チナツさんと将来のアイドルとサイン
チナツさん視点の話です。
ミカが事情は後で話すからと言って出て行ってから、約2時間が経った。
「サキちゃん、お休みしないの?」
「ねむきゅない!(眠くない!)」
時刻は夜の9時、園児の奥様方に聞いた話だと早い子は18時台に寝る子もいるみたいだけど、サキちゃんには関係のない話みたい。
だからといって、保育園は明日もあるのだし、このまま眠らなくてもいいという訳にもいかない。
お絵描き帳にクレヨンという筆を走らせているサキちゃんを見ながら、わたしは考える。
(どうやって寝かしつけようかしら?)
楽しそうに絵を描いているサキちゃんの瞼は、まだまだ閉じそうになかった。
「まったく……ミカったら、結局お弁当箱は取りに来ないし、届けに来てみたら、サキちゃんの面倒を見てくれだもんね。わたしは都合の良い女じゃないっていうのよ」
「にゃにかいっちゃ?(何か言った?)」
「ううん。なんでもないわよ」
危ない危ない。
サキちゃんの近くで母親であるミカの文句を言うなんて、迂闊だった。
この親と子は、お互いを大好きだもんね。
弱冠、というか、かなりミカからサキちゃんへの愛情の方が強めだけど。
「あれが元男とか、ちょっと信じられなくなってくるわね」
いや、疑ってはいない。
なんというか、ミカはウチのお父さんにも似ているところがある。
娘を溺愛する男親って感じがソックリだ。
きっと、その辺は元の性別が関係しているのだろう。
「でも、今となっては完璧に女性よね」
最初のミカは女としての違和感が、確かにあった。
彼女が女性特有のものを初めて経験した時、わたしに焦って連絡してきたことがある。
青褪めた顔をしながら「どうしたらいいの? これ?」とか聞かれ(こいつ、何言ってんだ?)と思ったのが、今では笑い話だ。
(あの日のミカは笑えたわね「もし、わたしが死んでしまったら、サキちゃんを頼んでもいい?」なんて言われたっけ)
そんな出来事もあったせいか、彼女が元男と聞かされても、すんなりと信じることができた。
だけど、ここ最近は全く男性らしさを感じられなくなってきた。
本当は生まれた時から女性だったんじゃないのかと思えるくらいだ。
母性本能が強く、子供好きで料理も上手だし、実はピアノも弾ける。
保育園で勝手に演奏してたから怒ったことがあるけど、事情を聞くと親の迎えが遅くなって泣いている子を慰める為だった。
(あれは申し訳なかったわね)
偶々、わたしが職員室に行ったタイミングでサキちゃんを迎えに来たミカが涙を流してる子を見つけ、ピアノ演奏で泣き止ましてくれたのだ。
後々、事情を説明されて納得はしたけど、最初に理由も聞かず叱ってしまったことは悪かったなと思う。
謝罪するとミカは笑って許してくれたけど、そんな彼女に少し嫉妬もした。
わたしでも子供を泣き止ませるのは時間が掛かるというのに、職員室から帰って来た時、大人気アニメの主題歌を園児達が歌う声が楽しそうに響いてきたのを聞いてしまったから。
料理ができて、ピアノも弾ける。
モデルをしてて、スタイルが良い。
その上、子供好きで優しい。
(もうこれ、男から見たら理想の女性像なんじゃないのかしら?)
社長業もしてるから、お金も持ってるし、その辺の男性とだと釣り合わないだろうけど、彼女と結ばれる相手は果報者だろう。
(でも、元男と考えると恋愛対象はどっちなのかしらね?)
「ううん、これは知るべきじゃないわ……」
もし恋愛対象が女性だったとして、その中にチナツさんも入っているよとか言われてしまったら、今では親友とも呼べるミカとの関係が壊れてしまう。
そんな怖い考えを、わたしは首を振って打ち消す。
友人としての立ち位置を、わざわざ拗らせる必要性なんてないのだから。
(それにしても、わたしが保育園の先生になってから、あんな滑らかに子供を泣き止ませたことがあったかしら? あっ、そうだ!)
ふと演奏などを聞かせればサキちゃんも眠るんじゃないかと考え、わたしはリビングにあるテレビを点ける。
今日放送されている音楽番組にチャンネルを合わせると、映ったのは多人数の女性アイドルグループで、今から歌い始めるところだった。
「あー! ふぉちいふぉうがうちゅっちぇる!(フォーティーフォーが映ってる!)」
「サキちゃん、知ってるの?」
「あい! ちゅき〜!」
テレビに映ったアイドルグループは44と書いて《フォーティーフォー》と呼ぶらしい。
数字が縁起悪い感じもするけど、ネットで調べてみたら、意味は『幸せ』という語呂合わせだった。
『〜♪〜♪』
「〜♪〜♪」
テレビの中でアイドル達が踊って歌うと、その動きをサキちゃんが真似をする。
それに合わせて、わたしは手拍子を叩く。
「サキ、おじょるのちょうじゅ?」
「うん。踊るの上手よ」
「うちゃは?」
「歌も上手よ」
「あいどりゅなれりゅ?(アイドルなれる?)」
「……えっ?」
サキちゃんは歌も踊りも上手だし、顔だって整っている。
なので、アイドルになろうと思えばなれる気もするけど、ミカが居ない時に将来の道を決めさせてしまうのは良くない気がする。
というか、サキちゃんが知らぬ間に芸能界の道を目指す事になり、その切っ掛けに、わたしが関わっていると聞いたら怒りそうだ。
(ミカのことだから許しそうでもあるけど、不安は大きいでしょうね)
でも、ここは3歳児に現実の厳しさを教えるのではなく、保育園の先生として答えるべきなんだろう。
こういう時、わたしは可能性の芽を潰すのではなく、夢を応援してあげるようにしている。
「アイドルにはなれそうだけど、芸能界は不安定なのよ」なんて言うつもりはない。
(まだ3歳だし、これから次々と夢も変わっていくでしょうからね)
「サキちゃんは可愛いから、アイドルにだってなれるわよ」
「ほんちょ!?」
「本当よ」
「やっちゃ〜!」
44の歌が終わり、次にK−POPアイドルが出てくると、またサキちゃんはダンスを真似ていた。
「サキ、けいぽっぷになりゅ!」
「……それは無理だと思うわ」
サキちゃん、K−POPアイドルになるならともかく、音楽自身にはなれないわよ。
「なりゅ〜(なる〜)」
「そう。がんばってね」
「がんばりゅ!」
(そういえば今日、保育園のお散歩中にハルという男性の足元にくっ付いていたけど、彼の顔を整っていたわね)
きっと、サキちゃんにはJ−POPもK−POPも関係なく、綺麗だったり可愛かったりする人や物が好きなんだろう。
「ちぇんちぇ、これあげりゅ(先生、これあげりゅ)」
「うん、なに?」
「サキのちゃいん!」
「サインくれるの? ありがとうね」
「あい!」
もしかしたらサキちゃんは将来アイドルになって、とんでもない有名人になるかもしれない。
その日がくるまで、このサインを、わたしは大切にしまっておくことにした。




