揺れる電車
会社に到着し廊下を歩いていると、社長室の隣にある秘書室のドアが少し開いていたので、そこから中を覗いてみる。
部屋の中には黒い椅子に座り、灰色のデスクの上に置かれたパソコンで作業をしているハルがいた。
「おはよう」
扉を開けて挨拶をしながら近付き、机の前に立つ。
もしかして社内の立場を知らない人が現状だけ見れば、ハルの方が偉いと思うかもしれないなんてことを考えていたら、わたしを捉えた榛色の瞳をしている人物が口を開く。
「……おはよう」
何故か、少し苦々しい顔をしているハル。
その理由について頭を巡らしてみるが、思い当たりそうもない。
しかも、わたしは彼が着ているシャツの方に目がいっているし。
半袖で無地の黒にボタンが上から紫、青、ミント、オレンジなどと、各種バラバラな色をしているが、違和感はない。
クリアになっているのも、お洒落に感じる一因だ。
下は紺色のデニムパンツだが、夏用なのか生地は物凄く薄い。
ストレッチ素材の9分丈っぽいし、多分、通気性に優れた物なのだろう。
「すまん」
ハルが椅子から立ち上がって、こちらに来ると、謝罪の言葉を口に出し頭を下げた。
どうやら靴は素足に黄色のラインが入った、白いスニーカーを履いているみたいだ。
いや、気にしなきゃいけないのは、そこじゃない。
「え? 何が?」
わたしは少し戸惑いながら、ハルが頭を下げてきた理由を聞く。
「運転手が風邪っぽくて、計ってみたら、熱が高かった。だから帰宅させた」
「それは仕方ないね」
働くには身体が資本だし、壊してしまっては元も子もない。
聞けば運転手は微熱だったみたいだけど、ハルの個人判断で家に帰らせたみたいだ。
うちにはサキちゃんもいるから、わたしが風邪をひいて伝染してしまっては可哀想だと思ってる。
なので、健康第一。
それに事故を起こされても困るし、先に安全面を心配してくれたハルに責任はないだろう。
「気にしないでいいよ」
「軽く言うけど、今日は結構色々と回るぞ?」
「タクシーでいいんじゃない?」
「最近は経理がうるさいからな」
「あ、あはは」
そういえばハルは役員会議に参加してないから知らないだろうけど、経費削減を指示したのは、わたしだ。
運転手は手の空いてる社員だったり、派遣会社に頼んで来てもらったりしてるんだけど、基本は日払い制の日雇いである。
仕事もない時まで雇ってたら、お給料がもったいないからね。
スミレさんがいれば車も免許も持っているから、他の人に頼まなくていいので有り難いんだけど、今は居ない人の事を言ってもしょうがない。
現在、会社に来てる社員に運転を頼むという手もあるが、わたしのせいで抱えてる仕事が遅れでもしたら悪い。
「ハル、今日って、どこ回るんだっけ?」
「山手線界隈が多いな。原宿、渋谷、池袋、新宿とか」
「あー、内見か」
新しくエステやネイルショップを始める為に、不動産が紹介してくれた物件を見に行くのだが、都会に有る場所が多い。
原宿と渋谷なんて、そんなに距離も離れていないので、一々タクシーに乗ったり降りたりするのも面倒だ。
それに待機させていたら、余計な料金も掛かるし、なるべくそれはやりたくない。
だって経費削減を言い出したのは、わたしなんだから。
「ハルは免許取ってないの?」
「知らん。たぶんない」
???
なんか、よく分からない答えが返ってきたぞ。
いやいや、自分の事なんだから知ってるだろ。
(ハルって、冗談言うタイプの人間だったんだな)
とりあえず、今のはスルーしといて会話を続けよう。
だって冗談を言った本人が至って真面目な顔してるから、笑っていいのかツッコミ入れていいのか、よくわからないんだもん。
「しょうがない。電車で行こうか」
「そうだな。どうしてもタクシーを使わなきゃいけない時だけ利用しよう」
2人で社外に出ると、朝からずっと降っていた雨は止んでいて、陽射しが差していた。
「晴れたね」
「そうだな。まあ雨よりはいいんじゃないか?」
確かにハルの言う通り、暗い雰囲気の中を歩くよりかは、幾分気持ち的にも楽だ。
明るくなった道の上、2人で軽く会話をしながら、恵比寿駅へと向かう。
「なんか混んでない?」
到着した恵比寿駅構内には人が溢れていて、わたしが朝降りた時よりも、人数が多くて熱気が凄かった。
ホームに来ていた電車内は殆ど満員だったが、なんとか2人分のスペースを見つけて乗り込む。
わたしはドアを背にし、前に立っているハルはポケットからスマホを取り出して、何かを調べ始めた。
「検索してみたが、なんか先に出た電車の中で酔っ払い同士がケンカしてるらしい。窓も割れてるとか」
「朝から、なんて迷惑な人達だ……」
「後、タヌキが線路内に侵入したとかいうのも遅れてる原因みたいだぞ?」
「そっちは電車に轢かれなくて、何よりだね」
お酒に呑まれてしまった最初の酔っ払い達は自分が悪いので自己責任だと思うが、人間社会の中に迷い込んでしまったタヌキには怪我がなくてよかったと安心する。
「あんたって、動物好きなの?」
ハルに名字か名前、若しくは社長って呼べとは注意しない。
2人でいる時は基本「あんた」になり、誰かに見られてる場合(スミレさん以外)は「社長」になるからだ。
「うーん、嫌いじゃないけど、動物は子供の方が好きかな」
「……そうなんだ」
「うん」
──大変、お待たせしました。間もなく出発致します──
話をしている途中、アナウンスが流れ、漸く電車が動き出す。
目前にいるハルは掴まるところがないので、真っ直ぐ手を伸ばし、わたしの後ろにあるドアを支えにする。
揺れる電車、すぐ側を通る手、混んでるせいで近付く顔。
互いにドアを支えにしながら、向かい合っているので、もはや壁ドン状態だ。
さっきまで喋っていたのに、わたし達は顔を背けて急に静かになり、発進してから到着駅まで黙り込んでいた。