第1章『月華の瑠姫』①② 改訂版
【最新改訂日2022年8月26日】
【①】
五月にしては強い陽射しが路面を炙り、行き向かう先に黒い蜃気楼を見せている。
それを追うように、伶人は真っ赤な軽トラックを走らせていた。
服装は、今朝もみた不可思議な夢の中の自分と同じ。
もちろん勾玉のペンダントもしている。
件の夢の謎を解き明かすきっかけを得るべく、できるだけ同じ情景を再現してみようというのだ。
ために向かうは子守山。
市街の西のほとりにある、標高三百メートルほどの里山である。
その北東──すなわち鬼門の方角にあるのが貫木神社。
二百五十年ほど前に当地の名主であった御巫家が建てたもので、貫木という名は門扉を閉ざす閂を意味する。
地神の霊地とされる子守山を鎮め護る〝不開の門〟、というわけだ。
やがて、その貫木神社に到着した伶人は、駐車場に車を置き、
(神の籠もり居る山だから、こもりやま──不思議な夢の舞台にはふさわしい場所かもな)
そんなことを考えながら、境内へと導く細長い参道を歩き始めるのだった。
ここは月乃宮市。
御巫伶人は、この人口十五万人ほどの閑静な街で生まれ育った。
三ヶ月前までは大学生だったが、今は無職も同然。それでいて気ままな一人暮らしを満喫しているさまは、二十歳にもなって放蕩している無業者のようにみえることだろう。
といっても親の脛をかじっているわけではない。
かじっているのは、亡き祖父の脛。
思いがけず頂戴した遺産が、生活費を稼いでくれるのだ。
御巫家といえば、地元では知る人ぞ知る旧家で、いくつものビルやアパートなどを所有する資産家一族でもある。
その当主だった伶人の祖父の遺産は当然、かなりの額であった。
これが二時間ドラマなら、相続をめぐる骨肉の争いになるのだろうが──そんな醜い悲喜劇が演じられることはなく、遺産は孫たちにも分与された。それが祖父の遺志だったから。
おかげで伶人が拝領したのは、繁華街に建つ小さな雑居ビルだった。
そいつの管理を親族の会社に信託し、充分に食べていけるだけの配当金を得ているのである。
それをよいことに大学をやめ、自他ともに認める〝高等遊民〟となったのは、裕福な名士の小倅という境遇に甘えて遊び暮らしたい魂胆からではなく、彼なりの大志があってのことだった。
小説家になりたい──中学生のころから、ひそかにそんな想いを抱いていたのだ。
俗に〝作家は読者のなれの果て〟などといわれるが、伶人なぞはまさにその予備軍で、手当たり次第の濫読によって多彩な雑学をためこんでいる。
様々な学問や大衆文化、時事、軍事、東西の神話や通俗的なオカルティズムなどなど、彼の貪欲な好奇心は標的を選ばない。
ふと興味をひかれた事物は何であれ追究したがる性癖は、もはや一種の才能といってもいいだろう。
そんな好事家なればこそ、あるかどうかもわからない夢の意味性なんてものを探らずにはいられないのだった。
それが自身の〝血〟に仕組まれていた出来事であることを、知るよしも無く──
「奮発したんだから、それなりの御利益はありますように……と」
伶人は賽銭箱に五百円硬貨を放って参拝すると、振り返って境内を見回した。
この貫木神社は、子守山を取り巻く雑木林をくりぬくようにして建てられている。簡素な手水舎と神命造の拝殿があるだけの、ひっそりとした小社だ。
本殿が無いのは子守山そのものが神体だからで、その象徴として拝殿の奥に禁足の領域が設けられ、神木たる柚の樹が立っている。
「さて、行きますか」
誰にともなく宣言し、伶人は境内の門口に立った。
参道を正面にすえて左右に目をやると、どちらにも子守山の裾野をめぐる林道の入口が。
「こっち、だよな」
夢の中の小道は時計回りだったので、ここは当然、子守山を右手に置くルートを選ぶ。
日向にいると汗ばむほどの陽気だが、青々と茂った枝葉をくぐる小道は仄暗く、そよぐ風はひんやりとしていた。
とくに自然を愛でるタイプではない伶人でも、森林浴効果ばっちりの清涼な空気は気持ちよく、ひとつ深呼吸をしてから探索にとりかかる。
「──道の雰囲気は夢と似てるな。やっぱり、ここなんだろうか」
右に岐れる道を探しつつ、伶人はなんとなく胸元に目を落とした。
「知方珠、か」
ふと、その勾玉の名が脳裏をよぎり、思いをめぐらす。
(にしても、爺ちゃんはどうしてこんなものを俺にくれたんだろうな)
御巫家には、『玉遣り』と呼ばれる独特の風習がある。
七歳になった子供に勾玉を授けて縁起を祝うという、一般の七五三に類する通過儀礼だ。
通常、男児には水晶の、女児には翡翠の勾玉をあつらえるのだが──伶人に贈られたのは、家伝の宝珠だという知方珠だった。
どうやら祖父の意向で、そういうことになったらしい。が、理由は聞かされていない。
(お前が真実を知るべき人間なら、いずれ分かるときがくるだろう、とか言ってたけど……)
その予言めいた言葉の真意は謎。
訊きたくとも、祖父は半年前に逝ってしまった。
気になって調べてみたところ、〝知方〟とは〝標〟、すなわち「導くもの」という意味らしいが、この勾玉が真実とやらに導いてくれるとでもいうのか?
確かに、あの奇妙な夢は、こいつが何かを報らせようとしているようにも思えるけれど──
「──夢のお告げ、なんて発想はオカルトだよなぁ」
伶人は失笑すると、らしくもない方向に逸れかけた思案をやめ、前方の風景に集中した。
歩きはじめてから十分はたっている。そろそろ捜し物が見つかってもいい頃合いだ。
そう思ってから更に数分、いくらか湿った土を踏みしめて歩いてゆくと、
(──ん?)
緩やかな右カーブを描いている小道の先に、期待していたものが現れた。
山のほうへと向かう、細い枝道だ。
「これか? 夢のは、もう少し太い道だった気もするけど……行ってみるか」
いぶかしく思いながらも、伶人はその道をたどってゆく。
すると、百メートルほど進んだところで、
「鳥居……!」
木々の群れに潜むようにして立つ、小さな石造りの鳥居が見えてきた。
(てことは、この上に──)
逸る気持ちを押さえきれず、伶人は百段はありそうな石段を駆けあがる。
「──!」
息を切らして登りついた先に待っていたのは、かの夢の風景だった。
山桜に囲われた広場、その奥へと導く円い飛び石、輪注連がかけられた小さな社。
あるべきモノは、すべてある。
あえて不足を指摘するなら、桜が咲いていないことだけだ。
「……間違いない。ここだ」
伶人は額の汗を拭いつつ、あらためて辺りを観察した。
「やっぱり、俺はこの場所に来たことがあるんだな」
その体験が夢としてあらわれている、という仮説は正解だったようだ。
幼いころ、祖父に連れられて、この場所を訪れた。おそらくは女の子と一緒に──
きっと、そういうことなのだろう。
あの夢に祖父は出てこないが、形見とも思える知方珠を祖父の象徴と解釈すれば、ちょっと強引だけれど辻褄は合う。
そして、一緒にいた女の子が〝光の少女〟の正体というわけだ。
してみると気になるのは、その女の子である。
幼いころに身近にいた女の子といえば、思い当たるのは二人。
自分を弟のように可愛がってくれている従姉か、同い年の幼馴染みか、なのだが……
(……違うな)
どちらも、いまいちピンとこなかった。
二人とも家族のように親しい存在だからだ。
彼女たちが夢に出てくるとしたら、光の少女などという抽象的な姿にはならないだろう。
なら、いったい誰なんだ?
「…………ダメだ。わからん!」
いくら記憶をまさぐっても、それらしき人物は浮かんでこず、伶人は後頭部をかきむしった。
「まぁ、昔のことを何もかも憶えてるわけじゃないしな」
実も蓋も無い言いざまだが、行き詰まった思考では堂々巡りになるだけだろうから、ひとまず疑問を棚上げし、別の物へと関心を移す。
でかい神棚といった風情の社。
夢の内容からすると、これもまた意味深な存在だ。
社号や祭神を示すものは見あたらないが、おそらく貫木神社に付属する末社か何かなのだろう。この街には方々《あちこち》に稲荷社があるので、あるいはその一つかもしれないが……
いずれにしろ、一般的な注連縄ではなく輪注連が張られているあたり、何か特別な由緒がありそうではある。
それを探るためにも中を見てみたいところだけれど、扉を開けることはできそうになかった。
扉には四つの鐶が打ち付けられ、それらを通してかけられた輪注連で施錠された状態になっているのである。
いくらなんでも、輪注連を断ち切るわけにはいくまい。
「やっぱ無理だな。何の神様か知らないけど、挨拶くらいはしておくか」
伶人は罰当たりな試みを諦め、参拝の態をとった。
(あの夢みたいな出来事が起こったりしないもんかな)
そんなことを考えてしまう自分がおかしくて、軽く吹き出しながら柏手をうつ。
だが、その音が妙に大きく反響したように感じられた刹那──
それは起こった。
「なっ……!?」
知方珠が脈を打つように輝きはじめたのだ!
「光ってる!? うそだろ、おい!」
たじろぐ伶人の周囲に風が巻き、木の葉が舞う。と同時に知方珠から細い光が放たれ、それに射抜かれた社の輪注連が焼失。おのずと扉が開き、中から白い輝きがほとばしる。
「マジかよ、こんなことって──うわっ!」
強烈な光の奔流に突き倒されるように、伶人は尻餅をついた。
その頭上に光が集まり、凝縮され、音もなく炸裂する。
反射的に目を閉じてもなおまぶしいほどの閃光が飛び散り……風がピタリと止んだ。
一瞬の静寂のあと、我に返ったように木々がざわめく。
「……いってぇ……何だったんだ? 今のは」
転んだはずみでぶつけた右肘をさすりつつ、伶人は瞼をこじあけた。
すると、目の前になにやら白い塊が──
(……?)
まだ光の残効が残っている目をこすって見ると、それは一匹の動物だった。
中型犬ほどの大きさの、純白の四足獣だ。
「──犬?」
「む……犬とは失敬な。わらわは狐ぞ」
ガラス細工のような紫色の瞳を細めて、その獣が言った。
「狐?」
伶人は無意識に問い返し、見つめる。
よく見れば、その雪色の獣は犬よりも細面で、尾はふっくらとしていた。
真っ白とは珍しいが、言われてみれば確かに狐のようだ。
「なんで、こんなところに狐が……あ? 誰だ?」
ここでようやく会話していることに気づき、伶人は驚いて周囲を見回した。
──が、誰もいない。
いるのは、澄まし顔でお座りしている、この白狐だけ。
「お前さ、今……しゃべった?」
怪訝な表情で、伶人は狐に語りかけた。
無論、それは戯れな独り言のつもりだった。
なのに──
「ん? わらわの他に誰ぞおるのか?」
あろうことか、そいつはさも当然といった顔で口を利くではないか。
「……ははっ! しゃべってるよ。狐が」
あまりにもふざけた出来事に、伶人は笑ってしまった。が、すぐさま持ち前の好奇心が起動し、この不思議の解析にとりかかる。
とりあえず思いついた仮説は三つ。
動物が人語を話すというこの珍現象は、えらく手の込んだ悪戯なのか、
あるいは、やけにリアルな白昼夢なのか、
それとも──
(現実……か)
常識的に考えるなら、そんな選択肢を用意すること自体、馬鹿げているだろう。
けれども伶人の直感は、そのナンセンスな可能性を排除させなかった。
ありえないと決めつけることをためらわせる何かが、意識のどこかでざわついていたからだ。
たとえるなら、旧知の人の名前を度忘れしてしまって焦れったいような……そんな感覚に近い。
「……なんなんだ? お前」
「おお、それは知方珠ではないか」
困惑しきりの伶人をよそに、狐は彼の胸元の勾玉に鼻を寄せた。
「この神気──うむ、間違いない。そちは御巫の一族じゃな?」
「一族? うん、まぁ、そうだけど……?」
「そうか。よく来てくれた。逢えて嬉しいぞ」
狐は伸びあがって、伶人の口元をぺろりと舐めた。
「うわ……! よせよ。よく来てくれたって、どういうことだ? てゆーか、お前……なに?」
「──? 御巫の一族のくせに、わらわを識らんのか?」
「そう言われても、狐の知り合いはいないなぁ」
いかにも彼らしい物言いで、伶人は首をひねった。
その様子に、狐もまた首をひねる。
「どうやら本当に識らぬようじゃの。ま、よいわ。こうしてわらわを起こしたからには、そちが新たな主人であることは確か。識らぬなら、知ればよいだけのことよ」
「主人? 俺が? お前の?」
まったく理解できない話だった。
まさしく狐につままれたような心地である。
「あのさ、ワケがわからないんだけど……」
「話はあとじゃ。まず、やらねばならんことがある。それを貸してくれ」
「それって、これ?」
伶人はあぐらを組み、狐が鼻先で指し示した知方珠をつまみあげた。
「ああ、遁甲結界に注がれる精気のすべてを解呪にあてておったからか、どうも神気の滋養が足らぬ。それを介して天然の気を取り込まねば、変化すらままならんようじゃ」
「へんげ?」
「さぁ、その勾玉をここに置いてたも」
「……これで、いいのか?」
要求の意図がつかめないまま、伶人は狐の前に知方珠を置いてやる。
すると、狐は前脚で空中に文字を書くような仕草をし、なにやらつぶやきはじめた。
「乾、艮、兌、震、坤、巽、坎、離──」
その呪文は、宇宙の様相をあらわす符号──八卦だった。
この世の森羅万象を『天』『地』『人』という三つの属性の相関関係になぞらえ、その各属性に『陰』と『陽』の極性があるとすると、あわせて八種類の形象が定義される。
それが八卦。易の哲理にもとづく、世界の説明原理だ。
漢代末期に記された『易緯乾鑿度』という書物によれば、八卦は九星とともに八つの方位に対応し、それぞれに開・生・驚・傷・屯・杜・休・景と呼ばれる〝門〟があるという。
それは現在の科学では説明できない、霊的なエネルギーの回路のようなものである。
狐は今、その〝八門〟をめぐる霊験の流れを読み、知方珠を触媒として汲み上げているのだった。
言うまでもなく、それは魔法とでも呼ぶべき技にほかならない。
「いざ解かん、神宝なる八門の、禁をば啓く、言の葉の機──変化!」
短歌のような呪文で方術が完成すると、狐の全身から青みがかった光が噴きあがった。
燃えさかる炎のようにも見えるが、熱気は感じられない。
「な……!?」
目の前の幻想的な現象に、伶人は息を呑んだ。
青白い炎の繭の中で、狐の体が別のかたちに変わりはじめたのである。
そして数秒後──白い狐は、生まれたままの姿の少女になった。
小柄ながらも女性らしい曲線美を備えた体つきからすると、十二、三歳といったところか。
その端正な顔立ちや肌の色は日本人的だが、しっとりとした長い髪は純白で、つぶらな瞳は透き通るような紫。知方珠と同じ色だ。
「ふむ……呪は跡形もなく消えておるな。上々じゃ」
ついさっきまで狐だった美少女は、ぺたんと座ったまま、満足げに自分の手足を見回した。
素裸だというのに、初々しい胸の双丘はおろか、乙女なら秘中の秘とすべき部分さえ隠そうともしない。
だからといってガン見するのはデリカシーに欠ける行為だろうが、伶人はつい、コーラルピンクの小粒が乗った丸っこい造形を見つめてしまっていた。
その惚けた視線に気付いて、少女は悪戯っぽくささやく。
「なんじゃ? 吸いたいのか?」
「は? あ、いや……ごめん」
「ふふっ! 初い奴。好いぞ。気に入った」
伶人が慌てて目をそらすと、少女は笑って乳房を包み隠した。
しかし、見せまいとしたわけではないようで、すぐにその手ブラを外して立ちあがる。
気配が離れてゆくのを感じた伶人がためらいがちに視線をやると、少女は四つん這いで社の中をのぞき込んでいた。
その丸い臀部についつい目をひかれつつも、伶人は考えるべきことに意識を差し向ける。
こいつ、いったい何物なんだ──?
(……妖怪?)
真っ先に浮かんできたのは、やはり、その単語であった。
狐は稲荷の神使として神聖視される動物でもあるので、もしかしてそういう存在かと考えたりもしたが、それにしては生々しく、およそカミと呼ばれるものにあるべき神々《こうごう》しさは感じられない。
となれば、少女に化けるという信じがたい能力を持つこの狐は、通常の生態系から外れた領域に属する生物、とでも理解するしかないだろう。
だとすれば、それは、
「やっぱ、妖怪だよな。妖狐……いや、狐仙ってやつか?」
濫読趣味で培われたオカルト方面の雑学のおかげで、伶人は少女にあてがえそうな単語を見つけることができた。
が、それは根本的な疑問の解決にはならない。
今、欲しいのは、そんなものがここにいるという事実を学術的に説明してくれる知識なのである。
しかし、博学強記たる伶人の脳内データベースにも、そんな情報は見あたらず、
「なんだかなぁ……」
あきらめて思考を打ち切り、知方珠を拾いあげた。
そこに少女が戻ってきて、首をかしげる。
「何をブツブツ言っておる?」
「ん? ──!?」
反射的に顔をあげた伶人は、そのまま硬直した。
ちょうど目の高さに、まったく無防備な美少女の下腹部があったからだ。
心ならずもそれを直視してしまった伶人は、咳払いというベタな照れ隠しをして立ちあがり、なるべく少女の顔だけを見るようにした。
結果、見つめ合う格好になり、少女は「ん?」と微笑みを傾ける。
見ると、その手には社から持ち出したDVDほどの大きさの手鏡と、数枚の短冊のような紙片が。
それらが気になる伶人だったが、
(少しは隠せよ……)
いかんせん、目の前に全裸の女の子がいる、というのは困ったものだ。
まだ〝毛〟も生えていない少女とはいえ、まるで中華饅のような一対の半球体が気にならないといえば嘘になる。
事実、彼の男子たる部分は正直な反応を示しているのだから……
もっとも、それは若さゆえの不可抗力というもので、別に邪念は無いのだけれど、
「あー……とりあえず、これ、着なよ」
とにかく、このままでは居心地が悪いので、伶人は自分のシャツを提供しようとした。
しかし少女は、
「いや、よい。着物ならある」
素気なく辞退し、持っている紙片を見せる。
紙片には篆書体の漢字らしきものが描かれているが、伶人には読めない。
「着物って、どこに?」
「まぁ、見ておれ。解八門禁──いざや、顕れませい」
戸惑う伶人に笑みをくれつつ、少女は短い呪文を唱えた。
途端に紙片が燃えあがり、青白い〝炎〟が少女にまとわりついたかと思いきや、衣服が出現する。
赤い単、白妙の小袖、緋色の切袴、白足袋、朱塗りの下駄──巫女のような格好だ。
「どうじゃ?」
「……魔法、だよなぁ。どう考えても。もう、なんでもありって気がしてきたよ」
得意げに袖を広げてみせる少女に、伶人は微苦笑するしかなかった。
紙片から着物が生成されたのは驚くべき現象だが、なにせ動物が人間に完全変態するのを見た直後である。もはやこの程度の超常現象で腰を抜かしはしない。
「さて、これはもう用済みじゃが、かといって捨てるのももったいないの。影にしまっておくとするか」
少女は手鏡の縁を撫でながら言った。
そうして「散」とつぶやくと、手鏡が炎となって霧散する。
消滅したのではない。いわば霊的な状態に変換され、少女にとりこまれたのだ。
「今の鏡、あの社の中にあったのか?」
「ああ。あれは六連星鏡といってな、わらわはあの中で眠っておったのじゃよ」
「眠ってた? もしかして封印されてた、とか?」
「いや、そうではない。瘴気を祓う結界にこもっておったのじゃ」
「つまり、閉じこめられてたわけじゃなく、閉じこもってたってことか」
「うむ。──それにしても、そちはえらく珍奇な格好をしておるのう」
少女は唐突に話題を変え、値踏みするように伶人の全身を眺めた。
「そうか? まぁ、多少は特徴的かもしれないけど、珍奇ってほどじゃないだろ」
「ふーん」
伶人のミリタリー系のファッションが、少女にはひどく奇抜に見えるらしい。
その様子から、彼女が今という時代を知らないことがうかがえる。
「どうやら、お前、かなり長いこと眠ってたみたいだな」
「……さてな。わらわにとっては一眠りじゃが、その間に現世でどれほどの月日が流れたものやら。五十年か、百年か……見当もつかん」
「百年ねぇ。どっかのお姫様みたいな口調からして、もっと昔の人間……じゃなくて狐か……だと思うんだけどな。お前が眠りについたのって、いつのことなんだ?」
「享保の三年……いや、四年じゃったかな。はっきりとは解らぬ」
「元号で言われてもピンとこないな。えーっと、享保の改革は吉宗のころだから、江戸時代の中頃か。てことは、お前、三百年ぐらい眠ってたんだな」
「三百年? むー……それは、ちと寝過ぎたの」
冗談のような台詞を真顔で言って、少女はうなじをかいた。
どうやら彼女にとっても予想外に長い眠りだったようだ。が、あまり驚かないところをみると、ちょっと寝坊した程度の感覚なのかもしれない。
「ところで、まだそちの名を聞いておらなんだな」
「俺は伶人。御巫伶人だよ」
「わらわは瑠姫。字は月華。人呼んで、月華の瑠姫じゃ。よろしくな」
狐の少女──瑠姫は、大きな瞳をアーモンド型にして微笑んだ。
そして、その人懐っこい笑顔のまま踵を返し、肩越しに伶人を見やる。
「では、参ろうぞ」
「参るって、どこに?」
「そちの屋敷に決まっておろうが」
「マジで? って、おい! 待てよ!」
あわてる青年を後目に、少女はさっさと歩き出す。
その背を追いかけながら、伶人はようやく気付くのだった。
(もしかして、あの”光の少女”は、こいつなのか? 爺ちゃんの言ってた真実って、このことだったのか──!?)
※つづく※
【②】
「なんじゃ、この町は。なにもかも石で出来ておるのか?」
貫木神社の駐車場につくなり、瑠姫は目を丸くした。
アスファルトの舗装やコンクリートの建物は、もちろん彼女の知識には無い。
「ちょっと見ぬ間に、こうも世の中が変わっていようとはな」
「ちょっとって……お前、三百年も眠ってたんだろ?」
それを「ちょっと」と言ってしまう感覚に呆れつつ、伶人は車に乗るよう促した。
その赤い軽トラックを見て、瑠姫はまた不思議そうな顔をする。
「こいつに乗れと?」
「は? あ、そっか。自動車なんて知らないわな」
「くるまぐらい知っておるわ。見たところ山車か何かのようじゃが、そちが曳くのか?」
「まさか……ほら、乗りなよ」
「うむ」
「──いや、そうじゃなくて」
瑠姫が荷台によじ登ろうとしたものだから、伶人は咄嗟に彼女の奥襟をつかんだ。
引きずり降ろそうとしたつもりはないが、結果的にそうなり、瑠姫は尻餅をついてしまう。
「なんじゃ! 乗れと言ったであろうが」
「ここに乗るんだよ」
伶人は助手席のドアを開け、膨れっ面で抗議する瑠姫に座席を指し示した。
「……なら、最初からそう言え」
「いや、まさかあんなボケをかますとは思ってなかったんで」
文句を言いながら助手席に座った瑠姫にシートベルトをつけてやり、伶人は運転席へ。
エンジンをかけ、軽くアクセルを吹かすと、瑠姫は不安げに肩をすくめる。
「……? こいつ、唸っておるぞ……?」
「怖がらなくても大丈夫だよ」
「怖いわけではない。……ちと驚いただけじゃ」
「ふーん。じゃ、今度はもっと驚くかもな」
ちょっとした悪戯気分で、伶人はわざと勢いよく車をバックさせた。
「はうっ──!?」
案の定、瑠姫は小さな悲鳴をあげ、両の拳を口元に引き寄せた。が、次の瞬間には新しい玩具を見つけた子供のような表情になり、車を転回させる伶人のハンドルさばきをじっと見つめる。
「なるほど。その丸いもので舵をとるのか。こんな乗り物を自在に操るとは、面白い術じゃな」
「術? いや、こいつは魔法とかで動いてるわけじゃないよ」
「方術でないとすれば、なんなのじゃ?」
「科学技術、なんて言っても解らないよな。昔の言葉で言うと、からくり、かな」
「ふーん。ゼンマイ仕掛けで走り回るネズミの玩具を見たことがあるが、これもそういうカラクリなのか? こんな大きなものを動かすとなると、さぞかし大きなゼンマイなのじゃろうな」
「ははっ! ゼンマイなんか入ってないよ。チョロQじゃあるまいし」
「ゼンマイも無しに動くのか? 面妖な……」
「俺にしてみりゃ、お前のほうがよっぽど面妖だけどなぁ」
しみじみと言ったところで、車は道路に出る。
片側二車線の市道を行き交う自動車たちを見て、瑠姫は歓声をあげた。
「おお! カラクリ車がこんなに! 今は誰もがこんなものを持っておるのか? わらわも欲しいぞ。やはり値が張るのか?」
「残念だけど、お前には無理だよ。子供は免許をとれないから」
「免許? なるほど。免許皆伝の腕前と認められねば、使えぬのか。どこで修行すればよいのじゃ?」
「修行ね。まぁ、自動車学校に通うのも修行っちゃあ修行かもな」
「じどうしゃがっこう……そこに行けばよいのじゃな?」
「行ったってダメだよ。子供は免許をとれないんだから」
「むー……わらわは子供ではないぞ」
瑠姫は唇をとがらせた。
子供ではないと言っているわりに、その反応はいかにも子供っぽい。
「そうなのか? どう見たって中一かそこらだけどな。お前、何歳なんだ?」
「怪異に転ずる前のことは憶えておらんが、少なくとも百は超えておるはずじゃ。鳥獣は百年の時をへて化けるというからの」
「じゃあ、眠ってた時間も含めると四百歳以上ってことか」
伶人は呆れたが、驚きはしなかった。相手は人間ではないのだから。
(けど、まぁ、実年齢はどうあれ容姿も精神年齢も十代前半の女の子なんだから、そのつもりで接すればいいのかな)
そんなことを思いつつ、伶人はちらりと助手席に目をやった。
すると、瑠姫は興味津々の顔でハンドルを指さし、妙に甘ったるい声で言ってくる。
「なぁ? ちょっとでよいから、わらわにも、それをやらせてたも?」
「だーめ。子供の玩具じゃないんだから」
「子供ではないと言っておろうに」
「だったら、子供みたいなワガママ言わないの。な?」
「む……意地悪」
瑠姫はまた唇をとがらせた。
しかし駄々をこねはせず、気を取り直して車内を観察しはじめる。
「絵図が動いておる……これはなんじゃ?」
「それはカー・ナビゲーション。略してカーナビ。道を教えてくれる機械だよ」
「かぁなび……これもカラクリか?」
「うん。まぁ、そういう解釈でいいんじゃないかな」
それからしばらく、「これはなんじゃ?」と「あれはなんじゃ?」の波状攻撃が続いたが、伶人は辟易することもなく、できるだけ解りやすいように教えてやった。
「──今の世の中は、カラクリだらけなのじゃなぁ」
というのが、質問攻めに一息ついた瑠姫の感想だった。
十数分後。
青年と女狐を乗せた軽トラックは『メゾンみかなぎ』の駐車場に納められた。
その二階建てのアパートの一室が伶人の住処だ。
ちなみに大家は伶人の伯父。おかげで家賃が通常の半額という、特別待遇を受けている。
「これが、そちの屋敷か。妙な造りじゃが、なかなか立派じゃな」
「いや、これ全部が俺の家ってわけじゃないんだよ。こういうのをアパートといって、いくつかの世帯が一つの建物に住んでるんだ」
「なんじゃ、長屋か。そちの住まいはどこじゃ?」
「下の端っこ」
伶人の部屋は一階の端。104号室である。
間取りは2LDK。八畳の居間《DK》に六畳の和室、四畳半の洋室という構成で、単身者には充分な広さだ。
といっても洋室は古本屋の倉庫のようなありさまだし、寝室もベッドと収納家具で埋まっているので、くつろげる空間は居間にしかないのだが。
「ほう。なにやら不思議な座敷じゃの。南蛮風というやつか?」
その居間に通された瑠姫は、くるくると周りながら言った。
伶人は彼女をソファーに座らせ、江戸切子のロックグラスにジンジャーエールを注ぐ。
「硝子の湯飲みとは、粋ではないか。──んぶっ!?」
てっきり麦茶か何かだと思ってグラスをあおった瑠姫は、予想外の刺激に驚かされた。
「なんじゃ、これ。舌が痺れるぞ。まさか毒ではあるまいな」
「なんで俺がお前に一服盛るんだよ……。そういう飲み物なの」
「……ふむ。泡を吹く水とは奇怪じゃが……慣れれば面白いな」
瑠姫は疑心暗鬼といった感じでジンジャーエールに再挑戦し、ちびちびと舐めるように味わいはじめた。
そうしてグラスを持ったまま部屋を見回し、目の前の座卓にあるテレビのリモコンをのぞきこんだりする。
それを横目に、伶人は腕を組んで思索モードに入った。
なりゆきで連れてきちゃったけど、さて、どうしたものか──
まぁ、いまさら追い出すのも可哀想だし、しばらく面倒みてやってもいいかな。
にしても、謎の美少女が転がり込んでくるなんて、まったくラノベだよな。
ぶっちゃけ類型的な状況設定だけど、こうして経験してみると、案外、悪くないかも。
だけど、この現実離れしまくった現実、どう理解すればいいんだ?
彼女の言動からすると、俺たちは〝出逢うべくして出逢った〟みたいだが、どういうことなんだ──?
「──はう!?」
頭の中に疑問符を並べていた伶人は、少女の素頓狂な声で我に返った。
瑠姫がリモコンをいじっているうちに、テレビが点いてしまったのだ。
「鏡の中に景色が……! なるほど、この棒の突起を押すと、見える景色が変わるのだな。面白い!」
「面白いのは分かるけど、あんまオモチャにするなよ」
「ん……すまん」
たしなめられて、瑠姫は面目なさそうにリモコンをテーブルに置く。
と同時に、彼女の口からヒキガエルの断末魔のような音が飛び出した。
自分でもびっくりしたようで、瑠姫は慌てて口をおさえる。
頬がほんのり赤くなってゆくところをみると、彼女にもそれなりの乙女心が搭載されているらしい。
「へぇ。赤くなったりするんだな、お前でも」
「お前でも、とはどういう意味じゃ」
「いや、俺に裸を見られていても平気だったのに、ゲップをそんなに恥ずかしがるなんて、なんか意外でさ」
「平気じゃったわけではないぞ。わらわとて女子のはしくれ……恥じらいはある」
「そのわりには、見事な見せっぷりだったけどな」
「見られてしもうたからには、隠してもしょうがあるまい。そちだって眼福じゃったろ?」
「眼福ね。ま、否定はしないでおくよ。お前の名誉のために」
伶人は笑って応えた。決してロリ属性ではないつもりだけれど、それなりに凹凸のある健康的な肢体を拝見できたのは眼福だったかな、とは思う。
一方、その幸運の提供者はテレビに興味津々の御様子で、
「方術をなさずして遠くの景色を映し出すとは、便利じゃのう」
ぺたぺたと画面を触ったり、裏側をのぞいたりしはじめた。
好奇心旺盛なのは見ていて微笑ましいが、この調子であちこち勝手にいじくられるのは困るし、危ない。
なので、伶人は現代社会の生活様式というものを教えておくことにした。
その授業は、まず居間と台所にある機器類の説明からはじまる。
家電の作動原理などを訊かれると説明に苦労するところだったが、瑠姫はすべてを〝摩訶不思議なカラクリ〟として理解し、質問はしなかった。
続いてはトイレである。
「──ここがトイレ。昔の言葉で言うと厠」
「どうやって使うのじゃ?」
「そこに座ってするんだよ。で、終わったら水を流す」
伶人は洗浄便座とトイレットペーパーの説明をし、水を流してみせた。
「ほう。便器を洗い清めてくれるのか。便利じゃの」
水が止まるまで眺めてから、瑠姫は便座の操作パネルに目をやる。
「このビデというのは、なんじゃ?」
「それは……あとで試してみなよ」
伶人は言葉を濁した。女性のデリケートな部分を濯ぐ装置だとは、ちょっと言いにくい。
「そうか、では早速──」
ちょうど、もよおしてきたところだった瑠姫は、刀印(人差し指と中指だけを伸ばした状態)を結んだ右手で空中に横一文字を描き、「散」と唱えた。
緋色の切袴が青白い炎をあげ、溶けるように消えてゆく。
それは本物の炎ではない。霊的なエネルギーの輻射が、あたかも火炎のように見えるのである。
「……そこで見ているつもりか?」
「は? ああ、するの?」
小袖の裾をまくろうとする瑠姫を見て、伶人は慌ててドアを閉めた。
ややあって、「おう!?」と小さな悲鳴が聞こえてくる。
続いて、「はうっ」という抑えた感じの嬌声も。
(賑やかだな)
いきなり尻に湯をかけられて驚く瑠姫の姿を想像し、伶人は笑いをかみ殺した。もっとも、二回目の嬌声は、より敏感な場所を洗われたからなのだが。
「洗ってくれるのはいいが、くすぐったいな」
トイレから出てきた瑠姫は、股間を両手でおさえ、はにかむように笑った。
どうリアクションしていいか分からず、伶人は苦笑だけを返して風呂場のドアを開ける。
「ここが風呂だよ」
「変わった湯船じゃな。陶器か?」
風呂好きなのか、瑠姫は楽しげにユニットバスを見回した。
もちろん湯船は陶器などではないが、あえて説明する必要も無いだろう。
「竈が見当たらんが、どうやって湯を張るのじゃ?」
「台所と同じだよ。この取っ手をひねると、お湯が出る」
伶人は蛇口から湯を出してみせ、ついでにシャワーの使い方を教えた。
さらにシャンプーなどのことも教えてやり、お風呂関係のレクチャーは終了となる。
「とりあえずは、こんなもんかな。あとは追々教えてやるよ」
「うむ。よろしく頼む。なにせ解らぬことばかりじゃて」
「さて、今度は俺が質問する番だ。こっちも解らんことばかりだからな」
居間に戻ると、伶人は瑠姫にソファーをすすめ、コンソメ味のポテトチップスをテーブルに用意した。
「この干からびた沢庵みたいなのは、食べ物なのか?」
「ああ。それはポテトチップス。ジャガイモの薄切りを揚げたお菓子さ」
「ふーん。……うん、いける。酒に合いそうじゃ」
お気に召したようで、瑠姫は数枚のポテチを重ねて頬張った。
それをジンジャーエールで飲み下す様子を見つつ、伶人は質問を整理する。
こいつは何物なのか?
どうして俺が主人なのか?
なぜ、子守山で眠っていたのか?
これから、どうするつもりなのか?
さしあたっての疑問は、こんなところだろう。
「なぁ。お前って、やっぱり妖怪なのか?」
「ああ。霊験あらたかな地に棲まう鳥や獣のなかには、ごく稀にじゃが、天寿を超える年月を生き、人間にも劣らぬ知恵を得るモノがおる。元をただせば、わらわもそうした怪異の一種じゃ」
「元をただせばってことは、今は違うのか?」
「いささかな。わらわは〝式〟でもあるからの」
ジンジャーエールで喉を湿らせ、瑠姫は話を続ける。
「そもそもは普通の狐であったわらわは、いつの間にやら人の言葉を解するようになり、ふと気がつくと、人里離れた草庵で卦竹斎と称する老爺と暮らしておった」
「……けちくさい?」
「ふざけた名じゃろ? 詳しくは知らんが、もとは山伏で、老いてからは薬師をしておったようじゃ。やがて、そやつとは死に別れ、わらわは近くの村に棲みついたのじゃが──あるとき、そこで歩き巫女の娘に出逢ってな」
歩き巫女とは、特定の神社に所属せずに諸国をめぐり歩く巫女である。
旅すがら祈祷などで生計をたてていたが、身を売っていた者も少なくないという。
「その娘は紫苑という名でな、天女のように美しく、たぐいまれなる霊験の持ち主でもあった。その技量に惚れ込んだわらわは弟子入りを志願し、彼女の式神となった。かくして瑠姫という名を授かり、少女の姿を与えられた、というわけじゃ」
「なるほどな。狐の妖怪を素材とした式神、か」
ということは、その紫苑という巫女は陰陽師でもあり、瑠姫が使う魔法も陰陽道の系譜にあるのだろうと、伶人は理解した。
陰陽道とは、各種の暦法・天文・気象などから吉凶禍福を読み解く学問であり、それを駆使して災厄を祓う呪術でもある。
古代中国で生まれた陰陽五行説が日本に伝わり、密教や神道などと混じり合いながら独自の理論体系となったものだ。
ちなみに陰陽とは、万物の原質たる二種類の「気」の作用で万象を説明する理論のこと。
五行とは、天地を循環して世界を形成する五つの因子──木・火・水・土・金・土のことをいう。
この陰陽説と五行説は起源が異なるが、相互補完的に発展し、いつしか一つのシステムとして考えられるようになったらしい。
陰陽師とは、その陰陽五行システムから任意の事象を抽出せしめる方士なのである。
そして、彼らが使役する使い魔のような存在を「式神」という。
帛(布)や幣(紙)、あるいは鳥獣などを素材として造られる、疑似生命体とでもいうべきモノだ。
そもそもが狐である瑠姫は生物には違いないが、少女としての肉体は方術で造られたもの。あくまでも疑似的かつ人工的な事象である。
「そんなのが本当に存在するなんてな……」
伶人は、しげしげと瑠姫を見た。
狐の怪異であり、式神でもあるという女の子──いまだに信じがたいが、目の前の現実を否定することはできない。
「ま、それはいいとして……お前、俺のことを新たな主人とか言ってたけど、どういう意味なんだ?」
「そちが紫苑の血をひいておる、ということじゃ」
素っ気なく答えると、瑠姫は一枚のポテチをくわえ、リスがクルミをかじるようにポリポリと食べはじめた。
伶人は腕組みをし、問い返す。
「俺が、お前を式神にした巫女さんの子孫だってのか?」
「そうじゃ。わらわを目覚めさせたことが、なによりの証よ」
「だからって主人とか言われてもな……。俺にそんな資格は無いと思うぞ」
「……? どういう意味じゃ?」
「お前の言ってることが事実なら、こうして俺たちが出逢ったのは必然なのかもしれない。けど、俺は陰陽師じゃないからな。式神の主人なんか務まらないだろうさ」
「そちは方士ではないのか? ならば、どうやってわらわを起こしたのじゃ?」
「俺は何もしちゃいないよ。お前を起こしたのは、たぶん、こいつだ」
伶人は胸元の知方珠を指さした。
そして、例の不思議な夢のことを瑠姫に説明する。
「──そうか。思うに、その夢は幻術じゃな」
「幻術? 幻を見せる魔法か」
「うむ。紫苑は自身の末裔にわらわを託すべく、おのが血脈に幻術を仕組んだのじゃろう。子々孫々に受け継がれる、呪のような術をな」
「つまり、あの夢は俺の記憶なんかじゃなく、遺伝子に仕込まれていた情報──脳にプリインストールされてた動画だったってことか」
伶人は瑠姫の仮説を科学的に解釈しようとした。
そんな比喩を理解できるはずもなく、きょとんとする瑠姫だったが、聞き流して話を続ける。
「ともかく、そちが紫苑の末裔であることは間違いない。その知方珠が、わらわを起こす鍵だったのじゃろう。それは紫苑が創った神器じゃて、誰にでも扱える代物ではない。意図したことではないにせよ、そちがその霊験を引き出したということは──」
瑠姫は伶人を見つめて一拍の間を置き、
「──そちこそが、わらわの主人たらん者なのじゃよ」
諭すように言った。そして、ぽつりと付け加える。
「さりとて無理強いはできんがの。わらわをどうするかは、そち次第じゃ」
「そう言われてもな……お前は、どうしたいんだ?」
それが一番大事なことだろうと思い、伶人は訊ねた。
「……できることなら、そちの式になりたい。それが、この巡り合わせを用意してくれた紫苑の想いじゃろうし……わらわも、そうしたい」
「そっか。なら、それでいいんじゃないか?」
「……いい、のか?」
投げやりなようで優しさを感じさせもした伶人の言葉に、瑠姫は目を見開いた。
「いいも悪いも、お前、他に行くあてなんか無いんだろ?」
「うん……」
「だったら、ここにいればいいさ。式神のご主人様にはなれないけど、妹ができたとでも思えばいいわけだし。女の子一人くらい、養ってやるよ」
「そうか! では、あらためてよろしく頼む。それにしても、これ、美味いな」
瑠姫は安堵の笑みを見せ、ポテトチップスを数枚まとめて頬張った。
「新たな主人が男とは思わなんだが、優男で良かったわ。むさ苦しいのは好かん」
「ちびっこに誉められてもねぇ」
「ん? なにか言ったか?」
「いえ、なにも」
伶人は笑ってごまかし、電子タバコをくわえる。
「ところで──お前、どうしてあんな場所で眠ってたんだ?」
「……鬼神めのせいじゃ。まったく、思い出すのも忌々しい」
「オニ?」
妖怪、式神、陰陽師──ただでさえ神秘の大行進なのに、今度は鬼ときた。
伶人はいよいよ興味をそそられ、「なんか、面白くなってきたな」と、前のめりになった。
けれど、瑠姫の表情は冴えない。
「あー……もしかして、面白がっちゃいけない話なのか?」
「まぁ、な」
「そっか。ごめん」
「ふっ……やはり、いい奴じゃの。そちは」
微笑みをくれて、瑠姫は物語をはじめた。
「紫苑と旅に出てから三年あまりがすぎたころ、月乃宮という小さな宿場で、わらわたちは一人の〝鬼〟にでくわした。
そやつの名は、皇雅。
つまらぬ喧嘩で主人を殺された式神が、怨に呑まれて鬼と化したものじゃった。
紫苑はそんな皇雅を憐れみ、怨を祓ってやろうとしたのじゃが、すさまじいまでの鬼気を鎮めることは出来ず、やむなく鏡に封じた。
その闘いで、わらわは〝呪〟を受けてしもうてな。
じわじわと血肉を腐らせてゆく、おぞましい呪詛じゃ。
もちろん紫苑は手を尽くしてくれたが……鬼の呪に打ち勝つには清らかな陽の気に身を浸し続けるしかなく、わらわは鏡の中で眠りにつくことになったのよ。
いつの日か、きっと紫苑の生まれ変わりに逢えると信じてな。
……わかっておったのじゃ。わらわの眠りが、紫苑が生きられる歳月よりも長くなろうことは。
されど、他に手はなかった──」
陰陽師と式神という関係でありながら、紫苑は瑠姫を娘のように慈しんでくれたし、瑠姫もまた紫苑を母のように慕っていた。
だからこそ、それが今生の別れになることを承知のうえで眠りについたのだと、瑠姫は言う。
「わらわが腐り果ててゆくさまなど、見せとうなかったからな」
そうつぶやく瑠姫の瞳は、しっとりと濡れていた。
しかし、それを見せまいと笑みを作り、脚を前に投げ出しながらおどけてみせる。
「いかん、いかん。湿っぽいのは性に合わぬわ。なぁ?」
「…………」
優しい言葉を期待されていることを察しながらも、伶人はあえてそれを無視した。
気持ちは分かるよ、などというありきたりな台詞は、綺麗事でしかないと思うから。
「泣きたい気分なら、我慢しないで泣いたほうがいいんじゃないか?」
「む……泣かせたいのか?」
瑠姫は唇を噛み、思いも寄らないことを言う青年を睨めつけた。
しかし伶人は淡々と続ける。
「うん。思い切り、泣いてみたらどうだ? それで何かが解決するわけじゃないだろうけど、少しはスッキリするかもしれないぞ?」
「そちという奴は、優しいのか、意地が悪いのか……わからんな」
わずかに肩を振るわせながら、瑠姫は微笑む。
と同時に、溜まっていた涙がポトリと落ちて、
「──うあぁぁぁぁー!」
堰を切ったように泣きだした。
涙も鼻水も拭うことなく、ぎゅっと握った拳を腿に押し当て、わんわんと泣きじゃくる。
思っていた以上の号泣に、そう仕向けた張本人がいたたまれなくなるほどだったが──
二分ほどで瑠姫は落ち着きを取り戻し、差し出されたティシュで豪快に鼻をかんだ。
そして、さっきの作り笑いとは違う、しおらしい笑みをみせる。
「そちの言うとおりじゃ。気が晴れたわ。もう泣かぬ」
「そうか? なら、泣かせた甲斐はあったな」
伶人も笑って、まだ鼻をすすっている少女の頭にポン、と手を置いた。
「むー。なにやら手玉に取られた気もするが……まぁ、よいわ」
瑠姫は膝を抱えて丸くなり、新たな主人がくれる温もりに目を細めるのだった。
※つづく※