イツキお兄ちゃんとカナメさん
引き続きハル(元ミカさん)視点です。
物心ついた時には、もう児童養護施設で暮らしていた。
お母さんは身体が弱くて産後直後に他界し、お父さんは、わたしが3歳の時に病気で亡くなったらしい。
らしいというのは、幼すぎて当時のことなど覚えていないからだ。
ただ、小さな時に両手を伸ばした男性が笑いかけてきて、わたしを優しく抱きしめてくれたことだけは薄っすらと記憶にある。
だからきっと、その人が父親だったんじゃないかな? と思う。
両親の祖父母も2人が小さな頃には他界していた。
なので、わたしの引き取り手は誰も表れず、そのまま児童養護施設で暮らすことになったという訳だ。
勉強はできた。いや、得意だったと言ってもいい。
小学校に通うようになり、親がいないことを揶揄する子もいたけど、そんな言葉は全て無視し、ひたすらに勉強して満点以外の点数は取らないように心掛けた。
将来、自分の居場所を作る為にも学業は必要だと小さな頃から理解していたし、それが功を奏したのか、成績が優秀と聞き付けた裕福な家庭が、わたしを引き取りたいと申し出てきてくれた。
今考えると、随分と自分は計算高かったように思う。
引き取りたいと言ってくれた野上家と何度かやり取りをした後、わたしは正式に養子となった。
そして、その日から専門の家庭教師が付き、学業が終われば習い事に行き、移動する時は常に運転手が迎えに来る。
お義父さんの娘、いや、後継者として顔を覚えてもらう為、全てではないけど、稀にパーティーにも出席した。
忙しすぎて、8歳で養子となった小学2年生の時から高校生になるまで、遊んだ記憶など殆ど皆無だ。
1番でなければ意味がない。
優秀じゃなかったら価値がない。
あの頃は、そんな考えに取り憑かれていた。
だけど、負けた。
吉祥寺にある大学までエスカレーター式の有名私立中学を受験し合格したけど、その学校では3年間1度も勝てなかった相手が何人もいる。
小学生の時は気付かなったけど、自分より優秀な人間など、いくらでもいたのだ。
勉強しても勝てなくなった。
10位以内に入れれば良い方。
時には、それ以下の順位だった時もある。
そして、わたしの心は折れた。
(ああ、どうしよう。また失敗した。このままじゃ、お義父さんお義母さんにも見捨てられる。がんばらなきゃ……もう嫌だ。疲れた)
そして中学3年の期末試験後、わたしは生まれて初めて授業をサボった。
運転手が迎えに来る校門とは逆側から、フラフラとした足取りで出て行き、月々に貰っていたけど使う暇などなかったお小遣いで電車に乗る。
目的地などない。
居場所が欲しい。
行きたい場所なんてわからない。
居場所が欲しい。
どうしたいのかなんて知らない。
居場所が欲しい。
多くの人が降りた駅で、わたしも流れに沿って車内から出て行く。
サラリーマン、OL、大学生達の背中を見ながら歩いているだけで、無意識に涙が流れていたけど、拭う気も起きない。
「自分、大丈夫か?」
ふと、声がした方を向くと、ボヤけた視界に紺色のスーツを着たサラリーマンらしき姿が映った。
「カナメー、どうしたのー?」
「なんか泣いてる子がおんねん!」
サラリーマンと少し距離がある後方に、もう1人連れがいたらしく、カナメと呼ばれた男性に声を掛けながら近付いて来ていた。
「まったく、いきなり階段をダッシュで降りて行ったと思ったら、また世話を焼いてるの? 君って、本当に、お人好しだよね」
「新宿西口の地下で泣きながら歩いてる女の子見たら、そら心配にもなるやろ?」
「へ〜、とか言って、ナンパだったりし……って、ミカじゃないか!? どうしたんだい?」
「イツキ、知り合いなん?」
「うん。僕の義妹だよ」
それは、わたしが野上家に引き取られた時、とても優しく接してくれたイツキお兄ちゃんとの久々な再会だった。
「若いなあ」
「10離れてるからね」
わたしが小学4年の時にイツキお兄ちゃんは20歳になり、家から出て行ってしまった。
でも、一緒に暮らした約2年間は、とても大事にしてくれたし、唯一甘えられる相手でもあったと思う。
だから久々に会った時、その胸に飛び込んで、わたしは泣いた。泣き続けた。
「うわーん!」
「よしよし」
「……最初に声掛けた俺、空気やん」
イツキお兄ちゃんに頭を撫でられ、慰められ続けていると、次第に心も落ち着いてきた。
途中でカナメと呼ばれていた関西人っぽい人が、何か言っていたみたいだけど、よく聞こえない。
一通り泣き晴らすと、イツキお兄ちゃんが優しく声を掛けてきた。
「落ち着いたかい?」
「うん、もう大丈夫」
「よし。じゃあ、何があったのかを聞かせてくれるかな?」
そして、わたしは全てを話した。
勉強が上手くいかないこと。
後継者への重圧。
心身の限界。
全てを偽りなく説明し終えると、イツキお兄ちゃんは1つ溜息を漏らした後、わたしに言う。
「そうか。すまなかった。僕が後継者の地位を投げ捨てたばかりに、ミカには負担を掛けさせてしまった。ごめん」
「……ううん、わたしこそ、不出来な義妹で……皆に迷惑掛けちゃって、ごめんなさい」
「僕はミカが一生懸命に努力してたのを見てたし、父の会社を継ぎたいんだと思ってた。でも違うんだね?」
「最初は、そうだったのかもしれないけど、もうわかんなくて……」
「そこまでミカを追い込んでしまったのは、僕を含めた野上家の責任だよ……」
「どうでもいいけど、自分ら暗すぎん?」
「カナメ、悪いんだけど、協力してくれるかな?」
「任せとき!」
「よし、すぐに動きたいから、新宿にあるストリートピアノはお預けということで」
「そんな殺生な!? 少し弾くくらいはええやろ!?」
「ダーメ。ほらミカ、行くよ」
この後、聞いた情報によると、イツキお兄ちゃんはミドリさんと暮らす新居を探してるうちに、不動産屋で働くカナメさんと仲良くなったらしい。
今日は芸術祭が行われている間、期間限定で色々な駅に設置されてるストリートピアノを、仕事終わりに新宿まで弾きに来たんだとか。
「なんで、こうなんねん!」
そして、この後、ストリートピアノを弾けなくて、少し涙目だったカナメさんに「ここなら、ええとこのお嬢さんが住む思わへんやろ? いつも大家さんおるし安心やで。ボロいけどな」と、物件を紹介してもらい、公立高校の受験合格と共に、わたしは家を出た。