第1章『月華の瑠姫』③ 改訂版
【最新改訂日2022年8月26日】
その日の夕食は、大量に備蓄されていたレトルトの牛丼ですませることになった。
どんぶり飯にかけられた〝得体の知れない煮物〟と、それが入っていた銀色の袋とを交互に見て、瑠姫は首をひねる。
「……うしどん?」
「ぎゅうどん、だよ」
「味噌漬けにされた牛の肉なら食べたことがあるが、こんな料理は初めてじゃ」
「そっか。日本人が牛肉を食うようになったのは、明治になってからだもんな」
確かに、日本人が獣肉を日常的に食べるようになったのは、世に言う文明開化以降のことである。
だが、それ以前から〝薬食い〟と称してシカやイノシシなどを食べる俗習はあったし、地域によってはウサギやタヌキ、クマなども貴重な淡泊源であった。
仏教の殺生戒や神道の〝穢れ〟の観念によって肉食をタブー視しながらも、滋養にかこつけて密かに獣肉を味わう食文化はあったのだ。
ただし食用にされたのはもっぱら野生の獣で、牛などの家畜はあまり食べなかったようだが。
「美味いのか? これ」
「好みによるだろうけど、俺は好きだよ」
「しかし、こんな袋を茹でるだけで飯が出来るとはの。これもカラクリ──いやさ、〝てくのろじい〟とやらのなせる技か」
「まぁな。おかげで手軽に美味いものが食える。偉大な発明だろ? じゃ、いただきますか。玉子と七味は、お好みでどうぞ」
「うむ。いただきます──」
瑠姫は合掌をし、ゆっくりと牛丼を口に運ぶ。
「どうだ? 初めての牛丼は」
「美味い! 牛も捨てたものではないな」
いたく気に入ったようで、瑠姫はかきこむように食べはじめた。
「レディーファースト、だよな。男のあとじゃ、嫌だろうし」
つぶやきながら、伶人は湯を張った浴槽に円筒形の保温器を沈めた。
その設定温度を〝41〟に合わせて居間に戻り、瑠姫に声をかける。
「風呂、入るだろ? 先にいいぞ」
「いや、あとでよい。もう少しで、こいつにトドメを刺せそうなのじゃ」
瑠姫はテレビにかじりつき、モンスターハンターの最新作に熱中していた。
昼間、伶人が暇潰しがてら仕込んでやったのだが、狐としての狩猟本能がくすぐられるようで、すっかりハマっている。
「正面から突っ込んだら、やられるぞ」
「わかっておる。──あっ!」
「ほらな」
「むー……そちが横槍を入れるから、また敗けてしもうたではないか」
「俺のせいなわけ?」
苦笑いを返し、伶人は寝室へ。
タンスからTシャツとトランクスを取り出し、ベッドに置いてあった部屋着と一緒に持ってくる。
「そういや、お前、着替えはあるのか?」
「ああ。いま着ているものと同じ装束が一揃いと、浴衣が一枚ある」
「浴衣ならパジャマの代わりにはなるか。──あ、そうだ」
ふと、あることを思いつき、伶人はジャージのズボンを広げてみせた。
「お前さ、魔法でこういう服を作ったりは出来ないのか?」
「はぁ? 無茶を言うでない。打出の小槌じゃあるまいし」
伶人としてはナイスなアイデアのつもりだったが、瑠姫の反応は失笑だった。
「でも、その着物は紙切れから作ったんだろ?」
「作ったのではない。霊符にされていた着物を戻しただけじゃ」
「……?」
「どうも、そちは思い違いをしておるようじゃの。よいか? わらわの『八門神機』に限らず、およそ方術というものはモノの形態を変異させる技なのじゃ。見ておれ──」
そう言うと瑠姫は脚を延ばし、履いている足袋を指さした。
「散」の一声とともに刀印を振るや、足袋が燃え尽きるように消えてゆく。
「消えた……何度見ても不思議だな」
「消えたように見えるが、そうではない。足袋は、今もそこにあるのじゃよ。霊体としてな」
「たまらみ?」
「見ることも触れることもできん、虚ろな形相じゃよ」
「……質量がほとんどゼロってことか? ニュートリノみたいな」
この伶人の発想、あながち的外れではない。
見えないのは、電磁波をまったく輻射・吸収しないから。
触れられないのは、質量が無視できるほど小さいから。
瑠姫の足袋は今、そういう状態で存在しているのだ。
霊体とは、物質の質量の大部分が真空の場の物性エネルギーに変換された状態なのである。
この場合の真空は虚無の空間ではなく、物質の素材となる基底状態のエネルギーで満たされている。
それこそが万物の原質たる「気」であり、その相互作用を媒介する波動が「神気」などと呼ばれる力。
つまり方術とは、真空場に潜在する物性エネルギーに干渉して限定的な真空相転移を引き起こし、その結果として様々な事象をあらわす技なのだ。
「色即是空、空即是色、という言葉を知っておるか?」
「般若心境?」
「ああ。その仏典の一説が方術の真理といってもいいじゃろう。色たる物、空たる霊──それらを置き換えるのが方術なのじゃ」
「ふーん。要するに、何かを生み出すには、その素になるエネルギーを用意しとかなきゃならないわけか」
伶人は、そう解釈した。おおむね正しい理解である。
たとえば瑠姫の変化という現象などは質量保存則を無視しているように見えるが、そうではない。
狐の姿でいるときの彼女は、変化に必要な物質を霊体として真空場に預けてあり、それを実体化して少女の形相を構築しているのだ。
そんな工作ができてしまう方術は、伶人にしてみれば神のごとき能力に思えるわけで、衣服を創造できると考えたのも無理からぬことだろう。
しかし、方術とて決して万能ではないようだ。
「つまり、お前の魔法にも原理原則があって、なんでも好き勝手に出来るわけじゃないんだな」
「そういうことじゃ。天地万物には、因果の摂理というものがあるでな」
これにて講義は終了、とでも言わんばかりに、瑠姫はPS5のコントローラーを握る。
伶人は着替えとバスタオルを抱えて立ち上がると、
「風呂、本当にあとでいいのか?」
「うむ。主人を差し置いて一番風呂というわけにもいくまい」
「それは奥ゆかしいことで」
微苦笑をくれて、風呂場に向かった。
三十分ほどで戻ってくると、瑠姫はまだ狩猟に没頭していた。
伶人は新しいバスタオルを持ってきて、「ほら」と彼女の頭に乗せる。
「一休みして、風呂入ってこいよ」
「うん。そうじゃな」
瑠姫は頭にタオルを乗せたまま、小走りで風呂に向かった。
それから一時間が経っても戻ってくる気配がなく、のぼせてるんじゃないかと心配する伶人だったが──
かといって覗きにいくわけにもいかず、とりあえず待つ。
ようやく風呂場の扉が開く音が聞こえてきたのは、さらに十五分ほど経ってからだった。
「──はぁ。いい湯じゃった。あの〝しゃんぷう〟とかいうしゃぼんは、よい香りがするのじゃな」
ほんのり桜色に茹であがった少女は、白い木綿の単だけをまとい、オレンジ色の縮緬の細帯をヘソのあたりで結び垂らしていた。
それはバスローブのようにも見え、なかなかに可愛らしいのだが、薄い生地が汗ばんだ肌に密着していて、ちょっと目のやり場に困る。特に胸のあたりが。
「浴衣っていうから、もっと派手なのを想像してたんだけど、えらくシンプルだな」
「しんぷる?」
「飾り気が無いってこと」
「ああ。下着じゃからな」
「下着かよ……」
そう言われると見てはいけない気がする伶人だったが、瑠姫はそんなことなどお構い無しで、火照った頬をあおぎながらソファーに座る。
「……おい。あぐら、かくなよ」
「ん?」
「いや、だから……見えてるんだよ、パンツが」
「ぱんつ?」
「それ!」
焦れてしまい、伶人は思わず瑠姫の股間を指さした。
あられもなく見えているのは、真っ白な〝もっこふんどし〟。
長方形の布の前後に通したヒモを両脇で結ぶタイプの下帯で、いわば和風のヒモパンである。
「ん? ああ、下帯のことか」
瑠姫は特に恥じらう様子もなく、はだけていた浴衣の裾を整えた。
「目敏いの。まったく、油断も隙もない」
「目の前であんな格好されたら嫌でも見えるっつーの。黙って見てないで教えてやったんだから、親切だろ? ──ほら、髪、乾かせよ」
にやつく瑠姫に減らず口を返した伶人は、不覚にも赤面していることに気づき、さっさと話題を変えた。
差し出されたドライヤーを見て、瑠姫は小首をかしげる。
「その短銃のようなモノは、髪を乾かす機械なのか?」
「あ、教えてなかったっけ。ここから熱い風が出てくるから、こうやって──」
使い方を実演してから、伶人はドライヤーを手渡した。
見よう見まねでブローをはじめる瑠姫だったが、どうにも要領を得ず、見ていてもどかしい。
「……やってやろうか?」
「うん。頼む」
見兼ねた伶人の助け船に、瑠姫は素直に乗った。
「熱くないか?」
「ああ。平気じゃ」
伶人は瑠姫の繊細なロングヘアーを丁寧に乾かしてやり、ついでにブラシもかけてやる。
「──よし、完成。どうだ?」
「おお、もう乾いておる。便利なものじゃなぁ」
瑠姫はうなじをかきあげ、きらめく髪を踊らせた。
ふわりと舞ったシャンプーの残り香と、それよりも微かに甘酸っぱい匂いとが伶人の心理のどこかをくすぐり、微笑を誘う。
「思い出し笑いか? やはり助平じゃの」
「……うるさい」
「ふふっ。さて、今度こそ大物を仕留めてくれようぞ」
鼻を鳴らすように笑って、瑠姫はまたモンハンをはじめた。
その様子を何気なく見ていた伶人は、「これから、どうするつもりなのか」という大事な質問をし忘れていたことに気付いたものの、
(──ま、いいか。なりゆき任せで)
それはそれで面白そうだと思い、この非日常的な日常を愉しもうと決めこむのだった。
そんなこんなで夜は更けて、日付が変わる瞬間がやってくるころ、
「ふぁ……っ!」
かれこれ4時間あまりハンティング三昧だった瑠姫は、思い切り大きなあくびをした。
そのまま天井を見上げ、照明のまぶしさに目を細める。
「こう明るいと夜という気がせんが、眠くはなるものじゃな」
「そりゃ、そうだろうさ」
つられてか、伶人もあくびを噛み殺した。
それで「寝るか」と決めたところで、重大な問題に気付く。
この家にはベッドが一つしかなく、来客用の寝具は用意されていないのだ。
さて、どうしよう──
「んー。気持ちいいな、この布団。ふかふかじゃ」
「……もう寝てるし」
対応策を模索する家主を後目に、居候はさっさとベッドに潜りこんでいた。
「ま、いいか」と、伶人は押入から取り出した座布団を床に敷き詰めてゆく。
「……何をしておる?」
「俺の寝床を作ってんの。一緒ってわけにはいかないだろ?」
かといって、瑠姫をベッドから追い出すのも気が引ける。
こういうときには男のほうが貧乏クジを買って出るものだと、意外と紳士的な伶人は思うのである。
だが、瑠姫は避けられているのだと誤解し、拗ねた顔をする。
「女狐ごときと同じ寝床にはつけぬか」
「は? いや、そういう問題じゃないよ。男女七歳にして席を同じうせずって言うだろ?」
「なんじゃ、そんなことか。気にするな。わらわは構わぬぞ」
「俺は構うの。倫理的に」
「……鈍いのう。そばにいてくれ、と言うておるのじゃ」
瑠姫は枕に頬を押し当て、とろんとした目でささやいた。
「ん? 生意気なくせに、意外と甘えん坊なんだな」
つい茶化してしまう伶人だったが、すぐに無神経な態度だったと悟った。
考えてみれば、瑠姫は一人でタイムスリップしてきたようなもの。
彼女にとっては一睡のうちに三百年もの歳月が流れ、右も左もわからない世界に放り出されたのだ。
彼女が知る者も、彼女を知る者も、みんなとっくに墓の中。
さぞかし心細いことだろう。
「……寂しいのか?」
「寂しくはない。……そちがおるでな」
「そっか」
伶人は座布団を押入に戻すと、ベッドの縁に座った。
「──大丈夫だよ」
「大丈夫? なにが?」
瑠姫は寝たまま首をかしげた。眠いせいもあってか、その口調は妙に幼い。
「明日になっても、俺はいなくなったりしないから」
「──! そうじゃな」
瑠姫は少しだけ目を見開いた。何度かまばたきをし、ふたたび半眼に戻る。
「鈍いといったのは謝る。じゃから……な?」
「やっぱり甘えん坊だな。今夜だけだぞ?」
「……うん」
「ほら、もうちょっと、そっちに寄ってくれよ。狭いんだから」
すっかり絆されてしまった伶人は、瑠姫に触れないよう気をつけてベッドに入った。
とはいえシングルベッドである。否応にも密着せざるをえず、伶人は直立不動の姿勢を強いられる。
そんな青年の微妙な心理を知ってか知らずか、瑠姫はタオルケットに頬擦りをし、心地好さげに息をついた。
「そちが望むのなら許してもよいが、今宵は勘弁してたも……眠いでの……」
「……は?」
耳元でささやかれた言葉の危うさに気付いて、思わず隣を見る伶人だったが、
「…………」
少女の姿をした狐仙は、もう安らかな寝息をたてていた。
◆ ◆ ◆
その夜のこと。
街の喧噪が届かない静かな湖の中島に、一組の男女の姿があった。
男は二十代前半の青年。整った顔立ちと縁なしの眼鏡が、理知的な印象を醸している。
艶やかな黒髪の女も、やはり二十代前半にみえる。和服が似合いそうな雰囲気の美女だ。
「──唵 伽羅臨懲 伽羅臨 莎訶」
淡い月明かりのもと、青年は不思議な真言を唱え、名刺大のカードを手裏剣のように放った。
カツン、と地面に刺さったカードを呑みこみつつ土砂が盛りあがり、なおも隆起する。
やがて出来上がったのは、暗い鉛色の肌をした土塊の異形であった。
その豊満な肢体こそ女のかたちをしているが、頭部はカラスそのもので、背には翼を備えている。
「夜のうちに、君を引き寄せる者を捕らえてくるんだ。密かにね」
我が子を諭すような口振りで、青年は命じた。
妖しくも美しい異形は黙礼で承知の意を示し、おのれの肌と同じ色をした空へと飛翔する。
「あと四人……次の満月までにそろえたいところだけど、厳しいかな」
独りごちて、青年は背後にひかえている女に目をやった。
物憂げな瞳で異形を見送っていた女が言う。
「……なにやら胸騒ぎがします。吉くないことがありそうな、そんな気が」
「仕方ないさ。僕らは善からぬことをしているのだから」
「……そう、ですね」
冗談めかした青年の言葉に、女はかすかに微笑んだ。
青年もまた微笑み、愛しい相棒の肩を抱く。
(もしものときには、この身にかえても、あなたを護ります)
青年の体温を感じながら、女は密かに誓いを立てるのだった。
※第1章 了※