聖母とジャム
ハルの家から、どうやって帰ったのかは覚えていない。
ただ、先に寝ていたサキちゃんの頭を撫でた記憶だけはあった。
「……なんだこの状況?」
我が子の隣で横になっていたのだが、朝起きるとサキちゃんがいる場所とは反対方向にチナツさんが寝そべっていた。
わたしを挟んで、川の字になっている形だ。
チナツさんに視線をやると、彼女も目を覚まし、こちらに微笑みを向けてくる。
「ミカ、おはよう」
メガネを掛けていない姿が新鮮で、その優しい笑顔に、少しドキッとしてしまう。
(普段は背も小さいから可愛いらしい印象しかないけど、なんか素顔だと綺麗な雰囲気も出てて……って、いかん、わたしは何を考えてるんだ?)
今や女性として仲良くなった彼女に邪な想いを抱くのは失礼だと思うので、雑念を打ち払い、落ち着いて朝の挨拶を返す。
「チナツさん、おはよう。って、えっ!?」
声を掛けた瞬間、ガバッと勢いよく起き上がった彼女は、わたしの頬を何故か急に両手で挟み、真剣に瞳を覗き込んできた。
「うん、昨日よりは大丈夫そうね」
わたしの頬から手を離したチナツさんは、安心したというように、ホッと息を吐いた。
「とりあえず先に顔を洗ってらっしゃい。サキちゃんもね」
「あい」
背後から聞こえてきた声に振り返ると、いつの間にかウチの小さな天使も目を覚ましていた。
「ちぇんちぇ、あしゃもいっちょなにょうれちい(先生、朝も一緒なの嬉しい)」
「サキちゃん、わたしもよ。ミカ、なに不思議そうな顔してるのよ?」
「いや、ちょっと状況が、よくわからなくて。チナツさん、何でウチに泊まってるの?」
「一応、昨日、了承は取ったわよ? ミカは空返事だったけどね」
「あ、そうなんだ」
「あなた、昨日酷かったんだから。そんな人を放って帰るなんて、できないじゃない」
うん? 顔を背けてるけど、なんで頬を赤らめてるの? これがツンデレってやつか……ツンあったっけ?
「いつまで人の顔をジロジロ見てるのよ? 早く顔を洗ってきなさい」
「あ、ごめん。チナツさんも行こうよ」
「ちぇんちぇもいっちょ!(先生も一緒!)」
「そうね。なら、みんなで行きましょう」
チナツさんもメガネを掛けて、いつもの姿に戻り、3人揃ってみんなで1階にある洗面台へ行き、順番に顔を洗う。
「あ、お風呂入らなきゃ」
「ミカは朝から、お湯に浸かる方なの?」
「まあそうだね。それに昨日は入ってないし」
いつの間にか寝ていたし、お湯に浸かった記憶もない。
なので、帰宅してから、お風呂には入っていなかったのだろうと思っていたのだが、ここでチナツさんが聞き捨てならない言葉を漏らした。
「何言ってるのよ? 昨日はミカの髪も身体も、わたしが洗ったのよ」
「えっ? それってどういう……」
「それも覚えてないのね。昨日は、わたしと、一緒に、お風呂へ入ったわよ」
まったく記憶にございません。
いや、覚えていたら、それはそれで問題な気もする。
「あの……チナツさん? わたしの元の性別のことは知ってるよね?」
「別に構わないわ。今は完璧な女性なんだから」
「そうかな〜?」
「最初は抵抗あるかな? とか思ったけど、昨日のミカは何か1人でブツブツ言ってたし、わたしのことなんて視界にも入ってないみたいだったわよ」
「え、ごめん」
「気にしないで」
髪も身体も洗ってもらってたとか、面倒掛けすぎだろ、わたし。
「サキも、おふりょはいりゅ!(お風呂入る!)」
「うん。わかった」
「ちぇんちぇも!(先生も!)」
「え〜と、チナツさんも一緒に入る?」
「わたしも朝はお湯に浸かる方だけど、他所様の家だし遠慮しておくわ」
「そう。わかった」
サキちゃんは「え〜?」と不満そうに唇を尖らせていたけど、チナツさんに「そうね。一緒に入りましょう」とか言われたら、平常心を取り戻した、わたしの方が大丈夫じゃなさそうな気がするので勘弁して欲しい。
「朝ご飯の用意をしておくわね。簡単な物しか作れないけど」
「えっ?」
「なによ?」
「いや、なんでもないよ。ありがとう」
チナツさん1人に台所を任せるのは不安だと思ったが、そんな考えを見透かしたかのようにギロッと睨まれてしまったので、これ以上は何も言えなかった。
ただでさえ、迷惑を掛けているのだから。
☆☆☆
サキちゃんと一緒にお風呂に入った後、リビングに行くとテーブルの上には焼いた食パンにジャム、目玉焼きとウインナー、それにサラダが並べられていた。
(よかった。これくらいならケガをする心配もないね)
「ミカ、飲み物はどうする? 紅茶? コーヒー?」
「サキ、ぎゅうぬう!(牛乳!)」
「じゃあコーヒーで」
「はい。サキちゃんは先に牛乳ね」
「ありあと!(ありがと!)」
「それにしても、この家なんでも有るわね。紅茶やコーヒーの種類も豊富だし」
「ああ、付き合いで結構貰うんだよね。って、今、何時? 仕事行かなきゃ!?」
休日みたいに、のんびりとしてしまったが、今日は平日だ。
朝起きてから時計も見てなかったし、とんでもない時間で遅刻確定だったらどうしよう?
「ミカ、今日は休みよ」
心中焦っていると、目の前で食パンを齧っているチナツさんから、冷静な声が届く。
「えっ?」
「昨日、夜遅くに、あのハルとかいう人から連絡きてたわよ。今日は社長が必要な仕事はないように調整しておいたから、休んでおけってさ」
「そうなの?」
「うん。悪いとは思ったけど、昨日のミカは虚ろで使い物にならなかったし、わたしが勝手に了承の返事を送っといたわよ」
「ありがとう。じゃあ後はサキちゃんを保育園に連れて行くだけだね」
「そっちもないわよ」
「え?」
「夜遅くまで起きてたし、帰宅した時のミカを見たら、サキちゃんとは離さない方がいいと思って、園には休むって連絡しておいたわ」
「……そうなんだ」
「ええ。わたしは朝食を済ましたら帰るから、今日は2人でのんびりしなさい」
なんだろう? お風呂入れてくれて、心配だからってウチに泊まってまでくれる。
朝食まで用意してもらい、仕事もプライベートも整えていて、わたしに負担が全く掛からなくなっている。
チナツさんって、聖母か何かなんだろうか?
面倒見が良すぎる。
「……お母さん」
「わたしはミカの母親じゃないわよ!」
つい心の声が漏れてしまい、それにチナツさんが反応する。
こんなに素早く拒絶反応を示すなんて、昔に同じ事を言われたことでもあったんだろうか?
後、サキちゃん、いちごジャムを直接食べるのはやめようね。
「おいちい!」
「サキちゃん、スプーンで掬うまでは許したけど、瓶ごとはダメ!」
「この家は朝から賑やかね……」
まったく、ジャムは飲み物じゃありませんよ!




