白もしてない…」
ハルが真剣に彼女を見るめる。アザリアはそこで嬉しそうに口角を少し上げた。
「バカ、だなハルは、告白ならずっと前にしてくれただろ、あれで十分だよ」
「アザリア、大好きだ、愛してる」
「フフッ、知ってるよ…」
アザリアが本当の笑顔を見せてくれる。ハルはそんな彼女に手を伸ばそうとするが身体に力が入らなかった。
ハルがもう一度、触れたいと思った時、彼女の手が頬に優しく触れてくれた。
「ハル…」
名前を呼んでくれた彼女に、ハルは返事を返そうとしたが声が出なかった。
「みんなのこと守ってあげてね…」
アザリアがそのままハルの前まで顔を近づける。
「あと、ライキルとガルナとも仲良くね、困ったら三人で支え合うんだよ…」
ハルは最後の力を振り絞ってやっと一回頷けた。
「私も、大好き、愛してるよ」
唇が振れると同時にアザリアの前からハルは跡形もなく消えてしまった。
「…………」
青空に囲まれた世界でアザリアはまた独りになった。
「ああ、行っちゃった……」
ひとり自分を抱きしめて、消えていなくなった彼の体温の余熱をかみしめていた。
「私、またハルに甘えちゃった……」
嬉しかった。気が付けばまたこの世界にいたアザリアが独りでさまよっていると、突然大好きな人が目の前に姿を現してくれたのだから。
「ほんとここは最高の場所だよ…」
アザリアはそれから、自分もここからいなくなるまでの間、そこら辺を歩くことにした。
そして、そんな散歩の途中思うことはただ一つハルのことだった。それもハルの抱えてる問題のことだった。
「ハル、大丈夫かな…」
抱きしめる強さでハルが何かを抱えてることは一発でアザリアは分かっていた。ハルが抱えていることは不安や恐怖といったものだと予測をつけることができた。
「君は怖いことがあるとよく私に強く抱きついてきてくれたからね…」
しかし、アザリアの表情に陰りが見えた。
「でも、その不安をいつも私には隠すように努めてくれてたな…」
アザリアの身体も光に包まれこの世界から消滅し始めた。
「そこは素直に頼れよな…ああ、ほんとにハルは変わらない…」
消える直前彼女は最後に呟いた。
「ほんと、優しすぎるよ、バカハル…」
アザリアが消えると世界は青空と下に流れる雲だけが残っていた。
*** *** ***
ハルが目を覚ますと、椅子に座ってテーブルに突っ伏している状態だった。
そこから顔を上げるとハルの瞳には一面に広がる綺麗な花々が映り込んでいた。
「ここは…」
「花園の庭園ですよ」
花園の庭園の真ん中に建てられた六本の柱に屋根という簡素な休憩所。ハルはそこで寝ていたようだった。
「だれ、あ、マリーさん…」
「おはようございます!ハルさん!」
ハルのいるテーブルの反対側にはマリー・エレオノーアが座っていた。
「あの、俺…」
「びっくりしましたよ、ハルさん、あっちの銅像の近くの花壇で器用に座って寝てたんですから」
マリーがそのことを思い出したのか笑っていた。
「もしかして、ここまでマリーさんが運んでくれたんですか?」
「はい、私一人で運ばせてもらいました!」
花のお世話はとても大変で、ハルが通っていたときに彼女が無駄に筋肉がついて困っていますと言っていたのを覚えていた。だから、彼女が男をひとり引きずって運ぶことができるのも無理な話ではなかった。というより実際に運んでくれたことに正直ハルは驚くほどだった。
「ありがとうございます、迷惑かけました…」
「いえ、いいんですよ。それよりあんなところで何してたんですか?」
ハルは、白いアザレアの花をどうしても見たくなってあそこにいたといい、そこで花が根こそぎなくてショックでボーっとしてたら、うっかり寝てしまったと説明した。
「そうだったんですね、あそこにあったアザレアの花。夏は開花時期ではないから前に植え替えて手入れして今は自宅にあるんですよ」
マリーの自宅というのはこの花園にある木造の家のことだった。
「次、見れるのはやっぱり来年ですよね…」
「そうなんです。ごめんなさい、私、花の開花時期を何とか遅らせようとあれこれしたんですが…結局、何もできず…普通に手入れしてしまって…」
ハルはそのことを聞いて心がじんわりと温かくなった。
「もしかして、俺があんなに見入っていたからですか?」
「えへへ、まあ、そうです。ハルさん、毎日通ってくれてたときありましたよね。アザレアが咲いたときに…えっと、あのとき私も嬉しかったんですよ。自分の育てた花を熱心に見に来てくれる人がいて」
マリーが恥ずかしくそうにこめかみを軽くかいていた。ハルも動機はアザリアとの記憶を思い出すためとちょっとずれていたが、確かにあの時は取りつかれたように花園に足を運んでは花を見つめていた。
「だったら、今度、みんなをここに連れてきて花を見ながらお茶とかしてもいいですか?」
ハルがそう提案するとマリーはハイ!と嬉しそうに返事をしていた。
それからハルはもう一度マリーに運んでもらった礼をすると花園を後にした。
***
霧はすっかり晴れて代わりに朝の陽ざしが花園中を満たしていた。帰りの花のアーチは色とりどりの花に彩られて、来たときとは印象がまるで違い、その鮮やかさに目を奪われた。ボロボロの鉄格子を開ける外に出たハルは古城アイビーの本館に向けて歩きだした。
ハルが城の前にある噴水広場まで続く緩やかな坂道を歩いているときふと思った。
この坂を上った先にアザリアが当たり前のようにいて、これから一緒に朝食をとるために待っていてくれるのではと…。
ハルが噴水広場に到着する。
だが、当然そこにアザリアの姿はどこにもない。
そんな当たり前の光景を受け入れる、ハル。
するとそこで自分がずっと保っていたはずの大切な何かがゆっくりと傾き始める。そんな感覚にハルは襲われた。
それが傾いてしまってはもう取り返しがつかないのに、今ゆっくりと傾き始めてしまったのを確かに感じ取った。
その傾きをずっと治してくれていたのは君だったのに…。
それなのに、その君がいない。
君がいない、それだけで今のハルに絶望が降りかかっていたのに、そこからさらに連想してしまう。
大切だった君が今はいないから、今、大切にしている人たちもいつかみんな自分のもとから離れて行ってしまうという最悪の結末を…。
『きっとライキルもガルナもあれを見れば…いつか…いつか俺から……』
不安が身体の奥底から湧き上がってきて吐きそうになる。
『怖い…怖いよ……』
君がいない世界は怖い、君たちがいない世界はもっと怖い。
『嫌だ…』
ハルは重い身体を引きずって城の中に戻って行った。
変わってしまった青年は、目を背けられない次の栄光に魂を焼かれる。
逃れることはもうできない。