第3章『接触』② 改訂版
【最終改訂日2022年9月21日】
「──む? 伶人、ちょっと待て」
車に乗ろうとしていた瑠姫は、急に身を屈め、辺りをうかがった。
その視線は獲物を狙う肉食獣を思わせる。
「敵じゃ。近いぞ」
「てき?」
「お前は神社で待っておれ。そこなら安全じゃろう。魔の眷属は霊域を嫌うからな」
「は? ──あ、おい! 瑠姫!」
「来るでないぞ。よいな!」
強い口調で告げると、瑠姫は驚くべき跳躍力で駐車場のフェンスを飛び越え、子守山の雑木林に駆けこんだ。
「魔の眷属って、もしかして例の怪人か!?」
追いかけようと、伶人も慌ててフェンスを乗り越える。
しかし、跳ねるように木々を避けて駆ける瑠姫の速さは尋常ではなく、すでに木立ちの奥の暗がりに消えていた。
瑠姫を待ち受けていたのは、鉛色の肌をした異様な人型であった。
肉感的な女の体に、カラスの頭。
背には大きな翼を具えている。
「……カラスの化生か。どうやら、わらわを待ち伏せておったようじゃの。生意気な」
瑠姫は十五メートルほどの間合いを置いて〝カラス女〟と対峙し、その技量を推し量った。
(武器は持っておらんようじゃな)
しかし、鋭いクチバシと足の鈎爪は充分に凶器となりうるし、方術を使う可能性もある。
その見極めが出来ない以上、迂闊には踏みこめない。
初手は譲って、誘いこむか──そう決めて、瑠姫は挑発する。
「生臭い瘴気を放ちおってからに。どうやら、うぬが娘をさらっておる怪人のようじゃの。式神にしては妙な気配じゃが……まぁ、いいわ。うぬの主は何者じゃ?」
「…………」
カラス女は応えず、しきりに頭を左右にかしげながら瑠姫を凝視するばかり。
「ふん。そのクチバシでは喋れぬか。それとも、心を持たぬ木偶か?」
吐き捨てたところで、ようやく伶人が駆けつけた。
見るも妖しい異形の姿に、伶人はたじろぐ。
「なっ! ……なんだ、こいつ」
「待っておれと言ったろうに。術も使えぬお前では戦えまいて」
「そうだけど……だからって放ってはおけないだろ」
なかば興味本位でやってきた伶人ではあるが、瑠姫を心配する気持ちが無かったわけではない。
そうと察し、瑠姫はわずかに口角をあげる。
「ま、わらわを案じてくれたのなら、責めはせんがの。下がって見ておれ」
瑠姫は一歩前に出て、刀印を結んだ右手をカラス女につきつけた。
その指先に小さな光球が点り、
「──火砲丸!」
パン! と銃弾のように撃ち出される。
火の粉を散らして飛ぶ光の弾丸がカラス女の胸元で炸裂し、焦熱と衝撃を叩きつけた。
しかし、カラス女はよろめいただけで、すぐに体勢を立て直す。
「火は利かぬか。ならば!」
すかさず瑠姫は次の方術を練りにかかり、
「解八門禁──狐仙変化!」
刀印を結んだ両手を正面に突き出した。
その指先から噴き出した紫色の炎が瑠姫を包み、衣服が消えてゆく。
だが、裸身がさらされたのは一瞬のみで、即座に新たな着衣が出現した。
鮮やかな緋色の小袖、袖に紋様のある白い水干、小袖と同じ色の極端に短い袴、金色の円環があしらわれた鉢金、朱色の脛当て──
〝戦装束〟である。
「変身した!?」
伶人は思わず叫んだ。
よく見ると、瑠姫の頭にはピンと立った獣の耳があり、尻のやや上からはフサフサとした尾が垂れている。
半人半獣──愛らしくもあるその形態が彼女の〝戦闘モード〟であろうことは、伶人にも瞬時に理解できた。
「さぁ、来い!」
「クァーッ!」
瑠姫の挑発に乗ってか、カラス女は奇声をあげて襲ってきた。
負けじと瑠姫も踏みこみ、一気に間合いを詰める。
鋭い爪をそろえた貫手で瑠姫の喉元を狙うカラス女。
その一閃を紙一重でかわし、「甘い!」と掌打を繰り出す瑠姫。
打ち上げ花火のような重い破裂音が響く!
「すげぇ……!」
伶人は唸った。
瑠姫の一撃をみぞおちに喰らったカラス女が、まるで屈強なラグビー選手のタックルを受けたかのように、吹き飛ばされたからだ。
かなりの体格差があるため、肉弾戦は不利かと思えたが、それは杞憂なのだった。
瑠姫は手足に神気をこめることで、打撃の瞬間に一種の衝撃波を叩きこむことができるのだ。
これを〝砕破〟という。
相手が普通の人間なら、今の一撃で肋骨の数本は折れていたに違いない。
人間どころか生物ですらないであろうカラス女に肋骨があるかどうかは不明だが、それなりの損傷は受けているようで、のっそりと立ち上がる動作は明らかに精細を欠いていた。
好機とみた瑠姫は飛び退いて距離を置き、左手をかざす。
「天衝弓!」
瑠姫の左手から炎が発せられ、光の強弓が生成された。
右手で弦を引くと、白く輝く光の矢があらわれる。
そして、
「──神機発動! 天衝流星破!」
放たれた矢が白い軌跡を曳きつつ、カラス女の胸を貫いた!
土砂などの無機物で造られた式神には、その存在の核となる符や珠が仕組まれていることが多く、それらは往々にして胸──心臓の位置にある。
その急所を貫かれたカラス女は、みるみるうちに肌の張りを失い、ひび割れ、崩れ落ちた。
「……ふん。やはり砂礫を練った式神じゃったか」
あっけない勝利に、瑠姫は笑みを浮かべる。
その手の光の弓が火の粉となって散ってゆく光景を、感動にも似た心地で見つめていた伶人は、
(得体の知れない怪物に、変身する魔法少女か。まるでアニメだな。定番の)
ふと我に返って微苦笑し、意気揚々と歩いてくる瑠姫を迎えた。
「大丈夫か?」
「ああ。見ての通り、楽勝じゃよ」
「にしても、なんていうか……すごいな。それが、お前の本当の姿なのか?」
「いや、この狐仙変化は、あくまでも仮の姿じゃ。本来の狐仙の力と、紫苑から授かった式神としての力を重ね合わせるためのな」
「へぇ。しかしネコ耳とはね。いや、キツネ耳か。これ本物?」
「んふっ……! よせ、こそばゆい」
キツネ耳の先端を摘ままれた瑠姫は、くすぐったそうに身をよじった。
妙に艶のある声と仕草に、伶人は「ごめん」と手を放し、あらためて瑠姫の姿を観察する。
それは風変わりというか、三百年前の装束にしては前衛的なスタイルに思えた。
様式としては水干狩衣になるのだろうが、膝上で断ち切られた袴なぞはまるでミニスカートだ。
しかし、その袴と脛当ての間の絶対領域よりも伶人の目をひいたのは、袖の紋様であった。
細い円環を馬蹄状のラインで囲った図柄。
伶人は、それを知っている。
「その袖の紋、三才天狐星だよな」
「ああ。これは紫苑の紋でな、天・地・人の三才をあらわしておるそうじゃ」
「御巫家の家紋も、それなんだよ」
「じゃろうな。なにしろ御巫家は紫苑の──ん?」
瑠姫は話の途中で急に眉をひそめ、伶人の背後を見た。
狐の耳が、せわしなく動く。
「どうした?」
伶人も同じ方向を眺めたが、特に何も見当たらない。
「誰かに見られておるような気がしたのじゃが……気のせいか」
首をひねりながら、瑠姫は変化を解いた。
全身が紫色の炎に包まれて戦装束が消え、元の洋服が出現する。
その課程で、ごく一瞬、全裸になることが気にかかる伶人だったが、
(……ま、お約束か)
魔法少女の変身シーンにその種の演出は付き物かと思うと、妙に納得できた。
◆ ◆ ◆
「──うっ!」
「士郎!?」
朔夜は胸を押さえてうずくまる士郎に寄り添い、背中に手を当てた。
「大丈夫だよ」と、士郎は額の脂汗を拭う。
ここは月乃宮湖の中島。
その縁の草むらに、二人はいる。
直径六キロメートルほどの丸い湖の中央に浮かぶ中島は、サッカー場が二つ作れるほどの大きさがあり、ほぼ全体が鬱蒼とした林で覆われている。
仮設の桟橋があるものの、訪れる者は滅多にいない。
「……烏頭女が敗れたのですか?」
朔夜は持っていたLEDランタンのスイッチを入れながら訊ねた。
「ああ。思った通り、貫木神社に瑠姫が現れたよ。網を張っておいて正解だった」
先刻、瑠姫が斃したカラス女は、士郎が放った式神なのだった。
その式神『烏頭女』の視覚を介して、士郎は一部始終を視ていたのである。
「古文書には〈少女なる狐〉とあったけど、想像していたよりも小さな女の子だったな」
「女の子……子供の姿をしていたのですか?」
「うん。十二、三って感じだった。もちろん見た目通りの年齢じゃないだろうけど。それにしても、瘴気を練りこんだ烏頭女を一撃で屠るとは、さすがだな」
士郎は立ち上がり、続いて立ち上がった朔夜の肩に触れた。
「ちょっと、行ってくるよ」
「……匣に、ですか?」
「ああ。瑠姫のことを〝あいつ〟に知らせてやろうと思ってね。焦れてるだろうから」
「私も行きます」
二人は雑木林の獣道を歩き、中島の中心へと向かう。
そこには直径十メートルほどの草むらがあり、大人の背丈ほどの石柱が二本、並んで立っていた。
「此の夜らも、雨降星や綺羅を見す、夢幻の宙にうつろいもせず──」
士郎が合言葉を唱えると、石柱の間の空間に波紋が生じ、黒い幕のようなものがあらわれる。
それを通り抜けた先にあるのは、深い谷底のような風景だった。
異様に明るい月のもと、そびえ立つ岩壁に挟まれた幅二十メートルほどの草地がどこまでも続いている。
そこは、いわゆる異界──特殊な結界で現世から切り離された空間なのだ。
その草地には八個の寝袋が並べられ、うち六個には十代後半の少女たちが納められていた。
いずれも〝神隠し〟の被害者である。
「あと二人か」
士郎は少女たちを見回し、つぶやいた。
少女たちが、まるで蝋人形のように見えるのは、すべての生命活動が停滞しているから。
朔夜が施した『咒睡』という方術で、仮死に近い状態にさせられているのだ。
特殊な鍼を用いるその方術は、古代中国において飢饉を乗り切るために編み出されたもので、肉体の新陳代謝の周期を大きく引き延ばすことができる。
もし、このまま一ヶ月ほど眠り続けたとしても、少女たちの体はせいぜい一日分のエネルギーしか消費せずに済むのである。
「どう?」
「問題ありません。術も正常に作用しています」
「そうか。良かった」
少女たちの様子を確認していた朔夜の言葉に安堵し、士郎は少し離れた場所にある奇怪な造形物に歩み寄った。
灰色の石で造られた、直径二メートルほどの滑らかな球体。
側面には一枚の黒い円盤がはめられ、眼球を模している。
その円盤の名を『畢ノ鏡』という。
鏡といっても金属製ではなく、黒曜石を磨き上げたものだ。
そこには、一人の〝鬼〟が拘禁されているのだった。
この『無間匣』と呼ばれる異界は、その鬼を封じるために造られた監獄なのである。
〈……士郎カ〉
士郎が球体の前に立つや、畢ノ鏡がビリビリと震え、重く響く声が発せられた。
鬼神──『皇雅』の声だ。
〈開封ノタメノ依代ハ揃ッタノカ?〉
「いや、まだだよ。誰でもいいわけじゃないからね」
怒気を含んだ声にも怯むことなく、士郎は応えた。
「ある程度の霊験を持った女の子でないと、依代にはできない。そういう子が夜中に一人歩きしているなんて偶然には、そうそう巡り会えるものじゃないさ」
〈フン。ワザワザ、ソンナ下ラヌ講釈ヲシニ来タノカ?〉
「まさか。朗報を持ってきたんだよ」
〈朗報、ダト?〉
「君をその呪縛から解き放つための鍵を見つけたんだ。朗報だろ?」
〈鍵……アノ狐カ!〉
「そう、瑠姫さ。かつて君を調伏した巫女の式神の」
〈ムゥ……オノレ小賢シイ女狐メ。コノ忌マワシイ鎖ガ解ケタアカツキニハ、真ッ先ニ千切リ殺シテクレヨウゾ!〉
「……その憎しみこそが、君を縛っている鎖なんじゃないのかな」
〈ハッ! 人間風情ガ、利イタ風ナコトヲ〉
皇雅は嘲るように言った。
灼熱の炎を吹きつけて、この不遜な小僧を炭にしてやりたい。
そんな衝動に駆られても、今の自分は無力の虜。
それが歯痒い。忌まわしい。
だが──
虜囚の屈辱に歯噛みする皇雅は、おのれの内に芽生えつつある別の感情を自覚してもいた。
人を人とも思わぬ鬼神にとって、それは理解しがたく、また認めがたいものでもあった。が、たしかに存在するのだ。
八嶋士郎という人間に対する、ある種の共感めいた感情が。
〈──貴様トテ、我ト同ジデアロウガ〉
「同じ? 僕が、君と?」
不意に投げかけられた思わぬ言葉と、その奇妙に落ち着いた声色とに、士郎は戸惑った。
〈解セヌカ。ソレトモ、オノレの闇ヲ認メタクハナイカ?〉
「…………」
士郎は無言で顔をしかめ、畢ノ鏡を見つめる。
〈ナラバ問オウ。貴様ハ何故ニ我を欲スル? 人二仇ナス鬼ヲアテニシテ、何ヲ企ム?〉
「……いずれ話すよ」
〈ククッ……! マァ、ヨカロウ。ソノトキガ楽シミデナラヌワ。貴様ノ闇ノ冥サハ、我ニトッテ、サゾカシ心地好イモノデアロウカラナ〉
「……かもね」
絞り出すように応えて、士郎は畢ノ鏡に背を向けた。
〈急ゲ。急グノダ士郎。一刻モ早ク、我ヲコノ無間地獄カラ解キ放テ!〉
「そう急かすなよ。急いては事を仕損じるっていうだろ?」
士郎は振り返らずに言い、待っている朔夜のもとへ歩いてゆく。
(確かに、僕の心には闇がある。気をつけないと、皇雅の鬼気に呑まれてしまうな)
そこに恐怖を感じないといえば嘘になるが、怯えはしなかった。
皇雅の知らない秘策があるからだ。
今もブルゾンのポケットに忍ばせている黒い勾玉、『鵺の爪』。
それを使えば、あらぶる鬼神を支配出来るかもしれないのである。
もっとも、その期待の根拠は数百年前に書かれた作者不詳の古文書だけで、確証は無い。
命がけの、危うい博打だ。
けれど、そんな不確かな可能性に賭けてみようと決意させるだけの強い動機が、士郎にはある。
そのためにこそ、鬼神の力を手に入れようとしているのだ。
(もし、僕が闇に呑まれたら──僕が僕でいられなくなったら、朔夜が殺してくれるだろう。でも、そんなことはさせない。絶対に)
自分に言い聞かせながら、士郎は朔夜に「帰ろう」という目配せをした。
「……さすがに、ちょっとキツいな」
無間匣を出るなり、士郎は草むらに座りこんだ。
封印されていてもなお強烈な皇雅の瘴気に当てられて、体がだるい。
それでも彼は、
「大丈夫かい?」
かたわらの朔夜を気遣う優しさを忘れてはいなかった。
ヒトではない朔夜は士郎よりも瘴気への耐性が強く、彼ほど体力を奪われはしない。が、強い霊験を持つがゆえに瘴気への感受性もまた強く、士郎よりもひどい不快感に襲われていたに違いない。
「私は平気です。かなりの瘴気を浴びてしまったようですし、今夜はもう帰りませんか?」
「そうだね。でも、星の下でっていうのも、悪くないかな」
「……え?」
遠回しな士郎の言葉の意味を悟り、朔夜は頬を染める。
「ここで、ですか?」
「誰も来やしないさ。……だめ?」
士郎は朔夜の頬に触れた。
朔夜は「いいえ」と応える代わりに士郎の手をとり、そっと自分の乳房へと導く。
そうして二人は唇を重ね、身を横たえた。
「服、消しましょうか?」
「そのままでいいよ。たまには着たままってのも、よくない?」
「……ですね」
ほのかな月明かりのもと、二人は熱っぽく愛し合う。
それは、士郎を蝕む瘴気を祓うための手段でもあるのだが──
二人にとっては、ただ幸せな時間なのだった。
※つづく※